ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:近況

 
  時と風2
 
 
時は風のようなものだ
 
あの日の時と
今の時と
それほど変わりはない
 
同じような時が日々の必要を告げる
 
あの日の風と
今の風と
それほど変わりはない
 
同じような風を頬に受けている
 
私たちの変わりようといったらどうだろう
 
時は風のようなものだ
 
流れてゆくようで
流している
 
流れてゆくのは私たちのほうだ
 
 
私たちは時ではない
私たちは風ではない
 
時も風も空しさを感じない
感じるのは私たちだ
 
私たちは
時に乗じて風のように進むのではない
 
時にも風にも限りはないが
私たちには限りがあって
 
時にも風にも変わりはないが
私たちは変わりがあって
 
必要に応じて
受けたものを返してゆく
 
感じるから返してゆく
 
 
※ 
 
あの日の時も風も知らないのに
まるで比べるかのように
未知の終わりに向かって変わり続ける自分
 
そういう悲哀に共感できる人は信仰に向いている。
 
一方で、そういう共感を全く持ち得ない者がいて、反信仰しか語れなくなっているが、そういう者が、なぜ、生まれて、存在しているのか、という疑問は、神がいるのに、なぜ、悪があるのか、という疑問とともに、神の大きな懐に秘められているのです。
 
 
(2019年04月)
 
(2020年04月25日、修正)
(2021年05月20日、加筆して再録)
 
 
 (伝道の書、口語訳)1:14
わたしは日の下で人が行うすべてのわざを見たが、みな空であって風を捕えるようである。
 (伝道1:14、旧約聖書)
 
 (伝道の書、口語訳)
2:25
だれが神を離れて、食い、かつ楽しむことのできる者があろう。 
2:26
神は、その心にかなう人に、知恵と知識と喜びとをくださる。しかし罪びとには仕事を与えて集めることと、積むことをさせられる。これは神の心にかなう者にそれを賜わるためである。これもまた空であって、風を捕えるようである。
 (伝道2:25-26、旧約聖書)
 
 (伝道の書、口語訳)
4:15
わたしは日の下に歩むすべての民が、かのわらべのように王に代って立つのを見た。 
4:16
すべての民は果てしがない。彼はそのすべての民を導いた。しかし後に来る者は彼を喜ばない。たしかに、これもまた空であって、風を捕えるようである。
 (伝道4:15-16、旧約聖書)
 
信仰を持ち、日々、何かを努めるとしても、私たちは、時が経てば、寿命が尽きていなくなる存在。「風を捕えるようである」≒ 私が読んだ聖書の訳「風を追うようなものだ」、つまり、私たちは空しい存在だ。この地上の世界は、限りある私たち人間にとって、空しく思えてならない。
 
そのことを強調しながら、伝道者が伝えるのは、2:25にあるところの、神を離れては楽しめない、≒ 神がおられるからこそ楽しめる、という教訓的な讃美になっている。
 
地上の人の生き様が、いかに空しいかを説きながら、神のもとで楽しむことを説いている。いわゆる神への、逆説の讃美歌となっている伝道の書。私は、そういう伝道の書が好きです。
 
 
(2020年05月02日)
 
 
※ 近況
 
母は、4月30日、肺炎で入院しました。入院は、介護施設に入ってから3回目、今年2回目です。入院手続きとともに、ドクターからの説明あり、熱も下がって、肺炎は治りはするが、繰り返す可能性、急変もあり得る、そういうときの延命処置をするかどうか、など、要するに、"いつでも死にうるから覚悟せよ"的な説明を受けました。頷くしかない。
 
母は97歳、尿路感染と肺炎を繰り返せば、でこぼこのダウンスロープは、だいたい分かる。
 
入院手続きの話と、書類が、保証人、支払い、小物の申込書、日常の洗濯物、タオルなど、わぁ、私に聞かれても分からないことも多くて、私は、お世辞にも、まめな孝行息子ではないので、介護施設に連絡を取って、病院に電話して決めてほしい旨お願いして、前回、ハンコを忘れたので、今回は持っていって、書類は病院で書いて済ませて帰ってきました。
 
母はコロナの肺炎ではないようですが、慎重さが求められており、面会は出来ませんでした。今は元気だそうです。
 
(2020年05月01日の近況)
 
母は、腰の骨を折って、整形外科入院。そこで認知症が明らかになって、小規模多機能介護施設入所。肺炎や尿路感染で内科入院。そして、リハビリのために老健施設入所、そして、先月、有料老人ホーム入所となって今に至ります。面会もコロナ禍の影響で少なく、ときに必要な物を持っていって帰って来るという程度でした。
 
コロナについては、検査も、ワクチンも、未だです。親子共々、年が寄って、世間のことからは関心も離れてゆく感じになっています。どっちが先に・・・なんてことも考えますが、分からないことだらけで、神にお任せするしかないのです。せめて、日々の暮らしに、心が荒れませんように。拝。
 
(2021年05月20日、現在の近況)
 
 
 
  少年と空
 
少年は空に焦がれる
少年は病んでいた
 
少年は口笛を吹き
歌を歌った
 
歌は空に流れ
きらめく無数の塵となって消えた
野に遊ぶだけの
少年の毎日
 
いつか風が吹いていた
いつか草が倒れていた
日は暮れつつあった
燃えるように誰もいなかった
 
少年が空に投げた希望も、夢も
やさしさも、光も、鏡も、人形も
ついに空に届くことはなかったが
夕暮れ、赤く焼けた大地に
空はどこまでも
少年の面影を追い続けた
 
口笛は空に焦がれる
口笛は病んでいた
 
(90年代か)
 
 
時と風

時と風
 
 
 
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疲れたので、一休み。 
 
   遠い日のこと2
 
 
  遠い日のこと
 
とても遠い日のことだ
 
過去において確かにあった瞬間だ
語られていることが何の抵抗もなく
沁み込むように胸に落ちて広がる
語ることが何の抵抗もなく
伝わってゆくと信じられる
湧き水のように
 
しかし瞬間は続かない
過去は不完全で不確かで
壊れているかもしれない
 
未来だろうか
抵抗もなく対立もなく敵味方もなく
憎しみもなく軽蔑もなく
和みを覚えることもなく
愛と呼ばれることすらない
聞きそして語りそして聞く
 
叫びと決め付けだらけの
現在から最も遠くに見ている
遠い日のこと
 
現在なのかもしれない
すぐ傍らにあって待っているものを
見過ごし聞き逃し伝え損ねて
湧き出でるものを水たまりに変えて
 
とても遠い日のことだ
傍らが最も遠い日のこと
 
(2011年01月13日)
 
 
  ひかりⅠ
 
すいこまれたり
はねかえったりして
いろんなものを みせてくれる かわりに
いろんなものを かくしてしまう
ひかり と ことば
 
(96年か、それ以前)
 
 
  ひかりⅡ
 
かがやきを あたえて
きらめきを あたえて
あんなにも
うつくしい すがたを
うつしながら けっして
じぶんを みせない
きみは まっすぐ?
 
(96年か、それ以前)
 
 
  水たまり
 
水たまりは、その上を
跳んでいく人の色を消した
水たまりは、その上を
跳ねていく人の姿を消した
水たまりは、自動車に跳ねられて
その轍を見せてすぐ隠した
雨がやんで
水が引いて
水たまりが乾いたとき
轍のようなものが見えたとしても
消したもの
隠されたものは
もう見えない
水たまりは
もう見えない
 
(96年か、それ以前)
 
 
遠い日、光、水

遠い日、光、水
 
(2021年04月15日、再録)
 
 
※ 
 
一休みしようと思ったけれど、
楽山に筆致の似ているツイッターです。
 
raku
@rakusyo34
·4月11日
思ったことだけど、世間に出版されている成功法則は、あくまでも
その人に合ったもので、普遍的じゃない。
やはり、自分なりに、トライ&エラーでオリジナルを見出していかないとうまくいかないと感じた。
自分に自信がつけば、詐欺や嘘情報に惑わされないかなぁと思った。
午前2:18 · 2021年4月11日·Twitter for iPhone
 
つまり、自分に合った成功法則を求めているようです。楽山が、こんなことを考えているなら、また、大きな迷惑をかけることになるでしょう。
 
しかも、もし楽山ならば、トライ&エラーを続けるつもりです。自分が言ったことにも、したことにも、何の悔いも持っていないようです。どんどん迷惑を恐れずかけてくるということです。
 
楽山ならば、詐欺や嘘情報で、人を惑わすことが予測されます。
 
楽山でなければよいのですが「かなぁと思った」など、ぼんやりした筆致が、楽山によく似ています。
 
(2021年04月15日)
 
 
楽山のリツイートです。
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
新無神論bot
@AtheismBotJP
世の中を見渡してみると、科学者や私のような理性主義者は、いつだって自分自身にこう問いかけている「もし私の考えが間違っていたらどうする?」と。だが信仰者たちの間ではそうではない。彼らはそのように考えることに、あまり関心があるようには見えない。―ダニエル・デネット
午前6:52 · 2021年4月14日·twittbot.net
 
楽山は、「もし私の考えが間違っていたらどうする?」などとは微塵も考えているとは思えない記事やツイートやリツイートばかり書いてきます。つまり、楽山は、理性主義者ではないということです。反省という自分を省みることに、まるで関心がないとしか思えません。
 
リツイートして批判していないということは、賛同しているということです。楽山は、他者の口を借りて、少しも応えてないよ・・とでも言いたいのでしょうか。一種の嫌がらせではないかと思います。そういう悪意による引用が、病質者のパターンになっています。
 
「もし私の考えが間違っていたらどうする?」という内省をするかどうかは、信仰者であるかどうかによるのではなく、自己中でないかどうかによると思います。自己中は反省というものをしません。だから自己中なのです。
 
そして、楽山は、自己中の自己愛性人格障害です。だから、反省の代わりに、腹いせをするか、当てつけを書いてきます。つまり、実際、平気で、このようなリツイートをしているわけです。
 
それにしても、楽山は、自分の意図した言動が、ブーメランとなって、自分を斬っていることに、まだ気づかないのでしょうか。
 
(2021年04月15日)
 
 
近況:
 
母は、今まで、小規模多機能介護施設 → 肺炎、尿路感染で、内科に入退院 → 老健施設、そして、近々、有料老人ホーム+デイケアの施設に、移ることになり、書類をいっぱい書いて、ハンコ押して、・・いろいろ考えることも増えてきました。母は98歳。
 
(202104月15日)
 
 
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