好いお年を 
 
 
  他人事のように語る楽山
 
 2021年12月27日
 『地球を包む愛』を見た。
 幸福の科学とは何だろう?ブログ by 楽山
 
 
楽山は、元HS信者、ということは、興味本位で語ってはいけない立場です。多くのテーマにおいて、楽山の、この、自覚がない、病識がない、誠意がない、興味本位、ということが表れてきます。無反省、無責任、そして、病質などが、楽山の書いたものによって明らかになってきます。
 
*メモ
大川隆法総裁の法話『地球を包む愛』の動画を見た。自分のメモは次の通り。
体をゆらゆら揺らしたり、ぼそぼそ言ってるかと思ったら、急に声を張ったりしている。
日本の超古代文明の話。富士山の近くにもう一つ山があったが、宇宙船が着陸したら潰れたとか、当時の女性は凛としていたとか…。
現代の哲学者は、計算式や記号をつかって何を言いたいのか。こんなものは一円にもならない、給料泥棒だ。
 」
 
超常の架空の動画が好きな楽山にとって、興味本位以外ではないようです。荒唐無稽な話をすることで、何が言いたいのでしょう。茶化すことは出来るが、批判は出来ない楽山です。つまり、HSの影響を、今も受け続けているということです。真面目なアンチからは程遠いのです。
 
イスラム原理主義には反対する。
私が嘘つきに見えますか? 見えたら地獄です。
我が言葉を軽んじるなかれ!
わたしの言葉を聞かなかったら人類半減する。どうか、わたしの言葉を信じて、伝えてください。
 」
*感想
個人的な感想を述べると、こうなる。
ひさしぶりに大川隆法総裁の話を聞いて、善川顧問を思い出した。善川顧問の話は聞き取りにくかったが、大川隆法も年をとってそんな風になってるなあと。
ゆらゆらしたり、ぼそぼそ言ってるかと思ったら大声を出したりで、落ちつかない人だ。
超古代文明の話は好きだったのだが、今回、日本のそれを聞いても、それほど面白いとは思えなかった。自分の興味関心は前とは変わってきたということか。
 
HS批判ではなく、「年をとって」と、老化したことを、あざ笑う楽山です。楽山と付き合うと、こういう扱いになるということを学習するべきでしょう。センスがズレているようです。しかし「ゆらゆら」「ぼそぼそ」「落ち着かない」は、いずれも、楽山自身の印象とイメージであります。
 
楽山には、無学習からの、思いつき、節操のなさ、言ってることが安定せず、まとまらず、行ったり来たりで、かつ、責任をいっさい負わない、つまり、冷静を気取るだけで、実際は、落ち着いた冷静な筆致など、見かけだけで、どこにも認められません。
 
だから、感想が「面白いとは思えなかった」になり、楽山は、批判するのではなく、真剣味のない、趣味的な「興味関心」だけで揶揄して楽しみたいのです。楽山は、真実を追求したいのではなく、面白おかしいことや、自分が悦に入り、満悦できることだけを求めています。
 
原理主義に反対しながら、自分の言葉を軽んじるなかれ、そうすれば人類半減するというのは矛盾しているように思える。
原理主義に反対するなら、「我が言葉は字義通りに受け入れなければならないことはない。その時々の状況次第で応用、解釈してよろしい。どうしてもその状況には合わないのであれば放棄してもよい。批判するのもよい。これは我が言葉を軽んじることにはならない。それがために災厄を招いたり、人類半減することなどない」とすべきではなかろうか。
 
楽山は、これまでのことから、単方向だけの、詭弁屋の嘘つきですから、原理主義もなく、そして、現実主義もありません。気持ち悪いことに、お手本を示していますが、これは、宗教は、いい加減なのが良い、という、以前からの、宗教と信仰についての無理解からの、何の役にも立たない愚痴です。
 
*ハズレ
法話について、このような内容を予想していたのであるが、ハズレだったようだ…残念。
総裁の法話は、タイトルと内容が一致しないことがあるのを忘れてた。
 
「このような内容を予想していたのであるが、ハズレだった」・・楽山は、日本語が苦手のようです。恐らく、思いついたままに書いて、反省も推敲もしないのでしょう。そして、書いたことさえも、忘れてゆくのでしょう。こういう無責任筆致は、ずっと前からです。
 
★こも/楽山日記3
@komo266
気張って、こんなこと言いそうだな。
「我はかつて愛の発展段階説を説いた
いまここに、愛の最上段階として
包む愛が存在することを明かそう。
包む愛とは何か?
それが知りたければ、その権化たる我を見よ
さすればその何たるかを垣間見ることができよう」云々。
 
三文芝居好きの大根役者である楽山は、しばしば、求まられても信頼されてもいないのに台詞を考えて、さらに無責任に、書き捨ててゆきます。程度の低い揶揄です。誰が、楽山に愛を問うというのでしょう。冷静を装いながら誇大的なのが楽山ですから、とても気持ち悪いです。
 
楽山は、前に、愛について詩を書いているつもりだったか、"愛させてくれないことには(愛せない?)” みたいなことを書いています。愛させてくれることって何でしょう。ニヤニヤしてくれとでも言いたいのでしょうか、裸になれってことでしょうか。ズレ方が気持ち悪いです。
 
 
みにくい自己陶酔

みにくい自己陶酔
 
 
(2021年12月31日)
 
 
 
  失恋の歌
 
私のための
喪があけた
君の情事も終わった
流れのように足の下で
歌のように繰り返される悔恨が
やがて花開く
私の胸の空洞だ
招きもしないのに
別れを告げられても困るからと
微笑よ
君の純潔が苛立つとき
首のないセックスが
傾いたベッドの上で
ケラケラと笑いころげ
君の喪があけ
私の情事が終わるとき
うぶな陶酔は
血まみれの風音をたて
血の気のない泣き声をあげて
遠い崖ふちから肉体まで
ひそかに受胎する砂と唇
 
 
  あの世
 
明け方バイクに乗って山の上から
雲海を眺めていた
太陽、雲、あらゆる光
この目はうばわれて、どこか
この世にいなかった
翌朝、山のふもとの道
雲海の雲の中を走っていたのだろう
体はバイクの上で冷たく濡れていった
急に開ける視界
いつのまにか朝日をあびて
シャツが乾いて汚れていた
体はうばわれて、どこか
この世を離れていた
 
昼下がり、車のフロントガラスから
太陽を隠す大きな雲
そのふちは輝き、やわらかい輪郭の
空の上から下へ
隠された太陽から放射状にまっすぐ広がって
注ぐ光、光の帯
天国への階段かと
虹を思い出そうとして
色をうばわれて、どこか
この世に別れを告げていた
 
太陽は神ではない
しかしときに自然が見せる
とくに太陽にまつわる
この世ならぬ感覚は
ある種の喪失か自己消滅か
あの世
でもいいけれど
信じているものは求めて目に見えず
信じたい世界では
信じたい人々からは
信じるべきものは目に見えて闇のようだ
 
 
 
楽山日記へのコメントを再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
約3年もの長きにわたって批判されていながら、何も気にせず、平気で書き続けられるのは、楽山が、恥も、罪悪感も、まるで感じない、いわゆる厚顔無恥だからでしょう。おかげで、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)についての資料にはなってゆきます。
 
 
 
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