ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:60代

 
  NHKの問題
 
 
 NHK受信料の合憲性、最高裁で弁論
 2017/10/27(金) 午前 8:30
 
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/MYBLOG/yblog.html
 
 
記事は、(弁護士ドットコムニュース)
https://www.bengo4.com/c_5/c_1100/n_6862/
からのコピペです。
《shalomのコメント》を批判対象としますが、はたして、シャローム氏が自分で書いた文章なのか、そういう部分と、そうとは思えない部分があるように感じました。しかし、個人の思想というのは、どこかの誰かの主張を受けて考えることから生まれるでしょうから、それだけなら、とやかく言うつもりはありません。
 
>《shalomのコメント》

>「今回の弁論で、NHK側は、「NHKスペシャル『無縁社会〜新たなつながりを求めて〜』」
>(2011年放送)などを例に、質の高い報道番組や災害報道、
>放送技術の発展などの功績を強調し、
>国家や企業から独立した「公共放送」を維持するためには、
>受信料制度による安定した財源が不可欠だと、徴収の正当性を主張した。」
 
>NHKの受信料徴収の正当性の主張によれば、
>「国家や企業から独立した「公共放送」を維持するため」とあります。
 
>もし、NHKが国家や企業からの独立した「公共放送」であるのであれば
>NHKは「公共放送」として日本の主権者である国民がその主権を行使するために、
>必要な「国家や企業から独立した」情報を伝えることを最大の責任であり義務である。
 
>もしNHKが「公共放送」としての責任と義務を果たさなければ、
>受信者である国民に対する受信料徴収の正当性はないことは当然でしょう。
 
>そうであればNHKの「公共放送」であることを審査する
>「国家や企業から独立した審査機関」が必要です。
 
国から独立した放送を維持するために受信料制度が必要なら、国から独立した立場で放送をしているかどうかが、当然問われるということ。
 
要するに、国に左右されない放送、偏らない放送を、そのための審査機関を、ということでしょう。
 
>前NHK会長の「政府が右と言ったことを左というわけにはいかない」という発言は
>NHKが「公共放送」としての責任と義務を放棄した発言でした。
>このような人物をNHKという「公共放送」の会長として任命したこと、
>罷免しなかったことは
>NHKの「健全な公共放送」として問題があることを明らかにしています。
 
大本営?と揶揄される所以だと思います。
 
>「裁判の大きな争点の1つは、テレビなどの受信機設置者に対し、
>「契約をしなくてはならない」とする放送法64条1項の解釈だ。
>NHKはこの規定に基づき、番組視聴の有無などに関係なく、
>受信機の設置を理由に受信料を徴収している。」
 
乱暴だということでしょう。視聴の有無に関係なく、というところは、後述する私の経験と少し関わってきます。
 
>NHKは「公共放送」として受信料の徴収を要求する前に、
>自らの「公共放送」としての責任と義務を果たすべきです。
>そのためにNHKが「公共放送」としての責任と義務を守っていることを
>検証し、審査する「国家や企業から独立した審査機関」が必要不可欠です。
>NHKは先ず公共放送である責任と義務を
>国民に対して果たしているかをたえず検証し、受信料を徴収すべきである。
>またNHKの公共放送としての独立性は
>いかなる国家や企業によって侵害されてはならないのです。
>なぜなら日本は憲法によって立憲民主主義国家として
>国の主権者は国民であり、
>政府も国民全体に対する奉仕者であると定められているからです。
 
定められているから、そのようにせよ、審査機関を作ればそれで解決する、という建前の括り方に、イラッとします。建前を語るのは、理想を語るのは、簡単です。文章を書かなくても、誰でも言うでしょう。理想だけなら、とても難しいことを要求して終わってしまうわけです。それで終わらないことを書くべきでしょう。
 
正義を豪語する立場に立って、問題意識を何も持たずに終わっているのは、シャローム氏らしい、自己絶対の慢心からきていると思います。今までもずっと、ボロクソに言い放って終わり、というシャローム氏なのです。
 
NHKの偏りを審査する審査機関のバランスはどうやって保つのですか、
 
という問題に何も言及していません。ここは、暫定的に作って、スーパーバイズするのは国民の意見とか、さらなる上部機関とか、切りのない話になるでしょうか。だから、とても難しい問題だと書きました。
 
それと、NHK内部で活発な議論ができて、それが自浄作用になるのなら、それでもよいのではないか、ということも考えますが、これも同様に、取り組めば、難しい問題ということになるわけです。NHKの体質はどうなのか、という問題になるからです。
 
NHK批判という一方向に突っ走って、それで終わっているのです。シャローム氏らしい、悪い他者を斬れるだけ斬って、自らを斬らない筆致です。だから、問題意識が、そこで終わって、彼は、ひとかどの自分を出したと満悦して、そこからの広がりがないのです。
 
>最高裁には違憲立法審査権があります。
>最高裁もその独立性を国家権力によって侵害されてはならないのです。
>日本は民主主義の基礎である三権分立ですら、
>国家権力によって、その独立性が侵害されやすいようです。
 
最後に、三権分立の建前を書いています。建前だけで豪語しています。・・前に彼が思い付きで五権分立と書いていたのを思い出しますが、それはさておき・・、このように、正しいと思ったことを、問題の有無を考えるでもなく、思い付きと思い込みで悪を悪と狭い思考で決めつけて、ボロクソ節で批判して、それで終わり・・という文章が、シャローム氏の筆致なのです。
 
 
ここからは、世の中の仕組みを知っているとは到底言えない私の経験に過ぎない話です。今回のテーマとは少々ズレるかもしれません。
 
私は長らく住んでいた熊本の自宅から、2008年に母のいる長崎県諫早(いさやは)の実家に移りました。それまでは、2002年に父が死んで、母が一人になるというので、実家に帰る回数を増やしていましたが、片道200km近いロングの車の運転がきつくなってきたので、もう諫早に住んだほうがいいだろうか、という思いでした。年を感じました。
 
しかし、先がどうなるか分からなかったことで、住民票を移すのは遅れて、2012年でした。2012年、母は、腰を痛めて5か月入院して、治療しても痛みが治らず、あとは生活の中でリハビリということで、介護施設に入所しました。私も、もう、諫早にいるしかないだろうと思って住民登録も諫早に移したというわけです。
 
2008から2012年の間に、熊本の私の口座が空になったようです。住民票を移して、まもなくだったと思いますが、NHKから大きな封書で10万円くらいの請求書が来ました。その間、私は諫早にいたわけですから、熊本のテレビは見ていないし電気も止まっている、という状況で。
 
当然、私は、事情を説明したいのです。そこで問題が生じます。
 
NHKの料金徴収部門に、人間がいない・・。
 
今改善されているのかどうかは知りませんが、NHKのサイトに、問い合わせ用のメアドが書いてない。問い合わせや相談のための書き込み欄がない。請求書に書いてある番号に電話したら、音声ガイダンスでボタンを押して手続きをするだけ。人間がいない・・。
 
請求書は、その後も来ます。それとは別に、受信料を請求しに、正社員とは思えない普段着のオジサン~ジッチャンが訪ねてきました。人間がいた。普段着であることは別にかまいません。話を聞いてもらいました。事情を話したつもりです。初回、確か4千いくらかを払いました。それが何だったのか、未だに分かりませんが、そのときは、相談して、合意に至ったつもりです。
 
しかし、帰りがけにオジサンは、じゃあ、解約しといてください、と私に言いました。むしろ私がオジサンに言いたかったことなのですが、要するに、そのオジサンは、何の権限もないバイト感覚の催促係だったということです。恐らく、そういう役割に正職員は関わりたくなかったからではないかと思っています。
 
そういう、すったもんだが、2~3度あって、私は、とうとう、最後にキレてしまいました。何と言ったかは覚えていないが、オジサンが驚くほどには、怒鳴ったのです。
 
それから、しばらく経ってから、電話がありました。年寄りではなさそうな、コールセンターがあるのでしょうか、女性の声です。事情を説明して、諫早の母が契約していた分は銀行引き落としのまま継続、熊本の私が契約した分は解約、ということで話がまとまりました。以後、今のところ、請求書は来なくなりました。
 
何年かかったか、ようやく、NHKに人間がいた、という話です。
 
受信料未払いの人との電話のやり取り、電話を受ける立場からは、かなり苦痛になるだろうと推測いたします。それぞれ事情があるとは思いますが、受けているうちに、モンスターじゃないかとか思ってしまうことも、ストレスで落ち込むことも想像に難くないです。でも、モンスターを防ぐために、
 
電話口に人間が出ないようなシステムだとしたら、これは人間のやることでしょうか。
 
人間を扱うのは人間にしかできないと思います。生きている限りそれは義務だと思います。今回のようなことは、扱われる立場を経験しないとなかなか分からないことです。こういう傾向が強くなることを、強く危惧します。
 
電話を受ける職員へのサポートとフォローは、NHKが、外部に相談してもいいから、担うべきことではないでしょうか。モンスターにはそれなりの対処が必要だと思いますが、モンスターになっていってしまう人もいるのではないかと、自分の経験から思いました。
 
 
(2017年10月28日、同日一部修正)
 
 
 
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  尊厳の破綻
 
 その名は不思議(批判対象ブログ)
 管理人:shalom
 
 命の尊さ、尊厳を知るために (批判対象記事)
 2017/9/5(火) 午後 0:44
 
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28240301.html
 
 (シャローム氏の類似過去記事)
 命の尊厳のル-ツ
 2013/9/2(月) 午後 0:45
 
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/24786070.html
 
 
今回は、他者の意見を聞く気がなく学習する気のない自分信仰者の、文章の滅裂の度合いが一段と酷くなっています。思いつきで関連付けて書くだけで主張の理路と文脈を組み立てていない例です。
 
>よく学校でいじめによる自殺などの痛ましい事件があると、
>教育委員会や学校で生徒の前で校長先生や教室で先生が沈痛な面持ちで、
>命の尊さ、尊厳について話し、
>二度と再び、このような悲しい出来事が起こらないように話されます。
>しかし、痛ましい事件は後を絶つことはありません。
>なぜなのか、その本当の理由が問われることがないようです。
 
シャローム氏は、今までずっと、この記事のいじめや自殺の問題も、他の社会や政治の問題も、信仰の問題も、彼にとっては同じことらしくて、薄くて安い教条を並べて、理由は信仰がないからだ、そして見え透いた讃美を重ねて、自分と同じ信仰?があれば解決、という結論にするのです。この単純さは変わらず、これこそ、教条に凍結したまま、命のない言動だと思っています。このように単純化された独りだけの世界に、常に完結している人です。だから、実際問題として、現実との乖離は著しく、信仰どころではなく、論理にも道理にも人道にも共有にも共感にも結び付かない偏執を、むしろ、普通と違うのだ、と喜んでいるのかもしれません。
 
>今日の聖書の言葉です。

>「あなたはわが目に尊く、重んぜられるもの、わたしはあなたを愛するがゆえに、
>あなたの代りに人を与え、あなたの命の代りに民を与える。」
>(旧約・イザヤ書43章4節)
 
>わたしとは生ける神です。
>あなたとはイスラエルの民であり、またわたしであり、あなたです。
>生ける神とは天地万物の創造者であり、人をご自分のかたちにかたどって造り、
>その命と愛の息吹を吹き込み、人を生きた霊的、人格的存在とされた神です。
 
>人は生ける神との霊的関係と交わりによって生きることができる存在なのです。
>その関係と交わりを失うことが人の死をもたらすのです。
>死とは決して肉体的死だけを意味するものではなく、
>霊的関係、人格的関係を失うことです。
 
いじめによる自殺などの痛ましい事件が後を絶たないことの本当の理由が問われることがないと指摘して、さっそく神との霊的関係という言葉を持ち出して、教理的な言葉面を並べて、理由を言い得たつもりになっているようですが、現実の個別の事情を知らずに、それでも神のことを書けば、書いたことになるという安易さ~思い上がりでしょう。
 
まるで実感も説得力もなく霊の関係を持ち出して自らの教条を語るだけで悦に入っている人には、いじめや自殺の本当の理由や、本当の尊厳を語ることなど、永遠にできないでしょう。こういう迷惑なだけの説教者が、現にいるということです。
 
現実問題を、現実の考察なく、いいものがありますというぐあいに、神を持ち出して語り始めるならば、福音伝道は、場違いな安い宣伝に変わってしまうのです。命の問題について、個別のことを知り得ず、人間の深みについての考察不十分のとき、書く資格がないと自戒できる人は、ペンを慎むところなのです。
 
>命と愛の源である生ける神との関係と交わりを喪失すれば、
>人の命と愛は枯渇してしまうのです。
>それは愛し愛される関係を失うと心は枯渇することでわかります。
 
このように大仰に神を言い張って下手なピエロになるのが落ちなのです。
 
>枯渇した心をモノや知識の豊かさによって満たそうとすると、
>更に深い渇きと死をもたらします。
 
押しが強いわりに、根拠も説得力もなく、荒い口で脅迫するようなことを言い、ボロクソに断じて、命の尊厳を勝手な宗教の餌にしようとするのです。大事なことは何も言えないくせに、自分の現実問題を棚に上げて、すぐに万能薬のように宗教を持ち出す人がいます。その者こそが、枯渇した心を、モノや知識の豊かさで満たそうとしているのです。そして、逆に、知識の乏しさと整合性のなさを露呈してきたのです。
 
>イザヤ43章4節の言葉の背景は、
>繁栄を極めたダビデ、ソロモンの時代の後、罪によって
>イスラエルは南ユダと北イスラエルに分裂し、
>亡国の危機に瀕しているとき、
>預言者イザヤによって語られた神の言葉なのです。
 
その証拠です。冒頭の聖句のことを言っています。改めて引用しますが、
 
 (イザヤ書、口語訳)
43:4
あなたはわが目に尊く、重んぜられるもの、
わたしはあなたを愛するがゆえに、
あなたの代りに人を与え、
あなたの命の代りに民を与える。
 (イザヤ43:4、旧約聖書)
 
思慮のない宗教かぶれは、いじめや自殺の現実問題から、どこまで的を外せば気が済むのでしょう。神がヤコブに呼びかけるイザヤの預言のどこが、今の、いじめの問題の解決につながるというのでしょう。わが目に尊く、だから大事にせよ、とでも言いたいのでしょうか。「あなた」は聖書のヤコブではないのでしょうか。知識の乏しい私でも分かるところの、この、的の外れ方の著しさを、どう言えばいいのか、言葉を失いそうです。なぜか、古代イスラエルの歴史の話をするのです。命、愛、という言葉が出てくるからでしょうか。これで読者が、いじめ問題の本当の理由が分かりました、と言ってくれると思っているのでしょうか。
 
>紀元前721年北イスラエルはアッシリヤによって捕囚の民となり、
>さらに分裂したもう一方の南ユダもバビロンの捕囚となって、
>国は滅ぼされてしまいます。
 
そして次にはキリストの言葉です。
 
>イエスは彼らの思いを見抜いて言われた、
>「おおよそ、内部で分れ争う国は自滅し、内わで分れ争う町や家は立ち行かない」
>(新約・マタイによる福音書12章25節)
 
>人は神を畏れず、自らを神のようなものとするために、
>偶像を造りひれ伏すと人も社会も国も内部分裂してしまい、立ち行きません。
>人類の歴史も今日の世界も日本もまさに証明しています。
 
>預言者イザヤはこのような危機迫るイスラエルに神の言葉を語ったのです。
>“生ける神を畏れて、悔い改めよ”と。
 
いつも腹が立つというのは、こういうことです。キリストが、現代のいじめ問題について、どういう言葉を語ったと言うのでしょうか。分裂しないために、仲良くしなさい、とでも?、それで説明になっていると?
 
>しかし、悔い改めを拒んだ神の民イスラエルは厳しい神のみ手に陥るのです。
>私たちはイスラエルの歩みによって、自らの姿を見ることができるのです。
>と同時に、私たちへの生ける神の御手を見ることもできるのです。
 
厳しい神のみ手に陥ると脅し、自らの姿を見ることができると、自分を見ようともしない者が言っています。神の御手を見ることもできると言っています。いじめ問題、どこへいった、・・滅裂に近い。・・もはや、狂っていると言われても仕方ないほど・・。
 
これまでに、誰よりも彼自身が悔い改めることを否定し拒んだ、という厳然たる事実の実績があるのです。にもかかわらず神の御手さえ見ることもできると書いています。現実から外れ、宗教の敬虔からも外れてゆきます。どこへ外れてゆくのか、というと、もはや、自作の檻(おり)の中、つまり妄想としか言えないところ・・。
 
>イザヤ43章4節の言葉から
>“私はあなたを愛しています、私はあなたをあがないます。
>あなたがどのように罪深く、その罪のために悲惨な状況にあろうとも、
>私はあなたをあがない救います。
>私はこれまでもあなたを愛してきましたし、
>またこれからも変わることはありません。
>私は世を贖い、救うためにイスラエルを選び、
>また私のひとり子をあなたを救うために与えます。
>私はそのために私の一人子でさえ、犠牲にすることを惜しみません。
>私はそうします。
>あなたは私にはそれほどに尊く、眼に入れても痛くない存在であり、
>私にかけがえのない尊い存在であり、あなたを愛しています”という
>神の心の愛の叫びを聞き取ることができるのです。
 
愛している、愛している、愛の叫びと言い、尊い、尊い、と豪語して、神はこのように、与える、与える、という、おめでたい話をいくら並べても、説明と説得のための実感がまるでなく、下手な口説き文句にもならないことを読者は味わわされるのです。愛の叫びを聞き取ることができるのです?、この人にだけはできないだろうと思います。罪を語りながら、罪を認めたことのない者、愛を語りながら、愛だけは知らない者・・
 
社交の言葉だけで牧師のふりをしてきた者は、このように、大きく強く繰り返し美辞麗句を叫ぶことで、熱心なんだろうという受け取り方をせざるを得ない人々によって、受け入れられたかのような幻を見てきたのでしょう。上手に話すのが苦手でも、自分という人間の現実を通して、考えることはいっぱいあるはずです。それを謙虚に努めようとしないリップサービスが、まるで深みがなく、いかに空しいかを表しています。
 
>神の言葉が私たちの心の深みに届く時、
>私たちはいのちの尊さ、尊厳を知ることが出来、
>そこから新しい歩みが始まるのです。
 
深みのない人の深みのない文章には、命の尊厳の欠片も表れては来ない、という落ち(堕ち?)になっています。このような敬虔に見せかけた騙し文句が通用してしまう時と場所が教会にあったんだということに驚きます。
 
>神の平安がありますように!
 
この括りの言葉にいつも吐き気がするのは、白々しい作り笑顔の、へらへらした笑いの、歪んだ顔の脂汗と息まで臭って来そうだからです。
 
神の言葉だからと、まるで免罪符のように、伝道のための説教だからと、まるで予定調和の尊敬を求めるように、これが神様ですと、笑顔を浮かべるところには、敬虔など微塵もなく、有頂天に思い上がった薄皮の言葉面が貼りついてくるだけで、振り払って捨てるのが大変なだけなのです。
 
自分の言葉を自分に向けてみて恥ずかしくてペンを控えるという分別さえ、養ってはこなかった人の、底知れない闇の深さを感じます。しかも本人は全く病識がなく気づかないから同じことを繰り返し続けているのでしょう。まるで本能のように、とりつかれたように、毎回、このような、信仰を絶望に誘うような破綻の因業は哀れですが、誰も付き合ってしまうことのないように祈るしかありません。
 
いじめや自殺といった人間の尊厳の問題については、信仰者は、うかつに物を言ってはいけないのです。自分が信じ込んでいる教条を、どんなに長くどんなに熱く語っても、現実に打ちひしがれている当事者に、教条の非人間性をぶつけているだけになりやすいのです。そこを弁えモニターして、自分を、そしてペンを、コントロールできる人だけが、ペンを控えるべきか、あるいは、何か話せることがあるかどうか、考える資格があるということです。私は自信がありません。だから、あえて、ペンを控える美徳、と申し上げました。
 
そういう、それこそ人間の尊厳とか現実への厳しい洞察とかを、全く感じることも考えることもできないシャローム氏のような者が、求められてもいない時と所で、得々と宗教宣伝を吹聴して、悪臭をまき散らしています。神に関わる宗教を逆方向に勘違いして、何でも言える、何でも言わなければ、という万能感から、まるで教条を宣伝する仕事の序でとして、現実の重大な問題に汚い唾を飛ばしているという例です。
 
私はキリスト者のつもりでいますが、実際の奉仕活動などは全然していません。自分にできるのは、今は信仰についての文章を書くことだけだろうと判断して書いています。そして、約6年前から、どう考えても、文章と言動が、言行不一致であったり、標準的な教理に反することも加わり、また語っている言説が自己矛盾と破綻をきたしていることも明らかとなり、見るからに、おかしいと思う人を、おかしいと批判し続けています。
 
誰も、その者に、その者の言説を受け入れて、巻き添えになったり、隷属したりすることのないように、という目的であります。残念ながら、実際に、その者に対する警戒を怠ったために、有害な教条に引き込まれて、自発的な心を奪われたかのように、えこひいきや偏愛のように、根拠も説得力もなく賛同を示している人々がいて、その者と同じように、言うには言うが、他者の意見を聞かず、恨み言だけ書いてきたり、コメント欄を廃止したり、ブログをやめてしまったりしているからです。
 
そういう賛同者がいるものだから、その者は、ますますつけあがって、今も、伝道をしているつもりのまま、場違いで的外れな妄想を信仰?として押し出し続けているのです。こうなると、宗教の問題というだけでなく、異常になってしまっている人格に、うわべの丁寧さだけで騙されてゆく、という、人格を詐取して踏みにじられるに近い問題というより事件として取り組むしかなくなってゆきそうな気さえしています。
 
その者は、30年間、教会の牧師をしていたと書いていました。それが嘘ならペテン師ということになります。それが本当ならキリスト教を内部から破壊してきたことになり、罪を悔い改めなくてもいいという無罪妄想という反信仰を広めていたことになり、怖いのは、今も改める意志を全く持たないその者に、どれほど余罪があるか、ということです。
 
その者は、共感は必要ないと言い、常に正義の味方という立場から柔和を装い、根拠のない独善の教条から説教を垂れていますが、今まで、ことごとく失敗して無罪妄想に凝り固まっています。
 
私は、キリストについて書かれた聖書の記事の共感を必須として、正義の味方とは決して言えない自分を知ることから始まるキリスト信仰を主張しています。
 
 
※1 記事とは別です。
6月末に起こった一連のPCの、入力不可や、亡霊のような文字情報のないアイコンが並んだ現象、フリーズ、から起動不能に、かなり参ってしまって鬱気分になったことについてPCの修理が済んだあと9月に記事「近況その他」に書きました。またそのとき、ウイルスを送られたのではないかという可能性を書きました。
最近、マウスホイールが変な動作をして、今は収まっていますが、6月のことがあるので、過敏になり、今も、私の技術ではどうしようもないウイルスの可能性を否定できずにいます。再発した場合、泣き寝入りに終わらないように、そのことは、一応、サーバー関連には報告しておきました。
 
※2 記事とは別です。
いろいろな不正が疑われているセージ家について、まず、高い公務員の地位にありながら、友人とはいえ、利益追求を生業とする実業家と頻繁に会って遊んだり食事を共にするということについて、控えようとしなかったのが最初の不祥事だと思っています。
あとは、証拠がないからといって、批判に対して情報操作だという印象を与える情報操作をしたり、ずいぶん前の自身のコメントを後になって修正して非はなかったと都合よく辻褄を合わせたり、証拠がなければ非はないかのように批判者に言い返したり、証拠となるべき書類と記憶が都合よく消失したりなど、総合的にみて、不自然極まりないことをもって、疑いとなっているのであります。
なお、言った記憶がない、というのは、言ってないということを意味してはおらず、言わなかったという記憶もないということです。
 
 
(2017年10月12日、同日一部修正)
 
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  母・一時帰宅(2)
 
 
前回の一時帰宅からあまり間を置かず
今回の一時帰宅となった。昼近くから夕方まで。
片付けなどどうしても決めておきたい由
・・嫌な予感は当然のごとく当たり
 なかなかの地獄である・・
 
かつて母は
何十年も毎日買い物に出かけ
献立や家事のことなど自分で決めていた。
恐らくそのリズムが失われて介護施設にいることで
何かをしなければならないという焦りがあるのだろう
 
お金や物を片付けて
どこに置いたか忘れてしまったり
足腰や体力の衰えを自覚できず指摘しても受け付けず
自分で何でも出来ると思っているようだ
しかし、やはり、場所も時間も
母の話はいつのまにか飛んでゆく・・
 
大事な物は
管理できない母には手渡さない
そのことを
病識のない母は当然納得いかないから怒る
・・仕方ない・・忘れるのを待つ・・?
 
とりとめもない昔話をしながら、
今の話をして、話しているうちに忘れて、
また昔話に戻って行く・・
 
今の話をするときにまた決め台詞
「あんたは変わったね。どうしてこんなに変わるのか」
母も随分変わったが・・
 
今回は行動化が目立った。
2012年から自分が勝手に動こうとして
3回骨折しているのに
92歳の母は自分で買い物に行くと言って聞かない、
61歳の私は行かせるわけにはいかない、
母を介助して街を歩くなんて出来ない、すると
母は警察を呼ぶなどと脅す、大声を何度か出す・・
 
出口のドアまで行って押し合い引き合い、
おしくらまんじゅうの挙句、
母は傘立てに腰かけ動こうとしない。
私は立っていたが、
ちょっとやそっとでは戻らないだろうと
観念して私はドアの前のコンクリの床に尻をつけて
座ったまま、なおも言い合う・・
 
言い合いは
私が家を乗っ取って好きなようにしているかのように
・・ある程度は事実だが・・
怒鳴り声もあってめちゃくちゃになる・・
 
一時間程か過ぎたころ
母は疲れたのか口数が減ってきて
介護施設からの迎えが来ることを心配し始め
インターホンを気にして
母「あんた行って見てきなさい」
私「ならば居間に戻ろう」
 を繰り返したのち
母「行けない」そして「疲れたから」
私「オレが介助するから」と言って
ようやく母の両腕を支えるようにして居間に戻る。
 
母が私をぼろくそに言いながら
結局は私に腕を預けたのは
やはり息子が約一時間いっしょに寄り添っていたからか
 
首も腰も痛くて心臓の持病もある私のほうも
母の行動化に付き合うのは初めてで
予想通り疲れる、節々軋む、痛い・・
 
環境と生活の激変という心因もあると思っていたが
今回は認知症の進行を間近に実感してしまった。
自分もいずれこうなるのかという不安をいっぱい抱えて・・ 
 
簡単な一言ずつの会話が分かるだけ
今の母はまだ認知症としてはマシなほうなのである。
 
言葉の酷いやり取りでは
どんなに大声出してもどうにもならない状況は
できることがあれば少しは助けるつもりで寄り添うことだ
・・とかなんとか学習したつもりで・・
夕刻迎えが来て母は施設に帰っていった。
 
どうなってゆくのだろう・・そのうち
介護施設でも適応不能になるかもしれない勢いだった母・・
 
昼食は宅配のピザとお好み焼き
といっても私も気が急いていたのか
落ち着かなかったのだろう、
しまった早すぎるとは思ったが、
昨夜まとめて注文して受け取ってしまって、
一食分を私が食べた残り・・余談
 
 
(2015年11月10日、同日一部修正)
 
 
 
 

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