ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:超常

 
  超常と信仰
 
 
神・キリスト、聖霊の聖三位は、いずれも、超常の御方であります。人間は、超常に住んではいないし、超常を解釈する立場でもありません。人間が神聖に関わるのは、あくまで、人間として、仰ぎ、希望として生きる縁(よすが)とするためであります。
 
超常の神聖なる世界を、人間が、推測したり想像したり、説を述べたりすることは、人間の知的な営みとして是とされますが、それを決めつけて信じ込むことは、背教に他なりません。超常を考えるより大切なことは、地上の日常、即ち、人間の生き方を考えることです。
 
神聖を語るに、神聖の用語を語っても、人には理解できません。理解したかのように振り回すのは、とても醜いことです。自分という人間に、神聖は、どのように影響しているかを語るべきであります。そのヒントは、他でもない、聖書にあります。
 
旧約聖書には、神と人の違いが、多く語られています。人は有限であり、神は、全知・全能、絶対・完全、永遠・不変の存在として語られています。この6つの性質は、いずれも、人にはないものであり、神聖なる御方だけの性質であります。
 
新約聖書には、キリストの、この上ない洞察力と共感性が語られています。数々の物や肉体への奇跡、超常奇跡については、現代において、殆ど起こっていないので、人間には理解を超えた神聖の力であり、そこに、不完全な人間の信仰は成り立ちません。生きる縁にならないからです。
 
キリストは、傷ついた人、病の人、取税人、姦淫を犯した女性、犯罪人、などを、選んで、救いました。その人々は、正直に告白する以外、何も持っていなかった人々です。一方、分かっている、守っている、知っている、見える、という人々には、信仰の義を与えず、多く、敵としました。
 
聖書を読んで、不完全な性質、即ち、罪深さを常態として持っている人間が、何を受け取るべきか、そして、何を考えるべきかが、そこに、表れています。超常の神聖の理解は、終末まで、保留するべきであります。ゆえに、神秘と言われます。
 
私たちは、祈りにおいて、何が語れるでしょう。正しい絶対の完全な真理、救いの具体的な仕組み、終末まで、私たちは知りません。人間を見て洞察するキリストの共感に、私たちも、共感を覚えたゆえに、キリストを好きになり、祈るようになっただけなのです。
 
ですから、祈りにおいて、語れるのは、正直な、罪の告白と、癒しと救いの希望だけなのです。それを学ぶために、聖書があり、ヒントとしての教義があり信条があるのです。分かっているから信じるのではありません。信じていないと生きられないから、祈るのが、信仰です。
 
 
信じ仰ぐ

信じ仰ぐ
 
 
(2021年12月15日)
 
 
 
超常の神の辻褄を、日常の人の辻褄で、推し量ることは出来ません。肯定することも、否定することも、できないこと知るべきであります。それよりも、もっと、自分が、何ゆえ、キリスト者になったのか、自分が、何ゆえ、聖書を読み求道しているのかを、人間として考えるべきだと思います。
 
キリストの深い共感に呼応して、私たちは、キリストに共感できるから、キリスト者になり、あるいは、求道を続けています。人間の共感性を失うようになって、教理の言葉を並べるだけになったら、もはや、人間を生かす信仰ではありません。
 
昔、「愛の唄にはなぜか、愛のことだけが書かれていない」という詩を読んだことがあり、愛よりも、共感という双方向の言葉が好きです。共感は、愛につながると言ってもよいでしょう。愛の行いは、人を生かしますが、一方、よかれと思って傷つけることもあります。人間は不完全です。
 
 
 
  宗教は
 
いるともいないとも証明されない
神様を信ずるのだから
宗教は
無神論と同じくらい
あやしげなものである
 
しかもそれを
人の筆でつづり
人の口で語ろうというのだから
宗教は
無関心と同じくらい
あやうげなものである
 
 
  信仰告白
 
人間がなしうる
最も良質な
精一杯の信仰告白は
不信仰告白である
 
 
※ 
 
正直な告白と願い以外は、神には通用しないと思います。
 
絶対の神に対して、真善美の大仰な讃美だけは、しないほうがよいと思います。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
楽山は、小学生の興味本位の謎解きのようなことを書いていました。神がいるなら酷い悲劇は起こらないはずだから、悲劇が起こっているということは、神はいない・・という主張ですが、神の辻褄を、自分の辻褄で語れると思うこと自体が、既に、神を少しも知らないということです。
 
酷い悲劇が起こる地上だから、生きるための縁(よすが)が必要なのです。楽山は、自己愛・自己中を生きる縁として、自分のほうが上だという優越感だけを求めて、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の醜さを表すようになっている反キリストです。
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
★こも/楽山日記3
@komo266
訂正!
× Pさんにとっても神は、逆らおうと思える存在なんですな。
○ Pさんにとっての神は、逆らおうと思える存在なんですな。
引用ツイート
★こも/楽山日記3
@komo266
返信先: @vincent20200110さん
神に対するアンチなんて
やろうと思えば誰でもやれる
 」
Pさんにとっても神は、逆らおうと思える存在なんですな。
私は、神には誰も逆らえないと思うけどね。
たとえば臨死体験で、光の存在と会って、深い愛を感じ、癒やされ、改心した話はあっても、逆らった話なんて聞いたことないもんね。
午後9:47 · 2021年12月14日
 
「神には誰も逆らえないと思うけどね」・・神を知らないし、信じてもいない楽山が言っています。口から出まかせとは、このことでしょう。このように、知りもしない存在を、分かっているかのように、いけしゃあしゃあと書いてくるのが、自己愛性人格障害の特徴でしょう。
 
「臨死体験で、光の存在と会って、深い愛を感じ、癒やされ、改心した話」・・楽山の夢想~妄想する神?は、「臨死体験」とかでないと、ぴんと来ないのでしょう。それを、「光の存在」「深い愛」「癒され」「改心」などと精いっぱい飾ってきました。
 
楽山レベルの、アンチというのは、大嘘なので、無知で無恥な分、誰でもやれるだろうと思います。楽山のインテリ宗教家気取りは、止みません。楽山は、神を、そして、深い愛を、文章に表せたことがなく、全く知らないのです。言葉だけをいじくる楽山の企みは、空しいばかりです。
 
楽山の、マンガ的な落書きの世界で、"神"という言葉は、言葉だけで、何の意味も持ちません。そして、楽山は、自分の物差しで測れる神?を、せっせと貶めてきたのです。真摯な態度というのが、全くないのが、自己愛性パーソナリティ障害NPDの、転落中の、楽山の特徴です。
 
楽山は、全てが分かっていないと気の済まない男なので、平気で、"神" と言い、それを自身の安っぽい概念の箱に納めてしまうのです。そこは偏見の溜まり場であって、信仰の欠片も芽生えも、ありません。埒(らち)もない暗く陰湿な魔道を、楽山は、ずっと、徘徊しているのです。
 
 
 
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  無常の価値2
 
 
人間が死にたくなるのは、
周りに人間がいなくなるか、
周りにいる人が人間と思えなくなるとき。
 
人間が生きるのは、
周りに人間らしい人や話があって、
いつも人間味を味わっていられるから。
 
人間味の中に
尊い愛があり心があり
共感があり思いやりがあり、
それゆえにこそ泣いたり笑ったりが
生まれるというのに、
 
処女懐妊に、奇跡に、肉体の復活にと、
超常の不明を、批判不可として信じ込めば、
いろいろな不明を次から次に信じ込んで、
心は超常に迷い込んで、
神明も不明も分からなくなり、
人間の最も大事なることを
無常の無価値として
捨て去ってゆくことになるだろう。
 
人間にとって大事なことは
無常の世界にたくさんあるではないか。
 
無常こそ大事であり、
無常であるからこそ大切にするのであり、
いずれ過ぎ去ってゆく身としては、
常世に至る前に、この地上で
大切にするべきことがあるだろう。
 
神は恒常であり永遠不変である。
神だから常世に住めるのだろう。
 
神は
人が恒常不変になったから憐れむのではない。
憐れんだら恒常不変になるから憐れむのでもない。
人は地上で恒常不変にはなれない。
信仰は地上で生きるためにある。
神は
人の不完全を既にご存知であり
人がご自身と違って
無常で儚く弱いからこそ憐れんで
成長を願っておられるのだろう。
 
何ゆえに神を真似て
永遠不変を地上で真似ようとするのか。
 
何ゆえ無常を疎かにして
恒常が手に負えると思うのか。
 
何ゆえ成長を疎かにして
不変を欲しがるのか。
 
何ゆえ人の愛を疎かにして
神の愛を説こうとするのか。
 
 
むじょう

むじょう
 
 
(2018年01月)
(2021年01月22日、加筆して再録)
 
懐妊(かいにん)
常世(とこよ)
恒常(こうじょう)
儚い(はかない)
疎か(おろそか)
 
 
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