ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:赦し

 
  分からないと言える勇気3
 
 
キリストの教えについて、分かることと分からないことがあります。ずっと分からなかったが、あるとき分かったということもあります。キリストの教えを理解することは、信仰の成長に伴います。分からなければと、思い込もうとしたり、決めつけたりしないでください。
 
Q:「情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。」
  (マタイ5:27より、口語訳)
  
  「みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。」
  (同、新共同訳)
  
A:情欲をいだいてはいけない。
 
B:情欲をいだかなければ人類は滅亡する。
 
A:夫婦が子供を造るためにだけ許される。
 
B:さあ子作りを始るぞ・・だけでセックスする男女はいない。
   いたとすれば、偽善者の嘘か、気色悪いかだ。
 
A:「他人の妻」ということなら、守れるだろう。
 
B:情欲は、湧いてくるものであって、湧かないようにすることは出来ない。
 
A:だから、できるだけ心掛けようということ。
 
B:そんな教え、ありきたりの道徳と同じ安っぽさだ。
 
A:無意味だというのか。キリストの教えを。
 
B:その解釈と訳は、キリストの教えではないと言っている。守れという教えではないということだ。
 
A:教えは守るためにあるんじゃないのか。
 
B:この教えは、守れない私たちのためにあると思う。そして、できるだけ・・みたいな甘いものではない。信仰の根幹にかかわることだ。
 
B:恐らく、神のように完全になるには?と問う者が多かったゆえに、キリストは、守れないことを承知の上で、完全になるため?の教えを説いた。これは、到底守れないことの例示である。つまり、完全になることが信仰ではないという教えだ。
 
B:ゆえに、信仰は、守れない不完全な人間である罪人が救われるための信仰である。したがって、この教えは、結局、罪なき人は一人もいない、信仰者も罪人でなくなるわけではない、守れないゆえに、正直に祈って、赦しを乞いなさい、という悔い改めの教えである。
 
 
偽善者は、守っていない自分を隠して偽ります。こまごまと、ああせよ、こうせよ、こうするな、などを考えるのは行為義認に走りやすく、また、傲慢な偽善者の自慢話のネタになるだけでしょう。神の前に、不完全で罪深い自分を正直に告白することが、信仰です。それ以上でも、それ以下でもありません。
 
聖書には、分かりにくいところが、いっぱいあります。そのような場合に、気安く分かったと言わないでください。聖書は、人間存在のあり方について、奥が深いのです。だから、女ではなく、他人の妻なら、不倫の戒めだから、守れるでしょ・・というような、気安い解釈をしてはなりません。
 
信仰は、誰でも理解できるように、すぐれてシンプルでもありますが、たとえ、分かったつもりでも、もっと深い話~解釈によって、信仰を新しくすることが必要な場合があります。自分の理解を固定しないことが大切です。また、道徳でしかないような安易な解釈をしてはなりません。
 
なんとなく言葉の辻褄が合った気がして、そうですね・・と言うのと、分かる、すなわち、理解する、ということは別です。分かったと思ったときに解放感を伴うのが理解です。伴わないのは実感のない辻褄合わせに過ぎません。
 
全能の神と、不完全な人の、決定的な違いを弁えることが信仰の節操です。キリストは、それを伝えて、人々を救う使命をもって来られました。その上で、身を捨てて、愛と共感を示されたのです。神のほうを向かず、神を恐れず、教えを安い道徳にしてしまう者がいます。
 
信仰が、守れという教えならば、教条主義となり、欺瞞によって、守っていると言って、守っていない自分を隠して、パリサイ人のようになるでしょう。そして、平板な道徳に堕して、いい加減な解釈をしてしまうのです。そういう、信仰を知らない偽善者も解釈者も、現にいるようです。
 
人が守れないことを承知の上で、人が完全でないことを承知の上で、そのような人々を救いに与(あずか)らせる福音を宣べ伝えるために、キリストは来られたのです。気安い道徳への曲解は、信仰も信仰者も滅ぼします。
 
中途半端に納得して頷いて、分かったことにしないでください。知識の優れた人も、いちばん大事なことを分かっていないかもしれません。信仰は、知識自慢ではありません。お高くとまっているなら、追放するべきであります。
 
 
私たちは、神の、計画も、意志も、教えも、行ないも、心も、分かるから信じるのではありません。分からないほど不完全であるゆえに、正直に祈り、神の憐れみによってのみ救われるのです。
 
 
ですから、肯定でもなく、否定でもなく、分からないことは、分からない箱に入れて、保留にしてください。分からないことを分かったことにしないでください。また、分かっても、それに従って行動するときに、神の意志として絶対化しないでください。
 
分かっても、分からなくても、よりよい理解を求めるために、再考と反省の余地を残すこと、これは、人間そして信仰者が、学習し成長するための務めとして、信仰のいちばん大事なことです。
 
すなわち、信仰において、いちばん大事なことは、分かると言うことではなく、分からないことを正直に分からないと言える勇気なのです。それゆえに、キリストの荷は軽い、つまり、キリストは、人の荷を軽くする、人を解放する、ということになるのです。
 
分からないと言う勇気は、祈りにおいて分かりませんと告白することでもあります。それは、神と違って完全ではないゆえに罪深い人間が、祈りによって、罪の重荷から解放されることでもあります。それによって、余計な力みや豪語から、神に祈る生き方へと向きを変えることであります。
 
 
分からないと言える勇気

分からないと言える勇気
 
 
(2020年03月03日)
(2021年03月04日)
(2022年03月10日、再録+加筆)
 
 
 
  夜明けのテロリスト
 
与えられなければありえなかったのに
人生切り取り放題と言わんばかり
聞いてもしようがないのは
成功者の格言めいた話だ
しかもそれが誰にとってもお宝のように
賛美する脇役や端役
騒ぎ立てる石ころや石焼きイモだ
 
夜は腹が減る
 
体は動物のように正直だな
賢者の話なら聞いてもよいが
賢者が賢者だと
わかるほど賢くはないのでね
 
 
 
  命のほとり
 
いのちの
ほとりで
あそぼ
 
いのちの
のこり火に
手をかざそ
 
投げられた
ちいさな つぶて
ひとつひとつに
ていねい過ぎるほど
苦しんで
 
たかぶる神経
その線の果て
 
なにもかも
むだ
だったのでしょうか
失うものばかり
だったでしょうか
わからないことにさえ
苦しんで
 
あきらめの
ふちで
こころおきなく
なけるなら
言ってみたい
ことばがあります
 
もういつ死んでもいいです
もういつ生きてもいいです
 
いのちのほとりで
あそぼ
 
 
 
  罪と赦し(抜粋)
 
人間の心では到底納得できないことを「神は云々」と考えて理屈だけで辻褄を合わせて理解したようなつもりになることは、ちょうど本当は何もわからず悲しいのに無理矢理わかったような作り笑顔を見せているようなものです。
 
人の前ではそういうこともあるかもしれませんが、どんなにうまく作ったつもりの理屈も顔もその中にある嘘と本当を見抜かれる全知全能の神様に対しては偽りを向けてはならないはずです。神に対しては、正義や善よりも、正直な祈りだけが、人間に可能な真実です。
 
また人間として考えれば悪いことだとわかるはずなのに自らの怒りを「神の御旨」に置き換えて罪を罪とも思わない場合もあるでしょう。信仰生活のいかなる場合においても人間の持っている、言い換えれば人間に与えられている人間としての知性と感性を押し殺すようなことをするべきではありません。
 
特に神様の前では、告白も、疑問も、願いも、どこまでも正直な告白と祈りができるように努めたいものです。
 
少なくとも一つ以上の自分ではあがないようもない罪を知り罪の意識にさいなまれて正直に告白している人にだけ「あなたの罪は赦された」という言葉は命をもって与えられます。「信じれば罪が消える」「罪を免れる」と安易に思っている人は言われるべきです。「罪は決して赦されることはない」。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山は、趣味の話を書いてきます。そういうときにも、楽山の病質は表れてきます。例えば、自らの立場を無視して、趣味の話じゃからからええじゃろ・・とでも言うような、趣味と真実の区別もせずに、テーマを混同して書いてくるのです。楽山は、未熟ではなく、既に、老醜の失禁なのかもしれません
 
 
 
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  赦すこと3
 
 
※ 人格異常で批判対象となっている楽山が、余計なことを書いてくるので、このところ、後付けの批判のために、記事が長くなっています。
 
 
私が最初に牧師から習ったのは、罪の赦しは、許可ではなく、赦免ということでした。だから、漢字では、許す、ではなく、赦す、を使うのでしょう。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
6:14
もしも、あなたがたが、人々のあやまちをゆるすならば、あなたがたの天の父も、あなたがたをゆるして下さるであろう。 
6:15
もし人をゆるさないならば、あなたがたの父も、あなたがたのあやまちをゆるして下さらないであろう。 
 (マタイ6:14-15、新約聖書)
 
過ちも罪ですから、罪を赦すことについての、赦しなさい、という、キリストの教えです。過ちだと自覚がある場合です。
 
赦されない罪があります。
過ちだと、あるいは、罪だという自覚のない場合です。
罪だと思っていないならば、赦す、ということ自体が無意味です。
 
一つは気づいていない場合。赦すと言われても何の事だかわかりません。もう一つは偽善という罪。罪を犯しながら、罪を隠して善に見せかける罪です。キリストの敵となった者たちは、そういう者たちでした。彼らは、赦しを求めないので、赦すことが意味を持ちません。
 
さて、罪を赦されたら、どうなるでしょう。赦された、ああよかった、これで、清廉潔白になったと思うでしょうか。・・そう思うなら、そう思うことが、罪であります。
 
赦しは、また、これからも罪を犯すであろう罪人としての弁えを学習することです。人間は、この地上では、清廉潔白にはなりません。赦されることで心の解放感はあるでしょう。しかし、ああよかった、と言って安穏とするのは、信仰の態度ではなく、なお偽善者の態度なのです。
 
人間の立場から見ると、赦されて安心することよりも、赦しを神に求めることのほうに、生き方の学習があります。したがって、罪を犯しても大丈夫と学ぶのではなく、罪を犯す自分を知ることであります。その学習があるからこそ、私たちは、また、赦されることを求めるのです。
 
 
キリストの十字架の贖いによって、罪に死んだから、罪はない、などと信じている偽善者もいるようですが、そのような者は、反キリストの役割を果たしているだけなのです。罪はないと信じ込んだ人間がどうなるかということを考え推測して否定するということができないだけの偽善者です。
 
人は、他者の罪を赦すべきか、という問題については、上のほうにあげたように、赦すことが無意味である場合があります。気づかない人は、気づかせる、または、気づくことを待つしかないのでしょう。
 
しかし、キリスト信仰を、自己中心に考えて、あるいは、何も考えないで、何でも赦される、または、赦されることを求めてさえないか、最初から信仰が嘘である場合も含めて、決して、赦してはいけません。偽善と反キリストを増長させるだけです。それは、神に対する罪になります。
 
そういう者を、批判することが苦手なら、無理して批判する必要はありません。神に与えられた務めは、人それぞれです。ただ、批判は、悪口とは違うし、批判する気のある人が、批判しなければいけない場合があることは、承知してください。批判対象にしかならない者がいます。
 
その者は、いつも他者を下に見て、自分を高めるために、教えたがります。放置すれば、会う人ごとに嘘を吹き込み、その人を洗脳して人格をおとしめ、破壊してゆきます。凶悪カルトとカルト支援者は、悔い改めより、赦しが先だと言って、さらに、自分を高める背教を勧めるのです。
 
悔い改めは、祈りによる罪の告白です。罪を認めないで隠して、平気で嘘を吐いている者が、どうして赦されるでしょう。どの罪を赦せというのでしょう。どんな罪も、告白しないまま赦されるなら、地上は、偽善者の楽園になるでしょう。そんなことも分からない愚か者が、実際に、いるのです。
 
カルトは、批判者に対しては、いたずらに決めつけることを繰り返して、疲労させ、批判者の人格を破壊してゆきます。こういうことは、宗教が絡むとき、カルトが絡むとき、とても醜悪な遣り取りになりますから、批判というものは、自分を、ある程度は、コントロールできる人がするべきことです。
 
何でもかんでも総ての罪を赦すのがキリスト教の理想などということでは、決して、ありません。むしろ、罪の自覚があるから赦しが意味を持つのです。罪を認めて、神の前に告白して、罪を犯しやすい自分の性質を反省することで、思い上がることなく、罪を赦される恵みに気づくことができるのです。
 
何でも赦してくれる神?を信じているカルトは、罪人の自覚を全く持たないで、神に対しても、極めて、お気楽に構えており、平気で罪を犯し、嘘を吐いて、偽善者となり、神のしもべたる自身を永遠に弁えないまま、罪業の穴へ、ぬるぬると滑り落ちてゆくでしょう。
 
悔い改めより赦しが先だなどという詭弁を弄する者は、悔い改めなくても赦されるという我欲からの妄想欲求が、そう言わせているだけです。
 
罪の自覚のない者に、赦しを与えることは、いったい何を赦されるのか悟ることもないのだから、赦すこと自体が無意味です。悔い改めない者に、赦しを与えれば、勝手放題の地獄が開かれるだけです。
 
 
罪の自覚があり、それを神に対して正直に告白することで、世俗や我執から、神へと、自らの向きを正すことが悔い改めです。そのために祈りの機会が与えられているのです。
 
 
罪の赦しは無罪ではなく赦されて生きること

罪の赦しは、無罪ではなく、赦されて生きること
 
 
(2020年02月)
(2022年03月02日、加筆して再録)
 
 
 
信仰者が、聖書の言葉から、弱いからこそ強い、という逆説を、理解不十分なまま、説明せずに豪語すると、生き馬の目を抜くように、反キリストから、それこそ、キリスト教の嘘と偽善だと言われ、広められるでしょう。
 
(ネットより)
生き馬の目を抜く(いきうまのめをぬく)
生き馬の目を抜くとは、すばしっこく人を出し抜き、抜け目がなくて油断できないさまのたとえ。
 
強いのは、いつも神であります。神のみであります。神が憐れむのは、弱さを知っている人であります。ゆえに、神の憐れみがあるから、信仰者は忍耐強いということの、逆説の真実なのです。ゆえに、豪語していいような性質の言葉ではありません。
 
私たちは、神でもなく、キリストでもなく、預言者でもないのだから、力比べは、いけません。
 
信仰を超常奇跡物語としてしか見ていない人もいます。私たちキリスト信仰者は、神の業(わざ)であって人には手に負えない超常奇跡ではなく、人として生きてゆくために必要な、愛に通じる共感として、神とは違う低さと罪深さを弁え、祈りの信仰生活を送ることが大切です。
 
 
 ※ 批判における厳しい表現について
 
まじめなことを淡々と書いている記事は、一般の読者に対しては、十分ではなくても、意志の伝達として成り立ちます。
 
しかし、私の批判対象は、批判をスルーつまり無視すると公言していますし、言葉も理路も理解する能力も失っている人なので、普通の批判をしても何も受け取らないでしょうし、気にもしないでしょうし、脅威にならないから、読むことさえしないでしょう。
 
一般に、厳しい表現や、辛辣な比喩は、文章の中で目立ちます。ゆえに、批判対象だけでなく、一般にも嫌われるでしょう。無反省と無責任そして体質的に鈍感であるために無視してくる批判対象に対して、表現を大人しくすることは、こちら側の体面のために本音を隠しがちです。
 
それに、破綻した理路と要領を得ない筆致や詭弁を見続けることは、ストレスがたまってくるという、こちらの精神衛生の問題でもあります。即ち、辛辣な比喩など、厳しい表現は、激情に駆られて用いるのではなく、激情を治めるために用いるという意味があります。
 
というわけで、今まで、批判対象に向けてきた辛辣な比喩をあげると、亡者、ヒト型生物、疲労物質、放屁、排泄物、糞尿、病原、寄生虫、害虫、ゴキブリ、ドブネズミ、狂犬、等々あります。とうてい全部は思い出せません。
 
なお、嘘吐き、詭弁屋、精神詐欺師、偽善者、病質者、人格障害、高等感情鈍麻、サイコパス、エナジーバンパイア、などは、比喩表現ではありません。
 
以前、キリスト教系カルトの者が、私の批判に対して、それこそボロクソに、個人情報まで持ち出して、ギャーギャー吠えるように、罵詈雑言を連発してきたことがあります。それを読んで、私は、この人はギャーギャー言っているんだ・・としか受け取れませんでした。
 
辛辣な表現も、質が問われることを、そのとき思いました。あまりひどいので、サーバーに報告したところ、相手の記事が削除されることもありました。
 
一方、病質者の書くところの、大人しく見せかける文章は、大方、概念的な言葉や熟語を並べただけのものであり、そこに、生活者としての実感が表れていない、という特徴があります。つまり、概念遊び、即ち、机上の空論なのです。
 
そういう文章は、書いた人に学習意欲も真摯さも向上心も反省力も見られないから、繰り返し読まされるほどに、うんざりするか、がっかりするか、ろくな気持ちにならない、ゆえに、疲れるという体験だけを与える文章になります。
 
また、過去の非を認めないまま、きれいごとを書いてくれば、それだけで、嘘吐きだと分かるわけです。人間の歩みとして、成り立っていないからです。パンツに漏らしたウンコを洗わず拭かないでいて、ニオイが、むわ~と伝わってくるようなものなのです。
 
 
 
  前進か後退
 
前には足跡がある
後ろには足跡がない
戻ることはあり得ない
止まることも許されない
嫌だ嫌だの挙げ句の果て
後ろを向いて後退(あとずさ)り
だから転んでは気を失い
目覚めればいつも仰天している
 
 
  罪の足跡
 
まっすぐ歩いたつもりが
振り返れば随分と曲がっている
右に左に
無駄な道のり
それら徒労
受け容れるしかないものたち
 
無数の足跡に紛れたり
別の足跡と交叉して離れたり
途切れているところもある
一度は死んだのかも知れぬ
 
いずれ満ち潮が
すべてを攫(さら)って消してゆく
足跡一つ残せませんでした
と泣きながら倒れるようにひれ伏して
許しを乞わねばならないだろうか
 
後ろがどうであれ
後でどれだけ消えてしまおうと
今ここで決めねばならぬことがある
 
目の前で一歩踏み出せば
足跡は一つ増える
踏み出すことは
踏みしめること
踏みつけること
踏み拉(ひし)ぐこと
何かを
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
発作のように、コピペで大量の記事を書き、どんなもんだいとでも言いたいような楽山ですが、当たり前のことさえ、ずっと出来ないままなのです。反省、責任、どれもこれも、できないばかりか、理解さえしていないで、いかなる霊が分かるっぽい?のでしょう。呪いの悪霊でしょうか。
 
過去のコメントを断片的に引用して、「議論とは関係ない挨拶、雑談にまで、ずうっとケチをつけてくるというのはどうかしている。st氏にもこういうバカバカしさに気づいてほしいが、多分それは無理なのだろうな。残念。」などと書いています。無理な楽山に対しては、実際、ずうっと無理なのです。
 
NPDの症状は、日記的な話にも表れてきます。しかし引用された記事とコメント、私は覚えていません。楽山は、執念深く、細かいところまで引用したつもりでしょうが、今に至るまで、ずっと、楽山の無法は、表れてきたのです。それが、体質というものです。ピントをずらそうとしても無駄なのです。
 
 
 
 st氏から、つきまとわれる理由
 2022年02月28日 楽山日記(LD)
   さらに批判します。
 
st氏からつきまとわれる切っ掛けになった場面があったので保存しておきたい。
 
「つきまとわれる」という言い方をしていますが、つきまとうのではなく、批判するということです。楽山が、こんなふうに、しらばくれるわけですから、批判は、書けるあいだ、一生にわたります。根腐れを放置することは出来ません。
 
st氏は、シャローム氏と話をする私を異常だとして、批判しはじめている。
 
楽山とシャロームshalomにだまされたことに気づいたころの話だと思います。楽山とシャロームは、異常な偽善者です。ここに至っては全否定で、これからも批判を続けているということです。凶悪な訂正不能の悪の根性を持っています。
 
次に、st氏は、私の記事に対する反発心をあらわにしている。「人は人、自分は自分」という考え方は、よくあるものだけども、st氏にはどうにも我慢がならなかったらしい。
 
「人は人、自分は自分」・・・公共の福祉に反しない限りでという条件があることを知らないのならば、楽山は、無知であります。キリスト教について、嘘と詭弁で、デタラメなことをばらまいている楽山を容認することは出来ません。
 
年始の挨拶をしたのであるが、たったそれだけのことでst氏は敵意をあらわにし、悪口を言うようになった。
 
年始の挨拶をしている場合ではないということです。しらばくれる楽山は、人間とは思えない不感不応です。傍らで人が傷ついていても死んでいても、あけましておめでとう・・などと挨拶を交わしそうな者たちです。冷酷で、情がなく、攻撃的で、卑怯です。全否定で臨みます。
 
st氏から敵と認定された後は、すぐに次のようなモラハラを受けた。
質問だと思ってこたえたら、「明確な質問ではなく、疑問です」って…意味分からん。
 
何かを問うているのではなく、そのような場合ではなく、疑問を持って批判しているという意味です。質問などはしません。応答が、全く信用できない楽山だからです。今は疑問はありません。楽山とシャロームは異常者です。一人による成りすましも疑われます。
 
私が楽山を批判する理由について、楽山は、何も分かっていない、または、分かっているのに言い逃れと悪口しか返せないでいるのです。健全な社会には、いてはならない病質者です。くれぐれも、関わることのないようにしてください。相手を消耗させるエナジーバンパイアでもあります。
 
神からも、人からも、許されては、赦されては、いけない者たちがいます。強制力もなく、言論だけが頼りになるところで平気で嘘を吐き人をだます者たちです。いずれ、あるいは、既に、何らかの犯罪者であるかもしれません。匿名のネットをいいことに、怠慢と虚偽の地獄に生息しているのです。
 
人類の敵とは、国でも組織でもありません。楽山のような、人間の心を持たない輩、反社会性人格障害者のことであります。戦争を始める者、戦場で残虐行為をする者、その群れの中に、楽山のような高等感情を持たない者たちがいるのです。
 
 
 
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  祈りとは2
 
 
祈りは
人から
神への
言葉による唯一の音信であります。
 
そこにのみ、言葉での
神に対する人の自発性が表れます。
 
出来事
思うこと
感じたこと
学んだこと
悔いていること
罪の告白
赦しと導きを乞うこと
 
信仰を固定してはいけません。
 
心の中が定まったからと思って
心の中をそのまま変えないことが
信仰だと勘違いしてはいけません。
 
定まって変わらないのは
神の御心であって
人の心ではないのです。
 
人が自分の心を変えないようにと思っても
人には心を不変に保つだけの強さはありません。
 
言葉が変わらなくても
心は変わります。
 
言葉が違えば気づくでしょう。
心が違うことは気づきにくいのです。
心は変わるものと思っておくべきです。
 
人の心を変えないようにすることは
人が自らを弁えず無理をすることであり
神が人を変えようとすることを
つまり成長させようとすることを
拒む行為であります。
 
信仰において
人が自らの分を超えて無理することは
かえって心を損なうだろう。
しかも、御心に背く行為なのです。
 
罪なら罪の
願いなら願いの
ありのままを正直に神に告白し
そのとき告白できなかったことは
気づいたときに改めて告白して
改めて神の導きを乞い
そして待つのが信仰です。
 
不安定になってはいけないと
いつも同じようなことを祈るのは
人が不完全であり罪の性質を持っていて
元々不安定であることを知らないからです。
 
人間ならば
日々、様々なことをして
様々なことを思うのであり
日々がまるで一緒ということはないはずです。
 
人の避けられない変化を
やみくもに変わってゆくことから
神の御心によって変わることが出来るように
神によって心が解放されるのが信仰です。
 
人が自分で保つかのように
心を変わらないようにすることは
導きを拒む姿勢と言えるでしょう。
 
揺るがない信仰は
忍耐強さのことであり
不変や固定を意味してはいません。
 
赦しに加えて、癒しと、落ち着きと、安らぎ、という恵みは
信仰によって神から与えられるのであって
 
人が自分で癒えるように落ち着くように安らぐように
自分で心の姿勢や態度を固めようとするのは
神の導きを拒むことであり
信仰を自分で保てると慢心することなのです。
 
人は地上に生きているあいだ
頻繁に他者の影響を受け
さらに我執の誘惑に直面しています。
 
それは悪魔の誘惑に近く
つまり
人は悪魔性を内蔵しているということです。
 
悪魔性に
信仰の確信?を貼りつけてはいけません。
 
偽善者は
まさに自らの悪魔性に動かされて
癒えることなく落ち着くことなく安らぐことなく
他者を下に見る分
いつも他者を気にして
神の御心から離れてゆきます。
 
要は努めるべきこととして
人として
神の前でだけは
何よりも正直を心掛けることだけが
信仰において唯一正しいと言える弁えであります。
 
"ねばならない"
ということは多くはないのです。
「無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである」(ルカ10:42)
という教えは
信仰がシンプルであることを教えています。
 
神の前に、正しさをいくら述べても通用しないのです。
最も正しい御方が相手だからです。
 
神の前に、どれだけ愛を語っても通用しないのです。
最高の愛を持っている御方が相手だからです。
 
神の前に、正直以外は、通用しない。
 
このことは、私たちが、
余計な荷を下ろし、無くてはならないもののほうを選ぶためです。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)11:30
わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである。
 (マタイ11:30、新約聖書)
 
信仰は
他者に対しても
自分に対しても
脅迫でも強迫でもありません。
 
 
日々に祈り

日々に祈り
 
 
(2020年06月11日、同日一部修正)
(2021年06月13日、再録+)
 
脅し(おどし)
 
 
 
  小屋から
 
小屋から屠殺(とさつ)場まで
死ぬのは一瞬で
死んだあと食われること
など分からないから
殺されるとも知らずに
飼葉(かいば)をのんびり食(は)んでいます
涎(よだれ)を垂らして何度も何度も
反芻(はんすう)しながら
 
小屋から刑場まで
飼葉桶(かいばおけ)から十字架まで
殺されると知りながら
血と肉の
ブドウ酒とパンの福音を
罪人とされた人々に述べ伝えながら
来し方・行く末を何度
反芻されたのでしょうか
 
民族も人種も違う東の国の
家畜以下の怠け者が一人
深い罪の淵(ふち)で
あなたに こだわっています
気の遠くなるような時を超えて
 
(90年代か)
 
 
 
※ 
 
 楽山についてですが
 
昨日の楽山の記事を読んでいて、つくづく思うことですが、楽山が、言葉を並べても、何か思想を書いていると思ってはいけません。楽山は、病質に従って、症状として、悪臭と病原付きの排泄をしているに過ぎません。楽山の生理~病理現象なのです。楽山の糞尿を飲み食いしてはいけません。
 
「(自分で考え、判断することのすすめ)」・・どんでもない楽山です。楽山は、まともに考えたことはないと思います。判断は、すべて、自己顕示の我欲のみから発しています。個人の自由意志を尊重するようなことを言っても、楽山にあるのは、自由ではなく、訂正不能の我執だけであります。
 
楽山の病状は、ますます、悪化してゆくだろうと思います。整理がつかないまま、推敲できずに、量を書くだけのようです。もしパニックにでも至るならば、優しさ芝居は出来なくなるので、何をやらかすか分からないと思います。本性剥き出しになってゆく楽山に、どうか近づかないでください。
 
 
 
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