ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:身の程知らず

 
  時と風2
 
 
時は風のようなものだ
 
あの日の時と
今の時と
それほど変わりはない
 
同じような時が日々の必要を告げる
 
あの日の風と
今の風と
それほど変わりはない
 
同じような風を頬に受けている
 
私たちの変わりようといったらどうだろう
 
時は風のようなものだ
 
流れてゆくようで
流していて
 
流れてゆくのは私たちのほうだ
 
 
私たちは時ではない
私たちは風ではない
 
時も風も空しさを感じない
感じるのは私たちだ
 
私たちは
時に乗じて風のように進むのではない
 
時にも風にも限りはないが
私たちには限りがあって
 
時にも風にも変わりはないが
私たちは変わりがあって
 
必要に応じて
受けて考えて返してゆく
 
感じるならば返してゆく
 
 
※ 
 
あの日の時と風も知らないのに
まるで比べるかのように
未知の終わりに向かって変わり続ける自分
 
その悲哀を共感できる人は信仰に向いている。
 
一方で、そういう共感を全く持ち得ない者がいて、反信仰しか語れなくなっているが、そういう者が、なぜ、生まれて、存在しているのか、という疑問は、神がいるのに、なぜ、悪があるのか、という疑問とともに、神の大きな懐に秘められているのです。
 
 
 
 (伝道の書、口語訳)1:14
わたしは日の下で人が行うすべてのわざを見たが、みな空であって風を捕えるようである。
 (伝道1:14、旧約聖書)
 
 (伝道の書、口語訳)
2:25
だれが神を離れて、食い、かつ楽しむことのできる者があろう。 
2:26
神は、その心にかなう人に、知恵と知識と喜びとをくださる。しかし罪びとには仕事を与えて集めることと、積むことをさせられる。これは神の心にかなう者にそれを賜わるためである。これもまた空であって、風を捕えるようである。
 (伝道2:25-26、旧約聖書)
 
 
 (伝道の書、口語訳)
4:15
わたしは日の下に歩むすべての民が、かのわらべのように王に代って立つのを見た。 
4:16
すべての民は果てしがない。彼はそのすべての民を導いた。しかし後に来る者は彼を喜ばない。たしかに、これもまた空であって、風を捕えるようである。
 (伝道4:15-16、旧約聖書)
 
 
「風を捕えるようである」というのは、以前は「風を追うようなものだ」という訳でした。前者は、言葉から、出来ないと直ぐ分かる。後者は、追おうとすれば追えるけど、切りがなく、人生を費やすには、空しい、という感じになり、私は、後者の方を好みます。
 
信仰を持ち、日々、何かを努めるとしても、私たちは、時が経てば、寿命が尽きていなくなる存在。「風を捕えるようである」≒「風を追うようなものだ」、つまり、私たちは空しい存在だ。この地上の世界は、限りある私たち人間にとって、空しく思えてならない。
 
そのことを強調しながら、伝道者が伝えるのは、2:25~26にあるところの、神を離れては楽しめない、 ≒ 神がおられるからこそ楽しめる、という教訓的な讃美になっている。
 
地上の人の生き様が、いかに空しいかを説きながら、神のもとで楽しむことを説いている。いわゆる神への、逆説の讃美歌となっている伝道の書。私は、そういう伝道の書が好きです。
 
 
風 山

風・・山
 
 
(2020年05月02日)
(2022年05月12日、再録+加筆)
 
 
 
  影のうすい男
 
生きているのか
死んでいるのか
よくわからないほど
影のうすい男が歩いていた
まわりを歩いている人に関心を持たず
また彼が関心を持たれることもなかった
生きるとは何か
という前に死とは何か
という前に生きるとは何か
彼は今生きているのか
それとも死につつあるのか
人が「この人は死んだ」と言うとき
彼は生を終えるのか
それとも死ぬのがやっと終わるのか
彼は歩いていた
たとえ泣いていても顔に出ていない彼のまわりで
人々が通り過ぎていった
紙くずが舞っていた
いつのまにか自分がうすもやに思えるほど
何の抵抗もなく
風は通り過ぎ
紙くずのように
時間が通り過ぎていった
 
時間の前で
次から次へと
彼は通り過ぎ
目の前で果てていった
 
紙くずは遠く去って
どこかで拾われ捨てられるであろうか
彼は拾われることがなかったので
捨てられることさえできなかった
 
 
  抑圧
 
何も報告してはくれない
どうしろとも書いていない
 
誰かから誰かに
日常的に伝達される
レジメのような情報があふれている
覚えきれなくてイライラする
苦笑いとおとぼけでわたっていくうちに
足を踏み外していることや
腰が折れていること
頭が割れて欠けていることさえ
気づかないでいるのかもしれない
鏡にだって写らないのだから
 
ほとほと終わってしまいそうだよ
胸は風の吹くまま
観念も気安く通してしまうだけの
穴があいていて
時々かわいそうだよと悲しい笑顔を見せるときに
 
何も伝達してくれないものが
揺り動かして時々
何か伝えられていると
もっと大切にしたくなって
そっと手を伸ばす一冊
目に見えるピリオドから
違った恐さを夢に見て
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山のようになると、間違え続けたら、詫びることも、正すことも、反省することも、学習することも、できなくなるのだろうか。同じ辻褄を、繰り言のように、言い続けるのだろうか。しかも、頭は、空っぽの世界に、ふくらんでゆくのだろうか。破裂するとき、邪悪な液でも引っ掛けるのだろうか。
 
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
大川隆法総裁は、アーレントに習って、多数の犠牲者を出すような革命はよくないとしてます。
この考え方からすると、今、HSがプーチンを支持、応援してるのは、筋が通らないように思えました。
HSではこの矛盾をどう解決してるのでしょうか。
 
楽山は、また、身の程も弁えず、他者を批判しています。無反省、無責任で、全く「筋が通らない」のに、評論家気取りで高所から見下ろして書いています。どうして、こういう気分になるのか、それは、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからとしか言いようがないのです。
 
 
 
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  楽山のネトウヨ煽動
 
 『最終目標は天皇の処刑 中国「日本解放工作」の恐るべき全貌』
 ペマ・ギャルポ著 2021年11月14日 楽山日記(LD)
 
 
楽山は、A級戦犯を褒めるなど、ネトウヨとしての記事も書いています。自分の問題から逃れたいために自己愛性人格障害者がすることは、ケチな煽動屋がしそうなこと、つまり、話題を逸らせることでしょう。信仰を思い切りディスった後は、中国の脅威を煽ってきました。
 
(ネットより)
ペマ・ギャルポ(チベット語: པདྨ་རྒྱལ་བོ〈ラテン文字翻字形:Pema Gyalpo〉、1953年6月18日 - )は、日本の政治学者。チベット出身で日本に帰化したチベット系日本人。拓殖大学国際日本文化研究所教授、岐阜女子大学南アジア研究センター所長。専門は、国際関係論、国際政治学。
亜細亜大学法学部卒業。モンゴル国立大学政治学博士[1]。所属する学術機関はチベット文化研究所[2]等多数。所属する芸能事務所はサラブレッド・プロモーション[3]。
 
チベットの人ならば、中国の問題は重大事だと思います。しかし、楽山は、自己愛性パーソナリティ障害NPDらしく、そのような切実なことも、つまらない文章を書いて、自身を高めるために、利用~悪用しているのです。
 
*概要
恐ろしいタイトルの本だけども、これは知っておいた方がよさそうだと思ったので通読してみた。
その概要は、前半は中国はどのようにしてチベットを侵略したかが語られ、後半は中国はすでに日本に対して相当の影響力を持つに至っていること、日本は中国の侵略に対して早急に対策を講ずるべきことが語られている。ここでは中国の日本侵略の兆しとおぼしき事例をいくつも紹介しているが、その一つ一つが背筋が寒くなるようなものばかりである。
 
楽山には、政治や国家を、とやかく言う資格はありません。話題に飢えている楽山の、政治も分かるんですアピール~宣伝に過ぎません。「日本は中国の侵略に対して早急に対策を講ずるべき」・・どういう対策を講じられるというのでしょう。無責任に、恐怖だけ煽っている楽山です。
 
楽山は、自分を高めることや、インテリ気取りに熱心ですが、楽山自身の、罪と悪と偽善の問題や、無反省、無責任な体質については、一切認めず、無視し続けてきました。逃げていると分かるようなことしか出来ないのでしょう。どんどん、真実からも、現実からも、乖離してゆくようです。
 
*チベット再訪
本書の中でもっとも印象的な話を二つほど挙げておくと、まず一つは著者がチベットを再訪した折に出会った子供たちの様子である。
子供たちは盛んに「私に名前をつけてください」といいます。どういう訳かと思ったら、驚いたことに子供たちの名前は数字なのです。「九・二三」「三・五」「キ・キャ(犬の糞という意味)」など、彼らは誕生日や体重や侮蔑の意味を持つ言葉で呼ばれていたのです。中国当局は「反革命」だとして、チベット名を禁じているのだといいます。
(『最終目標は天皇の処刑 中国「日本解放工作」の恐るべき全貌』ペマ・ギャルポ著、飛鳥新社、2012年、p.85)
 」
近頃はウイグル弾圧についての報道は増えつつあるように思うが、チベット関連のニュースはいまだに殆どない。もっとチベットのことを報道してほしいものだと思う。
 
もう一度言います。チベットの人ならば、中国の問題は重大事だと思います。しかし、楽山は、自己愛性パーソナリティ障害NPDらしく、そのような切実なことも、つまらない文章を書いて、自身を高めるために、利用~悪用しているのです。
 
「もっとチベットのことを報道してほしいものだと思う」・・このような、正義の味方?が当たり前に言うようなことに、だまされないでください。楽山は、外国のことも、他人のことも、本気で心配したことはないと思います。
 
むしろ、楽山のような人が、増えれば増えるほど、理非もお構いなしに、状況分析もせずに、平和を思わず、やたら恐怖を煽って、事態を悪化させ、戦争へと導いてゆく、ということを肝に銘じておくべきでしょう。自己顕示欲が高じると、危険だという例になります。
 
理路と情緒ともに劣っていて、思想がまとまらず何も深いことなど書けないのに、これならいいだろうと書いてくる楽山の安易さが目立つばかりです。あらゆる顰蹙(ひんしゅく)が当てはまる楽山には、決して、関わらないでください。とても乱暴な精神です。
 
それに、名前のことが書いてありますが、楽山が様々なHNを使い、素性を明かさないのも、書いていることの重大さに比して、結局、いかなる責任も負わず、何事にも関わりたくない怠慢な性根を表すものでしょう。
 
*クレーム
もう一つは、日本のテレビの話である。
私は二〇年ほど前から、TBSと読売テレビでコメンテーターをさせていただいていますが、例えばチベット国旗を出す場合、わざわざ聞く必要もないのに、スタッフが中国大使館に電話をしてお伺いを立てるのです。当然ながら、いいと言うはずがないのですが、報道の自由を侵害することになるので、あまり強くは出てきません。
その代わり何をするかと言えば、例えば親中派団体の人間などに番組あてに、また番組のスポンサーには番組編成局あてにクレーム電話をかけさせるのです。そしてその件と関係ないことでも、事あるごとに「ペマ・ギャルポを番組から降ろせ」といったクレームが来る。
(同上、p.127)
 」
本書の発行日は2012年であるが、今は当時より状況は好転しているとは言い難いのは辛い…。
 
隣国が干渉してくるのは脅威ですが、自己中の楽山が、無責任に無反省に、口を出してくるのは大きな災いです。私は強制的に追放する権限を持ちませんが、楽山こそ、リアルとネットの災いであり、言論から一刻も早く追放されるべきです。あらゆる真実の追求を邪魔する病質者です。
 
*計画?
こちらは本書の裏表紙である。
『最終目標は天皇の処刑』ペマ・ギャルポ著、裏(省略)
中国が本当にこういう計画を立てているとしたら不気味だ。
 
総じて、チベット出身の人が書いている本を、中国を脅威と決めつける具材にして、「天皇の処刑」などという恐ろしいことを、そのまま書いて「不気味だ」(≒気味が悪い)で済ませて、面白がり、かつ、不安を煽るなど、もはや、右翼とさえ思えません。
 
いったい、どんな立場に立っているつもりなのでしょう。煽って気を引こうとする野次馬根性には、一片の愛国心も見い出せません。楽山の書く必然が、どこにあるというのでしょう。見境のない楽山の、自分は特別だから何を扱っても言ってもいいじゃろ・・という自意識の傲慢が表れています。
 
テレビなど見ていて、皇室と、皇室関連の記事を書く人が、どれだけ言葉に気をつけているか、分からないのでしょうか。楽山の自己愛と自己中が、いかに高等感情と慎重さを欠いているかという記事です。皇室と、日本と、読者に、危機を煽って机上で玩ぶ病質は、全く有害無益です。
 
楽山の無思慮と無遠慮と厚顔無恥が明らかになっています。思いやりの欠片もなく、繊細さを弁えず、危機や脅威の自覚もない筆致で「不気味」と言って、ホラーのように面白がるとは、生まれ育ちによる自己愛性人格障害だけではないのだろうか。あるいは、脳が器質的にやられているのだろうか。
 
誰もが慎重にならざるを得ないところを「中国が本当にこういう計画を立てているとしたら不気味だ」・・中国、本当に、計画、不気味、これら全て、迂闊(うかつ)というべきであり、楽山の体質を表しています。楽山には、皮があり、肉があり、骨がなく、髄がありません。
 
迂闊:(ネットより)
う‐かつ〔‐クワツ〕【×迂×闊】 の解説
[名・形動]
1 うっかりしていて心の行き届かないこと。また、そのさま。「そんな大事なことを見落とすとは―だった」「―にも口を滑らす」
2 回り遠くて実情にそぐわないこと。実際の役に立たないこと。また、そのさま。
 
皮肉骨髄:(ネットより)
禅宗の僧侶、達磨大師が四人の弟子たちを「我が皮を得たり」「我が肉を得たり」「我が骨を得たり」「我が髄を得たり」と評価した言葉。
骨や髄は「要点」の喩えで「物事の本質の理解」を意味し、皮や肉は表面にあることから「本質を理解していない」といった非難の言葉であった。
 
 
蒼ざめる煽り

蒼ざめる煽り(あおざめるあおり)
 
 
(2021年11月15日)
 
 
 
  しろいあこがれ
 
きばんだ しろ
あおざめた しろ
かいはくしょく
ではなくて
ほんとうの しろ
じゅんぱくの せかいへ
とびたつ とき が きっと
うまれたままの すがた
ではなくて
うまれる まえの すがた
はは と ちち の
からだ に やどる
より まえの すがた に きっと
よろこびなのか かなしみなのか
さいわいなのか わざわいなのかも
しらない まま きっと
 
 
  風の笛
 
ほとんど風のない日だったが
ふと一吹きの風の中に
笛の音(ね)を聞いたような気がした
 
突き当たりの角をいつ曲がってきたのか
風に押されて来たかのように
一人のまだ幼い男の子が立っていた
 
幼年時の私の顔には似ていない
涼しげな顔が少し蒼ざめて
突き当たりに向かって歩いていく私の
手を軽く握って
親子でもないのに手をつないで
曲がり角に差し掛かった
ふと一吹きの風
笛の音を聞いたような気がした
 
手の中の小さな手も
その子もいなかった
 
私は風とは逆の方へ歩き出していた
もう戻れないと思った
笛を吹いたのは君だね
踊らなかったのは私だ
 
 
  月
 
心臓が出ていた
果てもない夜空に
ひとり蒼白く生きる
 
 
  祈りと叫び

いつくしみ深き
神様に感謝します
という賛美の祈りより
神も仏もあるものか!
という叫びの方を
神様は熱心に聞いておられる
ような気がすることがあります
その血塗(ちまみ)れの
蒼白い手に叫びを込めて
父に祈る御子を
遣わされた神様だから
 
 
 
楽山日記へのコメント再録(1.が誰のコメントかは不明)
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
誰かが注意しても、聞く耳を持たない楽山は、反省も謝罪もしておらず、邪悪な性根の根深さが治りません。一般の「人間の性」などではなく、ゆえに、「自分もそんな風です」などという言い訳は成り立ちません。楽山固有の悪と罪と偽善です。
 
 
 
 
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