ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:道

 
  細い道
 
 
信仰は、この巷では、細い管、細い道です。
聖書を読んでも読まなくても
キリストの共感に共感できる人は少ないのです。
 
信仰を信じ込むことだと思っている人は、一つの宗教を信じると、視野が狭くなると思っているのかもしれません。実際に、そうなる人もいるかもしれません。信仰を勘違いして、豪語したり、夢~妄想的なことばかり言う人がいるかもしれませんが、それは、宗教の間違った有り方です。
 
宗教と信仰は、人間の良心、あるいは、その潤いと温もり、すなわち、悲しみと共感に、人間の求める情感によって惹きつけ、働きかけるものなのです。
 
良心を持っていない人には、宗教が、ご利益の都合のよい超常現象か、念じて頷く自尊に見えるのでしょう。そういう人は、人格障害の病質者として、現に存在しています。
 
信仰は、信じ込むことではありません。共感することです。
 
それが忘れられないことになっても、心も思考も、人間らしさを失うことはなく、むしろ、人間としての真実追求に向かうでしょう。
 
一部の、言葉だけの絶対化に走る教条主義が、わざわざ人間の器を狭くしている、というカルト的な事情は、二千年前と、まるで変わっていないのです。
 
真の信仰は、信じ込むこととは全然違います。洗脳とは全然違います。
 
信仰に、そのような偏見を生み出したのは、一部の曲解している人たちです。それは、カルトの道であります。人が決めた道から外れると、とたんに、呪いのような言葉をかけてくるでしょう。
 
そして、そのような、呪いのような決めつけは、宗教を自認している人だけではありません。
 
反宗教にも、そのような、偏見を与える者たちがいます。彼らは、自分の傷当てに、宗教をけなします。では、彼らが宗教の代わりになる救いを与えられるかといえば、何も提示できはしないのです。
 
宗教をけなして、けなしっぱなしの者には、責任など負えません。まわりまわって、彼らが、ついには、けなされるのを、待っているだけの存在です。
 
反宗教の煽動者は、せいぜい、宗教は、信じ足りなくてもいけないが、信じ過ぎてもいけない、などという、実に、いい加減で中途半端なことを言ってきます。何の助けにも救いにもなりません。
 
そういう、悩み苦しむ人に何の助けにもならないようなことを言って自慢してくる者がいます。その中に、自己愛性人格障害者・病的ナルシスト・サイコパスも含まれていることを知ってください。彼らは自慰か自慢をしているだけなのです。
 
真の宗教は、悩みがないという自覚の人に信仰を勧めたりはしません。不安を煽ったりもしません。宗教と信仰を知るのは、何らかの悩み苦しみが生まれた時からでいいと思っています。何故なら、悩みのない人に、悩みから救われる道を伝えるのは、矛盾だからです。
 
 
(2021年03月15日)
 
 
ポエムのようなものです・・2つ再録・・
 
 
  細い管
 
 
まことに そこはかとなく
細い管の先で 出会うもの
泣いたり笑ったりの
デリケートなところを
もらっている
または
覗いている
 
求める主体も
求める対象も
人間
または
温もり
 
それを追うためだけに
彷徨う
または
遊ぶ
 
響き合うメロディやリズム
ふらちな首や手足が
貧乏ゆすりのように
合わせようとして
外れる
または
踊る
 
喜 怒 哀 楽
 歌 音 楽 快 不快 悲
顔を向け 背け 振る
受け取って
我流に
流す
または
楽しむ
 
自己中の自己満の自覚から
流してしまいたい欲求に
答えてくれよと
欲望
または
共感
 
導かれてリンク先
ヘビメタ 重金属
顔が分からぬ
メロディが分からぬ
歌詞が分からぬ
ノイズ
または
サウンド
 
 ダンシン、ダンシン、20代
 ディスコなんか行ったことないのに
 飲み会、二次会、空いたスペースで
 酔っぱらって踊っているタコのオレ
 向かいの女の子が
 きれいな笑顔で近づいてきて
 怖じけて引いた
 今も後悔
 または
 今も思い出
 
まぶしいライトの
デコレーション
ミュージック
点滅
または
煌めき
 
数分が重なって
一時間二時間
過ぎる
または
過ごす
 
まことに 
そこはかとなく
費やす時間の
傷当て
または
娯楽
 
 
(2020年03月04日)
 
彷徨う(さまよう)
煌めき(きらめき)
怖じける(おじける、怖ける)
 
 
   憂い
 
 
若者は虫歯が痛くなり
老人は歯が無くなる
 
若者は食べ物の味を気にするが
老人は食べ物の硬さを気にする
 
若者は肌の色と荒れを気にするが
老人は肌があれば気にしない
 
若者は前に足を伸ばして進むが
老人は前に倒れるのを
足をつっかい棒にして進んだことになる
 
若者はソファーの上に跳ぶことが出来るが
老人はソファーの上にいつも落下している
 
若者は慌ててトイレに駆け込むが
老人は慌ててトイレの前で濡れる
 
若者は疲れて眠るために
老人は眠るだけなのか知らないまま
目を閉じる
 
 
(2016年06月27日)
 
憂い(うれい)
慌てる(あわてる)
 
(2019年09月20日、一部修正再録)
 
(2020年03月15日、再録+) 
 
 
細い道

細い道
 
 
※ 
 
 14日見たTVタクル
 
オリンピックについて、
やるかやらないかではなく、やることは決まっている。
中止するかどうか・・云々・・
 」
 
やらないが中止なのだから、やるかやらないかだろう。詭弁くさい。
 
 
(2021年03月15日、再録+)
 
 
  楽山のリツイートですが
 
楽山は、また、他者の発言を借りて、言い逃れをしてきます。
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
>>
山本芳久
@201yos1
「ヨブ記」の講座の準備の為に内村鑑三『ヨブ記講演』(岩波文庫)を読んでいるが、めちゃくちゃ面白い。ヨブの苦しみに肉薄していく内村自身が人生の中で味わった様々な苦難が、迫力のある文体を呼ぶ寄せ、稀有な作品となっている。人間をよく知る者こそ、神をよく知るのだ。
>>>引用ツイート
山本芳久
@201yos1
 · 2月28日
【4月期オンライン講座のお知らせ】
新設講座「旧約聖書入門:「ヨブ記」を読む」を開講します。この世界に生きる誰もが避けて通ることのできない「悪」や「苦しみ」にはどのような意味があるのか。この根本問題に正面から取り組んだ「ヨブ記」を冒頭から丁寧に読解します。
>>>
午後1:01 · 2021年3月14日·Twitter Web App
>>
 
「人間をよく知る者こそ、神をよく知るのだ。」・・そうです。私の主張でもあります。この発言において、引用元は、正当だと思います。楽山は、人間を、考えることすら出来ません。だから、超常のことばかりで宗教を語ります。
 
神を努めて知る、ということは、人間を努めて知ることと同値であります。人について考えることなくして、神を知ることはありません。神を知ることは、聖書を読んで考えること、そこから、人間について考えることと同値であります。
 
神を知ることは、決して、人間を超えて、神聖や心霊になることではありません。ここを間違えている例が、楽山その人であります。
 
人は、この地上で生きる限り、神聖にはなれません。人は、人と世界を見て、神聖にあこがれ、希望を託す身であります。ここを間違えている例が、楽山その人であります。
 
楽山は、人間を知りません。その表れが、無反省・無責任・無理解・無神経となって表れています。人間を知らないから、楽山は、そのままでいられるのです。そして、性懲りもなく、また、人の口を借りて、言い逃れをしてきます。
 
楽山は、神聖も分かるんだ!・・と、妄想を叫んでいるようなものです。リツイートにしても、本からの引用にしても、利用~悪用されたほうは、たまったものじゃないですね。
 
楽山は、神を知りません。楽山は、屁理屈で、神?を、オモチャのように、もてあそんでいるつもりのようです。実際には、そのたびに、楽山が、救いからも聖書からも、はてしなく遠いことが表れてきただけなのです。
 
楽山には、真面目さ、真摯さが、どこにもありません。この2年間で、楽山が表したのは、そのような偽善と作為と悪意と訂正不能の自尊過大の凝固性でした。丁寧語に、だまされないでください。
 
 
(2021年03月15日)
 
 
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  信仰の道
 
 
キリスト信仰は、学習の道であります。信じたから総てOKではありません。聖書と人生経験から、祈りと導きから、学んでゆく道であります。洗礼を受けたからOKではありません。
 
神の意志と行為は、神秘、即ち、神の秘密でありますから、儀式は、人にとって、保証ではなく、人からの決意表明であるに過ぎません。
 
キリストを十字架につけて殺したのは誰か。聖書の記事から、それは、パリサイ人、律法学者、祭司、という旧勢力の者たち・・正しいが、不十分であります。
 
キリストを十字架につけて殺したのは、時を超えて、私たちであります。戒律主義・教条主義によるのか、安い道徳、あるいは、勘違いによるのか、さまざまですが、キリストを十字架につけて殺すのは、私たちであります。復活の主でなければ信仰はあり得ないということです。
 
このことから救いがないと言いたいのではなく、キリスト信仰は、決して、悟りの不変の平安の境地ではなく、信じて完全になることでもなく、信じた後も、反省と成長の道であるということです。即ち、教えを守って、正しくなるから救われるのではないということです。
 
信仰は、罪の贖いによる生命保険ではありません。私たちに払える掛け金などありません。ただ正直な祈りだけが、私たちを、神様につないでくれる唯一の音信であります。
 
自分が頼りなくて、自分にうんざりして、自分の欠点や罪を自覚している人に、信仰は救いとなります。宗教や思想にうんざりした人にも、信仰の救いは与えられるということです。
 
自分の欠点や罪を自覚できず認めない者にとっては、信仰は無意味でしょう。そういう者が、あの手この手で、人を惑わしに来ているようです。黙っておれば、結果は、自分のものだけであるのに、人を巻き込もうとするので、要注意、要警戒となっています。
 
 
大仰に、神を讃え、それこそ、命懸け、命を捨てても・・みたいなことを言う者がいますが、そのような信仰のあり方は、既に、ペテロにおいて、失敗しています。神秘の前には、自らの罪と願いを正直に告白し、あとは、恐れて黙する以外にはないのです。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
26:33
するとペテロはイエスに答えて言った、「たとい、みんなの者があなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」。 
26:34
イエスは言われた、「よくあなたに言っておく。今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」。 
26:35
ペテロは言った、「たといあなたと一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは、決して申しません」。弟子たちもみな同じように言った。
 (マタイ26:33-35、新約聖書)
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
26:69
ペテロは外で中庭にすわっていた。するとひとりの女中が彼のところにきて、「あなたもあのガリラヤ人イエスと一緒だった」と言った。 
26:70
するとペテロは、みんなの前でそれを打ち消して言った、「あなたが何を言っているのか、わからない」。 
26:71
そう言って入口の方に出て行くと、ほかの女中が彼を見て、そこにいる人々にむかって、「この人はナザレ人イエスと一緒だった」と言った。 
26:72
そこで彼は再びそれを打ち消して、「そんな人は知らない」と誓って言った。 
26:73
しばらくして、そこに立っていた人々が近寄ってきて、ペテロに言った、「確かにあなたも彼らの仲間だ。言葉づかいであなたのことがわかる」。 
26:74
彼は「その人のことは何も知らない」と言って、激しく誓いはじめた。するとすぐ鶏が鳴いた。 
26:75
ペテロは「鶏が鳴く前に、三度わたしを知らないと言うであろう」と言われたイエスの言葉を思い出し、外に出て激しく泣いた。
 (マタイ26:69-75、新約聖書)
 
私たちには、神の前に誇れるものなど、豪語できることなど、何一つありません。であるのに、人の前に、誇り、勝ちを狙い、豪語するなど、以ての外であります。
 
私たちは、ただ、できることをしているに過ぎないのです。そこには、多くのあやまちや罪もあるでしょう。それでも、できることをする、そして、正直に祈る、これだけしか、信仰によってすることはありません。
 
 (ルカによる福音書、口語訳)
10:38
一同が旅を続けているうちに、イエスがある村へはいられた。するとマルタという名の女がイエスを家に迎え入れた。 
10:39
この女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、御言に聞き入っていた。 
10:40
ところが、マルタは接待のことで忙がしくて心をとりみだし、イエスのところにきて言った、「主よ、妹がわたしだけに接待をさせているのを、なんともお思いになりませんか。わたしの手伝いをするように妹におっしゃってください」。 
10:41
主は答えて言われた、「マルタよ、マルタよ、あなたは多くのことに心を配って思いわずらっている。
10:42
しかし、無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。マリヤはその良い方を選んだのだ。そしてそれは、彼女から取り去ってはならないものである」。
 (ルカ10:38-42、新約聖書)
 
「いちばん大切なもの」
「マリヤとマルタの愛」
 
 (ルカによる福音書、口語訳)
26:7
ひとりの女が、高価な香油が入れてある石膏のつぼを持ってきて、イエスに近寄り、食事の席についておられたイエスの頭に香油を注ぎかけた。 
26:8
すると、弟子たちはこれを見て憤って言った、「なんのためにこんなむだ使をするのか。 
26:9
それを高く売って、貧しい人たちに施すことができたのに」。 
26:10
イエスはそれを聞いて彼らに言われた、「なぜ、女を困らせるのか。わたしによい事をしてくれたのだ。
 (ルカ26:7-10、新約聖書)
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
9:20
するとそのとき、十二年間も長血をわずらっている女が近寄ってきて、イエスのうしろからみ衣のふさにさわった。 
9:21
み衣にさわりさえすれば、なおしていただけるだろう、と心の中で思っていたからである。 
9:22
イエスは振り向いて、この女を見て言われた、「娘よ、しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです」。
 (マタイ9:20-22、新約聖書)
 
神が、人を計るのに、結果の出来ではなく、効率でもなく、善悪の人の基準でもなく、その信仰のみを見ておられることが分かります。
 
キリスト信仰においては、必ずしも、善行を積むこと=救われることとは限らないという、かなり違った意味を持っています。
 
充分に考えたと判断して、効率もよくても、それで、善を施したと思い込んで慢心しては、信仰は台無しになるでしょう。神の完全な善悪の判断と、人の不完全な判断は、大きく異なることを弁えておくべきなのです。
 
神に比べて、不完全な私たちの善行は、高が知れており、ゆえに、信仰においては、できることする、そして正直に祈る、ということを超えるものはないのです。神は、人の信仰のみによって判断されるゆえに、道がハッキリ見えないときでも、できることはあるということです。
 
 
道

 
 
(2021年01月08日、同日一部修正)
 
 
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