近況:腰椎骨折と認知症で、介護付き老人ホームに入所して、車椅子生活の母ですが、来年、百歳を迎えます。役所より、表彰状と銀杯が贈られてきました。
 
 
  楽山のよいしょ遺伝子2
 
 「リチャード・ドーキンスbot」を見てみた。(2)
 2021年09月13日 楽山日記(LD)
 
 
自分で理路を組み立てて自分なりの主張というものを書くということが出来ない楽山は、常套手段として、学者などの有名人の話を読んだことにして、持ち前の見え透いた世辞で褒めまくって、理解不十分でも賛同し、自分も同じ立場にいるインテリだというふうに見せかけようとしてきます。
 
(ネットより)
クリントン・リチャード・ドーキンス(Clinton Richard Dawkins, 1941年3月26日 - )は、イギリスの進化生物学者・動物行動学者である[1]。The Selfish Gene(『利己的な遺伝子』)をはじめとする一般向けの著作を多く発表している。存命の一般向け科学書の著者としてはかなり知名度の高い一人である。
 
 
*つづき
前記事に続けて、ドーキンスの名言について感想を書いてみたい。
利己的遺伝子説はダーウィンの説である。それを、ダーウィン自身は実際に選ばなかったやり方で表現したものであるが、その妥当性をダーウィンはただちに認め、大喜びしただろうと私は思いたい。
 」
これはドーキンスに対する最大の賛辞にちがいない。
 
誰が誰を褒めたと言っているのでしょうか。ドーキンスは現代の人、ダーウィンは19世紀の人なのですが。
 
(ネットより)
チャールズ・ロバート・ダーウィン(Charles Robert Darwin ([tʃɑːlz 'dɑː.wɪn]), 1809年2月12日 - 1882年4月19日)は、イギリスの自然科学者。卓越した地質学者・生物学者で、種の形成理論を構築し進化生物学を発表した。
 
 
*人という生存機械
我々は、遺伝子として知られる利己的な分子を保存するように盲目的にプログラムされた、機械的な乗り物としての生存機械なのだ。これは、私の心を驚きで満たしてしまう真実である。
 」
こういう考え方は、以前の自分であれば絶対に受け入れることはなかったのであるが、最近はさして抵抗を感じなくなっているのだから、我ながら不思議だ。人は変わるものだということなのだろうな。
 
この人たちの話に大きく欠けているのは、人間が機械だとしても、それだけでは何も変わらないということです。どう生きてゆくというのでしょう。オートマチックに生きるのでしょうか。それとも、楽山が言っていたような、自らのあらゆる問題を無視する自己中の生き方でしょうか。
 
受け入れようが、受け入れまいが、明らかになっているのは、楽山が、人間を機械だと思いたいこと、そして、機械だということだけで大喜びしている、という奇怪さであります。楽山は、心を持たない自己の正当化につながれば何でもいいのでしょうか。どれだけ、心を育て損なってきたのでしょう。
 
 
*利己的な遺伝子
この本の主張は、我々、そしてすべての動物は、遺伝子によって作られた機械であるという事だ。
 」
マーク・トウェインの『人間とは何か』を読んで、人間機械論には合点がいったのではあるが、ドーキンスの『利己的な遺伝子』を読むことで、人の利他的行為の背景についてさらに深く考える切っ掛けを得られたのはよかった。
進化論は肉体の進化に関することだけだと思い込んでいたのだけれども、人の行動および心理に関してもさまざまな謎解きをしているところには感動を覚える。
 
楽山は、短絡有頂天を喜んでいるだけで、「深く考え」てなどいません。さらに、楽山には、自己愛性人格障害からの利己はあっても、利他的なところは、全く見られません。それを、機械だからと言って正当化するつもりでしょうか。いったい何を悦んでいるのでしょう。
 
「利他的行為の背景に」「機械」?・・何も明らかではありません。考えるきっかけには、全くならない話です。人間を機械だと見なして、人間らしさを捨ててきた楽山の自己愛性人格障害の人生を思わせるだけなのです。自己正当化も、幼稚な短絡で、ここまで来ると、妄想と言ってよいでしょう。
 
 
*ダーウィン批判とマヌケども
ダーウィンの進化論に反証など存在しない。しかし、仮に反証されることがあるとしても、それは科学者によってであって、マヌケどもによってではないだろう。
 」
これは辛辣なもの言いだ。でも創造論者による進化論批判のトンデモぶりからすれば、こう言いたくなるのも理解できなくもない。
 
ドーキンスという人は、自己愛が激しそうです。そこでしょう。楽山は、自分に似た有名人がいることを悦んでいるのでしょう。しかし、批判者を「マヌケども」と呼ぶことは、辛辣ではなく、暴言になり、その結果、それを悦ぶ楽山のような変質者に、へばりつかれているのです。
 
(ネットより)
創造論(そうぞうろん)とは、宇宙や生命などの起源を創世記に書かれた「創造主なる神」に求める考え方であり、「創造主なる神」によって天地万物の全てが創造されたとする様々な議論のことである。
 
聖書に書いてある通りというのは、神話を実話と解釈することなら、信仰において、何の洞察にも理解にもつながらないことです。どちらかに決めつけたがるのは、楽山のように、分かってると思い込みたい者たちの欲望であります。神秘については、人は、正直に、分からないと言うべきです。
 
 
*地球外生命体と自然淘汰
自然淘汰の説明力は、この惑星の生命に関することだけではない…原理的にはあらゆる惑星での生命に適用できる。もし宇宙の他の場所で生命が存在するとすれば―私の暫定的な予測では存在する方に賭けるが―自然淘汰による進化の何らかのバージョンが、その存在の背後にあることはほぼ間違いないだろう。
 」
どのブログかは忘れてしまったが、もし宇宙人が存在するとしたなら、それは地球人と似た姿をしているだろう予測を読んだことを思い出す。その理屈は、知性を発達させるには大きな脳が必要であり、大きな脳を支えるには直立する必要がある、道具を用いるには道具をしっかり掴めなければならず、そのためには親指と他の指のように向き合った指が要る…という具合に考えてゆけば、宇宙人もきっと地球人の姿とよく似たものになるだろうというものだった。
 
楽山は、人間世界から、楽山の大好きな人間を超越した地球外生命体に、話が誇大化します。自分のメチャクチャな本性が明らかになってきたからでしょうか、いつまでも、人間外のことや他者のことばかり考えていたいのでしょう。しかもそこで、宇宙人に人体をそのまま当てはめるという陳腐さです。
 
自己正当化が成り立たなくなると、何らかの陶酔傾向へ逃避するのでしょう。しかも、万歳三唱しているような浮かれようです。この楽山の記事では、何も明らかになっていません。説得力もありません。相変わらず、構成力と説得力が、楽山には皆無だからです。
 
 
無神論者のドーキンスが、地球外生物が存在する可能性を否定しないというのは意外な気がしないでもないが、こういうところからするとドーキンスが厳しい宗教批判を続けているのは、頭が固くて超自然的なことを理解できないからではなく、論理的かつ柔軟な思考ができるからこそなのだろうと思えてくる。
 
地球外生物の存在可能性を認めるだけで「論理的かつ柔軟な思考ができる」ことになるでしょうか。そう言って褒めまくっている楽山には、論理的思考も、柔軟な思考も、情緒的感受性も、一度も見られたことはありません。自分のことを省みない者は、このようになってしまうのです。
 
念のために言っておきますが、キリスト教の信仰は、分かりもしない世界や宇宙を説明するためにあるのではなく、人間の人生の救済のためにあり、キリストは、そのために遣わされたのです。このことに無神教カルトは関心がないようです。それを楽山が「論理的かつ柔軟な思考」とは笑止であります。
 
進化論で宗教と対決できると思っているような人々は、自分の持ち物を自慢しているに過ぎません。なんだか学者の間でも、ナルシスト同士の争いになっているのではないかと危惧されます。そして、その争いを、楽山は、全く関係ないのに、たいそう、のぼせて、嬉しがっているのです。
 
今回も、楽山の酷い文章でした。謙虚さを欠いた自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)は、自己愛に耐えられるような能力も知性も感性も持たない楽山を、カチンカチンの妄想から、着々と自己破壊に向かわせているようです。
 
 
持たざるに 口数は多し

持たざるに 口数は多し
 
 
(2021年)
(2022年09月25日、再録+加筆)
 
 
 
  頂点を極める者
 
山頂は常に其処(そこ)から
上には登れないことを示しているのだが
登りつめた者は
まるで空までも征服したかのように
誇らしげに四方を見渡している
高い高い大気と吹き上げてくる風は
なかなか下りようとしない者たちの
有頂天の背後から少しずつ
密(ひそ)やかに帰り道を隠してゆく
 
 
  堂々巡り
 
退くときを弁(わきま)えず
進み具合を測ることも出来ずに
堂々巡りを
二十年以上続けている奴が
ここにいる
まだ続ける気でいる
 
恐れるな堂々巡りを
よく言えば回帰だ
うまくいけば螺旋(らせん)だ
 
下る方が好きなのか
誇りを払いながら
上る方が好きなのか
埃(ほこり)を見習いながら
 
どのみち切りがない
転んでも構わない
転がる間は上も下もない
上も下も気が進まないなら
そのままじっと拝んでいるか
 
変わらなくても変わってる
堂の中には何がある
せめて寝返りでも打って来い
くるくるくるくる目が回る
やっぱり続ける気色の気
何が回帰だ何が螺旋だ
堂の外はどうなってる
 
 
  よいしょ
 
よいしょ
で担ぐものは
もちろん物だけではない
立つとき座るとき
動き出すとき休むとき
よいしょ
よっこらしょ
で担ぐものは
片付けた何か?
整理してしまいたい何か?
済んだことにしたい何か?
景気付け・元気付け
で軽くしたいもの? それとも
生きてきた年月であろうか
背負ってゆく年月であろうか
自分自身であろうか
 
よいしょで出世する奴もいれば
よいしょも言えず難渋する人もいる
 
まだ生きているということだから
自らの測れない軽さ・重さを背負って
私も立ち上がる
うんこ
 らしょっ・・・と
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山
@komo266
「科学」の定義を変えてしまったら、「HSの科学は、一般の科学ではなく、HS独自の科学です」という疑似科学宣言…またはトンデモ宣言になってしまうだろうに、Pさんは何考えとるんだろ?
午後7:02 · 2021年9月14日
 
また、楽山は、人のことを言っています。今回のブログ記事のように、分かりもしないのに、利己的な遺伝子という比喩表現や、人間は機械なのだ・・という説に、大喜びする楽山は、いかなる科学も理解していないと思います。楽山は、無反省・無責任の、トンデモ記事を書く奇怪な機械です。
 
(ネットより)
利己的遺伝子論(りこてきいでんしろん)とは、進化学における比喩表現および理論の一つで、自然選択や生物進化を遺伝子中心の視点で理解すること 。遺伝子選択説もほぼ同じものを指す。1970年代の血縁選択説、社会生物学の発展を受けてジョージ・ウィリアムズ、E・O・ウィルソンらによって提唱された。イギリスの動物行動学者リチャード・ドーキンスが1976年に、『The Selfish Gene』(邦題『利己的な遺伝子』)で一般向けに解説したことが広く受け入れられるきっかけとなったため、ドーキンスは代表的な論者と見なされるようになった。
 
 
 
楽山の害毒メモ:
今までに表れてきたこと。これは、楽山に限らず、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、世に数多いる偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。楽山は無責任です。決して信用しないでください。
 
楽山は、1つのことを書いて、別の時には、それに反することを平気で書いてきます。そこで、反省、修正、というステップを書かず、あたかも最初から思っていたことのように書いてきます。自分に誤りを認めない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
笑いと怒りしかなく、悲しみの情がない。
共感がなく、罪悪感がなく、反省しない。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。相手が疲れるのを見て快感を得る。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。サイコパスと思われる。
アドラー心理学の宣伝をしていた。自己中心である。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
 
奇怪な単細胞。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わないし、できないし、元々する気もない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取りなど。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
騙して、言い分を詭弁や嘘で通そうとする、通っていると思い込む。
 
訂正不能の偏執
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
慢心して中身の無い形骸
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
楽山が、読書と称して、他者の引用が多いのは、楽山自身は欲望しか持っておらず、まとめることも、分けることも、組み立てることも、できないからでしょう。そして読んだことにして、今回もまた「感動を覚える」「私の心を驚きで満たしてしまう真実」などと、単純に、べた褒めするだけなのです。
 
つまり、楽山は、引用でもしないと、単独では、まとまらず、組み立てられず、掘り下げることも出来ないのです。しかし、バレてしまえば、結局、ごまかしを続けてきた期間の分も、楽山は、恥を重ねてゆくことになります。そうならないための弁えを育てていないことが、楽山の不幸であります。
 
前に、楽山は、「人それぞれ」「自分を貫く」といった単純な言葉で、自分もそうしていると自己正当化を図りましたが、人それぞれでよいという中に、楽山の、自己中、無反省、無責任は、入りませんし、ゆえに、楽山は、改めなくてはならず、ましてや、貫いてはいけないのです。
 
楽山を批判する場合の注意点:
楽山が無視してくることは、返せないからで、批判を続ければよいわけです。また、楽山は、発作か衝動のように、一度に多数の記事を書いてくることがあります。その場合、恣意的な選択による悪口の寄せ集めなので、つきあってはならず、こちらが無視するべきです。
 
 
楽山は、自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)の遊び人であり、アンチではありません。HS問題を利用しているだけの策士です。楽山が誰を批判しても、信頼度はゼロです。楽山こそ、真実追求の分野から、始めに排除されるべきサイコパスなのです。
 
だから、楽山は、記事でなくても、ツイッターなどに、いつまでも書いてくるのです。罪悪感がないので、反省しないのです。そして、何をしても責任を負う気は全くないのです。
 
精神衛生を守るために、私もそうしていますが、楽山と直接の遣り取りをしてはいけません。徹底して無視してください。批判するなら、記事として批判するにとどめてください。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
ツイッター:
(ブログ記事をコピペすることあり)
 
 
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