ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:霊能者気取り

 
  楽山の寒い霊?2
 
 『霊の研究 人生の探究』本山博、渡部昇一著
 2020年07月08日 楽山日記(LD)
 
 
楽山は、しばらく黙っていたようですが、欲望に負けたのか、意地なのか、妄想なのか、症状なのか、また、書いてきます。何を書いても、生命力のない、ボンヤリ言語の、ああでもないこうでもないという筆致で、無明から惑わそうとしてくるだけです。そして、批判されると、また、しばらく黙るのでした。
 
 
*全体の感想
霊能はないという渡部昇一が、霊能があるという本山博にさまざまな質問をして話を聞くという体裁の本である。しばらく前に通読したことがあるが、例のごとく、内容はほとんど忘れてしまったので、また読み返してみた。
まず全体の流れについて述べると、序盤の渡部昇一は聞き手にまわり、自分の意見はほとんど言わない。本山博が神と仏の区別はないとしている場面では、疑問を述べるかと思ったが、そうはせずに聞き流している。
 
ここでいう神と仏の、神は、神道なのか、キリスト教なのかは、次の段落で明らかになります。神は、キリスト教の神のようです。まるで無理解の楽山の、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)からの、決めつけ先入観クレームだけの排泄です。
 
神と仏の区別は、人間には分かりません。キリスト教の神を信じる人は、仏については表面的な概念より深くは知らないわけです。これは逆も言えるでしょう。楽山は、また、出来の悪い書類のような字面の理解?を書いています。どこまでも見栄だけは張り続ける男のようです。
 
 
ただ中盤以降になると、自身の意見も積極的に話すようになり、神と仏の区別について、氏の読者であれば知っているだろう“あの話”を披露している。またキリスト教伝来前のゲルマン人は、死後、人の魂は海に行くと信じていたという話のところでは、若干激しいやり取りになっている。ここは迫力がある。これ以降はどちらも率直に意見を述べているようで、有意義な対話になっていると思う。
 
人の魂が海に行く、というだけでは、どういう状況の何のことか分かりませんが、楽山は平気なようです。楽山は、言葉の薄い概念上を滑ることしかできないからです。したがって、楽山に対話の意義も分かる道理がないのです。楽山は、超常が大好きで、その分、地上を生きる思考が無くなってゆきます。
 
いつものように、楽山は、有意義な対話とだけ書いて、満悦しているのです。自分だけの満悦を書いて、意味があるでしょうか。上からジャッジだけをするような審判みたいな筆致では、読書感想文にもなっていません。こういう書き方こそ、レッドカードなのです。
 
楽山の読書は、見捨てられた郵便受けのようなものです。郵便を入れる所はありますが、入れると、積み重なり、厚さを増すだけで、読まれることはない、つまり、放置され、まとめて捨てられるだけの、煩雑なチラシのようなものになってしまいます。
 
工夫もなく、面白みもない、チラシ、それが、発表することだけはやめない楽山日記なのです。そういう記事の今まで重なってきた分厚さを、楽山は、記事に書いて、独りで満悦し、読書家気取り、霊能者気取り、学者?気取りとなる人なのです。
 
しかも、そこから、キリスト信仰を、おとしめて安物扱いしてくるのだから、決して看過できるわけはないのです。生きている自分を考えることがなく、誰よりも、安い興味だけで、視野が及ばず、幼稚な辻褄に終始しているのが楽山です。
 
楽山は、本を、ただ、食べて、腹を膨らませて満足するだけの、ヤギのような欲望でしょう。何を食べたかという中身など、全く吟味することもなく、ウメェェと、自分の都合だけを通して、わけもわからず排泄してきます。残るのは、中毒性の下痢にも気づかない、根拠のない満腹感~膨満感だけなのです。
 
楽山にとって、味わえないようなときは、もちろん説明できないので、世辞のように、有意義、と書いて終わりです。つまり、最初から、自己顕示の食欲~貪欲~貪食だけであり、伝える意志も意欲も思考も感性もないと思います。
 
 
*霊界観
本山博の霊界観についてはスピリチュアリズムの影響が濃いようだ。霊界の下層では、神と仏の違いなど宗教の違いが問題となっても、上層に行くほどそういう問題はなくなるというのも、スピリチュアリズム的だ。霊言では、霊媒の声ではなく、霊人が肉体を持っていた頃の声に変わるともしている。これはよく聞く話であるが、霊言の真偽を見分けるためのもっとも簡便な基準だろうと思う。
 
超常の心霊に没入して、人間性を考えない楽山です。楽山は、読者に、分かってもらおうとか、共感とか、そういうものを全く必要としていません。ならば、書かなければ、無駄がなくてよいのですが、自己顕示欲だけは、依然として、底無し沼のように深く、死体のように雑言が浮かんでくるのでしょう。
 
霊が分かるっぽい霊能者気取りの楽山は、説明のつかないことも、"君らは分からないだろうけど、自分は分かっている、自分は教祖格だからね"、とでも言いたがっているような書き方をしてきます。ゆえに、霊言の真偽を見分ける、などという自意識を平気で書いてこれるのです。
 
 
類魂のような考え方も述べている。自分はこれは苦手であるが、コップの水を大海にそそげば、再びコップに入っていた水を取り出すことはできなくなるが、だからといってコップに入っていた水がなくなったわけではないというたとえであれば、その理屈自体は分からなくもない。
 
ボンヤリ言語の言い回しで、分からなくもない、と楽山が言っているのは、コップ、水、大海、という言葉を使った比喩だけです。この比喩が指し示すものには、共感や共有の要素がありません。しかし、楽山は、説明した気分になるのでしょう。小話をいじくっても糧(かて)にはなりません。
 
内容説明のない、値札と広告だけの、霊のバーゲンを、毎回のように、書いて満悦するだけの男に、分かち合える何があると言うのでしょう。実に、人の迷惑を考えない楽山です。だんだん、目を覆いたくなるような壊れた言語になってゆくのかもしれません。
 
 
霊界の話などについては、ある人の話が、他の人の話と共通項が多いことをもってそれが真実である証拠だとする主張もあれば、それは単に一方がもう一方の話を知り影響を受けたか、双方の話はともにある一つの話から影響を受けたというだけのことだろうという主張もある。
 
霊言の実在を前提としたお伽噺でしょうか。インチキの典型のような話です。霊界、共通項が多い、真実である証拠、影響を受けた、これらの言葉の中で、霊界は前提であり、あとは不可解な辻褄みたいなことを書いているつもりで、実際、何の糧にもなっていません。
 
いずれにも、根拠がありません。それなしでは生きられないほどの必要性も、まるで書いてありません。記事の進め方に、全く必然性が表されていません。空疎な興味本位でしかなく、それで宗教や思想を語ることなど、到底、出来ません。
 
 
本山博とスピリチュアリズムの関係についてはどう解釈すべきか思案のしどころではあるが、自分の見立てでは正直言って後者の可能性が前者のそれより高いように思う。氏の話に限らず、霊界話というものは大方はそういうものだろう。さて、真相はいかに?
 
霊界の話を、まるで普通に存在しているものについての話のように語る楽山ですが、実際には、楽山の頭の中でだけ、つまりこれは、楽山の思い込みの中だけで、思い上がった霊能を語っているわけです。それで「真相はいかに?」などと書いてくるのは笑止であります。
 
読者と共有できるような説明が、全然、為されていません。いったい、楽山は、どういう種類の記事を書いたつもりなのでしょう。何を主張したいのか、何を受け取ればいいのか、何かを共有できるのかどうか、まるで不明です。批判以前の問題になっています。
 
それで、どっちだ、後者だろう、みたいなことが語れると思っている楽山の話の中の、前者も後者も、いくら当たり前のように語っても、ピントが、読む側と全く合っていないまま、独善的に得々と語っている自分納得の奇妙~不可解なスピリチュアル以前のガラクタになっています。
 
しかも、その語り口だけで、満悦して「霊界話というものはそういうものだろう」と万人の共通の話題であるかのように「真相はいかに?」などと、興味津々に見せかけています。何を考えて記事を書き、何を期待して記事を公開しているのでしょう。呆れます。
 
楽山に共感できる人がいないことのほうが妥当であり、むしろ共感できたら、頭の構造はどうなっているの?、おかしいだろう、という方向に、逆に、頷ける記事になってしまっているのです。楽山の単方向の独り言~独り芝居は、思春期以降、傍迷惑を振り撒きながら、ずっと続いているような気がします。
 
楽山には、思案というものはないのだろうと思います。説明のない前提があって、あとは思いつくままに、その場その場で取り繕ったような辻褄めいたものを当てているだけで、それ以外の、説得力の必要なところが、全く表れていないのです。
 
これは、書くことに、自慢以上の目的がないことを示しています。楽山というインチキワールドで、得々と霊界が分かる楽山自身を前提にされて付き合わされては堪(たま)らない、という記事です。どうか、間違っても、批判的な目以外で、関わることのないように願います。
 
しつこく、丁寧語で書いてゆけば、誰かが、読んでくれて、頷いてくれて、だまされてくれるだろう、という企みの意図なのでしょうか。そこからは、楽山教?へのマインドコントロールと脅迫でも待っているのでしょうか。浅ましい楽山の、哀れな犠牲者にだけは、決してならないでください。
 
 
とても霊乏が効いている話

とても霊乏が効いている話
 
 
(2020年)
(2022年07月13日、再録+加筆)
 
 
 
  テレビ
 
あぐらをかいて座っている
男の顔は
肌色を消されて
明るくなったり暗くなったり
赤くなったり青くなったり
次々に変化していく
座っているのは同じ男なのに
幽霊になったり鬼になったりする
男は光源を見ている
光源は男を照らす
光源からは目をそらすことが多いのに
じっと見つめ
泣いたり笑ったりを
光源からもらっている
 
焚火を囲む人たち
その顔は炎の色に輝いている
男の顔も赤くなる
しかし炎の色ではない
炎は熱い
テレビの火は冷たい
火を受けて凍りつく顔
 
外に出て星を見上げた
輝く星の光を受けて
男の顔は真っ暗だ
 
 
  朝までの群れ
 
懸濁液のコロニーから
生えてくる社会ひとつひとつは
整然として燃焼を収めてゆく
 
炉に投げ込まれる人の形の
氷の造形も黄昏て
その節々に時を刻み
離れ離れの役者の帝国に
歌姫を連れてきて笑わせる
 
けばけばしい提灯の夜
イオンの息子たちは集まって
はみ出したやつが道になる
 
放り込むのか夜明けの虫
安いライターを燃やすのか
 
そこここに蝉の亡霊が鳴き
病人のベッドを濡らし
小火(ぼや)に逃げ遅れて肉片は踊り
間違って太陽がひょっこり顔を出す
 
危ないぞパイプと鎖
すでに火だるまのバクテリア
ブローバックの煙
路上に転がる金属音
連続した紙幣と貨幣
たちまち飛び散って
レスキューの箱に収まりきれず
遠くの信号が点滅して
踏切で眠りにつく子守歌
細く丸く輪になって焼いて・・・
 
朝の短い把手(ノブ)を擦り抜けて
割れたフラスコを絡ませた頭の
ありふれた生前の手によって
寝起きの試験管から
コロニーはシャーレに移される
 
 
  何ものもなく
 
触れようとしたとき
触れるべき何ものもそこにはなく
あたかも永久に続くかのような
ずれと揺れとぶれの堂々めぐりは
あたかも同じ時間を繰り返すかのようで
諦めようとして諦める何ものもそこにはなく
遠く乗り遅れて懐かしく見上げる空に
焦点を失って日と日の残像を射抜かれてゆく
 
色の剥げた雲の下の
煙立つ藁葺きの小さき社(やしろ)から
焦げた片方の翼で
飛び立つ渡り鳥の至福のように
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
親戚のことを霊が分からないっぽいのには驚いたと書いていた楽山の、霊が分かるっぽい?霊能者気取りは、吹きっさらしの廃屋に藁人形を飾るホラー趣味に終始して、頭の回転を空中に摩滅させ、情緒の温もりと潤いを絵の具のひび割れに乾燥させながら、砂ぼこりとなってゆくようです。
 
 
 
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  楽山の悪霊
 
 
 「霊言の冒涜は人類叡智の冒涜
   ~イタコ芸など、いい加減にせよ!~」を見た!
 2022年04月23日 幸福の科学とは何だろう? by 楽山
   を批判。
 
楽山は、一見、HSを批判しているように見えますが、実際は、聖書から、残酷な言葉を選んで、書いています。楽山の目的は、自分が批判されたことへの、キリスト教に対する復讐でもあるのでしょう。実に、片落ちで、聖書は殺すことばかりで残酷ですよ・・と言いたいのでしょう。
 
聖書を理解しない者が、ましてや、言動が聖書を裏切っている者が、聖書を引用する・・これほど、危険で、醜悪な偽善はないでしょう。この楽山のような者のゆえに、終末の裁きは用意されているのでしょう。というより、既に、楽山は裁かれているのですが。
 
 
*公式見解?
・霊言の冒涜は人類叡智の冒涜~イタコ芸など、いい加減にせよ!~
(動画省略)
この動画では、「すべての正しい宗教には“霊言”がある」という主張がなされている。
まるで、他の宗教でもHSの霊言と同じことをしていると言っているようだ。
はたして、本当にそうだろうか?
 
聖書において、霊については、聖霊と悪霊とが書かれています。これは、よかれあしかれ、人間を誘導し動かす心の働きを表しており、楽山が好むようなホラーの霊とは違います。霊について、とんでもない偏見で、楽山は、おとしめたいのです。楽山を信用しないでください。
 
楽山の、霊についての文章は、一足飛びにエスパーになりたい妄想なのでしょう。その欲張りから、楽山は、結局、悪意、つまり、悪霊にばかり憑りつかれているようです。楽山が、いちばん危険な霊の思い込みだけの、実際は、霊の無能者なのです。全く俗の欲望と興味だけなのです。
 
 
*聖書と霊言
たとえば、聖書にはこんな風に書かれている。
「(聖句)
霊媒を訪れたり、口寄せを訪ねたりして、汚れを受けてはならない。
(レビ記19.31)
 」
 
まさに、超常現象としてのホラーの霊を信じて、霊が分かるっぽい自覚で、嘘と詭弁を書いてきたのは、他でもない楽山です。楽山は、努力せず、学習せず、一気に超常のヒーローになりたくて、崇められたい教祖願望で、あらぬことを書きまくります。
 
 
男であれ、女であれ、口寄せや霊媒は必ず死刑に処せられる。彼らを石で打ち殺せ。彼らの行為は死罪に当たる。
(レビ記20.27)
あなたの間に、自分の息子、娘に火の中を通らせる者、占い師、卜者、易者、呪術師、呪文を唱える者、口寄せ、霊媒、死者に伺いを立てる者などがいてはならない。
(申命記18.10)
口寄せや霊媒を訪れて、これを求めて淫行を行う者があれば、わたしはその者にわたしの顔を向け、彼を民の中から断つ。
(レビ記20.6)
 」
これを基準にすれば、死者を呼び出し、その言葉を伝えるHSの霊言が容認されることはあるまい。
 
まさに「霊」を悪用する悪霊が楽山と言いたくなるような、ただれた発疹のような、断片的な聖句の引用の仕方と言えるでしょう。誰が、言論の場に「いてはならない」かを、楽山が表しています。楽山の、ブレーキの利かない血生臭さです。
 
 
*聖書と預言
預言については、こうある。
その預言者が主の御名によって語っても、そのことが起こらず、実現しなければ、それは主が語られたものではない。預言者が勝手に語ったのであるから、恐れることはない。
(申命記18.22)
 」
さらに、神については、こうある。
神は人ではないから、偽ることはない。
人の子ではないから、悔いることはない。
言われたことを、なされないことがあろうか。
告げられたことを、成就されないことがあろうか。
(民数記23.19)
 」
この場合、大川隆法が預言者とされることはもちろん、神とされることもないだろう。
大川隆法は、90年代には、今世紀中に日本国民全員をHSの会員にしてみせると豪語したり、2009年には幸福実現党が政権を取るかのような物言いをしていたが全くそうはならなかったのだから。  
 
キリスト教を、ミソクソに言っておきながら、聖句を引用して根拠とするとは、楽山は、もはや、真実も、節操も、なくなって、亡者と化しているということです。楽山のような曲解を習いとするような者が、恣意的に引用してよいような聖書ではないのです。楽山は、悪魔性の冒涜者であります。
 
 
*心霊研究と霊言
イギリスの心霊研究協会では、霊言現象の検証方法として次のものがあるそうだ。
子供のいたずらではないかという懸念が、関係者の中にあり、ハステッド教授という心理学者が現地に行って調査した。ジャネットの口に水を含ませ、唇をテープで貼って、それでも声がでるかどうかを試したのである。 
(『イギリスの霧の中へ 心霊体験紀行』三浦清宏著、南雲堂、昭和58年、p.35)
 」
はたして総裁の霊言は、この検証に耐えうるだろうか。
ちなみに、映画『死霊館 エンフィールド事件』では、霊媒少女が口に水を含んだまま、霊言をする場面がある(1:10:25付近)。
 
このように、楽山は、超常現象とホラーに興味があるだけのオタクです。宗教や信仰を語れるような、柔和な器を、全く持っていません。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の楽山が、聖書を引用すれば、ことごとくインチキになる定めなのです。近づかないでください。
 
 
*まとめ
以上のことからすると、HSの霊言は、聖書の預言とは別物であることが分かる。心霊研究における霊言にも該当しないだろう。
 
聖書の意味など、全く分かっていない楽山が言っています。戒律的な文言を、預言とか霊言とか呼んでいるところもそうですし、宗教の歴史を考えずに旧約聖書を、実に無遠慮に利用~悪用しまくっているのは、もはや、できの悪い子供が、マンガ雑誌を振り回して暴れているようなものです。
 
聖書を読むためには、聖書を読むための宗教的興味と冷静な弁えが必要です。楽山のように、キリスト教を否定しておきながら、自分の企みに都合のよい文言を集めるなどという引用は、悪魔性か、怠け者か、無節操か、凶暴性としか思えません。楽山を、決して信用しないでください。
 
 
したがって、これらを同一視して、HSの霊言は、他宗教と共通しており、「すべての正しい宗教には“霊言”がある」と言うのは詭弁なのである。
 
「詭弁を弄する者」は、他でもない、楽山です。ずっと、そうです。そして、霊言という言葉を、平気で、分かっている前提で使っているのは楽山の傲慢です。霊は、心を意味したり、超常を意味したり、心霊、聖霊、悪霊など、多義でありますから、慎重でなくてはなりません。楽山は粗忽(そこつ)です。
 
 
詭弁を弄する者は、意識的であれ、無自覚であれ、言葉の多義性を利用しつつ、同じものを違うとしたり、違うものを同じとしたりすることがある。たとえば今回の場合は、「霊言」の意味を広げて、「すべての正しい宗教には“霊言”がある」とし、HSの霊言も、他の宗教の啓示なども同じだということにしたわけである。こういう詭弁には注意したいものである。
 
霊言という言葉の定義も書かないで、霊言という言葉を振り回して、霊言が分かっている前提で、物を言う楽山こそ、あくどい詭弁屋の典型です。楽山の思い上がりは、もはや、有頂天妄想の領域にあると判断するしかないでしょう。教祖願望から正気の喪失に向かっているようです。
 
 
*冒涜?
余談ながら、本動画では、大川隆法総裁は「モーゼの霊言の中で、“神の声”と“悪魔の声”を聴き間違えたことを明らかにされた」云々という箇所があった(11:50以降)。
これはつまり、聖書には悪魔の声が神の啓示として記されている箇所があるということだろうか。もしそうであれば、これは明らかに冒涜だろうし、訂正した方がいいと思う。
 
超常ではなく、悪魔性が、助言者などに化けて、誘惑することはあるでしょう。楽山こそが、そういう言動を続けてきました。悪魔的な人物は、露者にもいるようですが、嘘吐きで詭弁で人をだましてきた楽山は、他人のことを言う前に、わが身を省みるべきです。しないでしょうけど。
 
楽山の言は、楽山の指摘する罪悪は、全部、楽山に返ってゆきます。自らを見ない自己中の宿命かもしれません。ワッハワッハと勢い任せで書いて、罪と恥だけが返ってきて、楽山の持ち物になります。言論の素地を持たない楽山の宿命のような自業自得の悲劇が、今回の記事です。
 
 
悪霊も真っ青

悪霊も真っ青
 
 
(2022年04月25日)
 
 
 
  対話
 
光が街中で叫んでいたのに
二人腰掛けて
向かい合って話していた
一人は一人の後ろの人を
もう一人はまた別の人を
二人が話していたという場面
それは対話
光も記憶もそれ以外を写さなかった
光が街中で叫んでいるのに
あれから数々の対話
人とだったか
幽霊だったか
幻だったか
夢だったか
話す方も答える方も
数さえわからない
対話?
今も光が街中で叫んでいる
 
 
  テレビ
 
あぐらをかいて座っている
男の顔は
肌色を消されて
明るくなったり暗くなったり
赤くなったり青くなったり
次々に変化していく
座っているのは同じ男なのに
幽霊になったり鬼になったりする
男は光源を見ている
光源は男を照らす
光源からは目をそらすことが多いのに
じっと見つめ
泣いたり笑ったりを
光源からもらっている
 
焚火を囲む人たち
その顔は炎の色に輝いている
男の顔も赤くなる
しかし炎の色ではない
炎は熱い
テレビの火は冷たい
火を受けて凍りつく顔
 
外に出て星を見上げた
輝く星の光を受けて
男の顔は真っ暗だ
 
 
  叫ぶ男
 
山頂で叫ぶ男の
叫びを追いかける
 
耳で追えば
木霊(こだま)となって返りながら
遠ざかるばかり
 
何を叫ぶのか
男は誰なのか
男は何をしでかしたのか
 
叫んだ後は・・・
追い方はありそうなのに
足でも目でも頭でも
叫ぶ男に追い付くことはできない
しかし無謀にも
その男にではなく
その叫びになろうとした
もう一人の男を
聴きたいと待っているのだ
 
煤けた胸の中を木霊して
空っぽになるくらい揺さぶって
音ではなく
話でもなく
もはや叫び声でもなく
声にならない人の響きを
つかまえたくて仕方ないのだ
 
 
  霊
 
霊は魂のうちに語らない
ただ思いのうちに留まるのみだ
 
私の思いは私のもの
私の体は私のものと
私が幾度それらを捨てようとも
霊は魂のうちに語らない
ただ思いのうちに留まる
 
捨てれば捨てる思いのうちに
空しければ空しい思いのうちに
私が思う
時が短くても長くても
そのあいだ私のすべては
私のものではないかのように
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
キリスト教を、ミソクソにけなしてきた楽山が、別の他者を、聖句を引用して、批判しているのは、不道徳の者が、白々しく道徳を教えるようなもので、全くのホラーとしか言いようがありません。罪悪感のない楽山だから出来ることなのでしょう。悪と偽善が沸騰しています。
 
 
 
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  楽山の崩壊2
 
 2021年03月25日
 家田荘子さんをめぐって(宏洋と広報チャンネル)
 幸福の科学とは何だろう?ブログ(楽山)
 
 
(ネットより)
家田 荘子(いえだ しょうこ)は、日本のノンフィクション作家、高野山高等学校非常勤講師、高野山真言宗大僧都。家田荘子オフィス所属。マネジメントはエクセリングと業務提携。
 
 
*霊言は信じる? 信じない?
宏洋氏と家田荘子氏のコラボ動画が発表され、それに対して幸福の科学の広報チャンネルが物申してた。
ここでは動画の発表順に並べておく。
 
霊が分かるっぽい?という霊能者気取りの楽山は、反キリストのくせに、教祖願望があると思っていますが、今回は、「霊言は信じる? 信じない?」などと言っています。白々しい限りです。
 
(動画省略)
 
 
*感想いろいろ
以下には、動画を見た感想を書いてみる。
広報チャンネルでは、家田荘子氏は「霊言は本物」と明言したかのような言い方だけども、実際はもっと控えめな言い方だと思う。
 
ちなみに、楽山が、前に自分について言っていた「霊感の一種」は、丁寧語ですが、決して控えめな言い方ではないと思います。何故なら、霊と霊能力について、しばしば、話題にしてきたからです。また、「心の理論」という心理学の話を、呆れた心霊の話にすり替えたこともあります。
 
 
(過去に楽山の言ったことです。)
自分は多少冗談っぽい言い方をしたので、笑ってもらうのはいいけど、おばさんたちは仏様の気持ちは全然感じないっぽいのには驚いてしまった。
仏様が喜んでるか、悲しんでるか、怒ってるか…そういうことは何となしに感じるものだと思うんだ。
ちなみに自分としては以前は、これは霊感の一種なんだろうと思ってた。でも近頃は、「心の理論」の延長上にあるという説に説得力を感じてる。相手の心を推測する機能が拡大されて、人以外の存在…仏様、神様、ご先祖様に向けられたのではないかと…。
 
心理学の話である心の理論を、いくら延長しても「霊感の一種」にはなりません。推測する機能がいくら拡大されても仏様やご先祖様などの超常の存在を推測することはありません。推測するには根拠がありますが、楽山の霊の話には根拠が全くないからです。
 
特に、楽山は、精神も推測も貧弱ですから、こういう、あからさまな間違いでさえ、訂正することがありません。訂正不能の確信~信条だと思います。自分には、霊能力があるんだ・・と言いたいために、とても幼稚な詭弁を振り回しています。
 
 
家田荘子氏の動画の方が、宏洋氏の動画よりも和やかな雰囲気のように感じられる。宏洋氏の動画を先にとり、家田荘子の動画はあとに撮ったということだろうか。
とすると、家田荘子氏は宏洋氏に気を使って霊言を信じているといった可能性はあるのではないか。会って間もない対談相手の実父をエセ霊能者呼ばわりすることなんてできないだろうから。
 
「気を使っ」たかどうかについて、楽山に分かることはないでしょう。楽山は全く気を使えない人だからです。心が無いものだから、机上の辻褄で思いつくことを言っているに過ぎないと思います。人間を見るセンスの無い人は、宗教を見るセンスもないのです。
 
 
霊現象を信じる人は、霊現象の真偽判定はゆるくなりがちだが、家田荘子氏もその傾向はありそうだ。
 
宗教についての楽山の真偽判定は、ゆるいどころか、全くのデタラメです。自分のことを棚に上げて、他者のことばかり、どうのこうのと言うのは楽山の特徴ですが、その資格も能力も、楽山にはありません。ひどい霊能者気取りです。
 
 
他の人の意見では、家田荘子氏は、大川隆法による霊言のことをよく知らないで言っているのではないかだとか、大川隆法の霊能に疑念を提示すると、自身の霊能の真実性にも疑念が及ぶことを恐れたのだろうというものもあった。どれも一理ある。
 
どこが「一理ある」のでしょう。人の霊能力の話です。つまり、信じるかどうかの話です。楽山は、人の霊能の真実性を云々しても、自身の霊能を疑う気はないからでしょうか。霊能という超常に対して、恐れるどころか、ふつうあるもののごとく誇大妄想化しているのです。妄想には、一理もありません。
 
楽山は、何も学ばず、何も反省せず、何の責任も負わず、何の根拠もなく、霊能者を気取れば気持ちがよくて、その勢いで、人のことばかり書けるのは、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害)だからなのです。
 
 
家田荘子氏が駆け込み寺の話をしているのを聞いて思い出したが、幸福の科学は清水富美加の出家騒動の時に、自分たちは駆け込み寺の役割を担っているとしていたのだった。今でもそのようなことを行っているのだろうか。
「設定崩壊」って、これまでさんざん言われてきたから、同じ言葉を言い返したいだけだろう(笑)。
 
楽山の場合、いかなる設定も、自己愛から出ていて、根拠を示すことがないため、理路として崩壊してゆく必然になります。あるいは、何らかの精神病理や欲求不満や怨念で、楽山が時に見せるところの、時と場合にそぐわない不自然な「(笑)」は、真剣味や深みのない異常者の笑いとなるでしょう。
 
 
自分は、大川隆法による霊言は信じていないせいもあってか、それを本物だとする意見には厳しい見方になってしまうのではあるが、上の動画を見て、大体このような感想を持った次第である。
 
楽山は、誰も、何も、信じていないと思います。誰かを、何かを、信頼することも信用することもないでしょう。楽山にとって、他者は、都合のよいところを利用するだけの素材なのです。楽山は、体質的ペテン師です。
 
楽山が、HS批判をしているつもりなのは、自分が変質ナルシストであることを隠すためなのでしょうか。楽山は、一方では、キリスト教への、批判ではなく、否定を続けているのです。そして、断定していないから責任問題は生じないと言っていますが、明らかに、否定、軽視、侮辱の反キリストです。
 
 
 
 宏洋氏はまた嘘をついたのか?(宏洋と広報チャンネル)
 2021年03月27日
 幸福の科学とは何だろう?・・楽山ブログ
 
 
*しつこい
広報チャンネルの宏洋批判はよく続くなあと思うのだが、もうかれこれ「宏洋氏に物申すシリーズ」は110回なのか…。まあ、しつこさについては、自分も人のことは言えないのだが(笑)。
 
「(笑)」・・またしても、楽山は、真剣味もなく、何を笑っているのでしょう。これは、批判でも忠告でもなく、揶揄、ひやかし、あざ笑い、の類であります。自虐にしても、楽山は、こういうことしか書けないのでしょうか、他に実のあることを何も書いてないのは。
 
批判者の資格もなく能力もなく、楽山が、否定を書くことは、明らかな迷惑行為です。しかも、楽山のしつこさには、根拠が無く、説明の理路が破綻しているために、説得力がありません。退屈で、真に受けると、疲労と徒労が増すだけであります。既に経験済みです。
 
そして、楽山を批判すると、それに対して、楽山は、基本的に無視してきますが、前に、st問題などと題して、悪口、いちゃもん、詭弁、そして、明らかな嘘までも、平気で書いてきました。楽山は、そういうことしか書けないのです。楽山は、うさんくさい詭弁しか書けないのです。
 
 
・出家で芸能界電撃引退のトップ女優と婚約破棄で教団教祖の父と絶縁/名誉毀損で2億の請求
動画省略。
・宏洋また嘘!「出家で芸能界電撃引退のトップ女優と婚約破棄」?両性の合意なしに婚約などありえない。【宏洋氏に物申すシリーズ110】
動画省略。
 
このように、引用・悪用、つまり、ゴシップで的なことを書くのが楽山です。他者の言葉と資料を借りる、本の言葉を恣意的に利用する、・・それ以外、何も出来ないのが、楽山です。正常な議論の邪魔でしかないのです。しかも、すべて、楽山自身の自己愛と快感だけのためです。
 
理路が成り立たない、高等感情が鈍麻していて、共感、罪悪感、羞恥心、反省力、修正能力、学習と成長の意欲と能力、などがない。不備の自覚がないのは、自己愛性パーソナリティ障害のために、自分を斬ることが出来ず、反省せず、学習機能がないためです。
 
 
*話題
広報チャンネルの動画は、ツイッターで話題になっていたので見てみたのだが、自分もこのツイートと同じ感想だ。婚約があったかなかったかは傍からはわからないし、現状では事実上の引退だろうし、女優として優れているにもかかわらず、一般の映画、ドラマに出演できていないのであればその方面では干されているということなのだろう。
 
まさにゴシップですが、宗教について、真面目な話が出来ない楽山は、こういうネタに飛びついて、興味本位の悪意を増幅しています。しかも、それで、「(笑)」って満悦しているのです。下種の勘繰りもいいとこでしょう。
 
どういう病気になれば、楽山のように人格が低格化して、遊びだけで、真剣なカルトの問題に、口を挿んだり、それで、笑ったりできるのでしょうか。恥ずかしくないのでしょうか。真実の追求から最も遠いところで、滑りっぱなしのピエロが、楽山です。とても宗教を語れる男ではありません。
 
 
あらさがし ゴシップ

あらさがし ゴシップ
 
 
(2021年03月29日)
(2022年04月18日、再録+)
 
 
 
 楽山のツイートです。
 
心機一転★こも楽山
@komo266
『運命の開拓』は、大川隆法の著作の中では、最も格調高い文体だったし、自分の先輩会員もかなり熱心に読み込んでたのだけど、だからこそ落とされてたのかもね。
大川隆法は自分より人気があるものは、人でも霊でも神でも、みんな嫌いみたいだから…。
絵文字(青ざめた顔)
午前9:03 · 2021年3月27日·Twitter Web App
https://twitter.com/komo266/status/1375599277888602113
 
「格調高い」と、褒めているのでしょうか、「だからこそ」「落とされてた」と、アンチとして批判しているのでしょうか。ボンヤリ言語で書いて、ごまかしに忙しい楽山です。自分のことを、全く考えなくなると、こういった無責任な他者への評価だけが楽しみになるのでしょう。
 
似たようなこととして、自己満悦か、取り入るために書いているだけで、明確な主張がないために、肯定を書いて、否定を書いて、断定していないからと責任を全く負わない、というのが、以前からの楽山の特徴です。だから、自分の言葉が、自分を斬ってくるのです。
 
楽山は、自分と、自分を満悦させてくれる霊の話以外は、人でも神でも「みんな嫌い」です。楽山に受け入れられていると思ったら、だまされているということです。その結果、楽山の書いたものを「熱心に読みこんで」近ければ近い人ほど「青ざめた顔」文字の用途にしてしまう楽山です。
 
分かりやすいカルトとも違います。楽山は、ボンヤリ言語で真面目を装い、トホホ言語で同情をひきます。全部、「絵文字」のような芝居です。何も信じていないし、信じたこともないと思います。アンチという遊び場を見つけて、オレは分かるんだと、楽しんでいるのです。
 
楽山の言の、うわべだけで気取り、中身の薄さと軽さ、生きている真剣味の乏しさ、非を求めない無反省と無責任、という、自己愛性人格障害の特徴を、見抜けるようになってほしいです。反省、共感なども、字面だけは書きますが、前後の文脈につながっておらず、まるで実感のないものです。
 
楽山の、言葉をわざとらしく書くだけで、感情・情緒の深さを表せない筆致に気づいてください。楽山は、深く考えることも、共感することも、病質のために出来ないのです。そのために、人を欺くことに快感を覚えるようになったのでしょう。
 
楽山の、高等感情鈍麻を知って、基本的に乏しい表情と、時に前の「(笑)」のようにニヤニヤするのとか「ははは」の高笑いとかを、思い浮かべながら、楽山の文章を読めるようになったら、現実的には、ただただ、うんざりしてしまうだけです。
 
他者の感情を表す「みんな嫌いみたいだから…」という婉曲表現と、「絵文字(青ざめた顔)」で、それこそ、ヒエーこわいよね・・、みたいに誘導する書き方しかできない楽山です。楽山は、感情・情緒について、表現する言葉面を持っていても、切実な中身を持ちません。
 
表現力のない楽山が、本や他者の文章を読むのも、リツイートするのも、学ぶためではなく、自分の都合に合わせた言い回しを拾って、利用・悪用するためです。結果として、薄皮のような、深みのない文章になり、賛同者は薄く同調し、一般には素通りし、理路を追えば疲労と混乱を招くことになります。
 
楽山は、他者の理路を理解できないから無視します。ゆえに、私の理路は、読者に、理路不全の楽山がサイコパスであることを知ってもらうため、私の、厳しい比喩などは、そういうことしか感じない楽山に向けています。
 
 
 
  消滅のベクトル
 
味方も仲間もいないことが
自分というものなのだと
細くなり薄くなり掠(かす)れるように
座標から消え失(う)せるベクトルの先を
何によって見ようとしている
 
贅沢病だと言われれば
そうでないことを証明するには
死んでみせなければならないだろうか
 
遠ざかるものが
遠ざかることによって
殺しにかかるなら
黙って殺されてあげようか
 
しかし何の土産(みやげ)もない
天に
何の宝も
未だ積んではいないというに
 
荒廃から崩壊へ
喪失から消滅への
方向しか持たないベクトルに
長さを問う儚(はかな)さよ
 
 
  夜明けのテロリスト
 
与えられなければありえなかったのに
人生切り取り放題と言わんばかり
聞いてもしようがないのは
成功者の格言めいた話だ
しかもそれが誰にとってもお宝のように
賛美する脇役や端役
騒ぎ立てる石ころや石焼きイモだ
 
夜は腹が減る
 
体は動物のように正直だな
賢者の話なら聞いてもよいが
賢者が賢者だと
わかるほど賢くはないのでね
 
 
 
楽山に似た筆致の raku という人のツイートです。楽山の成りすましを疑っています。楽山は、実に多くのキャラのHNに成りすましていると思います。楽山の根は荒らしですが、記事をもっともらしく書くのは、楽山の正体が、三文芝居の大好きな大根役者だからです。
 
raku
@rakusyo34
宗教アンチを見てて、素朴に思ったこと。
僕も宗教反対なのだが、
アンチ同士でなぜ反発するんだろう?
同じ目的、目標なら手を取り合っていけばいいのに、と思う。
なぜなんだろう?
同質は反発するから?
#宗教 #反対 #あんち #アンチ
午後0:21 · 2021年3月5日·Twitter for iPhone
https://twitter.com/rakusyo34/status/1367676679095607302
 
自称アンチのつもりの楽山は、誰とも、「手を取り合」うことなど出来ないと思います。「同質」でもありません。正直さもなく、深さもなく、情緒もなく、道理も節操もなく、薄笑いだけで、真実を求める人々の邪魔だけをしてきます。
 
楽山は、偽者です。アンチではなく、野次馬です。議論の場にはいないほうがいい人です。自己顕示のために、アンチのふりをして、実は、自分の霊能を信じていますし、自分信仰の自己カルトを、宣伝しているような楽山ブログなのです。楽山は、誰とも、信頼関係を築けない人です。
 
楽山は、複数のキャラへの成りすましの疑いがあります。疑われていながら、それでも書いてくるのは、楽山が、鈍いヒトで、危機意識もなく、罪悪感もなく、分別・反省力・責任感もない病質者だからなのです。高等な精神機能がないために、いつも平気でいられるのです。
 
楽山のような、思い込みが前提となって、訂正不能になっている心性では、正常ならば気づくことが、汽車の窓から見る風景のように、実感のない乾燥した絵の流れように見えるのかもしれません。深い意識を集中することが出来ないのです。
 
自己愛に囚われることは、人間を人間らしくする一番大事なものを捨てることです。自己愛者に出くわすことは、不幸であり、災いであり、偶然ならば事故であり、故意ならば犯罪なのです。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
嘘ばかり重ねてゆくと、自身も嘘の存在になり、存在感がなくなり、芝居とリアルの、空想と現実の区別ができなくなり、現実的な危機や罪悪に気づけなくなるのでしょう。楽山の笑いは、人格を捨てた者の笑いとなってゆくのです。
 
 
 
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  楽山の現実離れ
 
 大川隆法と高橋信次
 2021年12月19日 
 幸福の科学とは何だろう?ブログ by 楽山
 
 
現実の問題を認識せず、自覚も病識もなく、自らの罪と悪と偽善に全く無反省で無責任な楽山が、他者の現実離れを批判しています。自らの嘘と詭弁と悪と偽善と無理解について何の反省もないまま、また、批判者を気取って、自己顕示しています。
 
*まえおき
大川隆法と高橋信次について他所で書いたので、それを再構成して以下にまとめました。
*まとめ①
思うに、大川隆法は高橋信次の教えをそのまま流用しているといっていいでしょう。
具体例を書くと、まず高橋信次は次のことを説いていました。
霊界は、四次元、五次元、六次元…と区分されるとしていた。
霊界には仙人天狗などの住む裏側があるとした。
九次元は、仏陀、救世主のいるところで、釈迦、キリスト、モーゼらがいるとしていた。カンターレ、リエントアールクラウドの存在も説いてた。
太古の昔に、宇宙人が地球に移住してきたとした。
波長同通と憑依の関係も説いてた。
本体1、分身5の魂の兄弟が生まれ変わりつつ魂修行してるとした。
大川隆法はこれらの教えをそのまま流用していることは、HS初期を知っている者であれば周知の事実です。
また枝葉を取り払った本質論でみれば、さらに両者の教えは同じことが明らかになります。高橋信次と大川隆法、どちらの教えも、人の本体は霊であり、輪廻転生をしながら霊性を進化向上させているという霊性進化論に根ざしてることは完全に一致してるので…。
 
楽山は、正すために書いてはいません。正す人は、反省もするはずです。楽山は、無反省に、他者を責めることに快感を覚えて、その偽善の立場を通そうとして、正義の味方の客観的な批判という嘘芝居と詭弁をインテリ気取りで書いているだけです。
 
「霊性進化論」は、恐らく、空論~せいぜい仮説でしょう。しかし、楽山は、真に受けて、真に受ける資質があることを、空しくアピールしたいのです。理屈の葉っぱを見せて、理路の根っこを何も持たない楽山の、出まかせの空論に、誰も惑わされることのないように願っています。
 
*まとめ②
思い出したけれど、初期HSに、元GLAの人たちが多く集まった理由の一つは、大川隆法が高橋信次と同じことを説いていたからでした。
今のHSでは、高橋信次は低評価されているし、現HS信者が大川隆法は高橋信次と違うと言いたい気持ちは理解できます。でも自身の信仰や願望に埋もれて現実を見失ってはいけません。現実は現実として認めなければならないのです。現実が分からなければ、現実と信仰の差異が分からず、結局は信仰さえも分からなくなるからです。
余談ながら、HS信者が議論に弱いのは、現実は現実として認めることができていないからだと思います。
 
楽山は何も「理解」など出来ないと思います。楽山は、無反省、無責任、無学習のために、「見失って」いるもので出来ているような精神であり、現実検討能力がありません。今までの経緯から、自己愛性人格障害の楽山は、正当な評論も議論もしたことはないと思います。
 
*まとめ③
大川隆法は高橋信次の教えをほぼ流用したから、元GLAの人たちが集まってきたのでしたが、その後、大川隆法はその部分を改変、否定したため、それらの人たちは去ってゆくことになりました。
大川隆法が改変、否定した高橋信次の教えは、こういうものです。
心の調和が大事。それなくしてペンダント、法具、儀式など意味無し。
疑問追求。疑って疑って疑いきれぬものを信じる。
人につかず、組織につかず、法につけ。組織の歯車になるな。
教祖崇拝はだめ。嘘のつけない自分の心、内なる神を信じよ。
ただ大川隆法はこれらの教えを改変、否定しても、次元論という世界観は変えていません。次元論を否定したら、大川隆法はは高次元の存在だという自らの権威の拠り所を失うことになるので、それはできないのでしょう。
その結果、大川隆法は高橋信次を否定しながらも、高橋信次の世界観、霊界観からは一歩も出られないということになっています。大川隆法は昔はもちろん、今現在も高橋信次の掌の上にあるということです。
(画像省略)
 
ごちゃごちゃと書いて、偉そうに見せるのは、楽山の、嘘っぱちの生業(なりわい)であります。楽山が、何かを分かって言っているなどと思わないでください。読書も作文も、だますためで、説得力は皆無です。高次元も低次元も、楽山は、語るだけの根拠を、学習していないのです。
 
*おまけ
山内氏のツイートによれば、『黄金の法』(旧版)において、大川隆法本人が、「私は、人間・高橋信次の遺した心の教えを土台として、さらに、これから五十年近い年月の間、正法神理を説いてゆこうと思っております」と書いていたようです。大川隆法は高橋信次の教えを流用しているというのは、私が言うまでもなく、本人がそのように宣言していたということです。
(画像)
ちなみに、この辺りの流れを整理すればこうなるでしょう。
大川隆法は、高橋信次の教えを引き継いだ。
その後、大川隆法は高橋信次を批判、否定した。
けれども、自らの教えの土台となっている高橋信次の教え(霊界観、心の法則など)までは排除できなかった。
大川隆法は、今現在も、高橋信次の霊界観、世界観によって立っていて、その影響から脱しきれていない。
こう見ると、大川隆法は他宗教を凌ぐ独自の教えを説いたわけではなく、高橋信次の教えを流用したにすぎず、その実態は高橋信次の没後弟子であり、分派にすぎないことがよく理解できるのではないかと思います。
 
(ネットより)
高橋 信次(たかはし しんじ、1927年9月21日 - 1976年6月25日)は、日本の宗教家で宗教団体GLAの創立者[1]。ハードウェアエンジニアとして会社を設立し経営者を務めた。
高橋によれば、人間はその内側に次元の異なる心や魂の世界があり[2]、その中心に「仏性神性を持っている」[3]。人間は「神の子として(中略)人々の心と心を調和させ、地上に(中略)ユートピアの実現を志すとともに(中略)盲目の人生での修行を通して、豊かな神の心を完成させることが大切である」[4]という。また、自然において安定した環境が保たれているのは「神の大慈悲であり、大いなる神の愛」[5]であるという。
 
楽山は、ORを批判する根拠に、ORが、別の、神仏への信仰を真似ていることを指摘しています。ならば、この、別の超常信仰を肯定しているのでしょうか。どちらも超常を規定する信仰ですから、結局、楽山は、小児期からの、霊が分かるっぽい自覚にのめりこんでいるということです。
 
だとすれば、楽山は、他者を利用して、結局は、自分が教祖にでもなりたいのだろうという推測が可能です。今までの経過から、実際の楽山は、反省も学習もしない嘘吐きの詭弁屋ですから、その薄汚れた精神から浅ましい欲望を貪っているに過ぎません。
 
楽山を受け入れないでください。楽山の理路めいた言説は、楽山と同じような自己愛性パーソナリティ障害NPDへ通じる、嘘と詭弁以外何もない空虚な精神崩壊への誘導の入り口なのです。楽山に関わらないでください。楽山を相手にしないでください。お願いします。
 
 
浅ましい飢餓

浅ましい飢餓
 
 
(2021年12月21日)
 
 
 
  崩壊
 
荒れた道沿いの丘を走っていく
両手で抱えているのは黒い棒切れ
迷彩服は朝日に照らされて
丘の上これ以上狙いやすい的はあるまい
墨でも塗っているのか
黒人なのか
それとも焼け焦げているのか
黒い顔は眼だけがむき出しの形相で
崩れるように走っていく
わからない
よっぽどつらいことがあったんだろう
 
昼の光の陰の通り
近寄って来て声をかけてくる
「@×~※〇÷#&▽=∞+?・・・」
何か尋ねているように聞こえるが
内容が聞き取れない
崩れるように近づいて
崩れるように何度も声を向ける
恥も外聞もないかのように
自らを投げ出している
わからない
よっぽどつらいことがあったんだろう
 
いっそ崩れてしまえば
本当は赤ん坊になって
胎児になって
宇宙か天空へでも帰りたいのだが
もうこんなに歳を経てしまった
黄昏の地平に砕かれて
粉々になってしまえば
黒い顔のまま倒れて
丘の下の草原へ転げ落ちてしまえば
@×~※〇÷#&▽=∞+?
投げ尽くしてしまえば
声が音になって
引き裂かれたあとの沈黙が
静けさになって引き裂かれたあとの
地獄が天国に・・・
 
そんなにも虚無を
求めるかのようでありながら
引き金のない銃に
空(から)の薬きょうを込めて
崩れかけた顔に
水の化粧をして
崩れかけた声に
塩素の泡を流して
目覚めれば今日も
自らに迷彩を施している
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
嘘ばかり重ねる楽山に、だまされないように、楽山がネットに開いている嘘吐きそして高等感情鈍麻養成の出店を畳むしかなくなるように、誰も楽山を受け入れないように、祈り願っています。楽山の気取りは、異常であり、病気であり、不治なのかもしれません。被害は小さくないと思います。
 
 
楽山のツイッターと思われる taka のツイッターは、ブロックされているようです。楽山が、何か、ルール違反でも、やらかしたのでしょうか。原因は不明です。
 
ブロックされています
@taka84156681さんのフォローやツイートの表示はできません。
 
 
 
(近況)
今年4月より、老人ホームにいた母は、19日の夕方、熱発して、近医処方の薬では治まらず、救急車にて搬送され、総合病院に入院となり、駆けつけて昨夜、顔を見て、眠そうだが意識あり、翌20日午前中に、説明を受けるために行くと、当然、コロナ禍のもと、面会禁止で、主治医より、肺炎も疑われたが、今までも何度か繰り返してきた尿路感染にて、治療する旨、説明を受ける。我が家に、正月はあるのか・・という近況です。
 
 
 
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  楽山の霊能遊び
 
 霊言と、本人の言葉との関係(傲慢、蔑視)
 2014年11月29日 楽山日記(LD)
 
 
楽山は、数日、記事を書いていないと思っても、また書いてきて、また批判するということが、最近もありました。書かずにはおれない自己顕示欲の体質のようです。
 
頭ごなしに言うのでなくても、新しい人からの、好意的に見える誘いには注意しておくべきです。例えば、読んでいて、どうも、心に響くところがない、こっちの話を聞いていない、・・などと思った相手は、要注意です。
 
かなり前の楽山の記事ですが、有名人も、楽山が扱うと、オモチャ以下に悪用され、もてあそばれるようで、そういうところが、楽山は、何も変わっていないのです。自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)の楽山には成長がないのでしょう。
 
*高慢、蔑視
民主主義っちゅうのは、建前や理想は美しいが、本音は、「こんなやつらに頭下げないかんのか」というのが、まあ、本心やろ。
(大川隆法『松下幸之助 日本を叱る』幸福の科学出版、2010年3月17日初版第8刷、p.34)
 」
この霊言を読んで思い出すのは、大川隆法氏が街頭演説で語ったとされる言葉である。
 
楽山は、世辞と芝居以外では、人に礼を取ることはありませんでした。世辞と芝居で、やさしい人柄という好感を得て、丁寧語で、誘導してゆくというやり方です。その証拠となる詭弁と嘘が、私の記事に、たくさん残っています。高慢・蔑視は、楽山の心性です。
 
「大川隆法『松下幸之助 日本を叱る』」というのは、いわゆる霊言の類でしょう。楽山は、HS批判者であるはずが、ORの発言を信じているらしいことが表れています。松下幸之助を実在のように扱っているからです。霊言を信じ、霊が分かるっぽい霊能者気取りの楽山が表れています。
 
人間様に投票で選ばれるなんて、もう神様、仏様、頭から、もう火を噴きそうなくらい、腹の立つことではございますけれども、これが、時代が時代であるので、こういう時代もあるかな、と、今思っておるんです。
 <21日街宣Part-2の総裁先生街頭演説 高松市内>
 」
どちらも、その根底には同じような発想が潜んでいるように思える。どうしてそんなに傲慢になることができるのか、人を見下すことができるのか、不思議だ。
 
これこそ、楽山に対して感じていることです。実に白々しい。自分が言われそうなことを、他者に向けている狡猾さと矛盾が、楽山には平気なのでしょう。自己愛性パーソナリティ障害NPDならではの特徴なのでしょう。人の振り見て我が振りを直さず、嘲笑って上機嫌な楽山です。
 
*追記
次の言葉を見つけたので、追記しておく。
民主主義ってのは、基本的には、〝阿呆の祭り〟なんだよ、君。  
(大川隆法『龍馬降臨』幸福の科学出版、2010年、p.194)
 」
民主主義の根底には、多数決には神の意志が現れるという考え方があると聞いたことがあるが、大川隆法氏にも、大川隆法氏に降りてくる霊にも、そんな考えはまったくなさそうではある。
 
多数決に神の意志が表れるとは限らない、というのは、常識であります。多数は、流される場合があるということです。ゆえに、警鐘や批判が、言論の自由として、大切なのです。楽山は、ここでも、自らの知識の欠陥を露呈しています。
 
楽山が、勉強したつもりでも都合のよい言葉しか受け取らず、学習になっていないことが表れています。楽山には、辻褄合わせだけのために、部分で全体を語る、全体の曖昧さで部分を決めつける、というような詭弁が随所に見られてきました。
 
*追記
下の言葉を見つけたので、メモしておきたい。
実際に大臣をしている人たちも、テレビに映ったら偉く見えるだけで、大したアイデアなど持っていないのです。
(大川隆法『政治の理想について ―幸福実現党宣言②―』幸福の科学出版、2009年、p.283)
 」
氏は、一般大衆に対してばかりでなく、地位、名誉のある人物に対しては、この手の発言は度々あるようだ。現代では政治家だからといって無条件に尊敬されることもないだろうけれども、それだからといって、これだけ無造作に人をバカにした発言をし、それを活字にするというのは珍しいのではないか。
 
楽山は、鋭さがなく、無造作に、人をバカにして、下に見て、教える態度、評論家気取り、インテリ気取りを見せてきます。嘘と詭弁の荒らし的な本性を、ずっと隠しながら、誘導してきたのです。結果として、他者の人生に、恐ろしく無駄な疲労の時間を負わせてしまう病質なのです。
 
 
 霊言と、本人との関係(個人崇拝)
 2014年11月30日 楽山日記(LD)
 
 
楽山の、霊能者気取りと、雑な筆致から、今までのことも併せて、自己愛性パーソナリティ障害NPDらしい自己満足の文章になっています。
 
*崇拝を求める高級霊?
わしは、ほんまは神社ぐらい建ててもらわないかんと思うとる。軍人さんとかは、東郷神社とか乃木神社とか建っとるけども、松下幸之助神社ぐらいは、ほんまは、あってもええんや。
(大川隆法『松下幸之助 日本を叱る』幸福の科学出版、2010年、p.118)
 」
とある方が指摘されていたのだが、実はすでに、松下幸之助の社はあるらしい。検索してみると容易に出てくるが、どうやらこのことは、松下幸之助(霊)は知らなかったらしい。
それはともかく、自分を祀れという発想は、下記の発想に似ているようだ。
 
こういうことは、宗教を語る上で重要なことなのでしょうか。楽山は、茶化しているだけではないのでしょうか。松下幸之助は、自分を神としていたのでしょうか。神社が建つくらいは、貢献に報いるための記念碑的なものではないのでしょうか。無分別に話を複雑にしています。
 
このように、本筋ではないところの、ゴシップのような枝葉末節のエピソードを、宗教の重要度の分け方も考えずに、並列してくるのは、いちゃもんの言い方なのです。ゴシップで笑いたい楽山らしい書き方ではありますが、「発想に似ている」などと言うのは、論旨を乱すだけです。
 
池田大作守護霊 ああ、抑えてるんだ。「信濃町の駅を降りたところに、三十メートルぐらいの池田大作像を建てて、みんなに参拝させたい」という気持ちは、もう十二分にあるよ、だけど、理性で抑えてるんだ。
(大川隆法『宗教イノベーションの時代 目からウロコの宗教選び②』幸福の科学出版、2010年、p.258)
 」
松下幸之助(霊)と、池田大作守護霊が、似たような発想をしているところはもちろん、池田大作守護霊の方が、松下幸之助(霊)よりも、自制的であるというところがおもしろい。
 
「おもしろ」がっているようだが、松下幸之助が自分を拝めと言ったのでしょうか。楽山のフィルターを通すと、話の軽重が、ごちゃごちゃになり、有名人を、不必要に侮辱することになるでしょう。楽山自身の、楽山大社にでも祭られたいのに・・という妬みでもあるのでしょうか。
 
こういう人の悪口の類を、面白おかしく揶揄することで、楽山は、不遇の身を慰めているのでしょうか。自慰行為を人に見せて楽しいのでしょうか。ふつうは、もっと、自身のことを省みて考えるものです。楽山は、特徴的に、他者のことを云々することに執着し続けているのです。
 
ちなみに、大川隆法氏は、自分の写真や、自分そっくりの像をつくって信者に拝ませていた(る)という。大川隆法氏も、松下幸之助(霊)も、池田大作守護霊も、それぞれ別人格のはずだが、三者ともに、人々に自分を拝ませたいと考えているらしいことは、とても興味深いことである。
 
宗教の二人はともかく、松下幸之助は、実業家ですから、「自分を拝ませたいと考えて」いては務まらないと思います。そういうことも考えずに、極めて、粗暴に、有名人を、ひとまとめにしてゆく楽山の心性のためには、神社どころか、墓も立ててもらえないのではないかと思います。
 
松下幸之助の「(霊)」とは、どういうことでしょう。証拠が示せないから責任逃れのつもりではないでしょうか。どんなに、人を侮辱しても、傷つけても、人に疲労と徒労を与えても、罪悪感を感じず、恥を知らず、平気でいられる自己愛性パーソナリティ障害を、楽山は表しているだけです。
 
*追記
大川隆法氏も、松下幸之助霊も、池田大作守護霊も、同じような発想をしているらしい原因については、いろいろと考えられる。
・大川隆法氏が行っている霊言とは、大川隆法氏本人の考えを発表する際の表現形式にすぎないため。
・大川隆法氏と霊人たちとの意見が、たまたま偶然に同じようなものだったというだけのこと。
・霊人たちが霊言する際は、大川隆法氏の言語中枢を使用するのだが、そのとき、たまたま霊人の意識と大川隆法氏の意識等と混じってしまうことがある。そのため霊人たちと大川隆法氏との考えが似たものになることがあるのかもしれない。
 
「大川隆法氏も、松下幸之助霊も、池田大作守護霊も、同じような発想」・・と、本人と、霊言で語られた霊を、同じに扱っている楽山です。ORの「表現形式」と言いながら、「霊人の意識と大川隆法氏の意識等と混じってしまう」・・と、楽山の超常心霊信仰?を、あらわにしています。
 
その他、いろいろな可能性が考えられるが、こういう場合はもっともシンプルなものが正解であるような気はする。
 
楽山が「いろいろな可能性が考えられる」のに、「シンプルなものが正解であるような気」がするのは、シンプルなものしか受け取れないからでしょう。根拠もなく、自分の欲するものが正解だと言って、願望と真理を混同している楽山です。
 
楽山の文章は、平易な顔を持ち、曖昧に婉曲にボンヤリした筆致で書いて、時々、専門用語を入れて、格上げを謀り、読む人が、反発しないように、謙虚芝居や、トホホなどと、恥ずかし遊びを入れてきます。正直さが皆無です。
 
楽山の文章は、全体に締まりがなく、姑息的に、その時、その場の、良い気分を求めて書いてきます。総じて、中身のない無駄話であり、真に受けると、異常な疲労が待っているだけの毒性の高い文章です。さらに、一切、責任を負わず、反省もしません。自己愛性人格障害だからでしょう。
 
 
楽山のオモチャ

楽山のオモチャ
 
 
(2021年11月02日)
 
 
 
  自由の祈り
 
涸れたか
尽きたか
一生の間に
どうしても言っておきたいこと
死ぬも生きるも自由
死んで屍になるも自由
生きて屍になるも自由
活路を見出せるなら
それも自由
「自由」に首を絞められそうです
 
そう祈れば
過去でも未来でもない
遠くでも近くでもない
いつも木霊のように返ってくる
 
人はそのように造られている
その自由さえ奪われた者たちを
汝は知っているか
 
 
  祈り願え
 
一つの死のために祈る
一つの命のために願う
 
祈りは気休めだ
願いは掃き溜めだ
霊的は心理的だ
真心は悪魔的だ
それらがいかに空しかったか
祈りは自慰のようなものだ
願いは強姦のようなものだ
辻褄が合うはずもない
 
祈り願うことは大方
やがて無能を証明する
しかし祈り
願い続ける
祈り願え
奇跡を期待してではなく
免罪符でもなく
今の今の己のために
肉体のある限り
肉欲のように祈り願え
 
 
 
悪意が止まず、精神の崩壊の続いている楽山の
コメント再録です。誰のコメントかは不明です。
コメント欄から抜粋引用しておきます。
 
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて
 自分 正さなくちゃいけない」
「それが出来て 初めて人間だと
 それ出来ないなら 人ではないと」
「嘘ばかり 重ねる君よ
 保身だけの 卑怯者の君よ
 そんな君は 魅力の欠片もないのに」
「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は
 最大限の償いと 最大限の反省と共に
 開いた出店を 畳むしかないんだよ」
「人間で在り続けるのなら
 人で在り続けるのなら」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、
これを実践するのは難しいんだよなあ。
恥ずかしながら、自分もそんな風です。
これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
2019年だから、それほど古いコメントではありません。
 
楽山は、自分ではなく「人間の性」のせいにしています。一般化されては、たまりません。
 
楽山は、人間であり続けることを、拒み続けています。
 
また、軽口の出まかせを書いてくるかもしれません。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)は、治癒するということはなく、効く薬もなく、言動と生活の範囲を限定して存(ながら)えるしかないのです。
 
人格や能力を考えて、自分の生きられる方向を選ぶことは、誰もがやっていることなのです。それが、ふつうに、"身の程を弁えて"、即ち、能力と適性に応じて、進路を判断するということです。
 
 
 
 
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