ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:超常信仰

 
  矢印の人々2
 
 
神話と奇跡信仰に生きる人たちは
都合のよい出来事を奇跡に結びつける
 
「何度、奇跡に救われたことでしょう」
「私たちは、いつのときも安らかです」
 
自分に都合の悪い出来事
悲惨な死や自殺については
語ることが背教であるかのように
無かったこととして口を閉ざし
記憶から消してしまうかもしれない
 
彼らは強烈なベクトルを持っていて
いつも自分の味方をする神への信仰は
違うベクトルに対しては
びくともせずに、逆に
へし折って悔いることがない
 
そして彼らが優しさと呼ぶ口によって
冷やかに述懐して
気に入らない人に対して
「彼は少し、冷静さを欠いたようです」
と言った口は不感不応の
慇懃無礼な冷酷さだけが勝っている
 
言い古された言葉を並べただけで
納得し陶酔するような
彼らがこしらえた感謝のレセプターは
人間的感性のレセプターを押し潰すほど
強力な条件反射になっている
 
いつどこで起こる災いも不幸も
自分と同じ信仰を持たないからだ
という因果律を当てはめて
ひたすら硬直した薄笑いの伝道を続ける
 
いつどこで起こす災いも不幸も
不都合な因果を無視する彼らの黄金律によって
すべて「愛とまこと」の名の下に隠して
彼らは結束し増殖する
 
彼らの強さによって
何度人間性は潰されてゆくことだろう
 
彼らは実に
いつも単方向のベクトルを突出させ
固定したレセプターによって机上の奇跡を引っ張ってくる
 
 
 
注意してください。
世の中には
やさしい言葉しか使わない信仰者がいます。
やさしい言葉しか使わないカルトもいます。
やさしい言葉しか使わない病質者もいます。
 
穏やかさ以外を隠して表に出さない信仰には、
昔から抵抗を感じているので
 
穏やかでない正気も狂気も
私は書いてゆくしかないようです。
 
 
(2011年09月28日)
(2019年04月25日、修正)
(2021年05月16日、再録+)
 
 
何を目指すのか。

何を目指すのか
 
 
※ 
 
  人の季節
 
うっとうしい梅雨である
眠れない夜である
と思っているうちに朝は早く
日差しはなく
薄暗く
薄明るい
 
ゆるさない、と幾度も
心の中で
わめいたと思うのだが
どういうわけがあったのか
特定の人に対してだったか
背教のつもりだったのか
 
それらよりもずっと多く
自分に対してだったような気がする
言った後で何の救いも
希望もなくなることに
おののいて
聖書の幾頁かをめくる
 
特別新たな感動が
生まれるわけでもなかったりしたとき
 
もはや信仰は凝り固まった
しこりのようだと考えるけれど
 
しこりはまだ
ほんのわずかに
熱を帯びている
ぬくもり
と懐かしい友を呼ぶようにつぶやく
 
ひょっとしたら
ゆるさない、ではなくて
ゆるされない
ゆるされるものか
であったかもしれない
 
熱は癒え
冷たい氷は溶け始め
また新しい罪が生まれる
ゆるしていただくほか
救いも希望もありません
と産声(うぶごえ)を上げる
 
あらゆる季節の
人間の
冬の終わりに
幾度も幾度も冬
の終わりに
 
 
(ずっと前、一部修正)
 
 
 
 (詩篇、口語訳)26:2
主よ、わたしをためし、わたしを試み、
わたしの心と思いとを練りきよめてください。
 (詩篇26:2、旧約聖書)
 
 (詩篇、他ブログより)
主よ、わたしを調べ、試み
はらわたと心を火をもって試してください。
 (別の訳らしいが、興味あり)
 
※「はらわた」は、人が心に秘めたものでしょうか、加えて、「火」は、神の強い力に拠り頼む情熱的な信仰の意志のように感じられて、強いインパクトの訳になっています。
 
 
 
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  神秘体験マニア2
 
 神秘体験の受け止め方 
 (『宗教的経験の諸相(上)』W・ジェイムズ著)
 カテゴリ気になる一文2宗教
 楽山日記(LD)
  加筆して批判記事再録
 
 
楽山は、神秘体験という言葉で超常体験を中心に宗教と信仰を語っています。神秘は、神の秘密で、人が関わることの出来ない領域ですが、楽山は、それが分かるというのでしょうか、そこが中心になっています。このような記事を読み返しては、楽山の妄想的な異常性を再認識することになります。
 
そして、神に自分は選ばれた、だから御心のままに・・とでも暗示したいのでしょうか。逆に、この記事からも、楽山は、自分の霊力を信じているが、神など信じてなどいないことが表れてくるのです。不潔な楽山の意図を見逃してはいけないのです。
 
宗教と信仰を、人間の生き方として考えずに、神秘や超常の話としてしか語れない楽山の、偏向し破壊された精神内界を見ることになるのです。
 
繰り返しますが、神秘は神の秘密、人間にとっては、体験したという話は多分に妄想的であり、一部に体験者がいるとしても、神秘を体験したかどうかについて、体験者は、むしろ、公には、口を控えるでしょう。
 
これまでの楽山のデタラメな言論と無反省・無責任を思えば、楽山が、さも、自身が特別な体験者であるかのように、霊と神秘を知っているかのように語っている時点で、改めて、妄想的自己顕示欲の表れだと言ってよいのです。
 
著者によれば、神秘体験の是非について判断しようとする際は、その後の体験者の心境が目安となるという。
幻影、幻聴、そのほか明らかに天来の賜物と考えられるものがあとに残す敬虔な気持ちこそ、それらのものが悪魔の惑わしの手だてでありえないことを私たちに確信せしめる唯一の印しなのである。
(『宗教的経験の諸相(上)』W・ジェイムズ著、桝田啓三郎訳、岩波書店、2014年、p.39)
 
楽山は、子供の頃に仏様が喜んでいたと言ったら親族が笑ったという話を書いて、親族は仏様の気持ちを全然感じないっぽいのに驚いたそうで、子供の頃だけではなく、大人になっても、記事には、楽山は、本気で自分が仏様の心が分かるっぽいと思って信じ込んでいることが表れています。そして、「心の理論」という心理学の話を、心霊の話に改造してしまいました。
 
神秘を体験することは、神秘を恐れることであります。神秘を体験しているなら、このようなインチキ記事は書かないはずだ、ということが、楽山にだけは分からないのです。
 
その後の心境は、ネットでは、相変わらず、霊が分かるっぽい心境で、超常のことを普通のことのように話し、分別のあるべき思想や宗教の理路や節操の話について、うわべの言葉だけや、幼稚な言葉遊びに終始しています。
 
少なくとも、私が関わったこの2年間は、人の言うことに、反論も弁明も出来ないのに、怪しい能力をアピールするために、書くことだけは執拗にやめません。毎度、驚き呆れるばかりです。
 
自分は以前は、善良な人は天につながり、そうでない人はその限りではないという考え方を支持していたので、
 
この楽山の、小学校の道徳のような深みも説明もない月並みな書き方で、支持するかどうか考えるような話でしょうか。
 
おとぎ話にも出てきそうなほど、単純に善を勧めているだけの、議論するほどのことでもないような話に思われます。楽山には、すごく高等な話に見えるのでしょうか。
 
この楽山の書き方で、それ以上の詳しく深い説明もないようだから、この勧善懲悪を支持しない人というのは、どういう人を、楽山は想定しているのでしょう。それこそ、楽山のような人でしょうか。
 
理路の実質のない楽山です。しかも、ここでだけ、"天" という言葉を当たり前のように使っています。天は、神秘ではないのでしょうか。楽山にとっては、駅前、というのと同じくらい当たり前の場所なのでしょうか。楽山の話が、日常と超常の区別も付けずに、ふらふらしています。
 
神秘体験については善良な人のそれは天からの賜物であろうが、そうでない人のそれは天からの賜物とは言えないだろうと信じていた。でも段々とこれに当てはまらない話もあることを知り、それが悩みの種になっていた。
 
楽山が神秘体験を中心に置くこと自体が、超常趣味であり、人間の現実体験が嫌で、現実の、罪、失敗、失言、不祥事、不都合、怒り、恨み、など、自分の粘着体質がもたらしているものを考えたくない体質なのでしょう。今回も、その表れ以上ではありません。
 
楽山は、天とか、神秘とか、心霊とかに、執着する妄想的観念の脅威です。しかも、そこにあるのは、概念遊びに過ぎず、実質と実感がありません。ゆえに、こういう文章には、説得力が生まれません。楽山の話が、大方、自己顕示欲のために書かれていることを表しています。
 
たとえば、使徒行伝によると、サウロはキリスト教徒を迫害していた頃に、神秘体験を経て改心したという。これは歴史的事実かどうかは分からないが、この話を読むと、天からの神秘体験は、正しい生き方をしている人に限定されるのではなく、神を信じ従う人々を迫害している人…つまり酷く間違ったことをしている人にも起こりえるということを示しているようであり、このことを考えるとどうも天からの神秘体験は、善良な人にしか起きないという考え方は正しくないのかもしれないと疑わないではいられなくなるのだ。
 
実に幼稚です。「歴史的事実かどうかは分からない」と書きながら、これを前提に話を進めて、というより、短絡して、「間違ったことをしている人にも起こりえる」「神秘体験は、善良な人にしか起きないという考え方は正しくない」という、あらぬ方向に、話が滑ってゆきます。著しい理路外しの詭弁になっているのです。
 
「歴史的事実かどうかは分からないが」と言いながら、「天からの神秘体験」の話を続けます。何か、現実的な、あるいは、比喩的な、発想でもあるのかと思えば、超常の話だけで、なにも人間の心に響く中身がないのです。自分にも神秘体験は起こるんだと言いたいだけなのでしょうか。
 
「神秘体験は、正しい生き方をしている人に限定されるのではなく、神を信じ従う人々を迫害している人…つまり酷く間違ったことをしている人にも起こりえるということを示しているようであり」
・・・凄まじい誤読です。
 
迫害者サウロの神秘体験のような話は、悪人でも神秘が分かるなどという話ではなく、悔い改めて、使徒パウロになるためのものです。サウロ→パウロの改心という重要なテーマなのです。
 
それに、楽山は、自分は悪だと認めるのでしょうか。その通り悪であり、かつ、それにとどまらず、さらに悪質な、偽善者であり、詭弁による精神の詐欺師だと判断していいでしょう。
 
サウロの神秘体験が、楽山の好きな超常体験であったか、つまり、聖書の記事が現実に起こったか、あるいは、サウロの悔い改めの表現なのか、あるいは、伝承なのか、これは、謎として、他の奇跡とともに残されています。
 
しかし、迫害者サウロが改心して使徒パウロになった、ということを伝えているのは間違いありません。そこを読み取らずに、超常の仕組みにだけ拘泥し、ひどい詭弁を捏造している楽山です。
 
楽山の聖書の読み方は、人間性不要のカルトの口実であって、いちばん大事な、愛、希望、信仰の、何の証拠にもなりません。楽山は、現実離れした話が大好きで、サウロは、超常を体験したということだけを受け取ってしまう、という、大きな理解の欠損であります。
 
そこに迫害者サウロ → 使徒パウロへの心情の理解が何もなく、宗教と信仰=超常奇跡ということから離れないわけですから、その時点で、楽山は、既に、アウトなのです。聖書について、勝手な読み方を野放しにすると、こういう楽山のような外れ者が出てくるということなのです。
 
超常にだけ興味を持ち、聖書を、超常体験の事実または史実としてしか受け取れないのでしょう。聖書の心を、現実を生きる人間として受け取ることができないのです。信頼度は既に皆無です。
 
楽山は、キリスト教とキリスト信仰を、自らの次元の低さに貶めるだけの反キリストの宣伝者となっています。意地だけで、愚かな話をつないでゆくところなどは、まさにカルトそのものなのです。どういうインチキ神秘体験を経たら、ここまで、厚顔無恥になれるのでしょう。
 
「正しくないのかもしれないと疑わないではいられなくなるのだ」・・何という、だらだらして、わずらわしいボンヤリ言語なのでしょう。胃腸を悪くしそうな気持ちの悪さです。
 
結局のところ、天からの神秘体験というものは、その者が善良であるかどうか、悪行を為しているかどうかに関わりなく、神に選ばれた者に起きるということなのかもしれぬ。
 
楽山は、神が、悪をなす者をも選んで、神秘体験を与えるなどと言い始めました。楽山のような、詭弁屋で偽善者の悪に与えられる神秘体験は、地獄の炎ようなものでしかないはずです。まさに、神は、最終的には、悪をも選んで、じっくり、懲らしめることでしょう。
 
とすると、神秘体験を評価しようとするときには、それがどのような人に起きたかではなく、著者の言うように、それが起きた後に、その人はどう変わったかで判断するのが賢明ということだろう。
 
神秘体験は善悪に関係ないと言っています。神に選ばれた者、と来ました。自分がそうだ、と言いたいのならば、カルトに、よく見られる有頂天妄想の言い分です。
 
罪人の自覚がある人は、悔い改めて救われるでしょう。自分を高めたいだけの楽山のような者は、悔い改める気がないのだから、そこで既に、救いを拒否しているということです。
 
記事を通して、楽山は自分が特別だと思いたい、というより、そう信じて疑わないから、暗示的な言い方をしながらも、自尊過大によって執拗に書いてくるのでしょう。今までの経過を振り返ることもせずに、ひたすら自己正当化に終始しています。見苦しい限りです。
 
楽山の記事は、つまり、悔い改めに必要な、敬虔、反省・内省、低き罪人の自覚、などを全く持たず、ふさわしくない尊大な人格の慢心以外に何もない者が、自らを高めるために、書いているだけということになります。
 
神秘体験が大好きで、心霊のことを書き続けている楽山の、見るも無残な心境の表れである記事には、何も変わらない訂正不能の超越自覚だけの自尊が、神に選ばれる人よりも、神に対抗して、ますます、気色の悪い変人~狂気の人格にしか続いていかないということです。それで、平気で書いて、ひそかに笑っているようにさえ、思われるのです。
 
正常な神経なら、先ず、批判者に、訂正か反省か反論か弁明をするはずですが、それを、全くしないで、書いて来れるのは、アドラー教の、気に入らないことは無視する信条に合致した自己中の病的体質が、今も、楽山を支配しているのでしょう。それを正常だと思っているのでしょう。
 
精神世界の方面では、波長同通の法則だとか、引き寄せの法則だとか、さまざまな法則が語られているけれども、どんな法則をも超えることができる全能の神を思う時、そういうことは全て空しくなり、神の御心のままに…としか言えなくなるように思う。
 
楽山は、ここで、唐突に「波長同通の法則だとか、引き寄せの法則」という、一般的でない特別な法則を出してきて、それを超える話をぶち込んできます。それで、楽山は、全能の神を思うのだそうです。重大なテーマについて、ペテン師の軽さで嘘を吐くと、こういうトンデモ筆致になるという典型でしょう。
 
自分の意のままに、自分を高めるために、自分の支持者が増えるように、偽牧師シャロームとともに、嘘と妄想を、印象操作、刷り込み、詭弁をもって、人間の真実など全くお構いなしに、執拗に何度も言ってきたのが、楽山です。
 
弁明できないのに、無反省に書いてくる、これは、人間性の欠陥による症状なのです。楽山が、心霊が分かると言うのは、結局、あってなきがごとき自身の存在からの逃避的な愚痴に過ぎないのです。
 
神の御心のままに・・神を信じてもいないのに、よく言えます。自分は神に選ばれたのだから、と言いたいのでしょうか。今までの楽山の発言から、大嘘です。ここには、先入観のない心貧しさではなく、先入観しかない精神の貧困が表れています。
 
過去のクリスチャン芝居と同じように、御心のままに・・などと、言うだけならタダだとばかり、心にもないことを、平気で言ってくるのでしょう。人間らしく成長し、人間らしく生きたい人は、決して真に受けないでください。
 
つまり、楽山やシャロームなどの易坊類は、御心のままに・・という信仰から最も遠い者たちです。偽善者が、信仰者のふりをして、言葉だけ真似ると、こういう醜態を演じるという例になります。
 
 
キリスト信仰の救いに与(あずか)るのに、特別の体験や、特別の才能や、特別の霊感など、必要ありません。救いに必要なのは、それなりに反省できて、できるだけ正直で、不完全な自分に気づけるくらいに、人間らしくあることだけです。
 
人間の能力は限られています。聖書に記された神の全能と比べてみれば明らかです。人間が、善を追求して完全になろうとするのは、それこそ伝道の書の "風を追うようなもの" であります。
 
人間は、間違いやすく、さらに、間違いないと思う人も、自分の言動の影響を、影響がなくなる時と所まで追うことは出来ません。さらに、人は、人を、完全に知ることは出来ません。それで、良かれと思って、かえって、傷つける、ということが起きるわけです。これは、罪の一例にすぎません。
 
私たちは、先ず、自らの、人としての有限性と不完全性に気づくことから、信仰が始まるのです。それが、即ち、罪人としての自覚であります。そして、それこそが、人間性の自覚であります。
 
キリストに救われた人たちは、自らの惨めさを、キリストの前にだけは、隠しませんでした。彼らは、ええかっこしい、など出来ない状況にありました。自分を小犬に喩えたり、ただ衣にさわろうとしたり、救われたい人たちの崖っぷちが表れている聖句を見逃してはいけません。
 
したがって、人間離れの方向に向かっていることは、救いから遠ざかり、自ら、破壊のケモノ道を選ぶことに他なりません。楽山は、何とかして神秘の世界を知っていると言いたいのでしょうが、知ったかぶりで神秘を語る者には、神秘は、ますます遠ざかり、それゆえに、とても白々しく醜い神秘?の話を捏造するしかなくなるのです。
 
 
色あせた神秘病

色あせた神秘病
 
 
(2020年03月07日、若干修正して再録)
 
(2021年03月11日、さらに加筆して再録)
 
 
(古い記事は載っていません)
 
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  信仰の情熱2
 
 を再録+
 
 
既に前に、
信仰は、言葉で表された教理や信条を思い込み信じ込むことではない、
と書きました。
 
では何なのだろうと考えます。
 
人間が、変わるのは、心が動くからです。
便利だなあ、とか、なるほどなあ、では、人間は変わりません。
心がふるえていないからです。
なんとなく辻褄があったような気がしているだけで
感動がないからです。 
 
感動をもたらす信仰の体験とは何でしょう。
 
 一部の人々は
 聖霊体験とか神の臨在とかを明言しています。
 超常の聖霊を明言できるというのはどういう人でしょう。
 超常が分かる人ではありません。
 超常が分かったことにしたい人々です。
 
 人の欲望の中には恐ろしいほどの超人願望があります。
 他者より神聖になった、
 あるいは、神聖に近い自分でありたいのです。
 
 そういう人は
 自分が超人になったことを担保したいのです。
 その方向で宗教を考える人には
 日常体験を疎かにする傾向があります。
 
 宗教を超常として教える向きには注意してください。
 そこにあるのは超常ではなく
 他者より上に立ちたがる欲望なのです。
 だから、どこか、非信仰者をかわいそうな人と思っています。
 自分は、出来ている、という自覚からです。
 
本当の信仰の体験は
人間の良心に響く実(じつ)をもって与えられます。
そうでないと人間は動かないからです。
それは欲望の成就ではなく
真実の人間の正直な姿に立ち返ることです。
 
非人間性に囚われている心が
人間性に目覚めることを魂の奇跡と呼んでいます。
 
意外かもしれませんが
それは稀にしか起こらないことです。
 
人間には
良い心である良心と
悪い心である悪意とがあります。
それらは常にありますが
場合によって、どちらかが優位に立つことになります。
それが善行と悪行に結び付きます。
悪意は、さらに、偽善に結び付きます。
 
この世が偶然に支配され
自分についてもどうなるか分からないと思えば
もはや、何を楽しめばよいのだろうということになります。
 
この世は偶然に支配されているように見えるけれど
その背後に大きな愛と善と平安の摂理が働いているならば
この世を生きることの意味が変わってきます。
 
日常を、駆け引きや、勝ち負けや、好き嫌いで過ごす自覚だけになることは
生き甲斐や生きる理由さえ奪うほどの虚無の恐怖に成りえます。
そんなことのために人間は生まれてきているでしょうか。
 
そうじゃない、そうじゃない、という叫びが、
いつも、心の中で、響いているのではないでしょうか。
 
勝ちを求めて、人間に頼ることは、誤りというより儚いのです。
自らを見てください。
そんなに立派な頼られ方をされる人間ではありません。
 
その自覚と共感こそが、
人間の側に起こるところの
宗教、そして、信仰の始まりなのです。
 
 
人間は関係の中で生きています。
他者を無視しては生きられません。
 
他者を無視すれば
やがて自分が無視されます。
ひどくなれば人間扱いされなくなるでしょう。
 
どのような関係が
人生を預けてもよいほどに人間を支えるのでしょう。
それは人間ではありません、いやです。
しかし人間離れでもありません。
 
人間を不完全なまま支えてくださる御方を
私個人は慕っております。
その御方は自らの完全の道ではなく
不完全な者に下される致命的な罪の報いの道を
犠牲となって歩まれました。
 
その御方の教えは
そのたぐいまれなる洞察と共感と慈愛とともに今に伝わっています。
 
その御方は、
その生涯の目的の主旨として
こうしたら救われるという条件を言いませんでした。
取り引きを、人とも、悪魔とも、しませんでした。
 
代わりに寛容な愛をもって
多くの人が忘れられないご自身の姿を表したのです。
 
 
多くの信仰者と
多くの偽善者が
この神という御方の名を呼びます。
 
信仰者は
自らの低さを自覚します。
 
偽善者は
自らを高めるために豪語します。
 
世の中は偽ものだらけです。
 
 
どうか独り言のように静かに正直に
でもどうか本心で祈ってください。
 
そのような祈りを
誰よりも聞かれる御方がいます。
 
 
祈りと情熱

祈りと情熱
 
 
(2020年01月31日)
(2021年02月03日、加筆して再録)
 
 
 
※追加記事、同日一部修正 :
 
  楽山の別ブログ
 
 大川家長女は、卒論で盗用していたのか!?(3)〈KENTO氏の主張〉
 2021年02月02日 幸福の科学とは何だろう?ブログ
 抜粋して批判。
 
 
楽山の、無反省・無責任・無理解からの、無能力と、それをごまかす詭弁が表れています。楽山は、どうしても、見栄だけは張りたい、自分は一人前なんだ、という子供だましの子供なのです。
 
次のブログ記事では、咲也加氏の書籍と、盗用されたとされる側の論文との比較検証が保存されているので一読をおすすめしたい。
・【2ch】咲也加の卒論を検証してみた(8/4 修正、追加) - 幸福の科学元二世信者ルジェのブログ
 
このリンク付けた記事は一読できるようなものではなく、実に、詳細な批判になっています。楽山は、なぜ、書かないのでしょうか。楽山は書けないからです。理路も説得力もなく、通念的な言葉を並べて、しかも、自己愛・自己中のために、破たんするような楽山には、批判の文章など、書けないのです。
 
だから、人の文章をあげても、詳しく書くことができず、もっともらしい短文で済ませるしかないのです。ゆえに、この記事も、引用ばかりが多くて長い記事になっています。
 
楽山が自分で書けば、私に対する返しのように、一方的で、嘘と詭弁と被害妄想だけになります。書く能力がないのに、一人前を気取ろうとするから、こういう記事になってゆきます。
 
いっぱい貼り付けて、人の文章をリンクして、「一読をおすすめしたい」と書くしかない楽山です。ご機嫌取りの褒め言葉で、自らの不全を隠しています。
 
この件については、私も、関係書籍、論文を直に調べたわけではないので断定的なことは言うつもりはないのだが、それでも意見を言う際には、ネット上に散らばってる資料くらいは、ざっと確認するくらいはする。
 
楽山は、断定できません。そのような理路を持っていないからです。賛同を書き、批判を書き、どちらも成立せず、それで、責任を取れない、でも、見栄は張りたい、それが、楽山です。
 
楽山は、いつも「ざっと」見て、放言して、終わりです。「ざっと」で「確認」とかできるでしょうか。楽山は、しっかりしたものを何も持っておらず、無反省・無責任なのに、評論家気取りなのです。
 
KENTO氏もせめてそのくらいはしてから意見を言ってほしいものだと思う。そうしたら単純な事実誤認はもっと減らせるし、その意見にももっと深みが生じ、説得力が出てくるはずである。この点、お願いしたい。
 
言ってることに何の深みもなく、説得力が皆無の楽山が言っています。楽山には、誰かに何かを要求する資格はないと思います。実に曖昧な言い方で、これが、楽山の、いい子ぶりっ子なのです。楽山に関わり、楽山をまともだと思うことは、詐欺師にだまされるのと同じです。
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
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