ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:進化論

 
  楽山の体質的精神障害
 
 命の尊さと進化論
 2014年03月23日 楽山日記(LD)
 
 
かなり前の楽山の記事です。しかしながら、最近言ってきたことと、基本的に、ほとんど変わりがありません。つまり、無反省と無責任をきたす体質的精神障害、即ち、自己愛性パーソナリティ障害NPDの症状が、ずっと前から、成長もなく、書いたものに表れ続けてきたということです。
 
楽山は、キリスト教と信仰について、何も勉強していません。そして、印象操作として、キリスト教についての浅薄で幼稚な偏見を並べて刷り込んできます。そして、神はいないとか、無神論の引用とかで、信仰というものを、信じ過ぎてはいけない・・などと言ってきました。
 
信仰は、浅く信じたり、深く信じたりするような、程度問題では語れません。信仰は、有無であり、その有無を最終的に裁くのは、神ご自身であります。他者について、偽物であるかどうかを云々することは、信仰の根幹に触れた場合だけ、人にも判断できることがあります。
 
しかし、楽山のような、詭弁を弄し嘘を吐く者が、信仰の欠片もないのに、信仰の根幹に真っ向から反する妄想や否定の発言を繰り返すならば、悪意ある反信仰・反キリストであることは、その言動から、他に考えられないことをもって、明らかになってきました。
 
もはや、嘘によって、発言の信用度もゼロとなっている楽山に対しては、精神衛生上の悪影響を避けるために、直接の遣り取りを断絶し、記事で批判を続けるしかない事態となっています。あざ笑いの悪意を隠しながら、丁寧語で誘ってくる楽山の口車に、決して乗らないように、お願いします。
 
このブログの批判記事は、約10年、楽山については約3年ほど、病質的偽善者の情報を広く知らせるために書いているものです。治療法がなく回復の見込めない自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)について、今までに表れてきた症状を明らかにしてゆくつもりです。
 
進化論の本を読んでいると
生命について考えさせられます
今、自分が生きているということは
生命の誕生から、今の自分まで
一度も途切れることなく
生命がつながっているということ
 
神否定と、進化論礼賛を企んでいるようです。まず、神と進化という2つを対立させることが、良心を持たない楽山の、悪趣味と言えるでしょう。しかも、その悪趣味を、ボンヤリ言語の曖昧表現で言ってくるのが、楽山の無責任誘導の本性であります。
 
一見、何か、感動しているような書き方ですが、きわめて単純かつ短絡であることを見逃さないでください。この程度のことは、小学生でも考えることです。大人の、何かを伝えたいという真摯な態度ではないのです。人に対して、操ろうとすることしか考えない者の所業であります。
 
進化論を読まないと、生命の誕生や自分や他者の命のつながりが、考えられないのでしょうか。生まれ育って家族を見て、ふつうに勉強して、人の話を聞いて、考えることは可能です。そこで、わざわざ、進化論を持ち出し、反宗教へ誘導しようとすることが、楽山の気取りと陰謀体質なのです。
 
祖先たちが
天災、疫病、戦乱など
さまざまな危機を乗り越え
生き延びてくれたからこそ
今の自分がいるということ
 
このことは、宗教も、進化論も、関係ありません。宗教を考えなくても、科学を考えなくても、これくらいは誰でも思いますし、いい大人が、今さら、気づきましたという口調で語ったところで、少しも新しくはないことです。しばしば、楽山は、企みのために、大仰なことを言ってきます。
 
そうであれば
自分はこの生命を大切にして
次につなげなければ……ということ
 
小学校か・・と思うほど、発展性のない月並みな道徳を語る楽山です。実際は、こう書けば、感動してくれるじゃろ・・という狙いがあるのでしょう。楽山は、自分大事で、他者を大切にしておらず、平気で人を傷つけます。これを、「次につなげ」られたのでは、甚だ迷惑です。
 
人は霊であって
永遠の命を持ち
輪廻転生している
と信じていたころは
祖先のことはほとんど考えることはなく
肉体生命の維持を軽んじるところがありましたが
 
霊が分かるっぽい・・という自覚の楽山の妄想は、しばしば霊を強調し、永遠とか、輪廻とか、過去形ではない超常趣味として、今も変わり映えもなく、退屈に続いています。楽山は、むしろ、自分は特別だからと、軽んじるどころか、永遠不変に結びつけて妄想を語ってきたのです。
 
進化論に興味を持ってからは
祖先の労苦と
生命の大切さをより強く感じるようになったように思います
 
進化論によって、祖先の労苦が感じられるものなのでしょうか。進化論によらなければ、生命の大切さを強く感じないのでしょうか。それ以外では、例えば、生きていることだけでは、生きている姿を見るだけでは、生命が大切だと分かりにくいのでしょうか。
 
ふつうは、逆なのです。生きている命を通じて、命の大切さを思い、生命というものに興味を持つものなのです。いったい、どういう精神を持てば、このような、人間的直感のない、人間離れした生命観を書けるのでしょう。楽山の思考、ボロボロではないでしょうか。
 
さらに、いかに自分が他者を苦しめているかを、まるで感じない楽山が、「祖先の労苦」「生命の大切さ」など、感じているとは思えません。人を操るための、こう書いておけば、ひとかどの人物と思われるじゃろ・・という自己顕示欲の醜さだけが表れています。
 
真の謙虚さを持たない病的ナルシストの、おぞましさが、直感の鈍さとともに表れています。自己愛性パーソナリティ障害NPD、自己愛性人格障害、などと言われ、サイコパスと同系統の体質的病魔が、楽山を、このような、鈍感をごまかす三文芝居へと導いています。
 
 
 
 いろいろな信仰
 2014年03月30日 楽山日記(LD)
 
 
気持ちの悪い文章を書いてくる楽山です。宗教と信仰は、小学校の算数ではないのだから、幼稚な決めつけと未熟な理路で語れるものではないのです。自己愛性人格障害のために、身の程を知らない、深い思考も感受も出来ない、ということの悲劇が楽山なのです。
 
聖典のことばは
不合理なものも
そうでないものも
すべてそのまま事実である
とする信仰
 
聖典の読み方も、まるで知らない楽山に、信仰の合理・不合理を語る資格はありません。このように、不合理という言葉で、宗教と信仰を、平気で表す者には、悪意はあっても、洞察はなく、敵意はあっても、直観はないのです。
 
不合理が、間違えた算数の計算のように、不合理のままなら、人が受け取ることはないはずです。思考と情緒の広がりを全く持っていないのが楽山であり、ゆえに、何を書いても、通念を超える理解に結びつかず、かさばるボール箱のように、煩わしさを積み重ねてゆくだけなのです。
 
聖典のことばのうち
不合理なものはすべて
何らかの象徴、比喩、たとえ話などである
とする信仰
 
今までの発言から、「象徴、比喩、たとえ話」なども、楽山は理解していませんし、受け取って考えることも出来ていません。いったい、何を読解したつもりで思い上がって、語ろうというのでしょう。思い上がった小学生が、そのまま大きくなって、髭だらけの有頂天になっているだけなのです。
 
上の二つを折衷する信仰
 
宗教と信仰のパターン分類しているつもりでしょうか。それは、宗教と信仰について、少しでも分かっている人がすることです。通念的に不合理と断定するだけの楽山は、未熟で低劣な精神のままであり、単純に短絡して、図々しく書いてくること以外、何も出来たことがありません。
 
一つ目の信仰は
純粋性という点では優れているのだろうし
二つ目の信仰は
信者の範囲を広げる効果があるのだろうし
三つ目の信仰は
宗教と現実との間でバランスをとるものだろう
 
直観と洞察の欠如は、このような安易な分類の仕方になるという例です。「優れて」「効果」「バランス」・・このような言葉で、宗教と信仰を表すこと自体が、楽山の、思考障害、妄想前提、劣悪、無効、アンバランスを表しているわけですが、楽山だけは、気づかないのです。
 
宗教と信仰を、オモチャか文房具のように扱って、宗教人と信仰者の気持ちを何も理解できないのに、分かったつもりになって対象化して、独りだけで満悦してきたのが、楽山の人生なのでしょう。批判されないために、ボンヤリ言語の曖昧さで化粧した文章は、悪臭と痒みを催させるだけです。
 
おそらくこの三つ目の信仰が
もっとも無難だろうけれども
どの辺りを視点にしてバランスを取るかは
難しそうではある
 
そして、物でも扱うように、「バランスを取る」「無難」などと気安い見方に短絡し、最後は「難しそうではある」などと、責任逃れを書いて終わりです。人の迷惑を考えないで、宗教と信仰という真実の追求に、厚かましく突っ込んでくる楽山を、決して相手にしないでください。
 
楽山は、未熟を自覚できず、反省もしないがゆえに、学習と成長ができないのです。ここが、治らない限り、まともな言論者には、決してなれません。なのに、病識欠如の無自覚で、勝手なことを書いては、ますます、信仰からも、そして、人間としても、的外れになってゆきます。
 
 
ボンヤリ精神のトンデモ世界観

ボンヤリ精神のトンデモ世界観
 
 
(2021年10月13日)
 
 
 
  ウソの国
 
男は登っていく
深夜の階段を
息せき切って走っていく
走らねばならないのだ
走らねばならない
遅れてはならない
遅れてはならない
 
遅れた
 
男は人前に連れ出され
何人もの男から
したたか腹を殴られたが
痛みはなかった
 
夕暮れの街を歩いていく
人々は夕闇と過去に追われながら
すでに死んだ油の眼で
われにもない毒の顔をさらして
ネオンの間から間へ
苦しい巡礼を始める
あぁ この七色の 肉色の
光のおりが天国とは
 
拳を握りしめて
「何もない」
「何もない」と
壁に向かって叫び続ける男
誰もいない街角に向かって
手を振り続ける女
眼を振り続ける人々
 
通り過ぎる車が
水たまりをはねて
尻が濡れた
時が引き裂かれた
 
青春と人情の墓場から抜け出し
人通りの少ない路地で
恋人に声をかける
お茶でも?
 
あいされたいわ たれからも
 
吐物をまき散らしながら
男は逃げる
転びそうになりながら
 
幾分か小高い丘に
塀のある幼稚園があった
数人の子供が砂場で遊んでいる
ジャングルジムがある
子供たちが登れるようになると
外が見えるようになるわけだ
 
男は登ってみる
もう吐き気はしない
尻のあたりの濡れた感触もない
男はようやく安んじて眺めている
人っ子一人いない街の風景を
 
あたりはもうすっかり明るい
 
 
 
 
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  楽山の汚物噴射
 
 「リチャード・ドーキンスbot」を見てみた。(5)その他
 2021年09月18日  楽山日記(LD)
 
 
人の口を悪用すること、餓鬼のごとく、噴水状嘔吐のごく、水溶性下痢のごとく、爆発性放屁のごとく、人の迷惑を省みない痴態、楽山の汚染拡大、もはや、人間の、節操も、マナーも、礼節も、節度も、恥も、失った臓物の悪臭です。インテリ気取りの終末は、我欲の排泄物となっています。
 
*つづき
 前記事につづいて、ドーキンスの名言について感想を書いてみたい。ただし今回は特定のテーマは決めず思いの向くままに書くつもり。
 
楽山の、思いの向くままとなると、いかなる節度も期待できません。前にも書いたと思いますが、思いつき次第、勝手な解釈のみで、狂犬が吠えるように、よだれをまき散らしてきます。その中身は、オレは偉いんだ、オレは偉いんだ・・という虚妄以上のものではありません。
 
*相対主義という無責任
真実は確かにそこに存在する。それは意見の問題では無い。今日、相対主義という、真実は互いに矛盾していようと見る視点によって幾つも存在するという古風な考えが根付いてしまっている…多文化社会を尊重して促しているように聞こえるかもしれないが、実際は単なる責任逃れを誤魔化してるに過ぎない
 」
 
人の考えを古風と蔑む人は、自分の考えは新しいと思っていて、その見なしに、おびただしい偏見があることに気づきません。神学とか教会とか教義とかに執着して、宗教と信仰について欠くことの出来なかった真実を理解しなかった人の怨念を感じます。
 
価値観だとか、モノの見方であれば、人それぞれということにはなろうが、真実に関してであれば、人それぞれというのは無責任と言われても仕方がないかもしれぬ。
真実を確定できない状態であれば、さまざまな意見があるのは当然ではあろうが、真実が確定された場合は、真実は人それぞれ違ってよいとするわけにもいくまい。
 
進化論は、客観的に確定されたものではなく、仮説として、ある程度の信頼を得ているということです。全てが説明されるわけもなく、論であり思想であり、近未来の予想が出来るような法則や公式があるわけでもないでしょう。
 
全ては遺伝子の利己主義によって定まるといっても、遺伝子が、いったい、どう具体的に、利己的になって、人間の真実と未来を照らして教えてくれるというのでしょう。全く別の分野を混同した乱暴な短絡だと思います。
 
楽山は、「人それぞれ」「確定できない」などという言葉で、自己正当化を企んできましたが、ここでは、「よいとするわけにもいくまい」と言っています。楽山は、定まらないのが特徴です。楽山が、真実に少しでも近づくような、はっとする記事など、見たことがありません。
 
信仰は、客観的に確定されたものではなく、個人によって、生きるに不可欠だから信じられているということです。未来は未知であり、客観的証明など出来ないことは、最初から前提なのです。ゆえに、信仰を、固定した思想や信条や対象物や集団と見なす視野に、信仰は見えては来ません。
 
とはいえ、真実を確定することで激しい争いを生むことになるとすれば、真実よりは和をもって尊しとする判断もありえなくもない。
この辺りのことは、ホントややこしい
 
楽山の「和」は、ほんとに口先だけの何の役にも立たない真っ赤な偽物です。いい加減がいちばんじゃろ・・という無節操は、以前からです。自己愛性人格障害のために、新しいことを受け入れることが全くできない楽山には、そこで終わって、知識人ぶって、自慢するしかないからです。
 
考える前に結論が妄想となっているような、楽山には、真実は、いつまでも、ややこしいままで、見過ごされてゆくのでしょう。自己愛性人格障害にとって、とてもシンプルな真実、という、テーマについての感想は、ややこしいという捨て台詞であり続けるしかないのです。
 
*進化論を教えること
ある物事は、ただ真実なのだ。それは選択や意見の問題ではない。あなたはご存じないだろう。それがどの場所よりも問題になる場所―学校―で、進化論を教えることは科学の教師にとってとんでもなくデリケートになってしまってる。
 」
上で触れている「真実」とは進化論のことだったのだろうか。それなら自分の考えは、ドーキンス支持ということになる。
正直いって、学校で進化論を教えるのは当たり前のことだと思うし、それを禁じるという発想はよく理解できない。
 
はっきり言って、楽山は、利用した誰の説も支持してなどいません。理路も、対立命題も、理解していないからです。理解したふうに悪用し、自分を高めて、忘れてゆくだけです。楽山を支配している自己愛性パーソナリティ障害NPDは、楽山に自分自身さえも忘れさせてゆきます。
 
その証拠が、一連の執拗な投稿であり、節操を失って、何の余裕もなく、何か書けば刹那的に難を逃れたかのような気休めになるのでしょうか。楽山は、今までと同様に、あるいは、もっと重症かもしれないが、独り言しながら洞窟の中をぐるぐる回っている危険な自爆霊であります。
 
つまり、何か新しいものを見出すわけでもなく、何かの役に立つこともなく、役に立てようとする意志もなく、人の口を利用して、書くということだけに執念を暴発させ、不完全燃焼して、有毒ガスを、まき散らしているだけなのです。
 
「禁じるという発想はよく理解できない」というより、楽山は何も理解していません。全て自己中の欲望が空回りしてきただけです。否定と肯定を両方言って、断定していないから、責任問題は生じない・・という呆れた無思考が、楽山の言っていた信条なのです。誰も関わってはいけません。
 
*意見
もちろん『コラーン』を読まないでイスラムについて意見を持つことは出来る。『我が闘争』を読まずにナチズムに意見を持つこともできる。
 」
その通り。誰でも何にでも意見を持つことはできる。でもその意見が的を射たものであるためには、それなりの基本知識はないより、あった方がよいだろう。
巷には慧眼の持ち主もいるだろうし、無関係の素人の意見を聞く必要がある場合もあるだろうけれども、そういう特殊の場合でもない限りは、まともな意見を持つためには一定の学びは必要だと思う。
 
自己中のために、基本知識を持たず、弁えず、口だけ出しゃばってくる楽山です。しかも、大方、他人の口真似に過ぎず、そのあと、引用し賛同し発言した責任をいっさい負わない男です。マックス卑怯者と言ってよいでしょう。
 
「誰でも何にでも意見を持つことはできる」・・責任を弁える常識人においてであります。無責任・無反省の楽山は、意見を持ってはいけないというより、持てないのに、吠えてくるのです。
 
意見を述べるには、「基本知識」は、「あった方がよい」ではなく、必須です。
 
「一定の学びは必要」・・その学びができないし、学んでいないのが、楽山です。自己愛性人格障害のために、他者の反対意見を無視し、本を読んでも、都合のよいところを、つまみ食いしているだけなのです。楽山の粘着する臭い唾液にさらされるのは、迷惑というより感染です。
 
*生存戦略
遺伝子レベルでは、すべてが利己的である。だが、遺伝子の利己的な目的は、さまざまなレベルにおける協力によって達せられるのだ。
 」
 
遺伝子に、利己というものを付けるのは、そのままでは成り立たないから、比喩であるか、嫌いな宗教は関係ないという意味の強意表現なのでしょうか。
 
宗教では多くの場合、利己心は罪悪とされることが多いのではあるが、進化論関連の書物を読むと、利己から利他が生じたとしているのは実に面白い。
 
楽山は、遺伝子の利己を、人間の利己心と混同しています。凄まじい誤読です。
 
楽山は、今まで、どれだけ、疲労するだけのインテリ気取り文章を発信してきたと思っているのでしょう。既に、気取りしかないとバレているのに、楽山だけが分からないのです。
 
とある本では、とある動物を観察した結果、群れのルールを守る個体は、群れの中の評判はあがり、交尾の相手を得やすくなる一方、群れのルールを守らない個体は、群れの中の評判が落ち、交尾の相手を得にくくなっていたことがわかったという。
 
公共という群れのルールを全く守っていない無反省・無責任の楽山が言っています。楽山が書いているようになるのです。というより、既に、なっているのではないでしょうか。
 
要するに、遺伝子を残すという利己的目的の達成のために、社会道徳を守り利他的に生きるという戦略は有効だということあるし、さらにはこういう戦略が有効だということは、社会道徳を守り利他的に生きているフリをするという偽善的な戦略も有効ということになりえるということ。自分にはこういう考え方は実に面白く、かつ興味深く感じられる。
 
理路のない妄想暴走貧相の楽山の暴言です。社会道徳を守っても守らなくてもいいのだそうです。現実に自分が掛けている迷惑を自覚できないものの言い分でしょう。そして、「面白く、かつ興味深く感じられる」と、偽善を肯定しています。
 
偽善は、罪の隠蔽偽装の分、最悪の罪です。楽山は、急性増悪(シューブ)を迎えているのでしょうか。破局点(カタストロフィー)が近いのでしょうか。ヤケクソなのでしょうか。狂っているのでしょうか。
 
(ネットより)
シューブ【(ドイツ)Schub】 の解説
《シュープとも》病状が急速に悪化・拡大をみせること。肺結核で多くみられる。急性増悪。
カタストロフィ【catastrophe】 の解説
《「カタストロフ」とも》
1 突然の大変動。大きな破滅。
2 劇や小説などの悲劇的な結末。破局。
3 演劇で、大詰め。
カタストロフィー
 
*目的と手段
生物体はDNAの利益のために存在していて、その逆ではない
 」
 
また、利益という自然科学としては非科学的な表現を使っています。存続・保持のため、というほうがマシのように思えます。DNA(デオキシリボ核酸)は遺伝に関与する物質です。
 
アリをみていると、働きアリが不憫に思えることがあるが、個体単位でなく、群れ全体がDNAを共有しているという風にDNAを中心にしてみるとその感想は違ってくる。
 
こういう考え方は全体主義につながりやすい、という可能性を考えない楽山です。やはり、ネトウヨだからでしょう。一つ知ったと思うと、とてつもなく大きな話にしてしまう楽山の性癖です。だから、楽山が妥当な結論に達することなど、ありえない話なのです。
 
人に関しても、近親者と他人、人と動物…という具合に比較してみると、その愛着の度合と遺伝的な距離とは無関係ではないらしく思われる。
 
そして、楽山は、上の失言を、家族愛、同族合い、という方向に、言い逃れようとしています。詭弁と誘導と弁解のための、わざとらしい「愛」の言葉だけを並べて、整った見せかけの文章にしています。とても醜いと思います。
 
こういうことを考えると、自分が抱いている愛情だとか、利他的な思いと行動などは、本当に自分のものなのか、遺伝子の生存戦略によるものなのか分からなくなってくるのだが、この分からなくてもやもやさせられるところが実に愉快である。
 
楽山は、欲と利己を強く持っていますが、「愛情だとか、利他的な思い」を持ったことはないと思います。高等感情の鈍麻を、言葉だけでごまかしてきた履歴が、理解していないことを表してきました。楽山は、もやもや・・が愉快なのだそうです。異常です。
 
悪いことをしても、遺伝子のせいで、自分のものではない、という、罪悪感の欠損を、自己正当化しています。自己愛性人格障害を持つ病的ナルシストは、人格そのものが、有害であります。いつも、もやもやした嘘と詭弁の文章を書く楽山です。理路を組み立てることが全く出来ないのです。
 
*強がり
最愛のものたちと再会できる死後の世界というアイディアは、強い慰めになりうるだろう。私にはそうではないが。
 」
自分はこういうアイディアによる慰めを感ずる質なので、そうではないというのは強がりに思えてしまう…見当外れの想像かもしれないが。
 
最愛の者たちがいるとは思いにくい楽山ですが、死後の世界を慰めとしているのに、唯物論に賛同し、宗教と信仰を否定している、という、矛盾だらけで一定しない情緒不安定であります。見当外れの空想の断末魔になってゆくでしょう。
 
*希望?
われわれの脳は自らの利己的な遺伝子にそむくことができる地点まで進化したのである。われわれにそれができるという事実は、避妊具の使用によって明らかになっている。同じ原理はより大きな尺度で作用できるし、そうすべきなのである。
 」
避妊具の使用は、よりよい機会、環境において、よりよい子孫をより確実に残すための手段とすれば、利己的な遺伝子にそむくというより、あやつられていることになるのではあるまいか。
 
遺伝子に操られているということにしたい楽山です。全てを遺伝子が悪いんじゃ・・ということにしたい楽山です。自分の遺伝子のせいにしても意味がないとは考えないのでしょうか。どうりで、言うことが無責任になるはずです。楽山の病理が、解明された感じでしょうか。とても空しい。
 
*宗教からの自立
理性的な人々が、こう声をあげるときが来たのだ。もう十分だ!宗教信仰は自立した思考を妨げる、分裂的で危険なものなのだ、と。
 」
これはその通り。
宗教教義によって考え、判断している限りは、自立した思考はできまい。
 
宗教を全く理解していない楽山が、また、理性を持っているとは全く思えない楽山が、どういう自立した思考をするというのでしょう。深い理解など、今まで、一度も、楽山には見られたことがありません。精神病質によって妄想と偏見に捻じ曲がった我執だけを見せてきた楽山です。
 
 
楽山は、親族や友人たちなどの近い人たちにも問題を指摘されてきたのではないかと思います。しかし、元々が自己愛性人格障害だから、病識はなく、一人前の自覚が我執となり、訂正不能となって、聞かなかったのではないかと思います。社会的責任など考えない人です。
 
楽山は、2年半前から批判されていることを知っています。空想好きでウソッピ物語の楽山は、子供のときから、嘘を吐き続けていて、何か言われることにも慣れていると思うので、問いただすことは、専門家でもない限り、無意味だと思われます。
 
楽山が、批判されていることを聞かれたら、"気持ちは分かるけれど・・やっぱ興奮しすぎじゃないかなあ" 、"精いっぱい反省しているつもりですけど分かってもらえない" というような言い方をしてそうな気がします。これが楽山の、ボンヤリ言語・トホホ言語なのです。
 
ずっと前からの無視と、執拗な投稿が、異常性の傍証になるでしょう。言い返せないのに、正義の味方気取りで、問答無用に投稿を続けているのです。説得は無意味で、我意を避けるには関わらないことしかなく、最終的な解決は、結局、強制力によらなければ、どうにもならない人です。
 
 
噴射する嘘

噴射する嘘
 
 
(2021年09月20日)
 
 
 
  流れ星みたので
 
またひとり
この世の果てのような
草も木もない崖っぷちに立って
靴を脱ぎ
手を合わせ
誰かにあやまって
ひょいと飛び降りたとき
飛んできた花火が
ぐさあと首の後ろに突き刺さって
しばらく噴射しつづけたので
うっかり軌道に乗ってしまって
落ちつづけてる奴がいる
 
 
  鏡に向かって
 
裸を
鏡に写してみる
一瞥にも堪えないが
嫌なやつだとはもう言うまい
嫌いだとも言うまい
お前をみすぼらしくしたのも
汚したのも私だから
いつか割れるときまで
自ら光を持たない鏡よ
つくられたままの面の奥行きに
また私が表れるまで昼と夜を
少し歪めてもいい
受けた光をお前のやり方で
返せるだけ返してくれればいい
さらに歪めるかどうか
あとは眼の奥の生まれ育ちが
裸の責めを負うだけだ
 
 
  履き物
 
スリッパは
履く人の足になじむほどに
柔らかくなり汚れてきて
つぶれたり破れたりした
靴はいっときの化粧のように
磨かれて光沢を放つが
なじむほどに皺が増えたあげく
裂けて笑ったりもした
 
おおかた人の寿命よりも短く
人の重さを背負いながら
なじんだ末に捨てられる
のはまだいい方で
なじむこともなく
ある日下駄箱のもう片方を開けると
埃をかぶったままの
硬い顔が並んでいた
 
 
  ガラスの檻
 
道は檻へ続くと運転手は言った
留置場か刑務所か
しかし人はいないという
動物園か?
しかし誰も寄り付かないという
周りの緑が土に変わるが
汚れているわけではない
空気は澄んでいて涼しい
人通りはやがて絶えた
車が止まったとき
運転手がいないのに気づいた
ガラスのドアが目の前にある
それだけがある
開けて入ると
中は清楚な趣で
曇りガラスの窓を持つ
土色より薄く塗られた壁に囲まれて
檻というにはあまりに細い格子の中に
黒く低い像
頭を抱えてうずくまる
かきむしるように乱れた髪
細身で胸から脇腹は
やせて肋骨が浮き出ているが
こぶのように筋肉が
硬く盛り上がって
激しく体
自らを抱きしめようとして
突き上げる脈のまま凍り付いている
窓からの淡い日差しが
膝を折り像の影を
ひざまずいた影に重ねた
 
(昔々・・)
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山
神仏であっても、人権侵害はゆるされないってことかな?
・経典の中の差別語問題 真宗大谷派が謝罪 書き換えられない文言、問われる解決のかたち
午前9:46 · 2021年9月19日
 
キリスト教だけでなく、仏教でも、何にでも、平気で口を出す楽山です。自己愛性パーソナリティ障害NPDのために、身の程を知らない男なので気にしないでほしいです。無反省で無責任で、無神経で無理解で、その自覚が全くない楽山の、ストレス解消の放言なのです。
 
無反省と無責任と無神経と無理解が、どれだけ、人権を侵害し、人格の尊厳を傷つけるか・・ということを、最悪の言論の事例で示してきたのが、自己愛性人格障害の楽山なのです。本人は、サイコパスらしい悪意だけで、罪悪感を、全く感じていません。だから、今も書いてくるのです。
 
 
 
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  凶暴な反復2
 
 
 2020年03月28日
 『若い読者のための『種の起源』』ダーウィン著、ステフォフ編著
 楽山日記(LD)
 
 
ダーウィンを持ち出してきました。そして、読んで大正解、納得できる、と言っています。科学の部外者の立場では済まない傲慢は、進化論でキリスト教とキリスト信仰をおとしめる狙いが以前からあるという理由によります。
 
楽山の凶暴性は、自己愛、自己中、訂正不能、そして、執拗な自尊の繰り返しで、評論家を気取る体質にあります。それは、何を言われても気に入らなければ平気で無視して同じことを繰り返す執拗な性癖に表れてきましたし、今回も同様です。
 
若い読者のための『種の起源』
「種の起源」は随分前にはじめの数ページを読んだだけですぐに放り出してしまい、そのことがずっと気にかかっていたのだが、本書はこれを簡潔、平易にしたものだとのことで興味を持ち、読んでみた。
 
ナルシストで楽山の興味は、いかにして、キリスト教をおとしめるかということで貫かれています。そのために、楽山は、聖書の通りに天地と動物と人間を創造したと信じて進化論を否定するがキリスト教だと決めつけています。
 
私は、最初に通った教会で、創世記は神話として読むことを勧められています。そのほうが、より多くの真実を受け取ることが出来ると、私も思っています。その読み方によって、生き生きとした人間の有り様と罪性が分かってくるのです。
 
しかしながら、凶暴な訂正不能の楽山は、わざわざ、創造論と言って聖書を進化論と並べる理屈としてしまって決めつけ、進化論という仮説のほうが正しいと言いたいようです。丁寧な書き方は、楽山の策略であることを強調しておきます。
 
楽山は聖書の読み方を知りません。また、事実と真理を決めつけないと気が済まないようです。そういう読み方では、神と人間の関係など、微塵も理解できないことをも強調しておきます。そのことを何度言っても、理解力がないのか、感受性がないのか、反省力も成長もないのか、楽山は書いてくるのです。
 
結果は大正解。本書は、生物学に無知な自分でも面白く読めた。序盤は頭の中で音読するようにゆっくり、徐々にペースを上げて行く読み方をして、ただ最近はどうも何事にも飽きっぽくなっているので、最後のところはやや流し読みに近くなってしまったのではあるが、それでもやっぱり面白かった。折を見て再読したい。
 
学習途上の人々を惑わすようなことを書いて、何が大正解なのでしょう。罪悪感と羞恥心がまるで育っていない楽山の、批判されると、反論どころか弁明どころか、無視しか出来ず、今回のような当てつけしか返せないでいて、なお、気取っていられる心性は、とても異常です。
 
シャロームと同様、全く話し合いの成り立たない人なので、成りすましの疑いもあります。他にも、親子など親族、仲間、組織の可能性も考えています。シャロームは、仲間が多いことを誇っていたからです。
 
内容については、他の本で読んで既に知っていることも多かったが、高地に点在する動植物についての話ははじめて読んだ。寒冷地の生物は氷河期のように地球全体が冷え込んでいた頃に南下し、生息域を広めるも、やがて地球の温暖化がはじまると、北に戻るものもいれば、高地へと移動するものもあったのだろう…云々と。同種の生物が離れた場所に生息しているのは不思議だと思っていたが、こういう理由があったなら納得できる。
でもこれと似た疑問として、淡水魚の場合はどうなのだろうと思う。たとえば、フナは日本全国の河川、湖沼に分布しているけれども、他とはつながっていない孤立した湖沼それぞれに生息しているのはなぜだろう。これにはどういう説明があるのだろう。
 
人の意見を聞かず、自分を支持するような情報、学者の言うことも対等の立場のように分かる評論家気取り、実は勘違いと思い込みばかり、・・そういうものを漁(あさ)って、分かっていることにしているとこうなる、という例になります。
 
進化論については専門家でも議論のあって不思議のないところですが、私は学者ではないので進化論の正誤については遠慮するわけです。しかし、楽山は、学者の言うことが分かる、納得できる、と言いたくてたまらないのでしょう。
 
淡水魚の場合は、なぜだろう、どういう説明があるのだろう、と分からないことがある自覚?みたいなことを書いていますが、楽山のように、嘘を吐き、詭弁を弄し、反省せず、本当のことを言うことが少ない、こうなってくると、分からないという自覚を書いても、本気ではなく、何らかの作為があるとしか受け取られないということです。まさに、"狼と少年"の話になります。
 
楽山が、分かったつもりのことは、楽山の、キリスト教に対するおとしめの筋書きに合っているからであり、分かっていると言いたい楽山は、それゆえ、進化論を讃美するわけでしょう。
 
実際には、こういう進化論のことを、いくら賛同して、書いても、キリスト教の本質には、何の関係もないのです。
 
楽山が謙譲芝居をするとこうなるという例でもあります。分かっていない自分を出すときに、分かっている自分を暗示してしまうボンヤリ言語は、楽山の筆致なのです。
 
学者の言うことを評論家のごとく語って、さんざん的を外してきたのだから、なにせ恐れも知らず霊が分かるっぽい、と思っている楽山ですから、もはや、ダーウィンという大きな名前を出しても、楽山の信頼度はゼロのままであり、いっさい、無駄なのです。
 
この記事を、分からないこともあるかのように中学生の感想文みたいに思わせるのですが、このわざとらしい書き方をしながら、一方で、キリスト教をおとしめてくるのだから、とても成長発達途上の人の感想文として読むことなど出来ない悪意の作為があるわけです。楽山の攻撃性は深く、性根は凶暴です。
 
また本書では創造論への批判がさりげなく挿入されているが、そのうちで最も印象深かったのはこの箇所だった。
自然を観察することで「このように美しく、精巧で、秩序ある自然が偶然に生まれるわけがない、設計者が存在するはずだ」と思わないではいられなくなることもあるけれども、それとは反対に「このような無残なことを創造主がよしとされたとは考えにくいし、もしこれをよしとされたのであれば創造主は人の情緒とは相当に異なった感性、価値観を持った存在だろう」と推定せざるを得ず、神は愛であるなどとロマンチックなことは言ってはいられなくなることもあるが、一体どちらが本当なのだろうと思う。
 
上に書いたように、楽山の言う創造論というのは、聖書の創世記をそのまま歴史の事実の主張として受け取って、神が創造したのならなぜ・・という疑問を書いてくるものです。
 
そうやって、楽山は、学ぶべき創世記を始めとする聖書を、興味本位の非人間的な超常話にすり替えて、固定観念として、自分はインテリだから進化論を支持するみたいな文脈にしてゆくわけですが、聖書も本も、まるで受け取る節操も弁えも理路の整合性も感性の貯えも持っていない自分を図らずも出してしまうわけです。
 
キリスト教の本質は、歴史の事実として創造を受け取るよりも、実存的に今も在ることとして、人間のあり方と罪性につながることとして学ぶべきであります。
 
キリスト教を、神が事実として聖書通りに創造したという信条を掲げている教派もあるようですが、私は、そういう受け取り方では、信仰の大事なことを、受け取ることにならない、あるいは、超常の話によって、むしろ受け取るべき真実が阻害される恐れがあると思っています。
 
楽山は、キリスト教内部での違いなど何の関心もなく、いつ書いても、みな同じように、創造と進化という対立の誇大的なテーマだけで扱い、おとしめようとしてきます。
 
楽山の机上にあるのは、複雑な問題を凶暴に単純化して、それこそ、楽山の狭い視野の中に、紙くずのようにぶち込んで丸めてしまった上での空論であることを知ってほしいと思います。
 
無残な有り様を呈している世界に、神がいるとは思えないという言い分は、無残な地上を生きるために信仰が必要と考える思慮を持たないで一途に神を否定したいだけの楽山のようなものが唾を飛ばして言っているだけなのです。
 
はっきり言って、地上の悲劇をもたらしているのは、楽山のような良心の欠けた人格~群像であります。そういう群れは、いつまでも、どこまでも、自己愛を優先し、平和や協調を持ち得ないために、破壊的言辞をもって、神と信仰者への憎しみをいだき続けるでしょう。
 
この辺りは人によって判断は異なるだろうけれども、これまでの時代の流れからすると、創造論と進化論とではどちらが優勢であるかははっきりしているし、
 
このように、楽山は、進化論が優勢だと暗示して、創造論の理屈におとしめて狭い引き出しに閉じ込めたキリスト教?をおとしめて、いい気になるのです。しかして、信仰については、何の助言にも、否定にもならないような、卑しいだけの自己顕示欲を満たしているのでしょう。
 
批判に対して、いかなる弁明もできないで詭弁で文句だけを言ってくる楽山に対して、同じように狭い引き出しに思想を閉じ込めるような人間にならないためにも、楽山の詭弁を正当な感じなどと思わないでください。
 
楽山という疲労物質は、人間として聖書も思想も受け取るということが出来ないようです。人間として発揮できる良心の働きがないから、人の迷惑を省みることがないのでしょう。
 
今後は宗教的感性が発達し、かつ一定の知性を持つ人にとってはそうではない人よりもいっそう生き難い世の中になって行きそうではある。
 
楽山は、自分が感性がないと言われたものだから、人に向けて、宗教的感性が発達、などと、人ごとにして、どこまでも評論家?的立場というより、人よりも高みにいる立場の気取りを守りたいようです。その実、やっていることは、言論において、邪魔にしかならず、相手にもならないようなものばかりでした。人を惑わしてまで、自分を高めたい者の体質なのでしょう。
 
将来的にはそういう人のために何らかの新しい道の必要性はますます高まってゆくに違いない。
 
新しい道に、遠回しに、賢者の一人として自分は大事な役を担う、という自尊が表れています。汚い欲望の、しかも、暗示的な高慢です。だから、書き続けるのでしょう。いつか、尊敬され、崇(あが)められることを信じて。
 
ここに、楽山という自己愛性人格障害の訂正不能の誇大妄想が横たわっているのです。
 
 
だいたい、信仰は、人間が生きるためにあります。そのために、大昔が、創造であったとか、事実であったとかは、決して大きな問題ではありません。楽山の言は、低次元であるだけでなく、冷淡で平板な情性と、同じことを繰り返す惰性(だせい)で、宗教を舐めただけの的外れです。意図的だからインチキだと言いました。
 
史実にこだわることよりも、人間は、元々、どういう存在であり、どういう性質を持っているか、ということに焦点を当てることが、宗教と信仰を考えるときには、よっぽど重要なのです。
 
そのことを考えれば、私は今まで、貧弱な頭と心で、努めて、書いてきましたが、聖書は、とても大切なことを伝えています。それが、楽山には、全く分からないのです。
 
何故かと言えば、楽山やシャロームなどの易坊類は、その教えに真っ向から背き続けている前提があるからです。嘘を吐き、詭弁を弄し、偽りを好み、自分を高みに置く、そして悔いない、・・全てが、人をだますための偽善の背信行為だから、分かろうとしない前提があることが、続ければ続けるほど、明らかになるわけです。
 
そのことを、いくら言っても、楽山のような者は、性懲りもなく保身のために、嫌がらせのような、学術めいた上辺(うわべ)を装って、偏(かたよ)って一面的な、そして、悪意に満ちた方向に誘導された文章によって、詭弁でしかない言説を、こともあろうに先人の名を悪用して、広めようとするのです。こうなったら、おしまいという病質の症例であります。
 
シャロームなどのお仲間を喜ばせたいということがあるのでしょうが、それ以上に自分を満足させたいだけなのです。
 
そういう者同士というのは、つまり、楽山やシャロームなどの易坊類は、その幼稚さ、執拗さ、嘘と詭弁、悔いない厚かましさ、悪だくみ、などの点で、実に、よく似てくるのです。カルト性が、悪魔性を呼び、みんな似たような、話にならない人間になっていると思います。それで、成りすましの疑惑も、ずっとあるわけです。
 
そして、楽山との交流をあきらめた頃からずっとですが、批判の目的は、楽山を変えることではなく、楽山の悪性の執拗さを書くことで、近づいてはいけない人という警戒情報を広めるためだけになってきました。そのこと以外に、もはや、目的はないと言ってよいでしょう。
 
だから、シャロームに対するのと同様に、楽山に対しても、批判は、とてもシンプルになってきました。前提を繰り返すだけのスピーカーに過ぎない者たちであり、対話の成り立たない相手とは、話しても無駄だからです。
 
ネットには、ときに、ためになる話や、ほお・・っと思うような面白い話もあるのですが、一貫して、月並みであり詭弁まじりの楽山の言から学ぶべきことは皆無です。かつ、楽山の執拗さと凶暴な反復の企てを見ると、楽山は、とても無神経で底意地の悪い人だと思います。
 
 
孤独な自慢

孤独な自慢
 
 
楽山の自己愛性人格障害による体質的で極めて卑怯な単方向性の反復する言論活動は、組織的なものか、個人の怨念によるものか、まだ、はっきりと断定はできません。
 
ただ、言えるのは、一般に対して、そして、とりわけ信仰を求める人々に対して、侮辱であり精神の破壊者であることは、今までの批判から明らかであります。
 
楽山は、神がいるなら不幸があってはならないと、まるで、神の合否を云々して神の不在を判断しているのです。私たち信仰者は、不幸があるから神の救いを必要としているのです。楽山のような人にかまってはいられないです。
 
楽山は、神はいないと言いながら、神に代わる幸いを何も示せません。人にそんなことできません。楽山は、人の心をもてあそんでいるだけです。つまり、不幸があるからと言いながら、不幸と煩いをばらまいているのが、楽山です。楽山の言こそが、災いであり、不幸の元なのです。
 
楽山は、人を煩わせるだけで、誰の何の役にも立たない人です。欠損した能力と人格から、楽山が、どんなに難しい本をあげて何か言ってきても、いちばん理解していないのは、楽山なのです。これほど学ぶところのない人は珍しいですが、それが病質というものでしょう。
 
楽山は、言論者ではありません。自分が言うだけで、人の言うことを受け取る器がないからです。このことは双方向の意見交換が不能であることを意味しています。つまり、フィッシイングのように、誰かが、だまされて引っかかるのを楽しみに待っているだけなのです。
 
楽山は、訂正不能の、宣伝と誘導しか出来ないサディスティックな性根だけを持っています。あらゆる詭弁と虚偽を弄して、だまして刷り込もうとしてきます。まともに相手すれば、疲労と人格破壊が待っているだけです。決して相手にしないでください。
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
自分自身の攻撃欲に全く気づいておらず、無自覚のまま、残酷なことをやりたい人。
午後9:44 · 2021年4月26日·twittbot.net
モラル・ハラスメント
@mayawhite222
 」
 
楽山は、自身の攻撃欲または企みに従って、故意に残酷な不感不応と無視によって、キリスト教をおとしめるというモラル・ハラスメントを続けてきました。
 
楽山こそが、思慮もなく、共感もなく、やたら、サディスティックに「自分自身の攻撃欲に全く気づいておらず、無自覚のまま、残酷なことをやりたい人」なのです。
 
ここでは、またしても企んで、卑怯者らしく他者の口を悪用していますが、「自分自身の攻撃欲に全く気づいておらず、無自覚のまま、残酷なことを」やっているのは、楽山であります。証拠は、ずっと言ってきた無反省と無責任で十分でしょう。
 
こちらには約2年に及ぶ楽山の偏狭な決めつけの履歴があります。なおも、このように、恣意的に、人の口をゆがめて悪用するのが、楽山のやり方なのです。病質の執念が凄まじい。
 
楽山は、いくら批判しても変わりはありません。したがって、批判記事を書くのは、批判を始めて数か月を経過したのちは、楽山を変えるためではなく、世の中にいるところの、近づいていい人と、近づいてはいけない人のうち、楽山が後者であることを伝えるためであります。
 
 
(2020年03月29日)
(2021年04月28日、加筆して再録)
 
 
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