ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:高等感情鈍麻

 
  自己愛の偏向
 
 公平とはどういうことだろう?(批判者の存在価値)
 2023年01月17日 幸福の科学とは何だろう?
   などと言う白々しい凶悪犯、楽山を批判。
 
 
ふてぶてしく厚かましい楽山が、また書いてきました。罪悪感も良心も持っていない証拠です。たとえば、恥ずかしいとか、まずいことをしたとかを、全く考えない、感じない、訂正不能の自己中サイコパスの生存方法なのでしょうか。犯罪者楽山を、このまま許してはいけません。
 
新年になっって早々に、人のPCを妨害・破壊してきたネット犯罪者の楽山に、公平を語る資格はありません。騙されないでください。楽山は、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)、そして、サイコパスです。良心も罪悪感も持たない異常者です。騙されないでください。
 
楽山の詭弁が全開のようです。一言も成立せず、人格未熟の悪あがきだけが見苦しい楽山です。こういうインテリ気取りの虚言癖を真に受けると、共に人格の鈍麻~破壊に向かう可能性もあるので、決して関わらないでください。病識もなく他者の人格を平気で破壊する変態です。
 
 
*まえおき
 先日、公平について考えさせられる出来事があった。
 これは大切なことだと思うので、自分の考えをここにメモしておきたい。頭の中で考えただけでは、すぐ忘れてしまうので…。
 
「忘れてしまう」というのは本当です。楽山は、自分の罪も悪も都合の悪いことは、すべて忘れてしまうか、無視します。そして三文芝居で善人を気取ります。すべて悪意によるもです。実際は、無視して、平気でいられるほどの自己中の病質なのです。無反省で無責任です。成長できない人なのです。
 
 
*えこひいき
 まず自分が、公平について強く意識するようになったのは、小学生時代だった。教室内では「先生は優等生をえこひいきしてる」という声があって、私もそのように考えていたのだった。
 
楽山は自分だけを依怙贔屓(えこひいき)して、自己正当化をしてきますが、嘘だらけの弁明、成り立つことはありません。自分を省みて反省することがなく、全て人のせいにします。恐らく子供の頃から問題を起こしてきたと思われます。楽山の言うことは、全て三文役者の芝居です。
 
 
*偏向マスコミ
 次は青年時代である。政治に興味を持ち始める年頃になると、マスコミの偏向がやたらと気になりだし、テレビ、新聞を見る度に、いつも腹を立てていたのだった。
 
楽山の政治思想は、右翼、ネトウヨです。A級戦犯を讃える男です。民主主義を嫌い、さらに、何主義でもなく、利己に凝り固まって、知性も、感性も、育て損なった病質者です。全ての良心を、危険な思想に陥れることが、楽山の快感となります。真実追求の議論からら追放されるべき人です。
 
 
「マスコミに中立公正な報道を期待しても仕方がないのではないか。そもそも人には中立公正な判断なんてできないのだ。それならマスコミ各社がそれぞれどういう理念によって判断していのか旗幟鮮明にして報道するのならそれでよしとすべきではないか。仮に一社の報道が偏向していても、さまざまなマスコミの報道を確認、比較するなら、その偏りに惑わされる危険は少なくなるだろう。実際多くの人はそれを実践しているだろう」云々。
 
「中立公正な報道を期待しても仕方がない」・・自分の自己中を正当化する詭弁の誘導です。楽山には、旗幟(きし、のぼり、立場)などありません。詭弁、刷り込み、印象操作などによって、人を操って、満悦する変態です。決して真に受けないでください。約4年、批判を続けています。
 
 
*ブログの方針
この考え方は、いまでも有効だと思っていて、当該ブログもその立場で書いている。「一つのテーマについて、自分は自分の意見を書く。自分自身は公平中立な意見を述べているつもりでも、おそらく偏りはあるだろう。けれども仮に意見に偏りがあったとしても、同じテーマについて他の人は異なる意見を書くだろうから、それによって偏りは無効化されるのでさほど問題にはなるまい。むしろ多少の偏りがあった方が、意見の多様性という観点からはプラスになるだろう」と。
 
「自分は自分の意見を書く」「異なる意見」「偏りは無効化される」と言っていますが、楽山の魂胆は、印象操作であります。印象は残るので、無効化は、されません。好き勝手に発言していい理由にはなりません。こういう詭弁の自己正当化を成り立たせてはいけないのです。
 
「多少の偏り」ではありません。洗脳に近いものです。楽山は、そういうやり方で、キリスト教を否定したことから、ペテンがバレてきました。言ったら、言いっぱなしで、反省もせず、責任も負う気ももない、言論失格のサイコパスなのです。決して関わらないでください。
 
 
*批判の必要性
ちなみに上の考え方は、少し視点を変えると、こうも言える。「仮に、Aという宗教団体が存在したとすると、A教団は自分たちの正統性を主張し、信者もそれに同調するだろう。こういう状態は、いわばA教団について肯定的情報だけが流れている偏った状態である。これを是正するにはA教団について否定的情報もあった方がよい。A教団にとって、肯定的、否定的どちらの情報も存在してこそ、中立公正な判断が可能となり、社会全体の利益にもなる。このためには信者ブログとアンチブログは、どちらも必要である」云々。
 
賛否はあったほうがよいが言ったことには責任が伴う、という常識が欠損している、ある種の発達障害であり、人格が自己の思いつきが固定した妄想レベルのままなのです。Aとか書いても無駄なのです。何ごとにつけ、学習と成長が見られないまま、大人のつもりだけの、理路未発達の偏向者が楽山です。
 
 
教団にとっても、信者にとっても、アンチは煙たい存在かもしれないが、教団に興味を持った人が、さまざまな情報を得て、多角的視点から判断できるようになるためには、それは必要なのだと思う。おそらくはアンチの存在価値はここにある。
 
楽山は、アンチではありません。ネットにおける精神の詐欺師です。あらゆる宗教と思想の敵です。自己の妄想的な悦楽を求めるだけの未熟者~破綻者です。笑いと怒りの感情はあるが、しんみり悲しんで反省する心を持たない精神の病質です。
 
 
*両論併記
 次に、両論併記について書いてみたい。
 自分は公平性の担保のためには、両論併記が必要だと考えてきたのだけれども、それとは違う考え方もあるようだ。
マスコミが一つの問題に対し、必ず賛否両論を併記するのは中立性を担保するための免罪符であり、同時に自分たちの本音を隠す手段でもある。社会に多様な声があるのは当たり前だが、一つのニュースに対する市民の賛否両論の分量は、つねに同じではない。これに対し、マスコミが各種の声にほぼ均等なスペースを割く慣習は、かえって不公平だ。
〈省略〉
第一歩として、まずは賛否両論を併記して中立を装う慣習を改めよう。責任を持って堂々と自分たちの考えを主張するジャーナリズムに生まれ変わってこそ、オピニオンリーダーとしての誇りを維持することが出来るのだ。
 
楽山は勝手に物が言いたいだけです。賛否両論の中に、嘘や詭弁が入ってはいけないのです。さらに、楽山と議論してはいけません。楽山は、思想家気取り、宗教家気取りで、自分を立派に見せたいという自己顕示欲しか持っていません。得意なのは、話を逸らして相手を混乱させる悪趣味だけなのです。
 
 
・日本のマスコミの両論併記の慣習はガラパゴス - JICA
ファクトに基づいているのはどちらか、そもそも並列にしていい性質のものなのか。
そう問いかけることは、必ず君の判断の手助けになるはずだ。フェイクニュース時代を生き抜くために、ぜひそんな習慣をつけてほしいと思う。 
 
楽山の意見は、成り立たない嘘と詭弁がメインで、そこを、気取りと丁寧語でごまかして、柔和を装ってきます。批判しても、言い方を変えてごまかします。議論など、出来ない、成立しない人なのです。気取りの筆致に騙されないでください。
 
 
・松原 耕二 - 第13回“両論併記の罠”に気をつけよう
どこかで、「カルトを批判するのに、いちいちカルトの意見なんか紹介する必要はない」という趣旨の発言を読んだ記憶があるのだが、上の文章を読むと、どうもこれにも一理あるように思えてきた。
カルトは違法行為や人権侵害を行うからカルトなのである。それを批判するのに、いちいち違法行為や人権侵害を正当化するカルトの屁理屈を宣伝する義務はあるまい。
 
楽山の意見をまともに読んではいけません。誰かが言いそうなことや、当たり前のことしか言えない人で、そこを、まともそうに、持論であるかのように、ねじ曲げてきます。正体が分かると、いかに徒労だったが分かり、異常な疲労を感じます。経験済みです。楽山は、無視するしかない病質者です。
 
 
とはいえ、根がどこまでも臆病にできている自分は、それでもやはり意見を主張するときには、反対意見も紹介しておかないと何となく気が引けてしまうのではあるが、この問題についてはもう少しゆっくり時間をかけて考えてみたいと思う。
 
また嘘を吐いています。楽山は、臆病どころか、誰よりも厚かましく傲慢な人格で、知情意が発達しておらず、まともに考えることも整えることも出来ない人です。その分、妄想や思いつきで、ごまかして、悪意で騙して、まともに見せかけようとするのです。
 
 
凶悪

凶悪
 
 
(2023年01月18日)
 
 
 
   (抜粋)
 
笑っている自分と
部屋のすみで嘔吐している自分と
いつか耐えきれず
 
ちぎれてゆく紙の音
震え過ぎた紙の声
深みのない視線で見渡せば
遠い山から吹いてくる風が
神の声にも聞こえよう
 
人格の崩れゆくとき
愛は悪い夢の中で目覚め
流涎して悪い現に夢を見る
 
メディアの渦巻く
エリアをさまよい
マルチでなかった神経の先端から
悲鳴をあげる
 
泣いても届かず
叫んでも届かず
システムから飛び降りて
渦巻くメディアの上に
乗って振り回され
はじき飛ばされた果てに
いつしか古い
ブラウン管にうつっている
 
 
  (抜粋)
 
危ない情動を青白い顔の端末に隠して
先祖のぶら下がりの血の重み
妄想の救い難い正直さ
あらゆる血の徘徊を
飲み込もうとして咽頭が裂ける
薬で癒されぬ重い風の迷いの中
 
無理な睡眠に逃げていこうとする
無理な答えに問いに
また悪夢から悪夢へ
のめり込む遊びの前に
明日はすでに数え始めている
眠れなかったとは言えない速さで
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
白々しい詭弁で
キレイごとを書いてくる
 
サイコパスは居直る
 
どこまでも悪臭のゲロが
まだ物を言う
 
二目と見られぬ不感の貧相は
自らの腐敗を誇るほどに
心の失せてゆくままに
 
気づかないまま
また顔を出してくる
 
 
 
 
楽山の害毒メモ:
 
今までに表れてきたこと。これは、楽山に限らず、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、世に数多いる偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。楽山は無責任です。決して信用しないでください。しかも犯罪行為に及ばなければ強制的に抑制は出来ません。
 
楽山は、1つのことを書いて、別の時には、それに反することを平気で書いてきます。そこで、反省、修正、というステップを置かず、あたかも最初から思っていたことのように書いてきます。自分に誤りを認めない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。
 
偽善者の特徴でもあります。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
笑いと怒りしかなく、悲しみの情がない。
共感がなく、罪悪感がなく、反省しない。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して誘導し、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。相手が疲れるのを見て快感を得る。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。サイコパスと思われる。
アドラー心理学の宣伝をしていた。自己中心である。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
 
奇怪な単細胞。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わないし、できないし、元々する気もない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取りなど。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
騙して、言い分を詭弁や嘘で通そうとする、通っていると思い込む。
 
訂正不能の偏執。
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
精神構造はカルトに似ているので、無神教カルトと呼んでいる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
慢心して中身の無い形骸。
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
 
 
 
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  悲しみと信仰2
 
 
偽善者は、相変わらず、弁明が出来なくても何も感じないで、繰り返し言い張るだけのようです。
聖書でも現実でもネットでも、偽善者が悲しむのを見たことがないです。偽善者は悲しみの感情を持っていないのではないかと思うことがあります。
 
聖書でも現実でも、偽善者の感情は、得意げに笑うことと、怒りと憎しみだけのような気がします。深い悲しみは、抑制がかかって鬱になることもありますが、心が沈んで、激しさが涙になるなら正常で、出口があるということです。
 
悲しみはつらいけれど、心を潤し、心を濡らして、悲しみを洗い流す作用があります。泣けない時には人からも受容が必要です。出口がないと思ってしまう鬱の時にはは、時に任せて、じっとしていても、流れてゆくのに任せて、生きています。
 
しんみりと悲しむことができるときには、悲しみは、その沈んだ思いのうちに、猛る思いを静めて、内へと向かう思考によって、やがて内省することもできるようになるでしょう。
 
悲しみを知る人は、悲しく辛くても、やがて、悲しみが去ることを喜ぶことが出来ます。悲しみの克服が、悲しみの過ぎ去ることが、喜びとなり、楽しみへ導かれることになるのでしょう。そのときに、人間は、成長するのだろうと思っています。
 
悲しみを知らない人は、出口のない感情と思考のために、憤怒だけを、どこかにぶつけることになるのではないでしょうか。悲しみの感情を知らない人がいて、悲しめない不都合に際して、怒り、憎み、恨んで、他者のせいにして鬱憤を晴らす場合があります。
 
悲しみを知らない人は、不快な感情を処理するにあたって、焦燥感が強いあまり、他者を貶めるか
他者をあざ笑うことになるでしょう。そのような処理の方法は、他罰または責任転嫁となって表れるでしょう。特殊な人格~病理として注意が必要です。
 
 
負の感情の出口がない間、静かな思考に向かうか、それとも、停止と遮断に向かうか、衝動と攻撃性につながるか、という違いがあります。
 
自分の感情をモニターできるか、正直に相談する相手がいるかどうか、モニターは反省に、正直は祈りに通じます。
 
つまり信仰において、悲しみは、悔い改めにつながる大切な感情のように思います。人生において、悲しみは必ず訪れるものです。その時に、成長するか、成長をやめてしまうかが、決まるような気さえするのです。イエスキリストは、悲しむ人に、近づきました。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
5:3
「こころの貧しい人たちは、さいわいである、
天国は彼らのものである。
5:4
悲しんでいる人たちは、さいわいである、
彼らは慰められるであろう。
5:5
柔和な人たちは、さいわいである、
彼らは地を受けつぐであろう。
5:6
義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、
彼らは飽き足りるようになるであろう。
5:7
あわれみ深い人たちは、さいわいである、
彼らはあわれみを受けるであろう。
5:8
心の清い人たちは、さいわいである、
彼らは神を見るであろう。
5:9
平和をつくり出す人たちは、さいわいである、
彼らは神の子と呼ばれるであろう。
5:10
義のために迫害されてきた人たちは、
さいわいである、
天国は彼らのものである。
 (マタイ5:3-10、新約聖書)
 
悲しむ人は、おごらないゆえに、心貧しく、うなだれるゆえに、慰められ、求める心があるゆえに、義に渇き、むさぼらないゆえに、憐れみを受け、余計なものがないゆえに、心が清く、一途であり、安らぎたいゆえに、平和を求め、悲しんだゆえに慰めを感受し、癒しが与えられるのでしょう。
 
悲しみを知ることが信仰と偽善を分ける、と言ってもよいほどに、悲しみは大切な感情なのかもしれません。
 
 
悲しみと癒し

悲しみと癒し
 
 
(2019年01月15日)
(2021年12月25日、再録+)
 
猛る(たける)
鬱憤(うっぷん)
憤怒(ふんぬ)
焦燥感(しょうそうかん)
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
しんみりと悲しむことを知らない人は、しんみりと深く考えることも出来ません。そして、罪悪感を感じないようです。ゆえに、自分の恥と罪と偽善の悪を「これも一種の、人間の性なんでしょうかね」などと白々しく言って、ペロッと舌を出すような軽さの悪ふざけをするのでしょう。
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
★こも/楽山日記3
@komo266
@houndmen@tadamitsu824
犬ジジィ氏と忠光氏の議論を見た。犬ジジィ氏は批判リプを10以上もしながら、忠光氏が反論リプをつけるのをブロックしたのかな? もしそうなら、ズルすぎる。
ブロックするなら、忠光氏が犬ジジィ氏の批判に反論リプをつけ終わるのを待ってからにすべきだったと思う。
 
他者に「すべきだった」などと意見する資格は、楽山にはありません。双方向など、一度も成り立ったことのない楽山です。「ズルすぎる」などと非難する資格もありません。無反省、無責任、無視で、罪悪感欠如、羞恥心欠如の楽山です。厚顔無恥も甚だしい。
 
★こも/楽山日記3
@komo266
信者の中には、アンチ批判をしていながら、アンチが反論しようとすると即ブロックする人がいる。
まるで、「自分が言いたいことを言えればいい。異論、反論は聞く必要なし。その機会を与える必要もなし」と考えてるみたいだ。
HSではこういう考え方を容認してるんだろうかと疑問に思うよ。 
 
キリスト教を侮辱しながら、批判されると、スルー・無視を決め込んだのが、楽山です。あらゆる言論の資格も能力もないのです。「異論、反論」を聞かず、批判すれば、悪口だけを返して、しまいに無視するしかない楽山です。楽山は、「疑問に思う」よりも、全否定するべき対象です。
 
 
 
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  楽山の粗雑な心理2
 
 素朴な真理(シルバー・バーチの霊訓)
 2020年09月07日 楽山日記(LD)
 
 
楽山は、今まで、虚言、偏見、決めつけ、無反省、無理解、自己中、自己愛性パーソナリティ障害、等々を指摘されてきて、いっさい弁明できないという経過でありながら、平気で、以下の記事の始まりのように「素朴な真理」などと書いてくるのです。
 
それは、楽山が、自身の "粗雑な心理" によって、自らの悪と偽善を無視して、なおも、何かを教えたがる自己愛がもたらす惨劇に他なりません。罪悪感や、恥ずかしい、という高等感情が、楽山には無いのです。
 
素朴な真理、という言葉で、楽山が言いたいのは、素朴だから誰でも簡単に手に入るので、自分も真理を知っている、と言いたいがための詭弁なのです。楽山は、真理を、草花のように美化しているようで、実は、命のない造花のように、軽く見なして、自己正当化を図る詭弁を弄しています。
 
楽山は、最早、詭弁以外、何も言えなくなっています。弁明が何も出来ないために、批判者を無視して、一般読者をターゲットに、詭弁でだまそうという詐欺師の企みです。このような下等な策略には、決して、だまされないようにしてほしいと思います。
 
*素朴な真理
これは自分にとっては、耳に痛い言葉だ。
本当に必要なのは単純で素朴な真理なのです。新しい大真理ではなく、驚異的な啓示でもなく、新しい神勅でもありません。
(『シルバー・バーチの霊訓(二)』シルビア・バーバネル編、近藤千雄訳、潮文社、昭和60年、p.86)
 」
以前、自分は、「新しい教えが説かれた」「旧来の思想、宗教すべてを統合する教えだ」「高級霊界からのメッセージ」「△△の霊言」というような新興宗教の宣伝文句を真に受けて、信じてしまったことがある。
 
楽山には、耳にも心にも痛覚がないという特徴があります。自己愛が勝っているために、殆ど本能のように、自分に都合の良い話しか出来ないのです。ゆえに、「自分にとっては、耳に痛い言葉だ」というのは、嘘です。こういう嘘を平気で言う人です。
 
霊が分かるっぽい、本もたくさん読んだ、という楽山自身が特別の人という訂正不能の自覚が、書くたびに、楽山の文章に表れてきたのです。それゆえに、侮辱や嫌がらせの攻撃を含めて、楽山の、自分への誇大妄想的有頂天は、無反省のきれいごとを平気で書いてくる白々しさとなってきました。
 
こういうことを書くのは白々しい、という良心の好ましい知性による気づきと自覚と、高等感情が、楽山には無いために、読者を舐めて、言葉だけ反省に見せかけたトホホ言語が、今も、通用すると思っているのです。
 
心の教えとは、難しい神学や哲学体系とはちがって、単純、素朴で、誰にでも理解できるものだとか、真理は永遠不変という話は知ってはいた。でもそれでも「新しい真理が説かれた」「高度な教えが説かれている」といわれれば興味を持たずにはいられなかったのだ。「いま、天上界の秘密が明かされる」「××事件の霊的真相を解明する」という話にも釣られてしまった。
 
永遠不変の真理を、自分という人間が得られると思うこと自体が、高慢不遜のベースがあることの証明であり、さらに反省も後悔も修正もせずに、書き続ける楽山には、真実は、いつまでも、見えてはこないと言えるでしょう。
 
言葉面だけの反省めいた記事であり、その反省の質量は、今までの不祥事の悪質な積み重なりから見れば、全く相容れない軽さであることを表しているだけです。即ち、その場しのぎに安いペンキを塗るように気安く反省しましたと言われても、その "粗雑な心理" が、不正直を見せるだけなのです。
 
また、心の教えが誰にでも理解できるものと言っていますが、真摯で謙虚な心を持っている場合であって、自己愛で傲慢になった者には、単純も素朴も理解できはしないのです。
 
でも、心の教えというものは、古典聖典を開けばいくらでも書いてあるし、日めくりカレンダーにあるような名言名句、ことわざなどでも十分であろうし、そこいらじゅうにあふれていて、改めて教えてもらわなければならないようなものではないのだ。ましてや、どこかの宗教団体だけが独占しているものでもない。
 
心の教えというものは、これで十分ということがない、という特徴があるのに、それを、楽山は、「十分であろう」などと、全く理解していないことが露呈しています。楽山においては、総ての概念が、風船のように軽くなります。実際には、風船は、そのまま、楽山の存在の軽さなのです。
 
聖典と、ことわざを、同じように並べていること、そこいらじゅうにあふれていて、教えてもらわなければならないようなものではない、などという、軽薄な見なしは、救いがたいもので、楽山の、自己愛と他者への見下しの野蛮さを表しているだけなのです。
 
人生を支えるのが目的で書かれた聖典と、場合によっては言えてるねという程度の軽いノリで頷くことわざとは、明らかに成立と存在の理由とプロセスが違います。これは常識と言ってよいでしょう。楽山は、何も分かっていません。
 
しかし、この辺を全く弁えない楽山の言葉に対する認識の甘さと、軽さと、いい加減さは、目を覆わんばかりです。思慮というものが育っていない楽山の、粗雑な見なしは、災いです。真に受けると、心の教えも、心自体も、楽山のように、失ってゆくでしょう。
 
それと、「どこかの宗教団体だけが独占しているものでもない」という言い方で、楽山が言いたいのは、楽山の、自分が教えて何が悪いという開き直りです。いつも、薄汚い狙いがあって物を言う楽山の言を、どうか真に受けないでください。無反省と無責任の楽山に教える資格はありません。
 
今になって振り返ってみれば、新興宗教の宣伝文句に惑わされていた自分はつくづく愚かだったと思う。こんなことを書くと、「今だって、大して変わらんだろ」という厳しい意見もありそうだが、一応その後、新興宗教は退会したわけだし、その分だけは進歩したと思いたい。反省。
 
進歩したと思いたい、と言って、"反省"、という言葉を付けて反省になるでしょうか、否です。これは、自己満足に過ぎず、「新興宗教の宣伝文句に惑わされて」愚かだったと、被害者のように罪を他者に向けている時点でアウトです。
 
また、その後の今に至る経過を見れば、反省になってなどいないのは明らかなのです。楽山は、自分教という唯我独尊の境地を、いつも、出してきては、他者を上から見下ろしているだけでしたし、今も、そうなのです。人など簡単にだませるとでも思っているのでしょうか。
 
楽山は、字面の辻褄合わせでは、軽さ、実感のなさ、嘘臭さが表れるだけだということに気づかないようです。無反省と無責任は、必然的に、学習しないことになり、成長しないことになります。その見本のような成り行きを進んでいるのが、楽山その人です。
 
楽山は、時々、この記事のような、今までのことを無視して、軽い調子の反省言葉を書いてきますが、それによって明らかになるのは、楽山が、いかに、軽佻浮薄に、まるで冗談か世間話のように、気安く言葉を並べる人であるかということです。反省は嘘です。信頼度はゼロです。
 
 
地上は、国と国ではなく、民族と民族でもなく、良心とサイコパスの闘いだと思います。サイコパスというのは、良心を持たないために、自分の利益と快感だけを求めて、罪悪感も、責任感も、反省する心も、育っていない者たちです。
 
自己愛性パーソナリティ障害NPDや、ほぼ同質のサイコパスは、笑いと憎しみだけが言動を支配し、共感と悲哀の情緒を持てないために、総ての不祥事を人のせいにして、自己愛性から反社会性を帯びてくる必然が生まれます。
 
 
 『奇跡との出会い。 心に寄り添う。3 』
 (幸福の科学のドキュメンタリー映画)
 2020年09月08日 楽山日記(LD)
 
 
箇条書きです。小学生でも、もっと深い感想を書ける子はいるでしょう。
 
*メモ
映画『奇跡との出会い。 心に寄り添う。3 』を見た。
以下に、映画を見ながら書いたメモをまとめてみる。
・はじめから宗教色濃厚。
・証言者のなまりがいい。誠実な感じがする。
・写真はどれもいい感じ。
・インタビューに答えている人たちはみんな、人柄がよく、すごく善良にみえる。
全体的にいって、想像していたより、ずっとよかった。
本作をみていると、みなさん幸福でよかったと思うし、幸福でいる人に対して、宗教問題について傍からどうこう言う気にはならないもんだなと思う。
 
「誠実な感じ」「信仰による安心感」「写真はどれもいい感じ」「インタビューに答えている人たちはみんな、人柄がよく、すごく善良にみえる」「想像していたより、ずっとよかった」「みなさん幸福でよかった」等々、書いています。「感じ」「みえる」「よかった」・・曖昧さが目立ちます。
 
一見して、バラバラな感じで、楽山が書いている感想で、断片だけです。逐一批判が出来ないような書き方です。その分、この楽山の書いた記事が、まとまった意見にも批判にも弁明にもなっていない、ということが分かります。
 
幸福でいる人に対して、宗教問題について傍からどうこう言う気にはならないもんだなと思う
 
この軽さが、楽山の、宗教軽視~反宗教の意見なのでしょう。それで、宗教問題について、誰が、傍からどうこう言っているというのでしょう。余計なことを言ってきたのは、また、何の参考にもならないことを言ってきたのは、批判しにくい形で、今、余計なことを言っている楽山であります。
 
HSの映画について、楽山は、大方、肯定的なことを書いています。HS批判をしていたのではないでしょうか。一貫性がないという楽山の特徴が表れています。つまり、楽山にとっては、宗教など、自分満悦のための材料に過ぎず、どうでもいいのです。
 
つまり、楽山は、宗教を信じている人をバカにして、上から見下ろしているだけなのです。楽山は、宗教と信仰の深みを何も知らないし、知ろうともしない自己満の人です。ならば、黙っておればよいのです。楽山が何かを言って、宗教が助かるわけでも、廃れるわけでもありません。
 
楽山の言は、ただ、うっとうしいだけで、疲労をもたらすだけで、邪魔になるだけであり、楽山の言は、ことごとく意味がないのです。さらに、意見の遣り取りでもしようものなら、さらに、ひどいことになるのを経験しています。楽山は、関わってはいけない人です。
 
世の中には不思議なことはあるだろう。不思議なことがあっても不思議ではない
 
元々、霊が分かるっぽい自覚だけの楽山は、不思議に関心があり、不思議な話が大好きな、髭の生えた子供に過ぎません。自己満悦の自己愛から、心霊が分かって知っているつもりの楽山は、自分を出したくて、宗教を論(あげつら)い、結局、茶化しているだけなのです。
 
宗教の不思議な話も、ましてや宗教の共感にあふれる話など、楽山には受け取る感性がないのです。浅い先入観が、そのまま偏見になっていて、元々、霊と超常趣味の楽山は、そういう幼稚な興味だけで、宗教に関わり、けなしたり、ほめたりします。
 
楽山は、宗教の超常的な字面が生んだ寄生虫のような存在です。楽山は、宗教と信仰にとって、ただただ傍迷惑なだけの存在です。楽山を相手にしないでください。楽山の、深みのない、丁寧語や、やさしげな言葉に、どうか、だまされないでください。
 
全体的にいって、想像していたより、ずっとよかった。
本作をみていると、みなさん幸福でよかったと思うし、幸福でいる人に対して、宗教問題について傍からどうこう言う気にはならないもんだなと思う。
 
「よかった」・・こういう感想が多い楽山です。小学校でも注意されそうです。
「宗教問題について傍からどうこう言う気にはならないもんだ」・・うるさいほど、いやらしいほど、宗教について、愚にもつかぬことを、どうこう言ってきたのが楽山です。
 
 
        食えねぇ・・ってば

                食えねぇ・・ってば
 
 
(2020年09月09日)
(2021年09月11日、再録+)
 
 
 
  暑い
 
顔に皮が張り付いて
少しずつずれていく
にじむ足取りで
目線が濁り始める
 
耐えることは愚かで
拭うことは卑怯で
罪悪の糸がゆるく伸びて
どこへ向けようもない苛立ちが
狭い遊び場を探す
 
指に噛みつき糞を浴びせる雛鳥を
壁に叩き付けようかと捕まえて
手の中のあまりに小さい温もりに
手は泥人形の手
泥人形は泥になる
泥の命は誰に任されている
 
全ては未定のまま歩きだす
小鳥のように飛び交うテニスボールが
はね返す澄んだ涙腺に
どこへ向けようもない沈黙が
皮ごと顔を拭い隠す
 
 
  食欲と孤独と忍耐
 
ブラウン管を見ていた
あれが人間だよ
というふうに眺めていた
この世の寄生虫
まだ食欲と僅(わず)かの信仰があります
 
信仰は食欲を超えられるだろうか
希望は愛はどうだろうか
試(ため)す機会はあるだろうか
森か山の中に行って土へ帰ることなど出来はしない
虫のように小さく干涸(ひから)びることも出来はしない
ヒトの肉体を持っている以上
食欲がなくなれば
ここで腐臭を放ち膨らみ
蛆(うじ)が湧き蠅(はえ)が飛ぶのだ
 
まだ食欲があります
何も感じなくなる前に
最後まで残る問いは
食欲と孤独と忍耐の三つであり
最も長い泡沫の管は食欲であり
最も腫れ上がる虚無の空洞は忍耐であり
耐えて意味なく萎(な)えて耐え難く
しかして最も大いなるものは孤独である
 
多くの悲劇の預言者において
恐らく一見そうであったように
一人の愚かな凡夫において
恐らく実際そうである
 
 
(昔々・・)
 
 
 
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