ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:逃避

 
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  楽山の逃避と堕落3
 
 『〈霊〉の探究 近代スピリチュアリズムと宗教学』津城寛文著
 2020年08月17日 楽山日記(LD)
  を改めて批判。
 
 
楽山の、本当にお気楽な空想の世界です。そこに現実逃避して、誰かが、褒めてくれるのを待っているのでしょうか。褒めてくれるのは、シャロームのような偽善者の世辞でしかないでしょう。
 
本書は面白かったのですぐ読めた。
 
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)らしい、気安い書き方です。今まで、楽山から、本の理解が伝わってきたことはありません。今日も深みのない文章が続きます。
 
 
全体の流れをメモしてみると、序章では近代スピリチュアリズムの始まりとその概要について説明されている。「同時的に起こる諸事件」として「一八四八年の共産党宣言」とハイズヴィル事件、「一九一七年のロシア革命」と「ファティマのマリア出現」(p.13)などについての考察や、死後生存の有無の議論と高等スピリチュアリズムの思想性の議論の違いを、シェイクスピアは実在したか否かの議論とシェイクスピア作品の中身の議論の違いになぞらえている箇所は個人的にはツボだった。
 
楽山は、すぐ読めたなどと強がって、自慢して字面の項目を並べるしかない読解未熟と説得力不足をあらわにしています。そして「ツボだった」と、どう気に入ったのかを言えずに、言葉面だけの賛辞を書いています。学問・思想の本の感想文は、どう受け取ったかという説明なしでは成立しません。
 
小学校のとき、感想を聞かれて、よかったと言って、ニヤニヤしている子が、国語の先生に叱られていたのを思い出します。楽山は、専門用語を、これも説明せず並べて、いかにも分かっているふりをするのが習慣になっているようです。
 
 
1章では「比較宗教学の祖マックス・ミュラーの著作」とモーゼスの「霊訓」はその主張のみならず文章表現さえも類似性が認められることを指摘し、その理由を探求している。本章で例に挙げられている部分を見る限りにおいては確かに著者の言う通り両者の考えは似ている。ただ両者に類似性が認められることについて、著者の考えはややスピリチュアリズム的に過ぎるように感じられた。
 
大雑把なあらすじの項目のようなものを書いています。楽山は、詳しいことが書けないのです。"ややスピリチュアリズム的に過ぎる" ・・これで伝わるものは不明です。理路と共感によって中身を説得力をもって説明することが出来ないのです。
 
読書して、理解・洞察・共感が足りなければ、良心がある人は、どこが分かって、どこが分からないかを、記事にすることが出来ます。なのに、楽山は「読めた」「ツボだ」「感じられた」としか書けません。そこに、独自の形容がなく、楽山の自己愛性人格障害らしさが表れています。
 
出来ないことを、出来たかのように言う障害は、体質的なものでしょう。読めたと言って、本人は、自己顕示欲を満足させるかもしれないが、思想において、一見、読解を装う態度は、邪魔であり、迷惑であり、害悪でしかありません。
 
 
2章ではスピリチュアリズムと心霊研究の間における争点…霊言を語っているのは霊なのか、それとも「媒介者」の一部である潜在意識、第二人格などなのかという問題や、守護霊という存在について語られている。
 
今までの、霊言、霊、媒介者、潜在意識、第二人格、守護霊、総て、楽山の空想で受け取った言葉です。誰も本質を理解できない代わりに、誰も否定できないような、曖昧なことを言う以外に、楽山には、自分で主張する手段がないのです。だから、現実から、さらに、離れてゆくのでしょう。
 
 
3章では臨死体験がテーマになっているが、キュブラー=ロス、ムーディに対する批判が紹介されているところは面白い。その理屈は、治療現場では臨死体験直後の患者が、怖ろしい体験をしたと証言することがある、しかし好ましくない記憶は時間が経つことで抑圧されることがある、キュブラー=ロスらは治療現場にはおらず、したがって臨死体験直後ではなく、一定の時間が経ってから証言を集めることになっている云々ということらしい。これが本当なら、二人が語る以上に怖ろしい臨死体験は多いということになるだろう。
 
楽山自身は、結局、その臨死体験を認めているのでしょうか、それとも、時間がたってから証言を集めるのだから、本当かどうか分からないと言っているのでしょうか。ホラー映画を見るのと、ほとんど変わりのない感想ではないかと思われます。
 
楽山は、「二人が語る以上に怖ろしい臨死体験は多い」と言って、否定していないので、臨死体験を認めるほうのようです。全体に理路が不整です。自分が満悦するためにだけ書いているからでしょう。楽山の、恐ろしい・・は、興味の婉曲表現かもしれません。
 
常識的には、楽山は前者で、真実は後者ではないかと思われます。患者の臨死体験だという発言によって、臨死体験だと証明することは困難です。こういう超常現象もどきは、根拠のない世界の話だから、楽山は、繰り返し印象付けるのが好きなのでしょう。本気にしないほうがよいと思います。
 
 
4章ではホイットンやワイスの前世療法、ケイシ―のリーディングやカルマ説、シルバー・バーチ、マイヤーズ(霊)、カルデックの輪廻説などが紹介されている。ブラヴァツキの死後、その名をかたる霊が生前の輪廻に関する自説を撤回したエピソードにも触れられている。
 
楽山は、努力せずに、反省せずに、さすが出来る人と言われたいので、どんどん不思議話をつぎ込んでくるでしょう。やさしい人と思わせ、考える人と思わせ、読書家と思わせ、実際に書いているのは、目次のような文ですから、それ以外、何も言えなくなってゆきそうです。
 
 
終章ではスピリチュアリズムと神智学オカルティズムとの対立と議論に触れつつ、両者の差異について説明されており、
 
神智学と来ました。しかもオカルティズムだそうです。楽山が好きそうな言葉です。さらに、楽山が、自分は分かるんだと、いちばん言いたい言葉なのでしょう。しかし、今までの楽山の記事の、いい加減さや、詭弁が、それを全否定しています。
 
そういう不思議な話の記事ばかり集めて性懲りもなく字面だけ披露してくる楽山は、相当なインチキだと思います。楽山は、根拠のあることが言えないから、根拠が無くてもいいような分野で、格好をつけたいのでしょう。
 
神智学について:
(ネットより)
神智学(しんちがく、英: theosophy)とは、神秘的直観や思弁、幻視、瞑想、啓示などを通じて、神とむすびついた神聖な知識の獲得や高度な認識に達しようとするものである。神知学、神知論、接神論とも。
神智学は、名前のとおり「智」と「認識」を重視するものであり、神あるいは超越者が叡智的性格をもち、宇宙や自然もこのような叡智からつくられ、人間の智も神の智に通ずる性格をもっており、人間は霊的認識により神を知ること、神に近づくことができるとされる。
グノーシス派、新プラトン主義、インドの神秘思想などにも神智学的傾向がみられるが、狭義には以下の二つのものを指す。一つは、17世紀にヨーロッパで顕在化した近代の「キリスト教神智学」の潮流であり、もう一つは1875年に設立されたインドに本部のある「神智学協会」の思想である。
後者は近現代に新たに創出された体系であり、両者には共通点もあるが、系譜上のつながりはない。通常、神智学と言えばニューエイジ(現在のスピリチュアル)、大衆的オカルティズムの源流である神智学協会に関するものを指すことが多い。
 」
 
「神智学は、名前のとおり「智」と「認識」を重視するもの」ではなく、人知を超えた霊的認識?を扱っているわけです。科学ではないと思います。まるで、カルト思想の源流のようです。こういうこともウィキペディアだから載っているのでしょう。
 
「宇宙や自然もこのような叡智からつくられ、人間の智も神の智に通ずる性格をもっており、人間は霊的認識により神を知ること、神に近づくことができる」・・むしろ、これが、何よりのオカルト~ホラーではないかと思います。現に、楽山のような物好きだけの者が飛びついています。
 
 
ここで著者は「説明を透明にするため、あらかじめ筆者の位置を明らかにしておくと、私は「高等」と呼ばれるスピリチュアリズムの思想文体に親近感をもつ一方、オカルティズム(神智学を含む)のそれには所々に違和感を覚える」(p.195)云々と信仰告白? をしている。本書の前半部分からすでに著者の文章にはそのような雰囲気は感じられてはいたが、それを明言するというのは生真面目な方なのだろう。こういう著者の文章であれば、他の文章もぜひ読みたいと思う。
 
引用元著者は、スピリチュアルに親近感を持つが、オカルト神智学にはところどころに違和感を持つ、と書いています。それで、楽山は、著者は生真面目な人だから、ぜひもっと読みたいと書いています。何か「透明に」なったでしょうか。霊感商法のような話に、楽山は興味があるのでしょうか。
 
著者は、宗教学者のようですが、保身か、安全弁のつもりで書いているのでしょうか。スピリチュアルを既に認めているのであれば、学者とは思えません。実証も、実験も、一般的には出来ず、みな、特殊な個別の場合しかないのがスピリチュアルでしょうから、学問の体を為していないと思います。
 
だから、楽山のような、自己顕示欲だけの劣悪な宣伝者が寄ってくる隙が出来てしまうわけです。根拠も、理路も、説明も、要らないからです。超常という現実離れの世界に興味を持つ人は、現実に希望を見い出せない人なのでしょうか。
 
どんな境遇でも、希望を求める人間らしい心があれば、希望につながる多くの道しるべがあると思います。ただ、自己愛性パーソナリティ障害NPDなどの、自己愛が過ぎて、反省力や罪悪感が育たない人には分からないでしょう。
 
人間離れしてゆくと、人間らしい感性も思慮も失ってゆきます。そういう人を、ずっと批判してきました。もはや、他者の意見を無視し続けるような楽山をどうしようというのではなく、楽山みたいにならないように、楽山には近づかないでくださいと、批判を続けています。
 
楽山という自らの人格をも破壊してゆく者が書き続けています。楽山は、ますます、考えることをやめて、幼稚になり、退行してゆくのでしょう。批判は、ますます単純で白々しいペテンの詭弁に対するものになってゆくでしょう。
 
 
おとぎ話も色褪せる

おとぎ話も色褪せる
 
 
(2020年)
(2021年)
(2022年09月05日、再録+加筆)
 
 
 
  逃避
 
命には限りがある
出会いにも限りがある
愛にも限りがある
なのに別れだけは永遠だ
いつまでバイクに乗っていられる
いつまで生きていられる
すべてを変えてしまった時の長さに
深く刻まれた沈黙の中を
捧げるあてもない命
運んで俺のバイクは
永遠を噛みしめながら
走り続ける
かすかな記憶の
さいはてに向かって
 
 
  夜から夜明け
 
電灯の下
影になって
不眠の夜をおとなしくあきらめていた
 
夜明けに先立って始まる
カエルの声と
ニワトリの声と
どんな都合でないているのか
遠くから取り巻かれているように
飢えたもの
耐えられないもの
死にそうなもの
おびただしい
遠い叫び
それほどさっきまで
夜は静かだったのだ
 
オートバイに乗って
出かける頃には
もうカエル聞こえない
ニワトリも聞こえない
 
壊れつづける機械といっしょになって
朝の騒ぎにまぎれていく
ひとつと数えられない
覚えられることもない
命のまわりを走りぬけた
命の後を行く
死んだように
かつて夜は静かだった
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
★こも/楽山日記3
@komo266
ただ棒氏は、なんでも知ってると言うわりには、修行者として第一に知っておくべきこと…「謙虚であれ」ということは知らないようで、そのせいで増長慢という陥穽にはまっているようだ。残念🙏
>>
このアカウントの所有者はツイートを表示できるアカウントを制限しているため、このツイートを表示できません。詳細はこちら
<<
午後10:52 · 2022年9月1日·Twitter Web App
 
「第一に知っておくべきこと…「謙虚であれ」ということ」を「知らない」のは、楽山です。謙虚芝居が通用しなくなっていることに、まだ気づかないようです。だから「残念」と書いても、「増長という陥穽にはまっている」自分に気づかず、滑稽なだけの恥ずかしいピエロぶりを晒す楽山です。
 
賛成できるのは「このアカウントの所有者はツイートを表示できるアカウントを制限しているため、このツイートを表示できません」という警告と制限だけになりました。残念なのは、オレじゃない、アイツだ、アイツだ、・・と、わめいている楽山です。荒らしは永遠でしょうか、違います・・という例示のようです。
 
 
心機一転★こも楽山
@komo266
昔々のHSなら、イエスをトップとした白色霊団が現代医療を指導している、ワクチン開発には光の天使が関係しているとして医療関係者にもっと信頼と尊敬を向けたろうに、
今のHSは、現代医療を全否定しているようで、白色霊団に対する信頼、尊敬はないみたいですね。もっと信仰を大切にしたいものです。
午後9:47 · 2021年8月25日
 
楽山は、昔の霊団?なるものを、よしとしているのでしょうか。「医療関係者にもっと信頼と尊敬を向けたろうに」・・正気でしょうか。それとも、楽山は、アンチだと言っていましたが、是非が分からなくなっているのでしょうか。平気で、嘘を吐いているのでしょうか。
 
「信仰を大切にしたい」・・白々しい嘘です。楽山は、信仰と宗教を、好きなだけ、おとしめてきましたが、その根拠は、小学生レベルのご利益主教の知識によるものでした。つまり、楽山は、全く整わない反キリスト・反信仰です。また、平気で、嘘を吐いています。
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
従順とは、「君よ、涙の谷を渡れ。」で説かれてることだろうと思います。ごちゃごちゃ考えず、判断せず、ただ信じてついて行くと。(画像省略)
午後7:24 · 2022年8月26日
 
楽山は、自分信仰の自己愛性人格障害なので、自分を疑いません。自分を見ることが全く出来ません。内省、反省が、全く出来ません。つまり、まともな判断ができず、無条件に絶対の自信を持っていることは、カルトと同じです。自己カルト、無神教カルト、などと呼んでいます。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)は、無反省、無責任、不祥事を全て人のせいにする、罪悪感がない、高等感情、特に、悲しみの情がない、など、サイコパス(精神病質、反社会性人格障害)と共通するものが多く、連続しているように思われます。
 
 
 
楽山の害毒メモ:
今までに表れてきたこと。これは、楽山に限らず、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、世に数多いる偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。楽山は無責任です。決して信用しないでください。
 
楽山は、1つのことを書いて、別の時には、それに反することを平気で書いてきます。そこで、反省、修正、というステップを書かず、あたかも最初から思っていたことのように書いてきます。自分に誤りを認めない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
笑いと怒りしかなく、悲しみの情がない。
共感がなく、罪悪感がなく、反省しない。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。相手が疲れるのを見て快感を得る。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。サイコパスと思われる。
アドラー心理学の宣伝をしていた。自己中心である。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わないし、できないし、元々する気もない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取りなど。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
騙して、言い分を詭弁や嘘で通そうとする、通っていると思い込む。
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
 
 
 
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  楽山の逃避とべた褒め
 
 
楽山は、自分の問題から目を逸らすために、他者のことを言ってきます。他者の批判もありますが、ここでは論客だと褒めています。楽山は、いかなることも自分の問題として考える思慮を持たないことが表れています。言いたい放題言って、責任を負わず、逃げまくっている楽山の醜態です。
 
心機一転★こも楽山
@komo266
ひさしぶりに、信者による信者批判を見たので、ブログ記事にまとめてみました。
tsubasa氏はすごい論客ですね。
午後3:34 · 2021年9月25日
 
楽山のべた褒めです。楽山が「ブログ記事にまとめ」る必要が、どこにあるのでしょう。稚拙な屁理屈しか言えない楽山に、他者を「すごい論客」だと受け取る器はないと思います。
 
楽山の有り様からは、例えば、メディアから逃れるために、慌てて、車に入り込んだり、ビルに入ったりなど、ニュースなどで見る光景を思い出します。
 
そういうときに、楽山らしく、べた褒めしたり、悪口を言いながら、放屁してゆくのが、こういう記事になるのでしょう。それで、楽山の、記事というより、逃避の足跡として残される文章には、卑怯者の、一種、異様な臭気が残されてゆくのです。
 
 
さて、記事に入ります。
 
 2021年09月25日
 信者同士の対立(信者による信者批判)
 幸福の科学とは何だろう?ブログ by 楽山
 
 
画像とリンクは、楽山批判とは関係なさそうなので、省略しています。それにしても、楽山の、粘着ぶりが、よく表れています。時々、こういうリンクや引用だらけの長い記事を書いてきますが、楽山の言は、言論を、開き、掘り下げ、進める機能が、まるでないという特徴があります。
 
*フェイスブックとツイッター
少し前にフェイスブック上にて、与国秀行氏が釈量子氏を批判していたそうだが、先日は遠江秀年氏がアマミ氏を批判していたそうだ。伝え聞くところによると、その論点は、信者が信者に霊指導したり、商行為を行ってはいけないということらしい。
自分はフェイスブックには参加していないので詳細はわからないが、ツイッターを見ると、アマミ氏が有料悩み相談の看板を出しているのは確認できた。これが霊指導および商行為だとして批判されているということだろうか。
またツイッター上では、遠江氏とは別の観点から、アマミ批判があるようだ。この議論については、以下にその一部を保存しておきたい。
(省略)
 」
 
楽山は、殆ど、観戦モードです。観戦する余裕も、コメントする資格も、楽山にはありません。余裕さえも捏造して、上のツイッターの「すごい論客ですね」は、このお気楽観戦モードで言っていることです。
 
こちらは、論争そのものに入り込むことはしません。
 
*黒歴史?
まず一つは「黒歴史」という言葉遣いに関連した議論である。tsubasa氏は、アマミ氏が堕胎流産を黒歴史と表現したことは問題であり、またそういう表現をしたのはそのように考えているからだと批判している。これに対してアマミ氏の方では、堕胎流産を黒歴史としてはいけないという主張を、堕胎流産は黒歴史だという主張と誤解されたとしている。
2021-09-25 (11)堕胎流産は黒歴史と呼ぶべきことではありません
https://twitter.com/tsubasa85364234/status/1441275358901194753
2021-09-25 (10)「堕胎流産が黒歴史」という前提に立っている
https://twitter.com/tsubasa85364234/status/1440256606566948873
2021-09-25 (8)私の文章の文脈を理解しない一方的誤解
https://twitter.com/amamikyo77/status/1440965901658963969
2021-09-25 (9)このツイートを読んだ信者さんから
https://twitter.com/amamikyo77/status/1439931898977918983
 」(内容は省略)
 
黒歴史というなら、楽山は、黒い排泄物をブログに、いっぱい排泄しています。その嘘と詭弁にまみれた暗黒面を、3年近く批判してきましたが、隠れて流産し続けているのが楽山です。
 
*霊能力信仰
もう一つの論点は、霊能力信仰にまつわる議論である。tsubasa氏は、アマミ氏は霊能力信仰だとし、アマミ氏はそうではないと反論している。
2021-09-25 (12)ただ一言、漏尽通力です
https://twitter.com/JustBeBeliver/status/1439613293543387136
2021-09-25 (13)釈尊は霊能力を出来るだけ使用しませんでした
https://twitter.com/tsubasa85364234/status/1439889924044382213
2021-09-25 (16)霊能力信仰
https://twitter.com/tsubasa85364234/status/1441586665177288705
 」(省略)
 
霊能力のない楽山です。何か言えると思っている霊能者気取りであります。ここで、やっていることは、自分の責任外の他人の論争だから安心して、対立を傍観しているだけです。このように、楽山は、他者同士の争いを悦ぶ人なのでしょう。
 
*非常識?
三つ目は、黒歴史の議論に関連していると思われますが、アマミ氏の批判のあり方を非常識ではないかと疑問視している方がおられた。HS信者かどうかは分からない。
2021-09-25 (15)非常識ではないでしょうか
https://twitter.com/endouryou/status/1440271934890000384
 」(省略)
 
黒歴史というなら、自己愛性パーソナリティ障害NPDからの、嘘、詭弁、読書家気取り、評論家気取り、無反省、無責任、訂正不能、無視、超常趣味と信仰の同一視、などの偽りを、未だに続けている楽山の、それこそ、成育歴から、今に至るまでが、黒歴史なのです。
 
*全否定?
上のような流れのためかどうかは分からぬが、tsubasa氏はアマミ氏を全否定するかのような勢いで、その難点をいくつも指摘し、苦言を呈している。
2021-09-25 (2)無我になりたければ、己のプライドを捨てなさい
https://twitter.com/tsubasa85364234/status/1441392709550305288
2021-09-25 (3)褒め合うばかりでなく間違いを指摘する
https://twitter.com/tsubasa85364234/status/1439070682537545737
2021-09-25 (4)理論ばかり振りかざしても
https://twitter.com/tsubasa85364234/status/1439074689670795269
2021-09-25 (5)⑨この一週間くらい彼女のツイートを読みました
https://twitter.com/tsubasa85364234/status/1441259954707460097
2021-09-25 (6)あなたには、愛の思いを感じられない
https://twitter.com/tsubasa85364234/status/1441266818912428048
2021-09-25 (7)過剰な自己弁護も過剰反応じゃないのか
https://twitter.com/tsubasa85364234/status/1441107574498086912
 」(省略)
 
全否定されるべきは、自己愛性人格障害の楽山であります。人格が原因なので、良くなる可能性が期待できません。ゆえに、楽山批判は、全否定しかなく、楽山は、一日も早く、言論の場から去るべき人です。ここで争われている「堕胎流産を黒歴史」とするかどうかよりも、根深いと思います。
 
*硬派な信者たち
私見ながら、アマミ氏は剛毅なところがあり強そうだし、取り巻きも多くいるので、一般の信者からしたら、たとえ言いたいことがあったとしても正面からは言い難い相手ではあるまいか。
でも今回は、遠江秀年氏、tsubasa氏らは正面切っておかしい事はおかしいと意見を述べたのであるから、ここは立派である。この勇気は尊敬する。
 
このべた褒めに、だまされる人が多いのでしょう。だから、楽山は書くのでしょう。「剛毅」「取り巻きも多く」「正面からは言い難い相手」「立派」「この勇気は尊敬」・・ネズミのように逃げ回っている楽山には、無いものばかりです。
 
*もったいない
議論の中身について感想を書くと、tsubasa氏の意見は真理としては一理あるように思う。自分が読んでも全てとは言わぬが、概ね首肯できるし、耳が痛かったり反省させられるところもある。
 
「一理ある」かどうか、自己中の楽山には、分からないことです。霊が分かるっぽい自覚~妄想、A級戦犯を讃えるネトウヨ、詭弁屋、嘘吐き、わざとらしく白々しい毀誉褒貶、などの表れてきた楽山は、ねじ曲がり過ぎて、何も、理路にならず、共感にならず、理解に至ることはないのです。
 
でもアマミ氏の方では、tsubasa氏と積極的に話をするつもりはなさそうだ。tsubasa氏のアマミ批判は、まるでアマミ氏を全否定するかのような様相を呈しているので、いちいち話をする気になれなかったとしても、それは致し方ないかもしれぬ。
 
楽山批判も、全否定になるでしょう。人間とは思えないからです。楽山と、コメントなどでの直接交流してはいけません。病原に触るようなものだからです。しかし、批判は必要です。誰も近づかないように、楽山という異常人格の害毒を、広く知らしめる必要があるからです。
 
ただtsubasa氏の意見をみると、上に述べたように相応の理があるし、ただの悪口、言いがかり、揚げ足とりにすぎないとして切り捨ててよいものではなさそうである。氏は真理知識があり、議論もできる人物であるし、対話をすれば相応の果実はあるだろうし、アマミ氏がそれを忌避するのはもったいないことではある。
 
人の言うことを聞かず、受け取らない楽山とは、議論は成り立ちません。「真理知識」があるかないかなど、低次元の詭弁屋である楽山には分かるはずもありません。今回も、楽山が、人の口だけを使って、上から、ジャッジし、評価するなどは、以ての外なのです。
 
今後、この議論がどのように展開してゆくのかは分からぬが、自分としてはこの議論には学ぶべきところはあると思うので、しばらく注視して行きたいと思う。
 
楽山に注視されるとは、最悪です。自分の楽しか考えないために、議論も、学ぶことも、今まで、一度もしてこなかった楽山の眼は、白でも緑でもなく悪内障のために濁っています。見えていないのに、見えていると言う者が、脅威となる例として、楽山は蔓延っているのです。
 
 
藪の中に逃避

藪(やぶ)の中に逃避
 
 
(2021年09月26日)
 
毀誉褒貶(きよほうへん):ほめたりけなしたりすること。
ほめる(誉める、褒める)、けなす(貶す、毀す)、貶める(おとしめる)
 
 
 
  不安の泉
 
静かな泉に
さいころを投げている森
 
洗髪した翌朝の上目遣い
頭かきかき世間を見ようとしている
 
木陰に坐って涼をとる
尻の下の虫を確かめていない
 
荒れた唇を舌で触れて
あらゆる生物に容疑をかける
 
晴れた夜に眼を見開いて
水面に星を探す
 
朝は鳥が様々に鳴く
朝は様々の鳥が鳴く
 
さいころの日々は転がるが
すごろくのようには進めない
 
静かな泉の
森は静かではない
 
 
  鳥たちよ
 
食うか食われるかだ
弱い雛は見捨てられる
だが恐れることはない
 
この肉は食えぬ
誰も食ってはくれぬ
売り物にならぬ
皮も肉も骨も
自分で食うしかない
自分でも食えぬ
 
安心したまえ
適応するほどの社会じゃない
だから安心して適応したまえ
 
 
 
  祈り・恐れてはならないもの
 
生も死も恐れている
それ以上に神を恐れている
同じくらい主を頼みとしている
 
♪迷わば訪ねて曳(ひ)き返りませ
 
この先たとい人を世界をこの国を
いかなる艱難(かんなん)が襲って来ようとも
 
♪世の友われらを捨て去るときも
 
たとい死の陰の谷を歩むとも
わざわいを恐れません
と言えますように
 
 
(讃美歌312番だったか・・)
 
 
 
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  楽山のざらざら
 
 「ブログ村騒動」発言集(霊言論争)
 2021年08月14日 幸福の科学とは何だろう?ブログ by 楽山
 
 
起死回生でも狙っているのか、遺書のつもりなのか《それはないと思う》、楽山は、自分で、ろくなこと言えないものだから、他者の言葉を集めています。一方では、他者の意見を無視して、自分は分かっているという自己顕示欲の鬼です。
 
楽山のような人につかまって、人生を台無しにしないでください。何も持っていない人です。人のための言動などしたことのない人です。あらゆる善き人を気取って見せますが、気取りだけで、数か月、付き合えば、良いところなど、何も持っていないと分かる人です。
 
こういう人に引っかかっていると、さらに、言うことを鵜呑みにしていると、思考が妨げられて、理路が分からなくなるでしょう。妨げられた思考を、楽山と同様に、詭弁で、ごまかすようになるでしょう。精神機能が、無反省と無責任のために、全般に鈍麻するでしょう。
 
この一連の記事で、楽山は、自分の意見を殆ど書いていませんが、僅かに書いたことも、批判対象になるだけで、つまり、人生や思想や宗教の深みなど、全く理解していないのが分かります。にもかかわらず、賢者を気取って俯瞰しているつもりの、厚い厚い面の皮であります。
 
リンクは貼りません。楽山は、殆ど書いていないので、人の口で、よく思われようとする匹夫の浅知恵が見え見えであります。人を引用するためには、先ず、自分の不完全と弱さを晒さなければなりませんが、楽山は、自分を飾るために、こちらが震え上がるほど傲慢です。
 
楽山は、信仰とは、反対側に棲んでいる偽善者です。
 
引用元は、大方、HSの信者のようです。
 
リンクは省略して、一部を引用してみます。一貫して、楽山は、人の口を利用~悪用している事実は変わりありませんし、楽山個人の主張が成り立たないことについて、楽山自身が、どうしようもなくなったのでしょう。
 
私が、ブログ【癒し 天使たちのことば】を、肯定的に捉えている理由
もしも
原理主義者達が主張するように
『信者達の誰もが、高級霊のインスピレーションが降ろせず
高級霊のインスピレーションが降ろせるのは、総裁先生タダ一人だけ!』ならば
悪魔達は、大喜びだろうね?
それが、真実ならば
悪魔達は
総裁先生が
寿命で亡く成るまで
後、約二十年の間
じっと我慢するだけで良い
その後は、悪魔達の天下に成るだろう
 
教祖の教えが、人間にとって印象深いものならば、永遠性を持ってきます。例えば、キリスト・イエスは、今も、聖書を通じて、生き続けています。人間が生きるために必要不可欠なことであるならば、消えることはないからです。
 
教祖が、狂素に過ぎないならば、後遺症が残ります。オウムなどが、その例です。個人的に影響を受けて、自由になれないからです。楽山後遺症を残してはいけません。
 
教団は、タダの、能無し教団と成って
救済力は、全く無く
ただ
教団維持の為に、御布施を集め
形骸化した教えを、維持する為だけに
存在する事に、成ってしまうだろう
 
大方の人にとって、カルトは、嫌な記憶と記録になります。
 
教えが、人を生かすならば、形骸ではないものが、教団にいてもいなくても、書物等によって、残ってゆきます。つまり、そこに真実の永遠性があります。
 
日本の神々が
そのような事態を、望むハズも無く
せめて
数多くの、神社や神殿において
巫女や神主達が
衆生の、様々な要望に応じ
高級霊達のインスピレーションが
適切に降ろせる事が、望まれるだろう
今回、私が
ブログ【癒し 天使たちのことば】を
肯定的に捉えているのは
そのような、理由からだよ?
もちろん
総裁先生と
我々、一般信者とでは
霊格の差は、歴然だ
 
楽山という教祖願望においては、跡形もなくなくなることだけが望まれます。つまり、楽山の生きた数十年は、一生懸命、紙くずを食い散らかす期間に過ぎません。そして、人の心も、食い散らかしてきたのです。それが、楽山の、利のため、欲のためなので、生きるほどに醜くなります。
 
だから
巫女達が、受け取るインスピレーションも
あれが、精一杯だろう
総裁先生の様に
長時間の
神降ろしは
とてもでは、出来無い事が、ハッキリした
さあ!
これからが
弟子達の正念場だ!!
タダの、能無しで
今世の寿命を終える
【役立たずの職員】で終わるか?
それとも
適切に、高級霊達のインスピレーションを受け
総裁先生も感心するような、立派な仕事が出来るように成るか?
私は
世界中の
キリスト教徒達や
イスラム教徒達を
立派に感化出来る、弟子達を望む!!
ただ
彼らから
逃げ回るだけの
能無し信者は、必要とはしない!!!
『正義の法』は
誰に対して行えば、救済出来るのか
貴方の胸に手を当てて
良く考えることだ。
 
キリスト教も、一枚岩ではないですから、感化されたり、無信仰になったり、妄想作りに変貌したりはあるでしょう。現にあるような気もします。だから、宗教において、最も大事なことは、超常の奇跡がどうかではなく、人間一人を生かすかどうかです。
 
信仰は、地上にあるあいだ、地上の人間に対して、何が一番大事なことなのかを、問い続けるでしょう。聖書を通じて、キリストが問い続けているからです。
 
楽山のように、自分だけを大事にしている者は、問うこともなく、問われることもないので、だんだん近くなるのは、警察か、精神病院か、どこかの河原・・だろうと思います。
 
今日は、エルカンターレファイトのことについて、感じたことを書いてみたいと思います。
なぜかと云いうと、私は最近少し体が重く、何となく変だったが、巫女役の方もそのことに気づき、どうしてだろうと意識を向けてみたところ、誰かが数名で私達に向けてエルカンターレファイトをしているのを発見しました。
これは、主との約束事なので、行じると主の光の降魔の光が相手に届くことになります。
私達はその降魔の光をありがたく受け取ることにし、しかし、その中に混じっている「砂」の部分は取り出し、祈りによって浄化し、発信者にお返しさせて頂きました。
ただ、私達が気付くのが少し遅かったので、私の家族にその影響がでまして、緊急に病院へ行くことになりました。幸い軽くてすみましたが、私の力不足を、とても悲しく残念に思っています。
 
お大事に。・・楽山は、人間性を喪失して、人間を物扱いするペテン師になっているために、こういうことも書けないのか、乱暴に引用だけしています。
 
2014年の記事の引用のようです。楽山は、なつかしモードに入っているのでしょうか。それとも、古い記事なら反発もあるまいと計算しているのでしょうか。いずれにしても、楽山が、今、目の前にある問題から逃れようとしているのは確かでしょう。
 
「砂」と書けばご理解していただけると思いますが、もう少し詳しくお話したいと思います。
これは、爽やかな風のお話の中で、この風に砂塵が混じっているというところから「砂」を使ったものです。
砂は、「あまりよろしくない思い」と言う意味で前回の文章に使っております。
その思いが人を傷つけると、言っているのです。
このエルカンターレファイトを行じるにあたり、まず自らの心を点検し、この砂塵が混じっていないかどうかをよくよく点検する必要があると思います。
そして純粋な気持ちで行おうとしているのか、主の教えに反した心でもって行おうとしていないか、これを問う必要があるのではないかと思います。
ですから、エルカンターレファイトを行うにも、修業の観点を忘れてはならないのではないかと思います。
多くの経験をすることにより、主の理想に近づく、そして、人の役に立つエルカンターレファイトが出来るよう、常に常に努力が必要ではないかと思っております。 
 
砂が入っているというより、砂だけで出来ているのが、楽山だと思います。今まで、一度も、宗教と信仰の、実質の理解を表したことがありません。キリスト教と信仰について言えば、小学校レベルの屁理屈で否定したり肯定したりしたことだけです。嘘にまみれて、ざらざらしているだけなのです。
 
楽山も、楽山の記事も、決して信頼してはいけません。部分的には良いなどと思っているなら、その部分においても、一部を全部に見せかけるという詭弁を用いているのです。楽山の脳内理路が狂っているのか、作為の詭弁か、いずれにしても、関わってはいけない相手です。
 
 
砂でしょうか いいえ潟です

砂でしょうか。いいえ、潟(がた)です。
 
 
(2021年08月15日)
 
 
 
  一所懸命
 
森が町になって
町が焼かれて
火事が荒野をつくって
荒野が砂漠と呼ばれて
砂漠が山になって
固まっている
その上に黄色い人がいる
のが見えるくらいの小さい山だ
 
耕して種を蒔(ま)いている
穀物や野菜
果物まで植えている
のが見えるくらいの山だ
 
平地は誰かが持っていった
山をどうしようと持ち主の勝手だ
一所懸命とはこのことだ
 
山に家を立てる
道をつくる
車が走る衝突する
電気を通す感電する
水道を通す
プールができる
水があふれる溺れる
 
その上にビルが建って
コンピューターが置かれる
ゲームができる
町ができる
店が並ぶ
次々にビルが並ぶ
 
結局その中で温室栽培している
穀物や野菜や果物を
植えたり埋めたり掘ったり捨てたりしている
 
試験管を扱った手で
酒を掛けて祈っている
アルコールがガソリンに変わる
石油をまき散らす
余ったからだという
 
ここはどこだ
元々どこだ
黄色い人
ここは誰もいない
のが見えないくらいの山だ
 
(90年だか)
 
 
 
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 ※ 水害のニュースについて。広範な災害で、数十年に一度、経験したことのないような、命の助かる可能性のある方法を、とまで報道しながら、死者の報道が、数人というのは、どうなのだろう。 土砂や水に呑まれて、埋まっている人、沈んでいる人など、報道規制でもあるのだろうかと思ってしまう。発見が遅れるのは分かるけど。老婆心ながら、岐阜県の白川郷とか、大丈夫でしょうか。
 

 
  楽山の逃避人生
 
 2021年06月03日 
 「旭川女子中学生いじめ凍死事件」について
 幸福の科学とは何だろう?ブログ by 楽山
 
 
同情・共感めいたことを言って、具体的には、何の責任も負う気のない楽山が、表れています。ふつうの人は、考えてみますといって、実際、考えてから結論を出します。楽山は、いかなる責任も、恐怖しているのか、負う気がありません。門前払いの文言を、丁寧語で用意しているようです。
 
前記事のコメント欄で、旭川女子中学生いじめ凍死事件の話が出たので調べてみた。事件の詳細については読むのも辛いものがある…。
・旭川女子中学生いじめ凍死事件 - Wikipedia
・「娘の遺体は凍っていた」14歳少女がマイナス17℃の旭川で凍死 背景に上級生の凄惨イジメ《母親が涙の告白》 旭川14歳少女イジメ凍死事件 #1
 
リンクは省略します。事件について下のほうに載っているサイトだろうかと思います。
 
前の記事とは
2021年05月24日
『美しき誘惑-現代の「画皮」-』を見た。
のことです。
 
この記事については、既に、批判記事にしています。
 
前の記事のコメント欄より:
 
コメント者は、前の記事の題材となっている映画のことを書いています。
私の記事の目的とは関係がないようなので引用元のHNは "省略" ということにします。
 
1. 省略 2021年05月30日 19:38
この女優に、主演は無理な。
どう見たってマンネン脇役のオマケ女優だよ。
こういう起用が、世間をナメてるよな。
何処にでもいる平凡な田舎娘に
女優は務まらないんだよ。
そんなに世の中、甘かない。
 
前の記事の映画についてでしょう。
 
2. 省略 2021年05月30日 21:50
オンライン署名、ぜひお願いします!!
◯旭川女子中学生いじめ凍死事件|署名活動特設サイト
楽山くんもぜひ、ブログ記事として取り上げて下さい。
宜しくお願い致します。
 
いつも正義の味方を気取っていると、頼りにされて、こういうコメントもつくのでしょう。
 
3. 楽山2021年05月31日 22:12
その事件はあんまり残酷すぎて
記事を最後まで読める自信ないのだけど、
でも今回は頑張って読むことにします。
そして、後日、記事化と。
 
そして、「後日、記事化と」と書いて、今回の記事を書きました。ほぼリンクだけの数行です。
 
(楽山)
それはそうと
女優に対する厳しい言葉と
いじめ被害者への優しさと
落差がすごいな。
主演向きではなかろう
というのは一理あるかもしれんが
本作での演技は気合入ってたのは確かだよ。
相手役の男優とのダブル主演だったのだろうけど、
完全に、相手役を食ってたと思う。
 
コメント1.に対して、楽山のコメントです。無責任だから、こういうことを書くのが、楽山の趣味であり、身に降りかかる何ものもないところならば、安心して、うれしそうに言うわけです。
 
4. 省略 2021年06月01日 00:32
>>3
楽山くん、ありがとう。
署名もよろしくお願いします。
 
楽山は、コメント者から、具体的な署名という行為を「よろしくお願い」されています。
 
5. 楽山2021年06月01日 21:45
いまのところ、事件の記事はこれだけ読んだ。
文春の記事は、20まであるようだけど、1を読んだだけでも心が苦しくてたまらんな。
・旭川女子中学生いじめ凍死事件 - Wikipedia
・「娘の遺体は凍っていた」14歳少女がマイナス17℃の旭川で凍死 背景に上級生の凄惨イジメ《母親が涙の告白》
旭川14歳少女イジメ凍死事件 #1
 
「心が苦しくてたまらんな」と、上で言っている楽山は、
署名については、このご時世なので、
臆病な自分は慎重になっております。
どうかご理解ください。
 
あるいは無理のないレスと思われるかもしれませんが、それは、ふつうの人が、何か関わることに怖れをいだいている場合です。楽山に限っては、自己愛性人格障害と書いてきたように、無理もない・・は、当てはまりません。何ごとにつけ、責任だけは負わない、という楽山の体質的な因業です。
 
ご時世、臆病、慎重、という言葉で断っています。楽山は、こういう、理解~同情を求めるメッセージを、一切の責任を負わないで済むように、とても便利に、多用してきたのだろうと思います。まるで、無責任な責任者の出てくるドラマのようです。エッヘッヘ(汗)・・とか付いていそうです。
 
楽山は、今まで、何度も、理解しているとは到底思えないキリスト教について、執拗な悪口を書いてきたという事実があります。その厚顔無恥の履歴によって、楽山には、「臆病」「慎重」という言い分は、成り立たないと思います。楽山については「ご理解」してはいけないところだらけなのです。
 
「ご理解ください」と言われて、こちらが理解できることが何もないのが、楽山です。
 
つまり、こういうところで、楽山は、今までの経過を無視する人だということが、表れてくるのです。微妙なようで、今までを知っている立場からは、馬脚をあらわしていると判断します。つまり、楽山の自己中の本性は、対話・言論の、いたるところで、表れ得るということです。
 
楽山は、臆病ではなく自己中です。楽山は、慎重ではなく無責任です。いささかでも責任が生じそうなときは、誰かのせいにしてでも、卑下の芝居をしてでも、断ります。これが、楽山の体質であり、保身だけの空疎な処世であります。
 
仮に、考えてみますと言えば、また、確認のコメントが来るかもしれない、はっきり断るために、慎重に加えて、「ご時世」のせいにし、かつ「臆病」と卑下してまで、・・いやだいやだ、責任負うの絶対いやだ・・、が表れています。本気で考えることが元々できない者の習性なのです。
 
それに、楽山は、思考力は拙劣です。そして怠慢です。理路をまともに追うことが出来ません。共感が成立しません。責任が生じることについては、断る際に、説明を求められると、詭弁を弄するしかないのです。他者のせいにしたり、芝居をしたりするわけです。
 
楽山の丁寧語にだまされないでください。今までに分かったことして、誠意の欠片もない人です。
 
キリスト教について、否定の意見を何度も書き、賛同めいた祈り芝居をして、両方言って断定していないから責任問題は発生しない・・などと、前に言ってきました。否定すれば否定した責任が、賛同すれば賛同した責任がついてくることを、理解できないのです。
 
だから、楽山は、自身の責任問題になると、詭弁だらけになります。そこで、いかに、文章を公開する上での責任について何も理解していないかが明らかになってきたのです。しかも、改善することがありません。体質的に無反省で訂正不能です。
 
だから、仮に、考えてみます、などとも言えない楽山です。実際は、本当に考えてみることなど出来ない楽山ですから、ご時世のせいにして、卑下の芝居をしているわけです。楽山の卑下は、ヒゲのように剃って終わりの大嘘だということ、強調しておきます。
 
楽山の、謙虚芝居・ヒゲ芝居に、どうか同情しないでください。楽山が今まで何度も言ってきた「反省。とほほ」と同じで、大根役者の三文芝居なのです。自己愛性人格障害は、芝居で出来ているような人生になります。どこにも、本気の実質がないのです。楽山に決して関わらないでください。
 
あらゆる観点から、楽山は、ふつうの言論・交流・話し合いにおいて弁えるべきことから、乖離し、ズレています。それが、批判してきた約2年間、表れ続けて、指摘し続けているのに、まだ、妄想的自己愛によって、公論ではなく、自分は知識人だという固定した病巣を示し続けています。
 
 
逃避人生・無責任

逃避人生・無責任
 
 
(2021年06月4日、同日一部修正)
 
 
 
  夜の顔の循環
 
ぬるい夜
ぬるい湯に
爛れるばかりの
阿片の夢に
流れ出しては崩れていく
この顔を直接
一生見ることはない至福よ
何のために
どのようにあり
あるいはあったのか
過去は現存しない
死んだ果実の名残を求めて
臆病な浸出が
皮肉な川を渡り
また一つ色褪せて
薄くなった肌をなぞっては
しみる
痛みから
否応もなく
犠牲になって
消えてゆく
それが現存する
唯一の夜
 
 
  覚えてしまった
 
空腹を覚える前に
食べることを覚えてしまった
夜の澱粉質の中を
重く泳いでいる
 
目指す島は
秘密の酵母に託されていて
見つからない
放蕩の鍵
 
泥酔の臓腑どもは
消化しきれず
騒いでいる細菌どもが
恐れている荒野は
無機質の誕生の前に
渇くことを覚えてしまった
 
 
(90年代か、再録)
 
 
 
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