古い作2つ、宗教詩2つ、批判1。
 
 
  きぼう
 
そらをみれば
そらにすわれ
こなごなになって
きえてしまいそうで
 
ひとをみれば
ひとみのおくにすわれ
すきとおる こどくのなかで
いきが たえて しまいそうで
 
いつのまにか
うすい いのちに さく
はなのあいだに
ただようかおりまつみの
ほのかな
ぬくもりのかげに にている
 
 
  高い窓
 
壁の 絵の
幼い少女は 手を伸べて
あそこよ と 指さしている
 
それが最初に見た
希望の形だった
 
伸びてゆく 手 が
かすかな影を ふるわせながら
うすい 光の 向こうで
声 を 待っている
 
孤独な 光だけが
医者のように 顔色を変えないで
夜じゅう 診ていたらしい
しらんでゆく窓に 衰弱して
くぼんだ 血管の 足音を聴いている
 
その小さなふるえから身を引いて
あきらめた 手 が
狭い視野から
落ちてゆくころ
 
また朝焼けの始まる
高い 窓の
物陰に隠れて
 
目覚めてはいるが・・
 
 
 
  感謝と呪い
 
人が神様に感謝するとき
多くの場合
その賛美は的を外れており
現状の幸福か
多幸的な気分の先に向かっている
 
人が神様を呪うとき
たとえ恐れのためにあわてて
神を悪魔と呼び変えたとしても
多くの場合
その怒りは不幸なことに
ほぼ正確に神様に向かっている
 
しかし魂の奇跡のように
ごくまれに
人は神様に本気で
本当に感謝することがある
 
 
  信仰・宗教・学問
 
信仰は宗教ではありません
宗教は学問ではありません
 
学問は宗教の助けとなり
ときに宗教を汚(けが)します
宗教は信仰の助けとなり
ときに信仰を汚します
 
神から与えられたものは人を救います
人から出たものは人の助けとなり
しばしば人を汚します
 
 
(90年代)
(2020年03月06日、若干修正して再録)
(2021年03月20日、再録)
 
 
希望

希望
 
 
 
楽山について:
 
約2年以上、楽山を批判しています。楽山は、複数のブログで、好きなように書いていますが、その主張に一貫性がなく、真摯さが感じられません。キリスト教について、否定して、神はいないという主張に賛同して引用して、一方では、教会にご機嫌取りのような賛同を表したり、お祈り芝居をしたりと、まるで、何を言いたいのか定まりません。
 
霊が分かるっぽいという霊能者を気取ったり、学者に賛同してインテリを気取ったり、ひと言でいえば、宗教を心霊と超常の話に短絡させて、肯定したり否定したり、結局、楽山は、何かを気取っていなければ気が済まない人のようです。そのような気取りだけで語れるような宗教も信仰も存在しないと思うのですが。
 
さらに、複数のHNを使って成りすましている可能性があります。シャロームと楽山が同一ではないかという疑いを前から持っていますが、疑いを濃くすることはあれ、楽山が、潔白を表すような文章を書いたことがありません。今も疑惑ではありますが、むしろ、それ以外にも、成りすましているのではないかという疑惑が増えてきました。
 
最近も、確定できないので書かないけれど、疑わしいHNが複数あります。一括すれば、楽山は、インテリで、まともで、評論家で、言論が得意な整った人を気取っているだけと言えるでしょう。本音は、宗教を憎んでいるようにさえ思われます。整えることよりも、かき乱すことに快感を感じているのではないかと思います。
 
自殺を肯定するような you tube もあって、辟易とする時代ですが、楽山を批判しながら、いろいろなHNとサイトが、楽山繋がりかどうか、じっくり注意深く見てゆくしかありません。楽山に近づくのは、とても危険ですから、相手にしないでください。
 
誰がアップし、その関連記事を誰が書いたのか、確定はしていませんが、穏やかならぬ youtube の動画と筆致でした。コメント、ブログ、ツイート・リツイート、youtube ・・疑えば切りがないことです。でも、自己愛性病質者と、間違って付き合うことの弊害は、もっと悲惨であります。
 
 
(2021年03月20日)
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
(ここは、ブログ記事をリンク)
 
 
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