ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:霊能者気取り

 
  楽山の零の話2
 
 宗教のはじまりは、神の啓示ではなく、人々の営みによる!?
 (『信じない人のためのイエスと福音書ガイド』中村圭志著)
 2021年07月29日 楽山日記(LD)
   を改めて批判。
 
 
楽山の精神障害は、病的な体質なので、医者にも、宗教家にも、治せません。かつ、このような自己満に生きている者は、書くことをやめません。書けば書くほど、批判の対象として資料となります。不変・停滞したままの楽山のほうが、ボロボロになってゆくことに、まるで気づかないからです。
 
楽山は、"霊"の話をしたつもりでしょうが、空想と思い込みに過ぎず、中身がゼロなので、"零"の話というテーマにしています。楽山が、情けないほど人間について、特に自分について、無理解なのは、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)によるものだと思います。
 
 
*宗教のはじまり
巷では、「神が人をつくったのではない。人が神をつくったのだ」という話があるが、中村圭志氏の著作にもそれと似た考え方が書いてあった。
そもそも、一つの思潮が生まれてやがて大きな伝統へと育っていくプロセスのすべてを、その最初にある起源の一点、一人の偉大な開祖の「無から有を生み出す」ような奇跡的なチカラワザの功績に帰すことはできないでしょう。いかなる思想的潮流の立ち上げも、英雄一人の独創性だけで出来るようなものではありません。
(『信じない人のためのイエスと福音書ガイド』中村圭志著、みすず書房、2010年、p.36)
 
「人が神をつくったのだ」と言う無神論の記事を楽山は、同じ狙いで引用しているようです。人は神を作ることは出来ない。しかし、人が、神のような存在を想うことはあります。あまりに悲劇が多い地上だからです。そういう魂の癒しに、まるで感受性のない者たちが、神の不在を説いてくるのです。
 
「思潮が生まれてやがて大きな伝統へと育っていくプロセスのすべて」の起源について、すべて知っている人はいません。楽山と、引用されている学者らしい人は、とても、いい加減なことを言っています。長期にわたるプロセスの、その起源だけを否定したいようですが、遠すぎることです。
 
「開祖の「無から有を生み出す」ような奇跡的なチカラワザ」の開祖とは、キリストのことを言っているのでしょうか。キリストは、奇跡のチカラワザだけだったでしょうか。違います。この二人は、いちばん大切な、キリストの洞察と共感のことを書いていません。本質を理解していないのです。
 
「英雄一人の独創性だけで出来るようなものではありません」・・英雄とか独創性とかではなく、人間が生きるために、なくてはならないことを、数々の抵抗と嘲笑に遭いながら、命を賭して語ったのが、イエス・キリストであります。二人の無神論者には、なくてはならない共感する心が、ないのです。
 
どうも、この学者は、キリスト者ではないようです。反キリストかもしれません。あるいは、楽山の恣意的な選択による引用でしょうか。旧約があり、キリストが宣べ伝え、後の、信仰者や学者が、解釈や体験談を積み上げてきたわけです。キリスト信仰の心を語れない楽山は知る由もありません。
 
キリスト者が一枚岩ではないとしても、いちばん大事な信仰の心を疎かにしている学者や、何にも分かっていない楽山が、否定できることではありません。キリストの敵というのは、パリサイ人のように、命と心を救う術を持たない者たちです。楽山は、その典型的な精神病質者です。
 
 
思想や習慣に一個の中心があると捉えるのは、あくまでも当事者にとっての「心の要請」であって、「客観的事実」ではありません。歴史上の起源の一点として開祖物語の事実性を想定しなければならない論理的な必然性はないのです。私たちは、当事者の心の問題は公共的な知識にはならない、と肝に命じておく必要があるでしょう。
(同上、p.37)
 」
 
信仰は、客観的事実ではありません。心の要請に応えるのが信仰であります。この学者は、楽山と同様の反キリストだと思います。「当事者の心の問題は公共的な知識にはならない」と言っていますが、個人の心を救う信仰は、元々公共的な知識ではありません。
 
開祖物語の事実性は、キリストの、人の心への共感性に比べると、人間にとって、おおよそ、分かち合うことのできない神のわざについては保留するべきだと言っているのです。学者か何か知らないが、信仰の本質をすり替えるところは、楽山に、よく似ています。
 
 
これは確かにその通りだ。新しい宗教は、特別な能力を持つ一人の天才的な宗教家が悟りを開いただとか、神の啓示を受けたなどと称してはじめるものだという印象があるが、宗教の歴史を調べれば調べるほどそれはあくまで印象にすぎず、実際は著者の言う通りだと認めざるを得なくなるものだ。
 
いつもの太鼓持ち楽山のセリフ「確かにその通りだ」と言って、学者を理解したような顔をしているらしい楽山は、"ひょっとこ"顔に過ぎません。キリストの特別な能力のうち、人に理解可能なのは、人に対する洞察力と共感力です。いずれも楽山には全くないものです。
 
楽山は、歴史の事実性にこだわり、心の救済を、どんどん遠ざける者です。物や肉体の奇跡は、現代では滅多に起こっていないのだから、それを信じ込むことは、人を生かす信仰ではありません。しかし、終生の同伴者の共感は、人を生かします。それを、楽山は語ったことがないのです。
 
共感ということが、言葉だけ書いても、楽山には分からないのです。共感、同情、罪悪感、羞恥心などの高等感情が、楽山にはないのだろうと思います。だから、事実や史実や辻褄にこだわり、そこで、総てを語ろうとするのですが、大事なことについて、全くの無知の無恥であります。
 
 
どんなに革命的で新奇に感じられる宗教、思想であっても、それ以前の歴史文化伝統などの影響を受けて生まれたものばかりで、それらと非連続なものは見当たらない。この意味で、「神が人をつくったのではない。人が神をつくったのだ」というのは冗談のようでありながらも言い得て妙である。
 
「歴史文化伝統などの影響を受けて生まれたものばかりで、それらと非連続なものは見当たらない」・・だからといって、独創的な考えをもって扉を開ける者がいなくては成り立ちません。それが救いとなった人々が古今にいるわけですから、救い主と言われているのです。
 
聖書を読んでも、話を聞いても、楽山が、救いにつながるものを何も見出せないのは、共感性を育て損なっているからでしょう。なのに、知ったかぶりして、洞察力も共感力もないのに、科学と同じような方法論みたいなことを口走る愚かさで邪魔だけしてくる楽山は、とても迷惑です。
 
信仰においては、文化的影響や、学問的発達もまた、神の導きという視点を持っていて、それが、神を恐れることにつながります。そういったことを、全く考える能力も視野もないのが、楽山であり、ゆえに、屁・理屈屋は、屁・理屈学者の言を利用して、その通りだと、はやし立てるのです。
 
神が人を造るのを見た者はいません。神が人を造るのは、その人生においてであり、どこがそうだと言えないような神の秘密、これこそが神秘なのです。そういう恐れへの感受性を全く持たない自己愛性パーソナリティ障害NPDの楽山は、ゆえに、反キリストになっているのでしょう。
 
楽山は、好きなだけ、信仰者の心の秘密のエリアを、傷つけ、侮辱してきます。それが快感で、生き甲斐なのだろうと思います。宗教の堕落による弊害に隠されている、かけがえのない福音を、知っている者は知っていて、それなしでは生きられないのに、魂の殺人を企む無神教カルトがいるのです。
 
 
*宗教は人から生まれたものなのか?
とはいえ、スピリチュアルな方面からは、「新たな思想宗教は、この世を超えた世界の存在を信じない唯物論者には人々の営みの中から生まれたように見えるかも知れないが、実際には人々の霊性を向上させようとする神の計画に基づき地上に展開されているのである。世界宗教の開祖などはそのような使命を担って生まれた存在なのである」云々という反論があるかもしれぬ。
 
インチキだけの楽山がスピリチュアルを語るのでしょうか。霊性を向上させるという言い方は、スピリチュアルの宣伝でしょうか。聖書を学んで人間として成長するのが、信仰であります。"霊" という言葉は、恐らく、楽山が、気取るために悪用した最初の材料なのでしょう。
 
 
これはこれでスピリチュアルな世界観の内側ではそれなりに筋が通っているようにも思われる。けれどもこの考え方の背景にあるのは「人の本質は霊であり、輪廻転生をくり返してさまざまな経験を積み、霊性を向上させることを目指している」という霊性進化論であり、これはダーウィンの進化論の影響を受けて生まれた思想であるという見方があるのだ。
 
私はキリスト者のつもりですが、霊性進化論などという超常の論理については、聞いたことがないし、むしろ、霊に興味があるのは、教祖願望の楽山のほうでしょう。しかし、楽山の教えには、いちゃもんはあっても、救いにつながる何ものも見い出すことは出来ないのです。
 
霊から、超常の輪廻転生に、話が行くのでしょうか。さらに、「霊性進化論」という言葉さえも利用して、学問だという箔を付けて、さらに、ダーウィンの進化論まで結びつけるに至っては、食傷というか食中毒とでも言うべきでしょう。ゆえに、楽山は、ネットにブログに吐いているのです。
 
このように、楽山は、学問や学者を引用~悪用して、実質がないのに、言葉の面構えを作ります。これを、知性であるかのように受け取ってしまうと、実は、楽山の、欺瞞に満ちた架空の、霊が分かるっぽい幼児体験から、右翼思想にまで、誘導されてしまうという悲劇が待っているのです。
 
不思議なことですが、神の超常奇跡を否定する楽山は、自らの、仏様の気持ちが分かるっぽい?ということに始まるところの霊を信じているのです。唯物的なことを言えば言うほど、ほころんでゆく宿命を持っていますから、今後も壊れてゆく楽山を相手にしてはいけないと思います。
 
 
もしこの見方に真実があるなら上の考え方は一人の天才が悟りを得るなり神の啓示を受けるなりして突然に言い始めたのではなくて、先行する思想宗教等の影響下において生まれたものであり、新たな思想宗教は人々の営みの中から生まれるという見方の正しさをますます補強するものでしかなくなるだろう。
 
「新たな思想宗教」は、人間において、一挙に完成されるものではなく、数多の先人の真摯な努力と実践の中で、一人の優れた洞察によって開かれるのでしょう。そこに働く神の秘密の導きを、恐れもなく否定する楽山には、恐らく、別の近道、つまり、暗闇へと滑り落ちる勾配への引導が渡されるでしょう。
 
「人々の営み」という曖昧な表現が使えるところではないのです。さらに、この「人々」の中に、決定的に、楽山は含まれません。楽山は、人の営みを妨害する作用しか持っていないからです。ゆえに、楽山の味方も、何をも補強せず、ただただ、堕落が堕落を呼んでいるだけです。
 
 
こうしてみるとどうやら現時点においては、宗教というものは、地上の人々の間から生まれたものだとは言えても、地上の人々の手には届かないこの世を超えた世界で生まれたものであるとは言い難いものだと言わざるを得ないように思う。
 
このように、詭弁を進めて、何の説得力もないのに、説得したつもりになって、"現時点においては"、という免罪符まで付けて、超常の神も、地上に降りたキリストも、無視して、自身の悪魔性の霊だけは分かるっぽくない楽山の性根が、臭気を放ってきます。
 
「言わざるを得ないように思う」・・無責任の楽山の婉曲ボンヤリ言語も、どんどん退化してゆくのは、こちらが、楽山の文章から楽山の偽善を知り、信頼度がゼロになり、なおも書いてくる楽山の、根底にある病魔に気づくに至っているからです。楽山に近寄ってはいけません。
 
 
きなくさい霊障

きなくさい霊障
 
 
(2021年)
(2022年08月05日、再録+加筆)
 
 
 
 昔書いた聖霊の話
 
聖霊体験なるものを
重視するのが主流らしいが
聖霊と友だちのように
直接交わる体験の話に
抵抗を覚えてしまう
 
父・子・御霊(みたま)という神格
即ち神様とキリストと聖霊のうち
人格となって語られ
人間の永遠の友でありうるのは
イエス・キリストだけではないのか
キリスト教はいつから
聖霊教になったのか
キリストはいつから教義上の
贖罪仲介者になってしまったのか
 
聖三位は恐れ多い御方であり
神の導きや聖霊の働きは
聖なる領域からの
秘められた賜物(たまもの)であり
もっと心に恐れを
口に慎(つつし)みを
持ちたいと思うのだが…
 
キリストの神格について
わかっているわけではないし
これも独り善がりの独り納得の
信仰観に過ぎないのだろうか
 
嘆息よ
レスポンスのない
置き去りにした課題
何ひとつ解決していない
 
 
  対話
 
光が街中で叫んでいたのに
二人腰掛けて
向かい合って話していた
一人は一人の後ろの人を
もう一人はまた別の人を
二人が話していたという場面
それは対話
光も記憶もそれ以外を写さなかった
光が街中で叫んでいるのに
あれから数々の対話
人とだったか
幽霊だったか
幻だったか
夢だったか
話す方も答える方も
数さえわからない
対話?
今も光が街中で叫んでいる
 
 
  誰の死
 
一つの死を前にすべての言葉は無力だ
茶色のうねりだったような道の中に突っ立っている
夕暮れの青ざめた人々
夕焼けさえ悪意の色で迫るかのように
焼かれる炎は
さらに焼かれる
誰のものなのか
いきなり破裂する
色も光も音も
皆ばらばらの吐物のようだ
誰のものなのか
鈍く包んでいく闇では終わらない
幽霊でもなく
幻でもなく
朝よりも静かな熱をもって
墓標よりも先に
冷ややかに立ち上がる
誰のものなのか
一つの無力の前にすべての言葉は命だ
 
 
  求めよ
 
求めよ、さらば与えられん
・・・・・
あまりにも有名な聖書の言葉
しかしいったい何が与えられるのであろうか
言うまでもないことだが、求めればいつでも
欲しいものが与えられることではないわけで
むしろ苦難の時の霊的な賜物というべきか
勇気や安らぎに似たものか
こころゆくまで苦悩を表現したときに感じる
昇華作用のようなものがあるかもしれない
精神的効用と言ってしまえばそれまでだし
表現する相手によっては損をしたような気色にもなる
しかし相手が神様となると事情は違うだろう
はかない独り言のように思えても
限りない包容といつくしみを
忘れかけている者にとって
祈り求めることは違った働きを持つ
 
無限といっても有限といっても
奇跡といっても気休めといっても
霊的といっても心理的といっても
心の底の底、奥の奥まで
人にわかるはずもなく
またそこまで理解する必要もない
祈り求めることは
生きた働きをもって返されれば充分である
 
偽りのない
正直な祈りは
告白を伴って受けとめられ
信仰がまさに絶えんとするきわに
神と人との契約
基督と個人とのきずなによって約束された
閉じた目のぬくもりを身近に目覚めさせるであろう
 
 
  朝までの群れ
 
懸濁液のコロニーから
生えてくる社会ひとつひとつは
整然として燃焼を収めてゆく
炉に投げ込まれる人の形の
氷の造形も黄昏て
その節々に時を刻み
離れ離れの役者の帝国に
歌姫を連れてきて笑わせる
けばけばしい提灯の夜
イオンの息子たちは集まって
はみ出したやつが道になる
 
放り込むのか夜明けの虫
安いライターを燃やすのか
そこここに蝉の亡霊が鳴き
病人のベッドを濡らし
小火(ぼや)に逃げ遅れて肉片は踊り
間違って太陽がひょっこり顔を出す
危ないぞパイプと鎖
すでに火だるまのバクテリア
ブローバックの煙
路上に転がる金属音
連続した紙幣と貨幣
たちまち飛び散って
レスキューの箱に収まりきれず
遠くの信号が点滅して
踏切で眠りにつく子守歌
 
細く丸く輪になって焼いて・・・
朝の短い把手(ノブ)を擦り抜けて
割れたフラスコを絡ませた頭の
ありふれた生前の手によって
寝起きの試験管から
コロニーはシャーレに移される
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
楽山には、良心による反省力などの、人間性が育っていません。だから、反省も後悔もしない、責任を負わない、他者の言うことを受け取って考えることが出来ない、という修正不能の故障を来たして、自覚のない無病識のまま慢心して、しゃしゃり出てくる厚顔無恥となっています。
 
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
「光の天使は、みな詩人である」という言葉は、何の本に書かれてあったのか失念していたが、ここにあったか…。
どうやら、若干の記憶の変換もおきていたようだ。
この言葉を念頭におきつつ、愛のあとさき、格はいく集を読むと感慨深いものがあるなあ。
「(引用)
ryuho-okawa.org
天使たちが人々を導く方法
言葉というのは非常に大きな力を持っているわけです。 そして、言葉というのが、言葉および言葉に備わっているところの霊力というのが、天使たちが人々を導くときの最大の方法論の一つであります。これが、宗教家がみな詩人であることの事実そのものであります。
 」
午後7:42 · 2022年8月4日·Twitter Web App
 
HS教祖ORの引用で「天使」「霊力」というのが方法論で「宗教家がみな詩人であることの事実」で、楽山は「感慨深い」と言っています。アンチではないことの証明です。我もかくありたい・・とでも言いたいのでしょうか。楽山の、嘘と詭弁と猿芝居で惑わしたい教祖願望でしょう。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
ツイッター:
(ブログ記事をコピペすることあり)
 
 
ブログ村ランキングリング:INポイントが付かない。
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング
 
 
 

 
  人のことばかり語る楽山2
 
 神秘体験の影響力
 (『宗教的経験の諸相(下)』W・ジェイムズ著)
 2021年07月13日 楽山日記(LD)
 
 
本を読んだつもりで書いて、自分を高めたつもりになって、自分の非だけは認めず、宗教と信仰を短絡した空想の理屈で語ってきて、誰の役にも立っていないことも、迷惑になっていることも無視してゆく根拠を、神秘や心霊に求めても無駄だということが、楽山が何か書けば表れてくるのです。
 
楽山のように自分の罪と偽善を棚に上げて、他者のことを批判することは、偽善者の罪業であり、どんなに、もっともらしいことを書いても、もっともらしい文言の分、むしろ詐欺性は増すのであります。悪を悔い改めないまま、善を上塗りしても、際立つのは、偽善性という最悪だけなのです。
 
 
*神秘体験の影響力(本人)
神秘体験の本人に与える影響について、『宗教的経験の諸相』には次のように書いてあった。
神秘的状態は、それが十分に発達した場合には、普通、その状態になった個人に対しては絶対的に権威をもち、そして権威をもつ権利がある。
(『宗教的経験の諸相(下)』W・ジェイムズ著、桝田啓三郎訳、岩波書店、2015年、p.249)
 」
さらに著者は、体験者本人に対して合理主義によって「どんな不平を唱えても無駄である」し、
 
霊が分かるっぽい楽山の霊能者気取りに対して、何を言っても無駄であることは、約3年間批判してきても不感不応である楽山に表れています。実際には、楽山は、気取りだけで、何の洞察もなく思考の糧にもならない人です。
 
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と言わざるを得ませんが、楽山の学者気取りと、訂正不能の反キリストぶりは、理路もなく、良心もなく、いつも自分のほうが上という自覚から、反省も後悔もなく、放たれ続ける毒矢であります。
 
それが、楽山が、体質的な病的ナルシスト、即ち、自己愛性パーソナリティ障害者であることを示しているのです。楽山は、不平を言っても無駄だから、何を言ってもいい、何を言っても正しいと言いたいのでしょうか。楽山は、不平を言われているのではなく、否定されているのです。
 
 
仮に「その人を監獄や精神病院へ投げ込」んだとしても、その者の「心を変えることはできない」どころか、むしろ「彼の信念をますます頑固にするばかり」であり、結局のところその者を「私たちが好もうと好むまいと、そっとその信条を享受させておくほかない」のだという。
 
だから、楽山は、精神病院に入れても治らないし、楽山が信じこむこと自体は、変えることは出来ないでしょう。その成れの果てとして、慢心し、傲慢になり、訂正不能になって、人間離れしてゆく楽山の有り様を、楽山自身が、詭弁で正当化する間、症状が表れてくる成り行きなのです。
 
 
これはよく分かる話だ。恥ずかしながら自分は、とある新興宗教を「これは本物だ!」という神秘的直感によって信じてしまい、他からどんなに意見されても判断を変えなかった過去がある。この時の自分の心を思い出せば上の話に首肯せずにはいられない。神秘体験なり、神秘的確信によって特定の宗教または信条を信じ込んでしまっている人の心は、どれほど合理的な反対意見であっても、それを否定する客観的な事実を提示したとしてもそう簡単には変えさせることはできないものだ。
 
何が「よく分かる話」なのでしょう。楽山は、仏様の気持ちが分からない家族に驚いたという記事を書いています。冗談だろうと思っていたら、何を考えるにも、霊とかの超常のことを書いたり、霊言なるものを引用したり、神を否定したりなど、傲慢だけが表れてきたのです。
 
それで「変えさせることはできない」から好きにさせろとでも言うのでしょうか。楽山を変えることは、とうに諦めています。批判によって楽山の詭弁や嘘を指摘して否定すること自体が、楽山に対して為すべきこととなっているわけで、そういうことも書いてきたのに、まるで理解できない楽山です。
 
霊能にこだわらなくても、はっとさせられたり、洞察や共感があれば、優れていると分かりますが、そういう目を覚まさせる発言内容は、楽山には、皆無であります。楽山は、新しい何かを語れる人ではなく、ただ、自己顕示欲だけの超常霊能フェチの退屈な人です。
 
超常にこだわり、その方向に思考が流れて、宗教も信仰も、人間の問題として考えることのできない人です。だから、いかなる問題も、解決の方向には向かず、ああでもないこうでもない曖昧な話になり、ボンヤリ言語と、トホホ言語の謙虚芝居でごまかしてきたのです。
 
楽山は、宗教を語れる人ではなく、宗教を批判できる人でもなく、オタク的趣味に生きるしかない人だから、非合理で、理路を組み立てることが出来ず、結局、神秘気取りの妄想で、無反省に、無責任に、雑言の一方通行で、人心を煩わせる経過にしかなっていません。
 
 
*神秘体験の影響力(第三者)
同書には、神秘体験の第三者に対する影響力についてはこうある。
神秘的状態の啓示を、その局外者に対して無批判的に受け容れることを義務付けるような権威は、そこからはけっして出てこない。
(同上、p.249)
 」
著者はこれとは別な言い方で、神秘体験をした者がそうでない者に対して、その者が「召命を感じて」自ら受け容れる場合を除いては「その独特な経験について伝えるところを受け容れよ」と要求する権利はないともいう。
 
神と宗教と信仰を、人間には分からないはずの神秘体験で語れると思っていること自体が、楽山の最初から今に至るまでの、理路と直感の貧困というべきでしょう。宗教が必要ないなら、分かりもしないのに宗教を、安い先入観で語るべきではないのです。
 
楽山の無反省で無責任な発言は、いかに神秘と絡めても、受け入れてはいけないし、受け入れる価値はないし、批判され、否定され、雑巾のように捨てられるべき経過しか待ってはおらず、楽山の自己満足に付き合うことは、誰にとっても、人生の大切な時間を無駄にすることに他なりません。
 
 
これも確かにその通りだ。たとえばある者が神の声を聞くという神秘体験をしたとして、万人にこれを信じなければならぬという義務が発生するはずもないし、そもそもそれは不可能なことでもある。
 
ならば、霊が分かるっぽい楽山の言も、伝わることもなく、何の価値もないわけで、楽山は、自分の無価値を主張したいのでしょうか。ならば、宗教と信仰について、信じてもいないのだから、何も言わないでほしいと思います。自己中のために、いたるところで矛盾してくる楽山の言です。
 
宗教的に偉大な存在というのは、人間にとって、知らなかったことを知らせ、感じなかったことを感じさせ、新しい目覚めを促す存在でありますが、楽山には、そのような賜物はありません。楽山は、宗教にも信仰にも、全く縁のない、煩わしいだけの病質者なのです。
 
 
大袈裟なたとえ話をするならば、もしある宗教がこの道理をわきまえず、教団の内側に向かってだけでなく外部に向かっても教祖の語る神秘体験を信じなければならない、これえを疑ってはならない、そのまますべてを信じなければならないと主張したとしても、それは外部には説得力はもたないし、場合によっては偏狭なカルト集団とみなされ強く反発されることにもなりかねず、そういう当然の結果に教団が不満を述べても仕方がないということでもある。
 
当たり前のことです。人間に神秘が分かるはずはないのです。人間は、何からの恩恵を感謝して、神秘の存在を仰ぐだけなのです。また、宗教も信仰も、決して強制されないものであり、また、楽山のように嘘と詭弁で刷り込んでくる者は、最初に、除外されるべきなのです。
 
霊がらみの楽山の発言は、もっと、質(たち)が悪くて、はっとさせる何ものも含まれておらず、信じるに値しない惑わしに過ぎなくて、いかに執拗に楽山が語っても、もたらされるのは疲労と妄想的な害毒だけなのです。これほど、徒労と疲労を与えてくるだけの人物も珍しいです。
 
 
*神秘体験とその後
著者は本書において、すべては一つであると感得する神秘体験について触れつつ、その一方で上のように神秘体験を経験した者とそうでない者との意思の疎通は極めて困難であることをも説明しているが、もし神秘体験によってすべては一つであると悟ったがために、その経験のない者と分断され、争いが生じる結果になるとしたらなんとも皮肉な話である。
 
楽山には関係のないことです。楽山が物を言えば、神秘体験どころか、混乱要素にしかなりません。楽山こそ「意思の疎通は極めて困難」な人です。なにせ、人の言うことを聞いていないのですから、どうしようもありません。「争いが生じる結果」にならないために、楽山は黙るべきです。
 
 
しかし考えようによっては、これを乗り越えられるかどうか、乗り越えるとしたらどのように乗り越えるかということが、その神秘体験の正統性を推し量る材料となるのかもしれぬし、
 
「乗り越える」という安易な言い方にだまされないでください。こういう気安い言葉の企みが、楽山の特徴です。人間らしい知恵の欠乏しているところを、詭弁の悪知恵でごまかして、それこそ、「乗り越え」て?人をだまそうとしてくるのです。
 
結局、霊が分かるっぽい自覚の楽山は、結局、神秘体験を受け入れて、自分がそうだと言いたいのでしょう。孤独なヒーローを、三文芝居で、演じているのでしょう。神秘体験を「乗り越える」前に、楽山の妄想刷り込みを、受け入れることなく、廃物として、乗り越えるべきです。
 
楽山は、どう「乗り越える」と言うのでしょう。中身のない楽山が、中身のないキレイごとを言っても、何の足しにもならないのに、言葉だけ、もっともらしく付けて、柔和な自分、分かっている自分、許容力のある自分を、捏造アピールしてきます。幼稚な騙し文句です。
 
そして「神秘体験の正統性を推し量る材料となるのかもしれぬ」・・何も言わないよりマシと思うのでしょうか、否、楽山は、何も言わないのと同じです。何か言い得たことにしたいだけなのです。この、楽山の、ごまかしこそが、楽山が異常な疲労を与える重い不治の要素なのです。
 
 
もしそうであれば、神秘体験とは神秘体験そのもの以上に、その後その人物がどのように変わるか、またはどのような道を選択するかということこそが重要だということにもなりそうだ。結局、神秘体験の本当の意義はここにあるのかもしれない。
 
霊が分かるっぽい?楽山は、どう変わったのでしょう。知性が無知になり、感性が不感になって、嘘を吐き、妄想を振り回して、詭弁を弄するようになって、こともあろうに、人間の、最も醜い有り様を、恥も知らずに、ずっと、見せびらかし続けているのです。
 
「神秘体験の本当の意義」だそうです。やっぱり信じているのですね・・ということです。だまされないでください。楽山は、恐らく自らの神秘性を認めて「人物がどのように変わるか」「どのような道を選択するか」が本当の意義だと言っています。つまり、受け入れ前提の発言です。
 
分からないと言えない病質者の成り行きを見ています。つまり、罪の意識がなく、ゆえに、反省の必要性も感じず、キレイごとを並べて言い得た気分に浸る悪癖は、楽山自身の人格を、結局、病理に沿うて低く低く、ぬめりながら、崩壊に導いてゆくでしょう。
 
結局こういうことになるから、楽山の毒性は、その詭弁と刷り込みによって、病気を伝染することになるのです。これは、偽善者の、そして、体質的病質者の、必然であります。実に、楽山は、まわりくどくて否定しにくい筆致で、かつ、執拗に、刷り込んでくるのです。
 
人の言うことが理解できないで、自分の言っていることが人に理解されるべきだと訂正不能に思い込んでいる人、自分の非を認めないで、人の非を当然のように云々する人、あらゆる悪と不義を人に向けて、自分に向けず、お山の上から駄弁と詭弁を弄する人、それが楽山です。
 
楽山の言を否定する根拠は、楽山の今までのブログなどでの発言です。だから、また、否応なしに、これから言うであろうことが、新たな根拠となってゆくでしょう。楽山は、恐らく、いつまでも、どこまでも、敬虔と謙虚と真実の言論から、はてしなく遠ざかって、持病を見せてくるのでしょう。
 
楽山のような人は、他者を利用するだけで、無反省だから学習せず、無責任だから何もはっきり言えず、一生を煙の中で過ごして、主観においてだけ、断定していないからバランスが取れているつもりでいるのでしょう。・・はっきり言って、良心と責任感のある自立した人間とは逆の方向です。
 
そう言えばそうかな・・なんて思ったら楽山の思うつぼです。誠意の代わりに作為、善意の代わりに悪意、真実の代わりに嘘、説明の代わりに詭弁、謙虚の代わりに丁寧語、魅力の代わりに誘導、それが、楽山です。決して、関わらないようにしてほしいと思います。
 
 
血だまりが塒(ねぐら)

血だまりが塒(ねぐら)
 
 
(2021年)
(2022年07月20日、再録+加筆)
 
 
 
  ヨブ記とお叱り
 
ヨブ記などを読んでみますと、
神様に叱られているような気がします。
一人称を用いるので恐縮ですが
「お前(人間)は私(神)の造ったものだ。
私のものだ。
私のものを壊し塵に帰すのに
いちいちお前の考えに沿って説明し納得させ
了承を得る必要がどこにあるか!」
という具合に。
 
被造物である私は泥の中に
ひれ伏すしかありません。
ヨブ記では神様が言葉をかけてくださる。
今の世においては神様の声を聞くこともできない。
異言も止(や)み、預言も廃(すた)れた。
しかし、いや、だからこそ
代わりにヨブ記も福音書も含む聖書がある。
 
 
  祈り・恐れてはならないもの
 
生も死も恐れている
それ以上に神を恐れている
同じくらい主を頼みとしている
 
♪迷わば訪ねて曳(ひ)き返りませ
 
この先たとい人を世界をこの国を
いかなる艱難(かんなん)が襲って来ようとも
 
♪世の友われらを捨て去るときも
 
たとい死の陰の谷を歩むとも
わざわいを恐れません
と言えますように
 
 
  塒(ねぐら)
 
見てわかる星座は三つだけ
オリオンと
玄関先から
晴れた夜には
北斗七星かカシオペアか
どちらかが見える
やあ見える
北極星だ
便利な星座を覚えたものだ
ということは
我が家は北向きだ
田舎
という理由だけではなかったか
他の団地より安かった
 
最初案内された所は
もっと安かった
片方が崖
それを言ったら
家は道路寄りに建てますから・・・
遠慮しといた
 
この家だって
私にとっては塒に過ぎなくなったが
住む人が住めば立派なマイホーム
私は塒の方を選んだはずだ
 
学生時代のアパートを思い出す
狭い路地の行き止まり
ベニヤ板の壁に
ナメクジが這い上がってくる部屋
高い窓を開ければ墓場だった
この立派な塒が望みだったはずだ
 
 
  虚々・日々
 
何者でもなくなる
という事実だけが残る虚無へと
志向するかのように老いてゆきながら
実は虚数のような実があり
肉体と空腹は生きていて
日々は流れ
風通しを拒みながらも
ときに遊びさえする
 
実益や価値とは無縁なことばかり
何かやっている日はまだ増しなうち
に宿る時間は
自分のものであるべきだろうか
肉体よ
この日お前を外へ駆り立てたのは
流れ費(つい)える日々の惰性か
それともお前に残された情性か
 
暑い・・
 
異常な陽気に
汗を滲(にじ)ませ
濡れた額を何故か恥じて
絡み付いてくる前髪を
手を以(もっ)て汗ごと撥ね上げても
肉体よ
濡れた手で拭える実体があろうか
 
取って返すように虚しく
塒(ねぐら)へ向かえば
肉体を微かに掠めて過ぎる風の時
 
 
 
楽山の害毒メモ:
今までに表れてきたこと。これは、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。不感不応。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。
アドラー心理学の宣伝をしていた。その影響が抜けていないと思われる。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わない、できないし、する気がない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取り、など。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
 
巨悪は、大方、偽善を伴います。隠蔽偽装を謀るからです。ゆえに、偽善こそが最悪であります。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
ツイッター:
(ブログ記事をコピペすることあり)
 
 
ブログ村ランキングリング:INポイントが付かない。
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング
 
 
 

 
  楽山の人間離れ進行2
 
 神秘体験の初歩段階
 (『宗教的経験の諸相(下)』W・ジェイムズ著)
 2021年07月10日 楽山日記(LD)
  を批判。
 
 
ジェイムスの本は、何度も取り上げて書いてくる楽山です。批判に対して、不感不応で、何も気にせずにいられて、あざ笑うように書いてこれる楽山の意地の悪さは、まさに、サディストの所業であります。人間らしい感じ方や表し方を失ってゆくプロセスでしょう。
 
ちょっとした不思議なことを、心霊と結びつけるのは、子供には、よくあることですが、いい年した大人が拘泥するのは、成長していないからでしょう。そういう生き方は、人間の繊細な心を損なってゆきます。その典型的な症例となる楽山です。
 
 
*気づき
『宗教的経験の諸相』を読んでいたら、神秘体験の入口について書いてあったのでメモしておきたい。
神秘的経験のもっとも単純な階梯は、ある格言とか文章とかのもっている深い意味が、何かのはずみにいっそう深い意味を帯びて突然にパッとひらめく、という場合であるのが普通である。
(『宗教的経験の諸相(下)』W・ジェイムズ著、桝田啓三郎訳、岩波書店、2015年、p.186)
 」
これはいわゆる「気づき」という感覚だろうか。「気づき」は、ものを考える人であれば誰でも経験はあるだろうし、これを神秘体験というのは大袈裟な気がしないでもない。
でもよく考えてみれば、これは口ではうまく説明できない不思議な感覚であるし、神秘体験と言われれば確かにその通りかもしれぬ。
ちなみにここでは、「神秘的経験」とは「神秘体験」のことだろうと解釈して読んでます、
 
自分を神秘体験者と言いたい自己顕示欲の強さが表れています。だから、気づきさえも、神秘だと言いたいのでしょう。霊能者気取りの安っぽい合理化・自己正当化です。宗教を、人間としての必要性から求めず、人生の問題として考えない者の、超常夢想の習性~性癖~症状でしょう。
 
このような性癖で、宗教も信仰も考えておれば、魔術的で、一気に何でも単純に解決できるのが、宗教だ、信仰だ、そうならないキリスト教の神はいない、とでも言うつもりでしょうか。いったい、どれだけ、日常を、疎かにして、人間をやめてきたのだろうと思います。
 
「「神秘的経験」とは「神秘体験」のことだろうと解釈して読んでます」・・"的" が付くのと、付かないとの違いは、遠慮か、不確定かもしれませんが、楽山は、強迫的で、お気楽な偏見から、こだわっています。神秘とか霊とかいう言葉への盲信~依存症~中毒でしょう。
 
神秘からは、どう見ても、嫌われるだけだろうと思われる、身勝手な楽山が、自分こそと言いたげに、神秘を振り回しています。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)になると、ここまで醜い人格の変質~破壊に至るのでしょうか。
 
 
*既視感
同書では、デジャヴについても書いてあった。
神秘的経験の階梯のもう一歩進んだ段階は、きわめてしばしば見られる現象のうちに見いだされる。つまり、「前にここにいたことがある」という、ときどき私たちを襲ってくる突然の感情であって、いつか、遠い遠い昔、ちょうどこの同じ場所で、この同じ人々と一緒に、まったく同じことを話したことがある、という感じである。
(同上、p.188)
 
デジャブを、不思議だね・・で済ませずに、証拠であるかのように、不思議化して、神秘化してしまう者は、ついには、あらゆる現象に、神秘的な意味を付け加えるようになるでしょう。もはや、そこは、条件反射を繰り返す鉄格子の中かもしれません。
 
遠い遠い昔が身に迫ってくるとか、におってくるとかの、既視感デジャブというのは、精神症状としても書いてあることで、ゆえに精神病とまでは行かなくても、そういう感覚に神経を集中してゆくと、だんだん、正常な心から離れてゆく可能性はあるでしょう。楽山は、既に離れているのでしょうか。
 
こういう考えに囚われるときには、気分転換が必要です。でないと、のめりこむように、異常心理と精神病理に嵌っていって、楽山みたいになってしまいます。そうなってしまったら、今、楽山に表れているように、人間として、おしまいになります。おぞましいことです。
 
 
これは誰もが知っている感覚だろうと思う。だからこそ、「既視感」という言葉もあるのだろう。
こうしてみると、神秘体験というものは、少なくともその初歩的な段階のものは、特別な人にしか経験できないものというわけではなく、誰もが経験し得るもの、またはすでに経験済みのものなのだろう。
 
正常人にも、たまに、人によってはある、という既視感デジャブ、という精神症状です。ということは、精神疾患には、多いのかもしれません。私も、たまに、経験することはあります。あまり、そこに、集中しないほうがよい、という感想を持っています。
 
そこに、神秘的な意味を貼りつけて、神秘、神秘、というほどのことかどうか、誰にも分かりません。楽山のように、決めつけて、我こそは、神秘体験者なり、特別なり・・と、書いてしまうのは、情けないほど、貧乏くさいことです。余裕のない、欲望の卑しさを感じます。
 
楽山は、自分は神秘の人、という印象を吹き込みたいのです。「初歩的な段階」を想定しているようです。このことからも、楽山は、いってしまった人なのでしょう。「誰もが経験し得るもの」から、神秘の世界、実際は、精神症状の世界に、楽山という病人が、どっぷり浸かって、仲間を求めています。
 
 
またもし神秘体験は一部の人に独占されるものではなく、多くの人々が経験し、または経験し得るものだとすれば、それを経験したからといってその者が霊的に特別な存在であるということを証明することにはならないものなのだろう。
 
既視感から、ここでは、霊的に特別ということを否定しているようですが、楽山は、子供のときから "霊が分かるっぽい" と書いていましたから、さらに、自分は、上を行っているということが言いたいのでしょうか。今の楽山の、擦り切れたような精神が、それを全否定しているのに。
 
恐らく、楽山は、自らの神秘体験が、いくらなんでも貧弱なために、神秘をもっと身近なものにして、楽山が扱いやすいものにしたいのでしょう。特別じゃないが、楽山が自分も体験者ということで、結局、教祖にでもなりたいのでしょうか。
 
 
自分はいまだに神秘体験と霊性の優劣を関連付けてしまう悪癖から抜けきれていないので注意したいと思う。
 
関連付けてしまう悪癖に注意しているなら、上のようなことは書かないはずです。楽山の意図は、真逆だと思います。心霊をネタにしたペテンらしくなってきました。客観的な注意力は、楽山にはないと思います。そのために、視野狭窄となり、あらゆる面での理解力を失っているのです。
 
 
*猛将パットン
蛇足ながら、思い出したことがあるので一言。
パットン将軍は自分は前世でも軍人だったと信じており、初来訪の土地であるにも関わらず、前世で来たことがあるのでよく知っているとして目的地までの道を間違わなかったという逸話をもっているが、ひょっとしたらこれも既視感の一種であり、その発展型なのだろうか。
 
やはり、楽山は、既視感も含めて、有名人の神秘体験という方向に誘導して、霊が分かるっぽい体験をひけらかしたいのでしょう。自分を誇大化して、霊的リーダーにでもなりたいのでしょうか。もしそうなら、心霊どころか、汚い汚い欲望の下種だということです。
 
心霊をネタにしたペテン師は、このように、既に死んで、詳しい体験を知りようのない人を、しかも有名人を、好きなように利用して、同類であるかのように扱い、褒め讃え、宣伝してゆくのです。その先には、誘導から洗脳が待っているかもしれません。注意、警戒してください。
 
 
さらにはパットン将軍は第二次大戦が終わってほどなく、交通事故に遭い、あっけなく世を去っている。それほどの大事故ではなく、他の当事者たちはみな無傷であったのに、パットン将軍だけが打ち所が悪く重症を負い亡くなったのである。まるで軍人として戦うために生まれ、その役目が済んだらすぐに天国に還ったでもいうように。
思えば、パットン将軍という人物とその生涯は不思議であり、実に神秘的である。
 
このように、死んだ人を、どこまでも、神秘のほうに、話を引っ張ってゆきます。有名人であろうとなかろうと、事故で亡くなったことへの哀悼の共感より、神秘的な不思議話のほうを優先する人は、いずれ、死体の前で哀悼の意を表するのではなく、死体に愛着するようになるかもしれません。
 
楽山の書く文章が、楽山を表します。そして、楽山は、進行しているのです。楽山こそが、神秘的な人、不思議な人・・と言われたいのでしょう。このことのほうが、よっぽど、怖いと思います。キリスト教の天国とも、信仰者の人生とも、何の関係もないオカルト話です。
 
楽山は、今まで、宗教と信仰の言葉を、好きなように超常ホラー言葉の数々で、けがしてきました。概念が、すべて、人間からも、人間の宗教と信仰からも、ズレている人です。しかも、そのことに気づかない高等感情鈍麻であります。超常趣味というより超常依存~中毒です。
 
短い人生を、地上の人間として生きずに、いつも、超常世界の話をして、その分、人間性が壊れてゆきます。病識がありません。善悪・正邪の区別がつきません。罪とか恥とかが分かっていません。無視と忍耐を混同して、記事を書き続けています。どんどん的を外れてゆくのです。
 
気をつけてください。楽山を受け入れると、学習と成長が止まります。知性と感性の鈍麻と、先入観と偏見の固着が進行します。私は、楽山は柔和だと勘違いして、コメントの遣り取りをしていた数か月間、ボンヤリ疲労感を感じたことがあります。その反省から、楽山批判を続けています。
 
楽山は、子供じみた変質者に過ぎません。もはや誰もだまされてはいけません。よく読めば、理解力も読解力も共感性も鈍く壊れていて、安っぽいペテン話しか出来ない人です。楽山の詭弁は、奇弁であり、危弁であり、危便であり、鬼便であります。どうか近寄らないでください。
 
 
偏執の変質の末路が行く

偏執の変質の末路が行く
 
 
(2021年)
(2022年07月16日、再録+加筆)
 
 
 
  正気への警告
 
夜見る夢も昼見る夢も
ただれた眼で見ている
おぼろげな幻想に過ぎないが
よい夢も悪い夢もあるのに
目覚めてみれば
現実も幻想に満ちている
夢とは違って
幻滅という必然が待っているから
よい幻想はほとんどない
さらなる幻想に逃げようとすれば
死は幻想を保証しないのだから
正気を失うしかない
 
耐え難い重荷が限度を超えたとき
正気を失うということが
肉体を守るための
防衛反応に思えてならないことがある
 
例えば鏡に映る顔が
生き生きした何ものもなくて
気持ちと全然一致していないとき
心神は残る力を振り絞って
限界に注意を喚起し警告を発している
鬱(うつ)による意欲低下は
これ以上の無理は無理と
心身を休ませるため
さらに感情の麻痺や鈍麻は
重さを感じなくて済むように?
 
それがわずかに残された
正気の辺縁をめぐる
ただれた眼の日常となって久しい
 
 
  太陽に抜かれて
 
見なければ抜かれることはなかったのに
じかに目を合わせて 見てしまった
あわてて瞳孔をしぼっても
もう遅い
 
見てしまった
形の 秘密を 守るために
見なければ抜かれることはなかった
剣の 一つが
瞳をつらぬいて
焼き付けた残像が
視界をさえぎり
やがて 頭痛を呼んできた
 
見たものは
抜かれた魂の幻と
めまいと
歪んだ形から
まるで不治の病のように
守りようもなく残されて
脈を打って光る
暗点
 
直接 見ては
ならないものがあるらしい
 
 
  虫の音
 
物音は
集まれば集まるほど
耳に障る
気にすればするほど
大きくなる
集団の声は苛つく
人の声も 雑踏も
独り聞いた夏の蝉の声も
蛙の声も
耳鳴りも
恐らく幻聴も?
 
波のように
あたり一面
姿のない虫の声
遠くか近くか
どれほどの数か知らぬが
ただ一匹だけ
窓近く
チロチロと
鳴いているのがいる
不思議と耳に障らず
寂しく泣いて
訴えているようにさえ聞こえる
 
眠れない夜を殺し
耳鳴り騒ぐ
眠れない夜を死なせ
秋の虫 なく
 
 
  口笛の頃
 
もしそんなところがあったら
耳鳴りの今を去って
口笛の頃へ帰りたい
目に写る
錆びた刃物の
耳鳴りの
闇の
ざわめきを去って
 
口笛の
その吹かれたところから
小川を渡り
水音も風音も
野原と空の
ゆるやかな
うつりになって
音がしないほどの
肌に触れないほどの
気の流れ
草の揺れ
口笛の
音色の消えていく
少し先
空に召されていく
口笛が
口笛でなくなる
あらゆる見えないものと
いっしょになるあたり
 
いっしょに遊んだ
幻の少年が
消えていった
名前を与えられ
こめられたものたちすべて
名前を失い
解き放たれるところ
 
広い
ひろい
ひろ・・・
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
結局、楽山が目指してきたものは、真実の追求とは全然違って、思いつきの心霊~超常話を、趣味的な空想だけで、自分を飾る具材にしてきただけのようです。超常に拘(こだわ)る者は、日常を疎かにする典型となり、もはや、人間の大切なものなど、何も分からなくなっているのでしょう。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
ツイッター:
(ブログ記事をコピペすることあり)
 
 
ブログ村ランキングリング:INポイントが付かない。
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング
 
 
 

 
  楽山の寒い霊?2
 
 『霊の研究 人生の探究』本山博、渡部昇一著
 2020年07月08日 楽山日記(LD)
 
 
楽山は、しばらく黙っていたようですが、欲望に負けたのか、意地なのか、妄想なのか、症状なのか、また、書いてきます。何を書いても、生命力のない、ボンヤリ言語の、ああでもないこうでもないという筆致で、無明から惑わそうとしてくるだけです。そして、批判されると、また、しばらく黙るのでした。
 
 
*全体の感想
霊能はないという渡部昇一が、霊能があるという本山博にさまざまな質問をして話を聞くという体裁の本である。しばらく前に通読したことがあるが、例のごとく、内容はほとんど忘れてしまったので、また読み返してみた。
まず全体の流れについて述べると、序盤の渡部昇一は聞き手にまわり、自分の意見はほとんど言わない。本山博が神と仏の区別はないとしている場面では、疑問を述べるかと思ったが、そうはせずに聞き流している。
 
ここでいう神と仏の、神は、神道なのか、キリスト教なのかは、次の段落で明らかになります。神は、キリスト教の神のようです。まるで無理解の楽山の、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)からの、決めつけ先入観クレームだけの排泄です。
 
神と仏の区別は、人間には分かりません。キリスト教の神を信じる人は、仏については表面的な概念より深くは知らないわけです。これは逆も言えるでしょう。楽山は、また、出来の悪い書類のような字面の理解?を書いています。どこまでも見栄だけは張り続ける男のようです。
 
 
ただ中盤以降になると、自身の意見も積極的に話すようになり、神と仏の区別について、氏の読者であれば知っているだろう“あの話”を披露している。またキリスト教伝来前のゲルマン人は、死後、人の魂は海に行くと信じていたという話のところでは、若干激しいやり取りになっている。ここは迫力がある。これ以降はどちらも率直に意見を述べているようで、有意義な対話になっていると思う。
 
人の魂が海に行く、というだけでは、どういう状況の何のことか分かりませんが、楽山は平気なようです。楽山は、言葉の薄い概念上を滑ることしかできないからです。したがって、楽山に対話の意義も分かる道理がないのです。楽山は、超常が大好きで、その分、地上を生きる思考が無くなってゆきます。
 
いつものように、楽山は、有意義な対話とだけ書いて、満悦しているのです。自分だけの満悦を書いて、意味があるでしょうか。上からジャッジだけをするような審判みたいな筆致では、読書感想文にもなっていません。こういう書き方こそ、レッドカードなのです。
 
楽山の読書は、見捨てられた郵便受けのようなものです。郵便を入れる所はありますが、入れると、積み重なり、厚さを増すだけで、読まれることはない、つまり、放置され、まとめて捨てられるだけの、煩雑なチラシのようなものになってしまいます。
 
工夫もなく、面白みもない、チラシ、それが、発表することだけはやめない楽山日記なのです。そういう記事の今まで重なってきた分厚さを、楽山は、記事に書いて、独りで満悦し、読書家気取り、霊能者気取り、学者?気取りとなる人なのです。
 
しかも、そこから、キリスト信仰を、おとしめて安物扱いしてくるのだから、決して看過できるわけはないのです。生きている自分を考えることがなく、誰よりも、安い興味だけで、視野が及ばず、幼稚な辻褄に終始しているのが楽山です。
 
楽山は、本を、ただ、食べて、腹を膨らませて満足するだけの、ヤギのような欲望でしょう。何を食べたかという中身など、全く吟味することもなく、ウメェェと、自分の都合だけを通して、わけもわからず排泄してきます。残るのは、中毒性の下痢にも気づかない、根拠のない満腹感~膨満感だけなのです。
 
楽山にとって、味わえないようなときは、もちろん説明できないので、世辞のように、有意義、と書いて終わりです。つまり、最初から、自己顕示の食欲~貪欲~貪食だけであり、伝える意志も意欲も思考も感性もないと思います。
 
 
*霊界観
本山博の霊界観についてはスピリチュアリズムの影響が濃いようだ。霊界の下層では、神と仏の違いなど宗教の違いが問題となっても、上層に行くほどそういう問題はなくなるというのも、スピリチュアリズム的だ。霊言では、霊媒の声ではなく、霊人が肉体を持っていた頃の声に変わるともしている。これはよく聞く話であるが、霊言の真偽を見分けるためのもっとも簡便な基準だろうと思う。
 
超常の心霊に没入して、人間性を考えない楽山です。楽山は、読者に、分かってもらおうとか、共感とか、そういうものを全く必要としていません。ならば、書かなければ、無駄がなくてよいのですが、自己顕示欲だけは、依然として、底無し沼のように深く、死体のように雑言が浮かんでくるのでしょう。
 
霊が分かるっぽい霊能者気取りの楽山は、説明のつかないことも、"君らは分からないだろうけど、自分は分かっている、自分は教祖格だからね"、とでも言いたがっているような書き方をしてきます。ゆえに、霊言の真偽を見分ける、などという自意識を平気で書いてこれるのです。
 
 
類魂のような考え方も述べている。自分はこれは苦手であるが、コップの水を大海にそそげば、再びコップに入っていた水を取り出すことはできなくなるが、だからといってコップに入っていた水がなくなったわけではないというたとえであれば、その理屈自体は分からなくもない。
 
ボンヤリ言語の言い回しで、分からなくもない、と楽山が言っているのは、コップ、水、大海、という言葉を使った比喩だけです。この比喩が指し示すものには、共感や共有の要素がありません。しかし、楽山は、説明した気分になるのでしょう。小話をいじくっても糧(かて)にはなりません。
 
内容説明のない、値札と広告だけの、霊のバーゲンを、毎回のように、書いて満悦するだけの男に、分かち合える何があると言うのでしょう。実に、人の迷惑を考えない楽山です。だんだん、目を覆いたくなるような壊れた言語になってゆくのかもしれません。
 
 
霊界の話などについては、ある人の話が、他の人の話と共通項が多いことをもってそれが真実である証拠だとする主張もあれば、それは単に一方がもう一方の話を知り影響を受けたか、双方の話はともにある一つの話から影響を受けたというだけのことだろうという主張もある。
 
霊言の実在を前提としたお伽噺でしょうか。インチキの典型のような話です。霊界、共通項が多い、真実である証拠、影響を受けた、これらの言葉の中で、霊界は前提であり、あとは不可解な辻褄みたいなことを書いているつもりで、実際、何の糧にもなっていません。
 
いずれにも、根拠がありません。それなしでは生きられないほどの必要性も、まるで書いてありません。記事の進め方に、全く必然性が表されていません。空疎な興味本位でしかなく、それで宗教や思想を語ることなど、到底、出来ません。
 
 
本山博とスピリチュアリズムの関係についてはどう解釈すべきか思案のしどころではあるが、自分の見立てでは正直言って後者の可能性が前者のそれより高いように思う。氏の話に限らず、霊界話というものは大方はそういうものだろう。さて、真相はいかに?
 
霊界の話を、まるで普通に存在しているものについての話のように語る楽山ですが、実際には、楽山の頭の中でだけ、つまりこれは、楽山の思い込みの中だけで、思い上がった霊能を語っているわけです。それで「真相はいかに?」などと書いてくるのは笑止であります。
 
読者と共有できるような説明が、全然、為されていません。いったい、楽山は、どういう種類の記事を書いたつもりなのでしょう。何を主張したいのか、何を受け取ればいいのか、何かを共有できるのかどうか、まるで不明です。批判以前の問題になっています。
 
それで、どっちだ、後者だろう、みたいなことが語れると思っている楽山の話の中の、前者も後者も、いくら当たり前のように語っても、ピントが、読む側と全く合っていないまま、独善的に得々と語っている自分納得の奇妙~不可解なスピリチュアル以前のガラクタになっています。
 
しかも、その語り口だけで、満悦して「霊界話というものはそういうものだろう」と万人の共通の話題であるかのように「真相はいかに?」などと、興味津々に見せかけています。何を考えて記事を書き、何を期待して記事を公開しているのでしょう。呆れます。
 
楽山に共感できる人がいないことのほうが妥当であり、むしろ共感できたら、頭の構造はどうなっているの?、おかしいだろう、という方向に、逆に、頷ける記事になってしまっているのです。楽山の単方向の独り言~独り芝居は、思春期以降、傍迷惑を振り撒きながら、ずっと続いているような気がします。
 
楽山には、思案というものはないのだろうと思います。説明のない前提があって、あとは思いつくままに、その場その場で取り繕ったような辻褄めいたものを当てているだけで、それ以外の、説得力の必要なところが、全く表れていないのです。
 
これは、書くことに、自慢以上の目的がないことを示しています。楽山というインチキワールドで、得々と霊界が分かる楽山自身を前提にされて付き合わされては堪(たま)らない、という記事です。どうか、間違っても、批判的な目以外で、関わることのないように願います。
 
しつこく、丁寧語で書いてゆけば、誰かが、読んでくれて、頷いてくれて、だまされてくれるだろう、という企みの意図なのでしょうか。そこからは、楽山教?へのマインドコントロールと脅迫でも待っているのでしょうか。浅ましい楽山の、哀れな犠牲者にだけは、決してならないでください。
 
 
とても霊乏が効いている話

とても霊乏が効いている話
 
 
(2020年)
(2022年07月13日、再録+加筆)
 
 
 
  テレビ
 
あぐらをかいて座っている
男の顔は
肌色を消されて
明るくなったり暗くなったり
赤くなったり青くなったり
次々に変化していく
座っているのは同じ男なのに
幽霊になったり鬼になったりする
男は光源を見ている
光源は男を照らす
光源からは目をそらすことが多いのに
じっと見つめ
泣いたり笑ったりを
光源からもらっている
 
焚火を囲む人たち
その顔は炎の色に輝いている
男の顔も赤くなる
しかし炎の色ではない
炎は熱い
テレビの火は冷たい
火を受けて凍りつく顔
 
外に出て星を見上げた
輝く星の光を受けて
男の顔は真っ暗だ
 
 
  朝までの群れ
 
懸濁液のコロニーから
生えてくる社会ひとつひとつは
整然として燃焼を収めてゆく
 
炉に投げ込まれる人の形の
氷の造形も黄昏て
その節々に時を刻み
離れ離れの役者の帝国に
歌姫を連れてきて笑わせる
 
けばけばしい提灯の夜
イオンの息子たちは集まって
はみ出したやつが道になる
 
放り込むのか夜明けの虫
安いライターを燃やすのか
 
そこここに蝉の亡霊が鳴き
病人のベッドを濡らし
小火(ぼや)に逃げ遅れて肉片は踊り
間違って太陽がひょっこり顔を出す
 
危ないぞパイプと鎖
すでに火だるまのバクテリア
ブローバックの煙
路上に転がる金属音
連続した紙幣と貨幣
たちまち飛び散って
レスキューの箱に収まりきれず
遠くの信号が点滅して
踏切で眠りにつく子守歌
細く丸く輪になって焼いて・・・
 
朝の短い把手(ノブ)を擦り抜けて
割れたフラスコを絡ませた頭の
ありふれた生前の手によって
寝起きの試験管から
コロニーはシャーレに移される
 
 
  何ものもなく
 
触れようとしたとき
触れるべき何ものもそこにはなく
あたかも永久に続くかのような
ずれと揺れとぶれの堂々めぐりは
あたかも同じ時間を繰り返すかのようで
諦めようとして諦める何ものもそこにはなく
遠く乗り遅れて懐かしく見上げる空に
焦点を失って日と日の残像を射抜かれてゆく
 
色の剥げた雲の下の
煙立つ藁葺きの小さき社(やしろ)から
焦げた片方の翼で
飛び立つ渡り鳥の至福のように
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
親戚のことを霊が分からないっぽいのには驚いたと書いていた楽山の、霊が分かるっぽい?霊能者気取りは、吹きっさらしの廃屋に藁人形を飾るホラー趣味に終始して、頭の回転を空中に摩滅させ、情緒の温もりと潤いを絵の具のひび割れに乾燥させながら、砂ぼこりとなってゆくようです。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
ツイッター:
(ブログ記事をコピペすることあり)
 
 
ブログ村ランキングリング:INポイントが付かない。
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング
 
 
 

 
  楽山の悪霊
 
 
 「霊言の冒涜は人類叡智の冒涜
   ~イタコ芸など、いい加減にせよ!~」を見た!
 2022年04月23日 幸福の科学とは何だろう? by 楽山
   を批判。
 
楽山は、一見、HSを批判しているように見えますが、実際は、聖書から、残酷な言葉を選んで、書いています。楽山の目的は、自分が批判されたことへの、キリスト教に対する復讐でもあるのでしょう。実に、片落ちで、聖書は殺すことばかりで残酷ですよ・・と言いたいのでしょう。
 
聖書を理解しない者が、ましてや、言動が聖書を裏切っている者が、聖書を引用する・・これほど、危険で、醜悪な偽善はないでしょう。この楽山のような者のゆえに、終末の裁きは用意されているのでしょう。というより、既に、楽山は裁かれているのですが。
 
 
*公式見解?
・霊言の冒涜は人類叡智の冒涜~イタコ芸など、いい加減にせよ!~
(動画省略)
この動画では、「すべての正しい宗教には“霊言”がある」という主張がなされている。
まるで、他の宗教でもHSの霊言と同じことをしていると言っているようだ。
はたして、本当にそうだろうか?
 
聖書において、霊については、聖霊と悪霊とが書かれています。これは、よかれあしかれ、人間を誘導し動かす心の働きを表しており、楽山が好むようなホラーの霊とは違います。霊について、とんでもない偏見で、楽山は、おとしめたいのです。楽山を信用しないでください。
 
楽山の、霊についての文章は、一足飛びにエスパーになりたい妄想なのでしょう。その欲張りから、楽山は、結局、悪意、つまり、悪霊にばかり憑りつかれているようです。楽山が、いちばん危険な霊の思い込みだけの、実際は、霊の無能者なのです。全く俗の欲望と興味だけなのです。
 
 
*聖書と霊言
たとえば、聖書にはこんな風に書かれている。
「(聖句)
霊媒を訪れたり、口寄せを訪ねたりして、汚れを受けてはならない。
(レビ記19.31)
 」
 
まさに、超常現象としてのホラーの霊を信じて、霊が分かるっぽい自覚で、嘘と詭弁を書いてきたのは、他でもない楽山です。楽山は、努力せず、学習せず、一気に超常のヒーローになりたくて、崇められたい教祖願望で、あらぬことを書きまくります。
 
 
男であれ、女であれ、口寄せや霊媒は必ず死刑に処せられる。彼らを石で打ち殺せ。彼らの行為は死罪に当たる。
(レビ記20.27)
あなたの間に、自分の息子、娘に火の中を通らせる者、占い師、卜者、易者、呪術師、呪文を唱える者、口寄せ、霊媒、死者に伺いを立てる者などがいてはならない。
(申命記18.10)
口寄せや霊媒を訪れて、これを求めて淫行を行う者があれば、わたしはその者にわたしの顔を向け、彼を民の中から断つ。
(レビ記20.6)
 」
これを基準にすれば、死者を呼び出し、その言葉を伝えるHSの霊言が容認されることはあるまい。
 
まさに「霊」を悪用する悪霊が楽山と言いたくなるような、ただれた発疹のような、断片的な聖句の引用の仕方と言えるでしょう。誰が、言論の場に「いてはならない」かを、楽山が表しています。楽山の、ブレーキの利かない血生臭さです。
 
 
*聖書と預言
預言については、こうある。
その預言者が主の御名によって語っても、そのことが起こらず、実現しなければ、それは主が語られたものではない。預言者が勝手に語ったのであるから、恐れることはない。
(申命記18.22)
 」
さらに、神については、こうある。
神は人ではないから、偽ることはない。
人の子ではないから、悔いることはない。
言われたことを、なされないことがあろうか。
告げられたことを、成就されないことがあろうか。
(民数記23.19)
 」
この場合、大川隆法が預言者とされることはもちろん、神とされることもないだろう。
大川隆法は、90年代には、今世紀中に日本国民全員をHSの会員にしてみせると豪語したり、2009年には幸福実現党が政権を取るかのような物言いをしていたが全くそうはならなかったのだから。  
 
キリスト教を、ミソクソに言っておきながら、聖句を引用して根拠とするとは、楽山は、もはや、真実も、節操も、なくなって、亡者と化しているということです。楽山のような曲解を習いとするような者が、恣意的に引用してよいような聖書ではないのです。楽山は、悪魔性の冒涜者であります。
 
 
*心霊研究と霊言
イギリスの心霊研究協会では、霊言現象の検証方法として次のものがあるそうだ。
子供のいたずらではないかという懸念が、関係者の中にあり、ハステッド教授という心理学者が現地に行って調査した。ジャネットの口に水を含ませ、唇をテープで貼って、それでも声がでるかどうかを試したのである。 
(『イギリスの霧の中へ 心霊体験紀行』三浦清宏著、南雲堂、昭和58年、p.35)
 」
はたして総裁の霊言は、この検証に耐えうるだろうか。
ちなみに、映画『死霊館 エンフィールド事件』では、霊媒少女が口に水を含んだまま、霊言をする場面がある(1:10:25付近)。
 
このように、楽山は、超常現象とホラーに興味があるだけのオタクです。宗教や信仰を語れるような、柔和な器を、全く持っていません。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の楽山が、聖書を引用すれば、ことごとくインチキになる定めなのです。近づかないでください。
 
 
*まとめ
以上のことからすると、HSの霊言は、聖書の預言とは別物であることが分かる。心霊研究における霊言にも該当しないだろう。
 
聖書の意味など、全く分かっていない楽山が言っています。戒律的な文言を、預言とか霊言とか呼んでいるところもそうですし、宗教の歴史を考えずに旧約聖書を、実に無遠慮に利用~悪用しまくっているのは、もはや、できの悪い子供が、マンガ雑誌を振り回して暴れているようなものです。
 
聖書を読むためには、聖書を読むための宗教的興味と冷静な弁えが必要です。楽山のように、キリスト教を否定しておきながら、自分の企みに都合のよい文言を集めるなどという引用は、悪魔性か、怠け者か、無節操か、凶暴性としか思えません。楽山を、決して信用しないでください。
 
 
したがって、これらを同一視して、HSの霊言は、他宗教と共通しており、「すべての正しい宗教には“霊言”がある」と言うのは詭弁なのである。
 
「詭弁を弄する者」は、他でもない、楽山です。ずっと、そうです。そして、霊言という言葉を、平気で、分かっている前提で使っているのは楽山の傲慢です。霊は、心を意味したり、超常を意味したり、心霊、聖霊、悪霊など、多義でありますから、慎重でなくてはなりません。楽山は粗忽(そこつ)です。
 
 
詭弁を弄する者は、意識的であれ、無自覚であれ、言葉の多義性を利用しつつ、同じものを違うとしたり、違うものを同じとしたりすることがある。たとえば今回の場合は、「霊言」の意味を広げて、「すべての正しい宗教には“霊言”がある」とし、HSの霊言も、他の宗教の啓示なども同じだということにしたわけである。こういう詭弁には注意したいものである。
 
霊言という言葉の定義も書かないで、霊言という言葉を振り回して、霊言が分かっている前提で、物を言う楽山こそ、あくどい詭弁屋の典型です。楽山の思い上がりは、もはや、有頂天妄想の領域にあると判断するしかないでしょう。教祖願望から正気の喪失に向かっているようです。
 
 
*冒涜?
余談ながら、本動画では、大川隆法総裁は「モーゼの霊言の中で、“神の声”と“悪魔の声”を聴き間違えたことを明らかにされた」云々という箇所があった(11:50以降)。
これはつまり、聖書には悪魔の声が神の啓示として記されている箇所があるということだろうか。もしそうであれば、これは明らかに冒涜だろうし、訂正した方がいいと思う。
 
超常ではなく、悪魔性が、助言者などに化けて、誘惑することはあるでしょう。楽山こそが、そういう言動を続けてきました。悪魔的な人物は、露者にもいるようですが、嘘吐きで詭弁で人をだましてきた楽山は、他人のことを言う前に、わが身を省みるべきです。しないでしょうけど。
 
楽山の言は、楽山の指摘する罪悪は、全部、楽山に返ってゆきます。自らを見ない自己中の宿命かもしれません。ワッハワッハと勢い任せで書いて、罪と恥だけが返ってきて、楽山の持ち物になります。言論の素地を持たない楽山の宿命のような自業自得の悲劇が、今回の記事です。
 
 
悪霊も真っ青

悪霊も真っ青
 
 
(2022年04月25日)
 
 
 
  対話
 
光が街中で叫んでいたのに
二人腰掛けて
向かい合って話していた
一人は一人の後ろの人を
もう一人はまた別の人を
二人が話していたという場面
それは対話
光も記憶もそれ以外を写さなかった
光が街中で叫んでいるのに
あれから数々の対話
人とだったか
幽霊だったか
幻だったか
夢だったか
話す方も答える方も
数さえわからない
対話?
今も光が街中で叫んでいる
 
 
  テレビ
 
あぐらをかいて座っている
男の顔は
肌色を消されて
明るくなったり暗くなったり
赤くなったり青くなったり
次々に変化していく
座っているのは同じ男なのに
幽霊になったり鬼になったりする
男は光源を見ている
光源は男を照らす
光源からは目をそらすことが多いのに
じっと見つめ
泣いたり笑ったりを
光源からもらっている
 
焚火を囲む人たち
その顔は炎の色に輝いている
男の顔も赤くなる
しかし炎の色ではない
炎は熱い
テレビの火は冷たい
火を受けて凍りつく顔
 
外に出て星を見上げた
輝く星の光を受けて
男の顔は真っ暗だ
 
 
  叫ぶ男
 
山頂で叫ぶ男の
叫びを追いかける
 
耳で追えば
木霊(こだま)となって返りながら
遠ざかるばかり
 
何を叫ぶのか
男は誰なのか
男は何をしでかしたのか
 
叫んだ後は・・・
追い方はありそうなのに
足でも目でも頭でも
叫ぶ男に追い付くことはできない
しかし無謀にも
その男にではなく
その叫びになろうとした
もう一人の男を
聴きたいと待っているのだ
 
煤けた胸の中を木霊して
空っぽになるくらい揺さぶって
音ではなく
話でもなく
もはや叫び声でもなく
声にならない人の響きを
つかまえたくて仕方ないのだ
 
 
  霊
 
霊は魂のうちに語らない
ただ思いのうちに留まるのみだ
 
私の思いは私のもの
私の体は私のものと
私が幾度それらを捨てようとも
霊は魂のうちに語らない
ただ思いのうちに留まる
 
捨てれば捨てる思いのうちに
空しければ空しい思いのうちに
私が思う
時が短くても長くても
そのあいだ私のすべては
私のものではないかのように
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
キリスト教を、ミソクソにけなしてきた楽山が、別の他者を、聖句を引用して、批判しているのは、不道徳の者が、白々しく道徳を教えるようなもので、全くのホラーとしか言いようがありません。罪悪感のない楽山だから出来ることなのでしょう。悪と偽善が沸騰しています。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
ツイッター:
(ブログ記事をコピペすることあり)
 
 
ブログ村ランキングリング:INポイントが付かない。
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング
 
 
 

このページのトップヘ