楽山の毒満ちる魔性3
 
 人のためにできること(シルバー・バーチの霊訓)
 2020年09月01日
  改めて批判。
 
 
楽山は、反省や修正をする代わりに、ボンヤリ言語とトホホ言語の、きれいごとを書いてきます。楽山がしてきたことは、嘘と詭弁で、無責任に、人の時間を奪うことです。楽山は、結局、憎まれること以外の結果を受け取ることはないでしょう。
 
こういう種類の偽善者は、楽山やシャロームなどの易坊類以外には知りませんが、ネットにはそういう悪意によって遊んでいる者も結構いるということでしょう。荒らしと同様だと思います。楽山は自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)です。
 
それを何とも思わずに、やさしさ芝居を演じている自己中の大根役者ですから、何の影響も受けないでください。批判以外の目的で、好意的に関われば、無駄に病的な疲労だけが重なることになります。楽山は、訂正不能の病的ナルシストなのです。
 
楽山が、人のために出来ることは、何も書かないこと、何も言わないことです。何事もなかったかのように書いて満悦している姿は、人間とは思えません。楽山に対しては、好き勝手な物言いが出来ないように、浮き上がらせ、アンチ楽山の言論をもって、取り囲む以外にないと思っています。
 
 
*人のためにできること
 『シルバー・バーチの霊訓』を読んでいたら、いい言葉があったのでメモ。
地上世界はいま他人のためになる行為なら何でも必要としております。何でもよろしい。自分でこれならできると思われることをやり始めることです。すると道が開け、進むにつれてどんどん広がって行くものです。
(『シルバー・バーチの霊訓(二)』シルビア・バーバネル編、近藤千雄訳、潮文社、昭和60年、p.59)
 」
人のためになることをする。大きなことでなくても、小さなことでいい。自分のできることをする…。
元気旺盛だと、大きなことをしようとしたり、背伸びしたりしがちだけども、まずは、できることからはじめるというのはすごく正論だ。
近頃は、「ささやかだけど、大切なこと」という言葉がすきなせいか、こういう考え方は心にしみる。
 
楽山は、宗教、政治思想、カルト批判など、大きなテーマで、好き勝手に書いてきたくせに、今回は、「人のために出来ること」「心にしみる」などと、子供だましのような、きれいごとを書いています。今まで見てきて、楽山には、心にもないことです。
 
それが通ると、それでごまかせると、思っているのでしょうか。いっそう、闇を深くする楽山です。今までのことを何も訂正も反省もせずに、こういうことを書いてくるのは、魔性だけが動いているとしか思えません。「すごく正論だ」「心にしみる」・・空っぽだから月並みな褒め言葉しかありません。
 
「「ささやかだけど、大切なこと」という言葉がすき」などと、よく書けるものです。楽山の言は、ますます、催吐剤の作用しか持たないような、白々しい三文芝居となっています。執拗に書けば書くほど、楽山は満悦し、読者は、毒を食らうことになります。
 
褒め言葉と、きれいごとを、書けば、それが、そのまま受け入れられると思っているらしい楽山の、毒満ちる悪魔性だと思います。背筋が寒くなるようなホラーです。つまり、言論者としては、幼稚すぎるのです。それで、自己中なら見るべきものはありません。
 
言葉と人間について、何も分かっていない者が、なおも、心にもない教訓?を書いています。そこに自己満悦しているのは、破滅的です。大嘘吐きという印象が強められてゆきます。
 
 
*組織にはこだわらない
人のためになることをしようとするとき、特定の組織に属して行う場合もあろうが、このアドヴァイスからすると、そうすることを求められる人もいれば、求められない人もいるようだ。
あなたの場合は特定の組織内での仕事よりは、もっと広い範囲に向けるべきでしょう。
(同上p.64)
 」
「組織の歯車になるな」「人につかず、組織につかず、法につけ」というけれども、人間社会にいるかぎりは、なんらかの組織、集団に属しないというのは難しいものだ。
でも、時にはそこから出る勇気も必要なのだろう。自分もそのような勇気を持ちたいと思う。
 
組織が必要だというようなことを書いて、そのあとに、出る勇気も必要などと、白々しく、どっちつかずのことを書いて、平気でいるのが、楽山の筆致であり、楽山の言葉の世界です。どこにも、真実の主張がないのです。「勇気を持ちたい」・・楽山にあるのは悪意だけです。
 
 
『シルバー・バーチの霊訓』は、ややこしい形而上学的な議論ばかりでなく、心の教えをやさしく説いているから、それを読んでいるだけでも心が温かくなっていい。
 
(ネットより)
形而上学(けいじじょうがく、希: Μεταφυσική、羅: Metaphysica、英: Metaphysics、仏: métaphysique、独: Metaphysik)は、感覚ないし経験を超え出でた世界を真実在とし、その世界の普遍的な原理について理性(延いてはロゴス)的な思惟によって認識しようとする学問ないし哲学の一分野である[1][2][3]。世界の根本的な成り立ちの理由(世界の根因)や、物や人間の存在の理由や意味など、感覚を超絶したものについて考える[4]。
 
子供だましの、小さな親切みたいなことを書いたかと思ったら、今度は、"形而上学" だそうです。哲学用語ですが、楽山は、以前、心理学の「心の理論」さえ、誤解~曲解して、インチキな心霊の話にして満悦していたのです。楽山の理性は妄想的であります。
 
形而上、即ち、形を持っていない世界を、楽山は、少しも知りえないと思います。楽山の頭脳は、形而下の字面の世界でしかないことが、明らかになってきたからです。ということは、どうやら、楽山は、これからも、まだ、精神の詐欺を続けるつもりのようです。
 
やさしいことから難しい学問まで、自分は分かるんだというアピール、即ち、全能アピールでしょうか。字面だけで、整えようとする悪だくみが、見え見えです。実質は何もありません。だいいち、楽山は、理性を促す情性が欠如しているのです。
 
「心が温かくなって」・・この白々しい文言とは裏腹に、温もりと潤いを失った人間像の典型を表してきたのが楽山です。今までと同じように、楽山は、温もり、という字面だけを書いて満悦しています。こういうのは、精神の詐欺行為と言ってよいものです。
 
楽山は、本質的に、人間の心を持たない冷血漢です。その分、言葉の薄い表面だけを、やたら貼り付けて、厚く重ねて、ごまかしてくるので、注意してください。こういうことが、かえって、楽山の情性欠如者としての症状として、これからも表れてくるでしょう。
 
楽山は、人格が発達不全の上に、無反省によって自分で自分を鈍麻させて破壊してゆく人格のモデルであり、さらに、最も重大な問題として、他者の人格を破壊する人のモデルです。楽山が、人のためにするべきことは、公共においては何も言わないことです。
 
反省もせず、自己愛に凝り固まって、言論の責任を負わない者に、言論の自由はありません。毒満ちる魔性の楽山に、誰も惑わされることのありませぬように。祈っています。拝。
 
 
嘘を垂れ流す

嘘を垂れ流す
 
 
(2021年)
(2022年09月20日、再録+加筆)
 
 
 
  潰瘍
 
手遅れの落花に目盛りを誤り
紙コップにビール注がれ
潰瘍の胃袋炭酸の重みに耐えず
発酵の流れ歯石のうちに語る
葉桜の下疝痛に舞え
充血の嘔吐の結膜
石鹸の剥離を繰り返し
乱脈の破砕の終末
タイル張りの手首を引き
酔い痴れて薄墨の彗星を探し
とても希薄な泡沫に帰すと
 
 
  毒満ちる眼(まなこ)
 
怨の妙法聖櫃に座す
臨死の刹那四方(よも)を眺む
未開の熱未だ暁光の内に在り
紫衣の薄明に降ること頻りと
煩悩疾駆して頚骨を砕く
飢えよ饐(す)えよ地に果てよ
疼痛過ぎて覚醒に及ばず
頭蓋窩に寄する烈火の華(はな)
唯(ただ)流る水銀の涙
毒満ちる眼の裏
 
 
  呪いの丘
 
晴れた日の光をいっぱいに浴びて
洗礼を受けたばかりの若者が
翌日落雷に打たれて死んだ
しばらくは指が動いていたという
つり上がった目が空をにらんでいたという
 
彼が死んだその丘は
その後長きにわたって呪いの丘とされ
ある者は悪魔を恐れるように神を恐れ
ある者は笑いながら
あるいは泣きながら歩み去った
 
人々は
その事件について口にするのをはばかり
最初たてられた十字架は
何者かによって倒された
 
誰も訪れることのない
その丘に
血まみれのキリストだけが
息もたえだえに祈りを捧げている
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山
@komo266
余談ながら、唯一絶対神については、自分が最近読んだ本では、当時の専制君主、独裁者などがモデルになってるとしてた。
そういわれてみれば、絶対服従を求めたり、敵の虐殺命令をくだしたりするところは、両者に共通するし、これも一理あると思う。
午後9:49 · 2021年9月10日
 
神を、人間の専制君主や独裁者と混同して、おとしめる楽山の企みです。神と人の違いを弁えない無知の怖さを感じます。絶対服従を求めるとか虐殺命令とかは、人からしか出てきません。加えて、欺きもペテンも、楽山のような無理やりな悪意の人からしか出てきません。
 
楽山は、神に、絶対服従を求められたり、虐殺命令をくだされたりしたのでしょうか。だとしたら、幻覚か妄想ですので、一切の発言をやめて、療養するべきです。全く、神と人の区別も出来ない宗教マニアというのは、しばしば著しく無分別で危険です。
 
神が、人に何を求めているかは、信仰者の人生によって違うでしょうし、はっきりしているわけでもないし、ましてや、楽山がやっているように一般化してしまうなどは決して出来ません。書くたびに、無知と無恥の弊害をまき散らしている愚劣な楽山です。
 
一日も早く、楽山のように、腐った主張の無理を恥ずかしげもなく排泄してくる輩が、いなくなることこそ望ましく、それは、トイレ掃除のようなものになるでしょう。楽山の欲求不満は、もはや、あらゆる悪臭にもまして、便器の汚れたヌルヌル状態であり、最悪の不浄であり不潔であります。
 
 
 
  楽山の偽善性まとめメモ
 
 
楽山の害毒メモ:
今までに表れてきたこと。これは、楽山に限らず、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、世に数多いる偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。楽山は無責任です。決して信用しないでください。
 
楽山は、1つのことを書いて、別の時には、それに反することを平気で書いてきます。そこで、反省、修正、というステップを書かず、あたかも最初から思っていたことのように書いてきます。自分に誤りを認めない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
笑いと怒りしかなく、悲しみの情がない。
共感がなく、罪悪感がなく、反省しない。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。相手が疲れるのを見て快感を得る。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。サイコパスと思われる。
アドラー心理学の宣伝をしていた。自己中心である。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
 
単細胞。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わないし、できないし、元々する気もない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取りなど。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
騙して、言い分を詭弁や嘘で通そうとする、通っていると思い込む。
 
偏執。
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
形骸。
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
無反省で無責任が体質ということは、批判を受け取らないということであり、それで批判されなくなると、悦んで、何も気にせずに、何事も無かったかのように、平気で、見た目、明るく、白々しく、ヘラヘラと書いてくるということです。即ち、似たような嘘と詭弁で刷り込んでくるということです。
 
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
ベジータからプライドを奪ったら、角を矯めて牛を殺すことになりそうだけどね。
プライドには直すべきものもあるだろうけど、個性として尊重すべきものもあると思う。
引用ツイート
大川隆法【公式】本日の格言
@hs_word
 · 
9月17日
【プライドの角を矯(た)める】信じ合う心を弱めるものは何であるかというと、各人の個我、個我のプライドです。
プライドの角が出すぎるがために、共に相和していくことができなくなっていくのです。
その事実に気がついたときに、プライドの角を矯(... https://ryuho-okawa.org/quotes/20220917 #大川隆法
午前7:43 · 2022年9月18日
·Twitter Web App
 
根拠のない歪(いびつ)なプライドだけで、チクチク刺してくる評論家気取りの楽山のような者もいます。楽山のプライドは、「個性として尊重すべきもの」ではなく、根拠のない優越妄想、そして、白々しい嘘と詭弁となって、嘘を垂れ流しながら、平気で人を傷つけ疲れさせて、満悦するのです。
 
楽山のような人が、病識も罪悪感もなく、自他を、雑言によって摩滅させ、消耗する相手を見て悦に入り、勝ったつもりになります。楽山は、そのような、ウソ~クソの国に住んでいるのですが、結局は、支離滅裂になって、それを取り繕おうとして、さらに混乱して、人格崩壊に至るでしょう。
 
 
★こも/楽山日記3さんがリツイートしました
柳本伸良@物書き牧師
@yagiyomogi
「宗教」と「宗教カルト」の違いは、金銭的・身体的・精神的被害をもたらす反社会的な集団かどうかです。①それらの被害が複数報告され、②刑事裁判や民事裁判が複数起こされ、③被害者の会が存在する……という宗教団体は、ほぼ「破壊的カルト」と言って差し支えありません。
午前7:49 · 2022年9月19日
 
楽山は、アンチのように見せかけた無神教カルトです。嘘と詭弁で騙すことは、少なくとも、精神的被害をもたらします。何も分からない人だと気づいたときの、徒労感と精神疲労は相当な被害であります。それをせずに放置すれば教祖願望からカルト集団~組織になる恐れがあります。
 
「被害が複数報告」「刑事裁判や民事裁判が複数」「被害者の会が存在」・・これは、一定の規模を持つ組織となった場合の闘い方で裁判に必要なことでしょう。その前の段階で気づいた場合、批判する意欲と適性のある人が個別に批判することが必要です。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
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http://st5402jp.livedoor.blog/
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