ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

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  楽山の聖書曲解2
 
 「第六講 神学者ビルダデ語る」(『ヨブ記講演』内村鑑三著)
 2020年07月30日 楽山日記(LD)
 
 
信仰者でもないのに、信仰の欠片も持たないのに、楽山は、なぜ、聖書について書いてくるのでしょう。それは、知っている、分かっている、読んでいる自分を誇るためでしかないのです。言動の動機が自己顕示欲だけの自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。
 
 
第六講を読了。内容をメモしてみる。
第8章の研究。
第8章に入る前に、まず前章について、7.17-18は、詩篇より引用か。
ヨブに限らず、「健全なる人にして、神が罪の故を以て我を苦むるとの霊的実感を味わいし人が少なくない」。
「ヨブの呟き」は、神より離れていないためのもの。神を離れてはこの呟きもなくなる。「全く神を棄つるよりは呟きつつも神を保つを優に勝れり」。
ヨブは友と語り、神に訴え、自己に語りつつ、少しずつ神に近づいている。
 
 (ヨブ記、口語訳)
7:17
人は何者なので、あなたはこれを大きなものとし、
これにみ心をとめ、
7:18
朝ごとに、これを尋ね、
絶え間なく、これを試みられるのか。
7:19
いつまで、あなたはわたしに目を離さず、
つばをのむまも、わたしを捨てておかれないのか。
7:20
人を監視される者よ、わたしが罪を犯したとて、
あなたに何をなしえようか。
なにゆえ、わたしをあなたの的とし、
わたしをあなたの重荷とされるのか。
7:21
なにゆえ、わたしのとがをゆるさず、
わたしの不義を除かれないのか。
わたしはいま土の中に横たわる。
あなたがわたしを尋ねられても、
わたしはいないでしょう」。
 (ヨブ7:17-21、旧約聖書)
 
「少しずつ神に近づいている」・・ヨブは、神に近づいてはいません。背きそうな心情を、神に向かって、訴えているのです。楽山は、小学生レベル、偏見と先入観レベルであり、深い情緒を持っていません。楽山は、聖書について、何も分かっていません。楽山が書けば、それだけが表れてきます。
 
ヨブは、例えば、自分は、神にとって、何なのですか。監視していながら、神は全能でありながら、苦しみを与えるのか、なぜ、赦してくださらないのか、もう駄目になりそうです、というような、気持ちを、正直に、神に向けています。苦難の時にも、それを神に訴える分だけ、信仰者にとどまっています。
 
とどまっているのであって、近づいてはいません。人から、神に近づくことは出来ません。人は叫びのような祈りをすることがあるということです。楽山は、何も分かっていません。楽山を是としないでください。楽山は、何も理解せずに書いています。
 
楽山の「少しずつ神に近づいている」は、楽山の無理解を表しています。ヨブに賛同するのは、部外者だからでしょう。楽山にとって、信仰者を、楽山の考えるヨブの延長?として、最終的に、神から引き離すのが目的です。それだけ悪魔性が強いということです。
 
 
第8章において、ビルダデはヨブの子の死は罪のためとする。ヨブに悔い改めをせまる。「無情なる浅薄なる神学者」である。「ビルダデの説く所に多少の真理ががないではない。しかしこの場合にヨブを慰むる言としては全然無価値である」。
 
悔い改めも、信仰も知らない楽山が書いています。今までの、キリスト教と神否定の文言という自分の言さえ、なかったかのように無視して、あたかも賛同するようなことを書いている楽山の悪意の企みに、決して惑わされてはいけません。
 
信じる気など微塵も持っておらず、ゆるされることを、自尊のために、受け入れることもなく、分かったふうに、キリスト教にちょっかいだけを出してくる悪魔的存在に、決して近づかないようにしてください。悪質な、遠回しの誘導です。楽山は、神も、人も、いちばん恥ずべき自分も、見ようとしてはいません。
 
 (ヨブ記、口語訳)
8:4
あなたの子たちが彼に罪を犯したので、
彼らをそのとがの手に渡されたのだ。
8:5
あなたがもし神に求め、全能者に祈るならば、
8:6
あなたがもし清く、正しくあるならば、
彼は必ずあなたのために立って、
あなたの正しいすみかを栄えさせられる。
 (ヨブ8:4-6、旧約聖書)
 
パリサイ的な、行為義認を、因果応報みたいに、ヨブに当てはめています。これで、悔い改める人はいないでしょう。
 
 
アブラハムの一夫多妻を記したのは、それが害であり、一夫一妻が善いことを示すため。ビルダデの無情さが描かれているのは反面教師としての意。
ヨブ8章と合わせて、コリント前13章を読むべし。愛なくば知識も信仰も空である。すべては愛ありてこそ。
 
楽山のように、愛も共感性もない者は、知識をひけらかしても空しいだけです。愛も共感もない楽山には、総てが空しいだけです。楽山が、コリント13章を挙げるのは、笑止であります。
 
楽山は、ただ、自分で自分を高めるためだけに聖書を読んだふりをして、学識と理解を装っている偽善者なのです。恐らく、楽山は、先入観抜きで、聖書を、例えばヨブ記を、まじめに読んだことはないのだろうと思います。
 
楽山は、寛容ではなく、情深いどころかサディスティックであり、また、ねたみ、高ぶり、誇り、不作法を省みず、自分の利益を求め、いらだち、恨み、仕返しを企みます。
楽山は、不義を喜び笑い、真理を憎み、そして、何も忍ばず、何も信じず、何も神に望みを置かず、何も耐えず、いちずに、復讐を企んでいます。楽山は、殆どサイコパス、凶暴で執拗な反キリストです。
 
自分の発信したブログの、背教の記事と発言を、ここでだけ無視して書いてくることこそが、楽山の、傲慢不遜の証拠であり、反キリストの頑強な悪魔性の証しなのです。書けば書くほど、白々しさが楽山を否定するのです。罠をかける悪魔の性質に酷似してきます。
 
 
ここで特に心に残ったのは三箇所。一つはヨブの呟きは神から離れていないからだというところ。神に対して否定的批判的なことを言うと、即、不信仰だの冒涜だのと責められることがある。でもそういうことは神に無関心ではなく、縁がつながっているからこそ出る言葉なのだろう。
 
楽山は、本心ではなく、人心を惑わせる企みによって「否定的批判的なことを言う」人であり、キリストからも決して赦されることのない偽善者の一人です。またしても、楽山は、詭弁を弄しています。
 
楽山の言は、ヨブなどの信仰者の、本心からの、叫びに近い祈りとは全く別のもの、というより、逆であります。訂正不能で悪意だけのナルシストは、真っ向からのキリストの敵です。
 
楽山は、「神に無関心ではなく、縁がつながっているからこそ出る言葉」と言って、またしても、自分も批判したが、神との縁がつながっている、という自己正当化を図っています。
 
楽山の詭弁は、自己愛によるもので、正直な疑いを本心から訴えているヨブとは、全然、違います。
 
楽山は、いちずに読者をだまそうとしています。これが、楽山の本性です。自ら滅びを選んでいる者に、近づいてはいけません。楽山は、何も気づかず、笑っていると思います。
 
 
もう一つはヨブは友人から誤解され、責められて傷付くが、それが真理に眼を開き、光明に近づく切っ掛けになっているという指摘だ。苦は出来れば避けたいことではあるが、それによって真理に導かれるということもあるとすると、ここは神義論、弁神論と関連が出てくる。
 
ヨブが、友人から誤解されたのではなく、友人が、信仰を曲解し、思い込んで、ヨブを責めているのです。そのような者たちが救いの助けになることはないのです。楽山が、信仰?を語ると、このようなものに近くなるでしょう。
 
楽山の、神義論と弁神論の記事は、詭弁と嘘の、成り立たない理路だったし、いかにも、信仰を理解できない好事家が、でっち上げた自分信仰の産物でした。楽山に、聖書とキリスト教理解を求めてはいけません。言いように利用され、疲労と人格破壊をもたらされるだけです。
 
つまり、このような記事を書くこと自体が、信仰者の敬虔に反していて、偽善者に相当する楽山です。楽山は、神の前で、神に気づかず、役に立たない知識を振りまワズ自己顕示欲の奴隷として、あらゆる真実の追求に対する反逆者であります。
 
 
三つ目は著者がビルダデを強く批判しているところだ。「人情の機微をも知らずして、ただちにわが神学的断定を友の頭上に加えて得々たるところ」云々とかなり手厳しい。
 
 (ヨブ記、口語訳)
8:13
すべて神を忘れる者の道はこのとおりだ。
神を信じない者の望みは滅びる。
8:14
その頼むところは断たれ、
その寄るところは、くもの巣のようだ。
8:15
その家によりかかろうとすれば、家は立たず、
それにすがろうとしても、それは耐えない。
8:16
彼は日の前に青々と茂り、
その若枝を園にはびこらせ、
8:17
その根を石塚にからませ、
岩の間に生きていても、
8:18
もしその所から取り除かれれば、
その所は彼を拒んで言うであろう、
『わたしはあなたを見たことがない』と。
8:19
見よ、これこそ彼の道の喜びである、
そしてほかの者が地から生じるであろう。
 (ヨブ8:13-19、旧約聖書)
 
「人情の機微をも知らずして」、まさに、楽山の拠るところは、蜘蛛の巣のような、罠に満ちています。神がいるならなぜ悪があるのか、と言って、神を否定した者が、今、信仰について肯定的であるかのように云々しているのです。精神の詐欺師であること以外に、何が言えるでしょう。
 
こういう者に掛ける言葉は、あっちへ行け!、以外には、ありません。
 
 
これには穴があったら入りたい心持ちにさせられる。というのも自分は某宗教の信者だったころ、その教義によって人を裁いてばかりいたからだ。「人情の機微を知らずして」教義を基準にしてああだこうだと人に説教していたのだった。しかもこういう悪癖は、今も完全に治ったとは言い難いのだから情けない。反省。
 
「穴があったら入りたい心持ち」、ならば、穴に入って出てこないでほしいです。こういう、心にもないことを平気で書くのが、楽山が吐く嘘の特徴です。そういう楽山だから、神に、キリスト教に、いちゃもんを、平気でつけてきて、今度は、聖書について知ったかぶりをしようというのです。
 
こういう聖書とキリスト教の記事を書けば、だまされる人は増えるかもしれませんが、楽山の、神とキリスト教に対して放った無反省の暴言を、あとになって、ほめ言葉を書けば、中和できる、反省しなくてもごまかせる、という企みであり、逆に、楽山の性根の腐れの証拠になってゆくのです。
 
楽山は、今でも、人情の機微を知らないことが、記事を書くたびに、ますます明らかになっています。共感による思いやりも知らず、ゆえに、肯定的なメッセージも、気味の悪い三文芝居か子供だましのレベルです。内村鑑三を引用して、字面だけ読んでも、心の無い楽山にキリスト教を語ることは出来ません。
 
キリスト教について、嘘を吐いて、しかも、その責任を負おうとしない楽山は、赦される道理がないのです。楽山の視野とは全く違うところに、楽山とは全く縁のないところに、キリスト教とキリスト信仰はあるとしか言えないでしょう。
 
楽山は、既に約10年ものあいだ批判対象となっている偽牧師で偽善者で反キリストであるシャロームの、罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい、という信条?に賛同しました。
 
このことは、キリスト教もキリスト信仰も、全く理解していない証拠となっています。悔い改めなくていいキリスト教など、どこにも存在しないからです。
 
このような経過があるので、私には、疲労だけを与えてきた楽山を説得して、言うことを聞かせようというような意図は全くありません。楽山は、シャロームと、恐らく、カルト的つながりを持つ仲間であろうと思っています。説明や説得など、まるで通じない訂正不能の病的ナルシストです。
 
キリスト者でもなく深い理解も共感も伝えたことのない楽山に、宗教と信仰は手に負えるテーマではないのに、こちらが、いくら、おかしいところを指摘して批判しても、また、理解を装って書こうとする、この不感不応の醜い姿勢こそが、楽山の、おぞましい悪意であり、宗教と信仰への根深い怨念なのです。
 
情感も共感も理路も反省も、人生の学習を怠ってきた楽山には、不能になっていることを考えもせずに、悔いもせずに、あたかも別の顔であるかのように成りすまして、聖書と信仰の話を平気で書いて、それで何とかなると思っていることが、何よりも、殆どホラーに近い異常性として表れています。
 
 
デタラメしか出てこない

デタラメしか出てこない
 
 
(2020年)
(2022年08月08日、再録+加筆)
 
 
 
  死んでいます
 
私は日々死んでいます
聖者の叫びは程遠く
詩人の鐘さらに遠く
私は日々滅びています
体は衰え心は萎え
気力は失せて
私の耳は砕け散ったかけら
響きも笛も聞こえない
私の目は汚れた鱗
涙ながらに涙は流れず
渇いて乾いて
重なるものを見抜けない
私の昼は空しい排泄に終わり
私の夜は繰り言の始め
ありふれた風景
世界の末席から転げ落ちて
私は日々死んでいます
私は日々滅びています
しかもそれらすべてが
必ずしも悲しみだけではない日々を過ごしています
 
 
  行きます
 
その日が来たら
私は行きます
彼方の彼方へ
私は行きます
私は来ました
と言ったように
約束どおり
私は行きます
一滴の涙を土に埋めて
誰にさよならも告げないで
私は行きます
だから待っていて下さい
きっと私は行きます
でもその日が来て
もし私に行く力がなかったら
彼方の彼方から
すぐそばまで来て下さい
そして私の手を引いて
連れて行って下さい
その日が来たら
約束どおり
彼方の彼方へ
 
 
  シンプルに
 
私はだんだん
シンプルになっていくようです
口数も少なくなりました
言葉もめっきり減りました
ああ太陽
ああ夕空
ああ星と星
といった調子です
身の回りは相変わらず汚れていて
身のうちには
たくさん傷や悔いや感動がありますが
もう深くはのぞけなくなりました
しあわせが浮いていくようです
それが私なのか何なのか
昔のことはだんだん忘れて
見るもの聞くもの遠のくようで
裏返し
と唐突に言ってみたり
口を開けてじっとしていること
ときどきできます
私はシンプルに
命になって
いつか少し笑って
目をゆっくり閉じて
いつか少し泣いて
あとは
あとは
おまかせします
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
「自分もそんな風です」と、「人間の性」という言い訳で、反省をしない楽山です。反省をしない人は、人間ではないのです。成長もないのです。したがって、そういう人は、人間としての発言は出来ないし、してはならないのです。
 
 
 
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  悪魔とは?
 
 悪魔とは何か? (『釈尊のさとり』増谷文雄著)
 2018年04月24日 楽山日記(LD)
  を批判。
 
 
楽山の害毒メモ:
今までに表れてきたこと。これは、楽山に限らず、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、世に数多いる偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。楽山は無責任です。決して信用しないでください。
 
楽山は、1つのことを書いて、別の時には、それに反することを平気で書いてきます。そこで、反省、修正、というステップを書かず、あたかも最初から思っていたことのように書いてきます。自分に誤りを認めない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。
 
楽山は、悪魔とは何かを語れるのでしょうか。超常ホラー趣味の楽山は、人間とは全く別の超常の存在として考えているように思われます。ゆえに、楽山は、自らの悪魔性に気づかないのでしょう。
 
 
『釈尊のさとり』を読んだ。講演録とのことで読みやすくてよかった。
多少の補筆修正はあるらしいが、やはり口述したものはわかりやすくてよい。
ところで著者によると、釈尊は、悪魔とは何かと問われた時に、
以下のように答えたと経典 (南伝・相応部経典、23の11、魔。漢訳、雑阿含経、6の14、魔) に書いてあるらしい。孫引きだけど、その部分をここにおいてみる。
「ラーダよ、色(肉体)は悪魔である。受(感覚)は悪魔である。想(表象)は悪魔である。行(意志)は悪魔である。識(意識)は悪魔である。
ラーダよ、そのように観じて、わたしの教えを聞いた聖なる弟子たちは、色を厭い離れ、受を厭い離れ、想を厭い離れ、行を厭い離れ、識を厭い離れる。厭い離れることによって、貪りを離れる。貪りを離れることによって、解脱するのである」  
(『釈尊のさとり』〈講談社学術文庫〉増谷文雄著、講談社、1996年、pp.62-63)
 」
 
この著者の文章で「わかりやすくて」とは、到底、思えません。ホラー映画の悪魔ではなく、その邪悪さは、人間の性質に深く関係している者という捉え方のようです。楽山は、いったい何が分かるというのでしょう。
 
 
この部分について、著者は次のように解釈している。
ここにいうところの色・受・想・行・識というのは、人間を構成する肉体的・精神的なる五つの要素をあげたものであります。それを仏教では、古来から「五蘊」(五つの要素の意)と称して、人間はもともと五蘊の和合して成れるものだとするのであります。といたしますと、いま釈尊が、その五つをあげて、それらが悪魔であると仰せられているのは、とりもなおさず、人間の肉体と精神のまよい、それが悪魔であるといっておられるのであります。 
(同上、p.63)
 」
 
悪魔について、人間とは別の超常ホラー映画に出てくるような存在ではなく、楽山のような、「人間の肉体と精神のまよい」が悪魔であると言っているようです。超常については、人間の手に負えないものとして、作り話にしないほうがよいでしょう。
 
 
これは五蘊仮和合による解釈なんだろうと思う。
それなら、「人間の肉体と精神のまよい、それが悪魔である」という解釈になるのも当然ではある。
ちなみに、五蘊仮和合については、この記事が分かりやすり。
・五蘊仮和合|宇宙のこっくり亭
 
リンクだけで、楽山は引用も解説もしないので
 
(ネットより)
我は無い。
それが、お釈迦さまの教え。
ここで言う「我」とは、インド思想でいう「アートマン」。
アートマンとは、「生まれ変わり、死に変わり、永遠に存続する個の実体」 (真我、要するに霊魂)。
つまり、「霊魂は無い」というのが、お釈迦さまの教えです。
もちろん、「自分」はいます。
でなきゃ、今ここでブログを書いたり読んだりしている、私は一体だれ?・・・ということになる(笑)。
自分は有る。 でも、自分の実体は無い。
言ってみれば、ブッダの人間観とは、実体がなく、中身がカラッポな人間。
じゃあ、人間って何なの?・・・という疑問に答えて、ブッダは「五蘊仮和合」(ごうんけわごう)という人間観を提示しました。
五蘊とは、色・受・想・行・識。
ざっくりと言えば、色は肉体作用。 他の4つは精神作用とでも言おうか。
これらは、人間を構成する5つの要素。 すべて、壊れやすくて、一瞬で壊れるのが特徴。(ただし、壊れるたびに一瞬で再生する)。
人間は、これらの要素の寄せ集めで出来ています。 
ただの寄せ集め。 中身はカラッポ。
永遠に存続するモノなど、何もない。
真実の自己は、たった今、この瞬間(即今)にしか存在しない。
 
壊れやすい、永続するものはない、・・人間の有り様でしょうか。
 
 
また著者は、上の文章に続いて、さらに踏み込んで次のように結論付けている。
さらにいうなれば、その悪魔なるものは、この外界に跳梁する非人間的存在としての悪魔をいうのではなくして、ただ人間の心理を描写するために、神話的文学形式として悪魔なる表現を利用しているにすぎないのであります。 
(同上、p.63)
 」
どうも著者の考えは、悪魔なる存在があるというのではなく、
人のまよいのことを悪魔と表現しているのにすぎないということらしい。
悪意を持って、人をたぶらかし、地獄に引きずり込むという
超自然的な存在としての悪魔について説いているのではないと…。
 
どちらの意味でも、楽山は、自分が当てはまることに、まるで気づいていないのです。そして、「非人間的存在」として、関わる人を「たぶらかし、地獄に引きずり込む」悪意と詭弁と嘘しか持ってはいないのです。超常であろうと人であろうと、良心の敵であります。
 
 
これはどうなんだろう?
上にある部分についていえば、
確かに、「人間の肉体と精神のまよい、それが悪魔である」と説いているようである。
この部分については、これ以外の解釈はなさそうではある。
 
迷い、というより、悪意、なのです。迷っているなら、自覚することもあるでしょうが、悪意を生き方としてしまうと、もはや、迷いでもなく、笑いになってしまいます。笑いと怒りしか持っていない人格障害を、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)またはサイコパスというのです。
 
 
でも、だからといって、
経典の他の部分についても、すべてこれと同じ解釈が成立しうるだろうか。
経典のなかで、悪魔について語っている部分はすべて、
人間の心理を神話的文学形式で表現したものだと断言できるのだろうか。ここは疑問である。
 
だから、特別に悪性の、楽山のような、悪意しか持たず、だますことで快感を得ているような病質者もいることを、注意・警戒する必要があります。そうなると、もはや、心理ではなく、精神病理ということになるのでしょう。
 
 
ただ著者は、こうも書いている。
初期の仏教経典には、よく梵天説話や悪魔説話がでてまいります。だがそれらは、単なる神話ではございません。それらは、初期の経典の編纂されたころに、よく用いられた一つの心理描写のための文学形式であります。  
(同上、p.61)
 」
これによると、悪魔、または梵天を用いた表現形式は、
初期の経典の成立したころには、かなり一般的なものだったということらしい。
 
少なくともいえることは、超常や神霊についての話は、人に置き換えて教訓とする以外に、人にとって、手に負える話ではないのです。私たちは、地上の日常に生きており、超常に注意を向けてばかりだと、楽山のような妄想性になってしまい、人間性が壊れてゆくでしょう。
 
 
とすれば、
悪魔は現実の存在ではなく、心理描写の一つに過ぎないという解釈は、
上にあげられた部分に限定されるものではなく、初期の経典全般について言えるということになりそうだ。
 
心理描写だけにとどまらず、精神病理、精神異常、精神病質、精神破綻、精神破壊なども考えてよいと思います。それを、発症し、体現し、まるで基盤のように持ち歩き、そこから、自他の人格破壊が進行してゆく例が、まさに、楽山やシャロームとして存在しているのです。
 
 
著者は続けて書いている。
たとえば、釈尊の心中において、すぐれた思想が生れ、すぐれた所信が成立したという場合には、それがしばしば梵天説話をもって描写されているのであります。
それに反して、釈尊やその弟子の心のなかに、なんぞ疑惑やまどいなどが生じたという時には、それを描くにしばしば悪魔説話なる文学形式をもってしているのであります。 
(同上、p.62)
 」
「しばしば」という言葉からすると、
初期の経典に記されている梵天、悪魔の話は、
その多くは心理描写の一形式にすぎず、
そういうことが現実にあったということではないということらしい。
 
聖書にある超常のことは、現実にあったかどうかも併せて、人間が云々する能力はないのですから、そこからは、イメージや教訓として受け取って、分からないところは、恐れをもって、神に任せるしかないことです。一方、そういう超常にこだわって悪霊のようになっているのが楽山です。
 
 
悪魔が現実に存在するかどうかは、確認しようがないことではある。
ただ著者の意見からすると、
悪魔の存在の根拠として、仏教経典にそのことが明記されているとか、
釈尊がそれを説いたなどと主張するのは無理があるようである。
 
悪魔、悪霊は、聖書に書いてありますが、それを、そのまま、超常ホラーのことだと考えるのは早計であり、もしそうだとしても、人間に悪魔を解き明かすのは不可能と知るべきでしょう。卑近には、楽山のように、良心が無い人を、悪魔のような人と比喩~仮称しているに過ぎません。。
 
 
換言すると、悪魔それから梵天などの存在を信じるのは自由であるが、その存在証明として、仏教経典や、釈尊のことばを用いるのは無理だということ。初期の経典を読むと、釈尊はリアリストのようでもあるし、これも当然のことなのかなと思う。〈了〉
 
ここまで見てきても、楽山の書く文章は、因業のように「らしい」「ようである」「かなと思う」という曖昧な語尾が多いボンヤリ言語です。曖昧と、丁寧や柔和は、違います。とんでもないことを言っているのに、断定してないから責任はない、などという言い分は、決して成り立ちません。
 
 
悪魔みたいな?

悪魔みたいな?
 
 
(2022年08月07日、再録+加筆)
 
 
 
  悪魔
 
悪魔とは何か。
それは今、私の中に満ちているものである。
と考えてみる必要があろう。
他人について魔女狩りをする前に、
自らの中に潜んでいる悪魔狩りをしてみるべきである。
それが到底できないことに気づくであろう。
私はさびしく語るほかはない。
他人を見る心において
私はしばしば悪と親しく、
絶望のふちにおいて
私は魔と友人である。
私は人をむさぼり
自らをむさぼり
むしばまれてゆくだけなのか。
父なる神はどこにおられるのか、
わが救い主はどこにおられるのか。
皿に盛られた料理を汚く残したまま
私はかつて笑いの中で主の盃に加わり、
今は嘆きの中で顔をそむける。
そむけた顔の後ろに、忘れようとして
忘れることのできない言葉のまなざしに
主よ、あなたの御名によって・・・
私という名の悪魔が
父の手によって裁かれますように。
私はさびしくつぶやき
不遜の祈りを語り続けるだろう。
 
 
  自棄と慈悲
 
人と人との適正な距離を
維持するだけの平静な
路面さえも失いつつある
復讐の念に燃え狂い
のたうちまわる欲求不満に
無気力・無為が横たわる
そういう自閉の距離を取るだけで
今世界中の人が死んで
自分一人になっても
冷蔵庫があって食べ物があれば
普段と同じように食べるかもしれない
今世界中の人がいても
同じだから
いや少し違う
これ以上近づきませんから
何もしませんから
と昔ハンセン氏病の慈悲深い
心貧しき偉人が言ったのを
真似ようとするかのような
苦し紛れの距離の取り方
 
二十年あまり前に戻って
二十年後を見てきたと
ひとこと言って
胸を突いて果てたいのだが
それができる仕組みではないし
今できないことを
二十年前に戻ってできるはずもないから
神様でも悪魔でも
恥さらしと知って恥をさらす
この生ける屍の肉体の
後始末をお任せするしかないのだが
少し楽になったことがある
肉親の安否を前より気遣わなくなった
自分の安否はもっと気遣わなくなった
 
 
  ある一日の告白
 
神様が一日無事に生かしてくれた
手を組み跪(ひざまず)いて
感謝すればよいのか
悪魔が一日無駄に殺してくれた
拳を握り胸を打ち
悔(くや)しがればいいのか
お前ではないか
一日を生きたのも
一日を殺したのも
充分に生きれなかったのも
充分に死ねなかったのも
お前自身ではないか
 
脅(おび)えさせるものが来る
底なしの闇から現れて
すぐそこまでやって来ている
根こそぎ掴(つか)み取ろうとする
底なしの臓腑へ落とそうとする
首の骨を潰す
脆(もろ)くなった首を吸い込む
首が伸びてゆく気が遠くなる
ぎしぎしと何処かで音がする
遠ざかる
灯がちらつく
最期に呟く
夢のようでした
声にならない
フッと蝋燭(ろうそく)が消える
消すのは作ったものだ
脅えるお前を追いかけて止まない
お前自身が生み出したものだ
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
反省しないのは、非人間の性です。悪魔の性です。悪霊の性です。他に、どう喩えたらよいでしょう。決して人間の性ではありません。異常な精神または人格を持っている人、および、それに近い状態になった人に表れてくる現象~症状です。
 
現代の悪魔は、サイコパスと呼ばれる者たちでしょう。良心が無い、罪悪感が無い、平気で嘘を吐く、あざ笑いと怒り~憎しみだけで、悲しむことがない、自己中の満悦だけを求める、・・それらは、遺伝と環境から生まれてきます。交わること自体が不幸と言える対象者です。
 
 
 
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  くさい3
 
   気持ち
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   ヤフー終了後は
   2019年07月24日
    楽山のブログ記事+コメントを改めて批判。
 
 
楽山は、今まで、キリスト教と信仰を、神がいるなら悲劇が起きないような楽園でないと気が済まないという極めて幼稚な理屈で、執拗に否定してきました。また、右翼思想を支持していることも、いくつかの記事で明らかになっています。理路も直感も、ふつう以下の鈍さだと判断しています。
 
さらに、批判をしても、反論も弁明も反省も出来ないことや、この記事にも表れているように、自己陶酔、自己満悦を表し、にもかかわらず、無反省、無責任に、訂正不能に、似たようなことを書き続ける自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)であることが分かっています。
 
楽山は、ポエムを書いているつもりでしょうか。改行しながら書いていますが、詩と言えるような発想や連想やイメージの飛躍が見られません。通念的な、きれいごとを書いているだけです。小学生でも、感性の優れた子は、もう少しマシなものを書くでしょう。
 
詐欺師や女たらしが、中身のない、やさしい言葉で誘ってくるのと同じでしょう。そして、楽山は、書いて見せて、批判されても、大方、返せないので、忘れることにするのでしょう。不都合を無視して忘れることだけ、超常的、というか、人間離れしているのです。
 
真面目に書いた詩なら、再度こちらから批判をすることはなかったでしょう。しかし、楽山は、自己愛性パーソナリティ障害NPDから、いい加減な気持ちで、霊能者気取りなど様々な気取りから、学ぶことなく、自己陶酔気分で書いて、一人前に書けたと自慢したいのです。
 
 
我ながら
単純だなあ
と思うのだけど、
 
日記の文章としても、詩にはなっていないと思います。言葉の文字通りの意味を書いて、自分だけ満悦するためだから、人に見せるための発想もなく、優しい言葉遣いならいい、というような安い考え方で書いているとしか思えません。「単純だなあ」・・その通りです。
 
今までのことから、楽山は、考え方として、とても幼稚だと思います。正常ならば、通念的な考えから脱する志があるので勉強もするし、経験を生かそうともするのですが、アドラー教のために、それをしなかったのでしょう、客観視を努める思慮も、大人の謙虚さも、楽山には見られません。
 
単純に善い言葉を書けば褒めてくれるような自我の弱い人を対象にして、だますために書いているとしか思えないのです。今までのことから、謙虚で誠実だと思わせる、ネチネチした筆致が気色悪いです。程度の低いキレイごとを、遠慮もなく公開してくる楽山に、だまされないでください。
 
 
元気で明るい文章
を読んでたら、
何となく、
こっちまで
元気が出てきた。
 
明るい文章というだけで、読んで元気が出るでしょうか。白々しくて、気が滅入ることもあると思います。楽山は、こういう文章しか書けないか、これで、優しい人と思われて、気をよくしたいのでしょうが、いいこと書いたと、自己満足だけで、見せてくる楽山は、自省が出来ないだけです。
 
明るさだけで感動するなら、楽山は、CMを見て感動するのでしょうか。プラスの通念的な言葉を並べただけ、明るさを装う三文芝居だと思います。心の中は、腹黒い人です。このようなことを書いて、宗教の弁明や説明に使えると思うのでしょうか。あるいは、詩のつもりでしょうか。
 
「だなあ」「思うのだけど」「元気」「何となく」「出てきた」・・このような月並み表現で何を伝えたいのでしょう。そう誰かに言われたことはないのでしょうか。本人は良い詩のつもりでしょうか。詩ではなく、日記であり、しかも飾っており、芝居であり、嘘だと思います。
 
人の気持ちは、
他に伝染するというけど、
たしかに
その通りと思う。
 
「伝染」というのは、現代では、おもに病気が移るときに言うんじゃないでしょうか。明るさが伝染する・・違和感があります。なお、熱心に、自身の妄想やアドラー教を、幼稚な説教で、広めようとしているのは、つまり、伝染させようとしてきたのは、楽山その人です。
 
伝染には、うつりそまる、という意味もありますが、辞書の引用は、ずいぶん昔の文献のようです。さらに、学習をしないために固着している楽山は、経験からくる深みがなく、「たしかに」「その通り」というような言い方しかできず、言葉の選択も雑のようです。
 
(ネットより)
伝染:
[名](スル)
1 病原体が他の生物体に入り、増殖して病気になること。感染。「はしかが伝染する」
2 物事の状態・傾向などが他に移って同じような状態が起こること。「あくびが伝染する」
 
楽山の、自己中の体質と、印象付けの詭弁は、気をつけないと、詭弁に対する抵抗力のない人々に、病気として伝染する性質を持っています。楽山が、そういう意図を持っているからです。それは、無自覚に進行する人格破壊を意味しているので、決して、あってはならないことです。
 
"気に入らないことは無視しましょう" というアドラー教によって、批判を無視して、反省機能も皆無のまま、自分が楽になることだけを目的とするブログを書いている楽山は、学ぶ意志もなく、安い肯定の言葉を、伝える努力もせずに、発信してきます。
 
楽山は、いつも、大雑把で、単純で、しばしば、自分に都合のよいように選択し、短絡して、偏見に満ちた文章を書いて、丁寧語や芝居で、ごまかして、一方的に、繰り返し主張して、自己満足しますが、その分、不勉強と、学習不能を、あらわにしてゆくのです。
 
 
笑顔の人の傍にいると、
こちらも気持ちは軽くなり、
 不機嫌な人の傍にいると、
こちらもどんよりしてくるとか…。
 
笑顔にもいろいろあります。あざ笑いもあります。楽山の笑いは後者が多いと思います。ここでは、単純に明るければよいと、婉曲的に、反対を言う人には近づかないようにと、実は、どんよりした、遠回しのセリフで、誘導してくるのです。これこそ、楽山の誘導の三文芝居であります。
 
上機嫌の笑顔に囲まれると、かえって、暗くなる人もいるでしょう。ありがたや、ありがたや、いやなことはわすれて、・・こんな宗教が、昔、あったような気もするのですが、これがカルトの罠の入り口であることを忘れないでください。楽山には、洞察力も人間的共感性もないと思います。
 
不機嫌な人を、どんよりしてくるとか、まわりくどく言っていますが、それ以前に、こちらは、楽山の気色の悪い、ボンヤリ言語の、婉曲の刷り込みによって、どんより、うんざり、鼻が曲がるほどの臭さを経験しています。楽山は、自分カルトの醜い媒介となっています。
 
 
最近は、
心を整えることには
前ほどは関心が無くなってきてたけど、
自分のためだけでなく、
他の人のためにも、
やっぱりこれは大切なんだろうな。
 
楽山の心は、知る限り、整ったことがありません。楽山は、そして、この記事のような文章は、アドラー教(アドラー心理学)の強気な文章と相まって、だまされやすい人間を誘導して、さらに愚鈍で盲信しやすい人に変えてゆきます。楽山は、誘いながら、バカにしています。
 
不都合を無視して、ヘラヘラ笑って、自分は明るいと思い込んで、楽山のような、反省しない無責任になりたい人がいるでしょうか。それは、誰よりも陰険な人の特徴であり、成長する人間のあり方ではありません。
 
それで、にこやかに笑っている表情になったとしても、それは、現実逃避と、不都合無視の経過と結果の、ニヤニヤか、ヘラヘラ笑いに過ぎず、それが、楽山によって、人格破壊が進んで鈍麻してゆくことなのです。
 
楽山は、それを、人それぞれで、自分の心次第、というようなことを吹聴してくるでしょう。誠に、楽山は、寄ってくる人に、「人それぞれ」とか「個人の自由」を悪用する詭弁の正当化で、不都合無視の因業を、吹き込んできたのです。
 
ゆえに、人の心を破壊してゆくだけの楽山に、心を整える気はなく、他の人のためにも、大切な何ものかを、または、そのヒントさえ、提供することはないのです。百害あって一利なしであります。だまされないように、関わらないようにする対象でしかないと思います。
 
 
生きていれば、
いろいろなことがあって、
いろいろな気持ちになるし、
どんな気持ちもそれぞれ尊いけど、
揺れを戻し、整えることも大事。
 
「どんな気持ちもそれぞれ尊い」と言って何になるでしょう。「いろいろ」あるけど「整える」なんて、簡単な話じゃないわけで、楽山などに教えてもらっても病気になるだけです。平凡のオンパレードです。全部、きれいごとだけの、嘘と言っていいでしょう。何の足しにもなりません。
 
揺れたら、揺れを戻し、などと言っても、場合によって、簡単ではありませんし、楽山にだまされた人にとっては、肯定を否定に向きを変えるわけだし、苦行か拷問になるかもしれません。それに、揺らしながら、揺れを自覚することも、揺れを戻すことも、しないのが、楽山です。
 
めんどくさいのか、こういう、何の糧にもならないことを、ずっと書いてきたのが、楽山です。インテリ気取りで、学術用語を使うことも多いですが、反省しない者は、理解することもありません。自己愛性パーソナリティ障害NPDの楽山に、他者に向かってアドバイスする資格はありません。
 
言葉をそれらしくすればよい、という気安さで、大きなテーマから、ポエムまで、最悪の質の文章を書いてきたのが楽山です。楽山の正体は、人間も、思想も、宗教も、何も理解していない幼稚さを、自分だけが気づかない醜態をさらして、表しているだけなのです。
 
言い換えれば、楽山は、この程度の軽さでしか人間を考えていないということです。楽山の精神の鈍麻と言葉の浅薄さが、にじみ出ています。ここまで、執拗に不変不応不感の人は珍しく、病質としか思えません。今、楽山に関わっている人は、すぐに離れてください。
 
楽山、shalom、易坊、mine、など、恐らくマルチな成りすましの可能性を思います。残念ながら、ネットでは、決定的な証拠が成り立たず、証明が出来ません。自分の心は、自分で守るしかありません。批判目的で、楽山を読む人以外、少なくとも、楽山に関わらないようにすることが大事です。
 
 
(コメント欄)
 
自由さん おはようございます
「揺れを戻し、整えることも大事。」
そうですよね。
私はやじろうべぇが好きですが、ごぞんじですか。
どんなに揺れても、振り回されることがあっても、
たしかな支点に支えられていれば、相対化の揺れがあっても、
支点によって揺れを取り戻し、整えられる…あの人形ですが。
2019/7/24(水) 午前 9:03 [ shalom ] 返信する
 
おはやし役のような、同じ成りすましが疑われている シャロームshalom がコメントを入れてきました。やじろべえ、に喩えていますが、シャロームと楽山の精神・思想の支点は、今まで、自我であり、揺れるという活性もなく、すべて、でっち上げの大嘘です。
 
シャロームに対しては、批判すれば、いっさい答えられず、弁明できず、逃げてゆきます。仲間だけで褒め合うだけの、世辞同好会から生まれる、ニコニコではなく、ヘラヘラには、長期にわたる批判を、楽山以前に、約10年ほど書きました。そして、この二人は、仲間ぼめをする間柄です。
 
シャロームの言の、吐き気を催すような、胡散臭さ、ウソ臭さ、芝居がかって、わざとらしく白々しい、排せつ物のような、手ごたえのまるでない、人間の卑しいところを抽出して散らしたような、尿便よりも、酷い刺激臭を経験しています。楽山と、キャラは違っても、そこは共通しています。
 
怖いことに、囚われてしまうと麻痺するみたいで、同じような生き物になる人がいるのです。そこが、楽山やシャロームの付け目なのです。批判する気のない人は、一刻も早く退散して、この2人から離れるしかないと思います。
 
似たような病質者は、楽山やシャローム以外にもいると思いますから、どこかの誰かの別のHNの記事にも、私が今まで書いてきたような特徴が見られたら、付き合わないようにしてください。
 
 
嘘臭さの仲間

嘘臭さの仲間
 
 
(2019年)
(2021年)
(2022年08月06日、再録+加筆)
 
 
 
  上手なサービス
 
原稿を上手に読む女性の声が
芸術作品を説明している
 
骨を上手に覆い隠す
肉の遺伝子を持っていると
イドラになれる
 
この部屋には誰もいないが
名前が上手に住んでいる箱がある
たとえば
すり替えられた名前は世渡りが上手だ
流れ弾が少年の叫びを上手に止めた
刃物が少女の日常を街角に赤く流した
上手に上手に
もっと上手に
坊主が上手に不毛を捏(こ)ねて
誰にも悟られないイコンを作った
 
リップサービスは上手にフリーで
幸福な未来を捏(でっ)ち上げた
 
サービスできない未熟なリップは
未だ上手も下手も知らないが
サービスと奉仕に
反比例の臭(にお)いを嗅ぎ始めている
 
 
  蛇と蛭と鼠の人
 
誰しも蛇の腸管や
蛭(ヒル)の下垂体と鼠(ネズミ)の甲状腺
ぐらいは飼っているものである
 
強い蛇を飼っていれば
いつも毒を吐いているので分かりやすい
しかし多くは鼠が摂食の抑制を掛け
さらに蛭が吸血の抑制を掛けるので
面と向かっては毒を控え
蛭が丸くなり鼠が蠢(うごめ)き出すとき
本人がいなくなったところで
活性化した蛇の舌をぺろりと出して
さりげなく口臭のような毒を吐き
人の印象を吹き込む
 
意識的か無意識にか
思わず或(あ)る時か
という罪の軽重は
人には測り難(がた)い
 
奸計(かんけい)と小細工を弄(ろう)して世渡りをするような
最も凶悪なホルモン性の動物は
その測り難さを利用する
 
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
こうしてみると、棒氏は、
客観的な話は聞き流し、
主観的な話を好んでることがよく分かるなあ。
霊だの、悟りだの主観的な話は、
「私は分かってるが、アンチは分かってない」
と言い張り、マウントとれるからね。
引用ツイート
すいふと@邪教よ退け
@swift2012antihs
 · 8月3日
なんか構って欲しくて仕方ないみたいよ。
午後8:02 · 2022年8月4日·Twitter Web App
 
楽山は、自分の判断だけで、人の話を受け取って考えることをしません。レスしているように見えても、実は、自分の中で完結しており、自分勝手な主観だけで書いています。聞き流すか、自分の勝手な言い分に結びつけてゆきます。楽山は、陰湿に、人を、舐めて、笑って、公共の精神衛生を害します。
 
 
 楽山の成りすましを疑っているツイッターですが
 
taka
@taka84156681
·6時間
正義感が強すぎるは、正義で人を抹殺するのが普通だからな
勧善懲悪の悪い面が出てしまっている
マンガ(省略)の中のセリフ
「人の本性は手にした正義の使い方で分かる」
 」
午後8:41 · 2021年7月27日·Twitter for Android
 
正義感が強すぎることがあるのでしょうか。正義で人を抹殺するのが普通でしょうか。勧善懲悪に悪い面があるのでしょうか。楽山という嘘吐きの偽善者を守る者がいると思っているのでしょうか。正義だけでなく、良心の総てを裏切っているのは、楽山です。2年余りの批判記事が証拠です。
 
楽山は、手にした正義?で、嘘を吐き、詭弁によって、人を、自らの自己愛から、嘘をまことに見せかけて、だまして満悦する生き方です。つまり、言い換えれば、何の正義も手にしていないということであり、いつも、自己正当化のために、臭い芝居をしてきます。
 
マンガの、本性と正義というテーマによって、斬られているのは、まさに、楽山自身なのです。楽山は、自己愛性人格障害(パーソナリティ障害)NPDが本性であるために、今までも、今回も、自分の恐ろしい内面に気づかないまま、自分の滅びを自分で表し、ますます、滅びの道を進んでいます。
 
前に書きましたが、楽山とシャロームが在日なら、この二人、日本に嫌韓を増やすことになるでしょう。それが目的かどうか知りませんが、到底、人間として理解できるものではなく、人間のすることではないのです。正義が大嫌いなので、まともそうな言葉に見せる詭弁で、人をけがします。
 
 
 
楽山の害毒メモ:
今までに表れてきたこと。これは、楽山に限らず、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、世に数多いる偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
笑いと怒りしかなく、反省と共感がない。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。相手が疲れるのを見て快感を得る。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。サイコパスと思われる。
アドラー心理学の宣伝をしていた。自己中心である。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わない、できないし、する気がない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取りなど。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
批判対象となるのは、楽山の、言葉の間違いではなく、言葉の背後にあるメンタリティ(精神構造)です。そこに、だまそうとする悪意があり、そこから、言葉に対する気安さや乱暴さとして、また、言葉の選択や使い方の不備として、邪悪な感情背景として、文脈に、また、思想に表れてきます。
 
楽山は、無反省と指摘されると、「反省。とほほ」と書いたり、悲しみの情緒と、罪悪感がないので、同調するような見かけの文章を書いたりします。その浅さと、不自然さから、芝居だと分かるのですが、そういう生き方から正直さに戻る道も、反省しない生き方のために学習できないのかもしれません。
 
 
 
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  楽山の零の話2
 
 宗教のはじまりは、神の啓示ではなく、人々の営みによる!?
 (『信じない人のためのイエスと福音書ガイド』中村圭志著)
 2021年07月29日 楽山日記(LD)
   を改めて批判。
 
 
楽山の精神障害は、病的な体質なので、医者にも、宗教家にも、治せません。かつ、このような自己満に生きている者は、書くことをやめません。書けば書くほど、批判の対象として資料となります。不変・停滞したままの楽山のほうが、ボロボロになってゆくことに、まるで気づかないからです。
 
楽山は、"霊"の話をしたつもりでしょうが、空想と思い込みに過ぎず、中身がゼロなので、"零"の話というテーマにしています。楽山が、情けないほど人間について、特に自分について、無理解なのは、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)によるものだと思います。
 
 
*宗教のはじまり
巷では、「神が人をつくったのではない。人が神をつくったのだ」という話があるが、中村圭志氏の著作にもそれと似た考え方が書いてあった。
そもそも、一つの思潮が生まれてやがて大きな伝統へと育っていくプロセスのすべてを、その最初にある起源の一点、一人の偉大な開祖の「無から有を生み出す」ような奇跡的なチカラワザの功績に帰すことはできないでしょう。いかなる思想的潮流の立ち上げも、英雄一人の独創性だけで出来るようなものではありません。
(『信じない人のためのイエスと福音書ガイド』中村圭志著、みすず書房、2010年、p.36)
 
「人が神をつくったのだ」と言う無神論の記事を楽山は、同じ狙いで引用しているようです。人は神を作ることは出来ない。しかし、人が、神のような存在を想うことはあります。あまりに悲劇が多い地上だからです。そういう魂の癒しに、まるで感受性のない者たちが、神の不在を説いてくるのです。
 
「思潮が生まれてやがて大きな伝統へと育っていくプロセスのすべて」の起源について、すべて知っている人はいません。楽山と、引用されている学者らしい人は、とても、いい加減なことを言っています。長期にわたるプロセスの、その起源だけを否定したいようですが、遠すぎることです。
 
「開祖の「無から有を生み出す」ような奇跡的なチカラワザ」の開祖とは、キリストのことを言っているのでしょうか。キリストは、奇跡のチカラワザだけだったでしょうか。違います。この二人は、いちばん大切な、キリストの洞察と共感のことを書いていません。本質を理解していないのです。
 
「英雄一人の独創性だけで出来るようなものではありません」・・英雄とか独創性とかではなく、人間が生きるために、なくてはならないことを、数々の抵抗と嘲笑に遭いながら、命を賭して語ったのが、イエス・キリストであります。二人の無神論者には、なくてはならない共感する心が、ないのです。
 
どうも、この学者は、キリスト者ではないようです。反キリストかもしれません。あるいは、楽山の恣意的な選択による引用でしょうか。旧約があり、キリストが宣べ伝え、後の、信仰者や学者が、解釈や体験談を積み上げてきたわけです。キリスト信仰の心を語れない楽山は知る由もありません。
 
キリスト者が一枚岩ではないとしても、いちばん大事な信仰の心を疎かにしている学者や、何にも分かっていない楽山が、否定できることではありません。キリストの敵というのは、パリサイ人のように、命と心を救う術を持たない者たちです。楽山は、その典型的な精神病質者です。
 
 
思想や習慣に一個の中心があると捉えるのは、あくまでも当事者にとっての「心の要請」であって、「客観的事実」ではありません。歴史上の起源の一点として開祖物語の事実性を想定しなければならない論理的な必然性はないのです。私たちは、当事者の心の問題は公共的な知識にはならない、と肝に命じておく必要があるでしょう。
(同上、p.37)
 」
 
信仰は、客観的事実ではありません。心の要請に応えるのが信仰であります。この学者は、楽山と同様の反キリストだと思います。「当事者の心の問題は公共的な知識にはならない」と言っていますが、個人の心を救う信仰は、元々公共的な知識ではありません。
 
開祖物語の事実性は、キリストの、人の心への共感性に比べると、人間にとって、おおよそ、分かち合うことのできない神のわざについては保留するべきだと言っているのです。学者か何か知らないが、信仰の本質をすり替えるところは、楽山に、よく似ています。
 
 
これは確かにその通りだ。新しい宗教は、特別な能力を持つ一人の天才的な宗教家が悟りを開いただとか、神の啓示を受けたなどと称してはじめるものだという印象があるが、宗教の歴史を調べれば調べるほどそれはあくまで印象にすぎず、実際は著者の言う通りだと認めざるを得なくなるものだ。
 
いつもの太鼓持ち楽山のセリフ「確かにその通りだ」と言って、学者を理解したような顔をしているらしい楽山は、"ひょっとこ"顔に過ぎません。キリストの特別な能力のうち、人に理解可能なのは、人に対する洞察力と共感力です。いずれも楽山には全くないものです。
 
楽山は、歴史の事実性にこだわり、心の救済を、どんどん遠ざける者です。物や肉体の奇跡は、現代では滅多に起こっていないのだから、それを信じ込むことは、人を生かす信仰ではありません。しかし、終生の同伴者の共感は、人を生かします。それを、楽山は語ったことがないのです。
 
共感ということが、言葉だけ書いても、楽山には分からないのです。共感、同情、罪悪感、羞恥心などの高等感情が、楽山にはないのだろうと思います。だから、事実や史実や辻褄にこだわり、そこで、総てを語ろうとするのですが、大事なことについて、全くの無知の無恥であります。
 
 
どんなに革命的で新奇に感じられる宗教、思想であっても、それ以前の歴史文化伝統などの影響を受けて生まれたものばかりで、それらと非連続なものは見当たらない。この意味で、「神が人をつくったのではない。人が神をつくったのだ」というのは冗談のようでありながらも言い得て妙である。
 
「歴史文化伝統などの影響を受けて生まれたものばかりで、それらと非連続なものは見当たらない」・・だからといって、独創的な考えをもって扉を開ける者がいなくては成り立ちません。それが救いとなった人々が古今にいるわけですから、救い主と言われているのです。
 
聖書を読んでも、話を聞いても、楽山が、救いにつながるものを何も見出せないのは、共感性を育て損なっているからでしょう。なのに、知ったかぶりして、洞察力も共感力もないのに、科学と同じような方法論みたいなことを口走る愚かさで邪魔だけしてくる楽山は、とても迷惑です。
 
信仰においては、文化的影響や、学問的発達もまた、神の導きという視点を持っていて、それが、神を恐れることにつながります。そういったことを、全く考える能力も視野もないのが、楽山であり、ゆえに、屁・理屈屋は、屁・理屈学者の言を利用して、その通りだと、はやし立てるのです。
 
神が人を造るのを見た者はいません。神が人を造るのは、その人生においてであり、どこがそうだと言えないような神の秘密、これこそが神秘なのです。そういう恐れへの感受性を全く持たない自己愛性パーソナリティ障害NPDの楽山は、ゆえに、反キリストになっているのでしょう。
 
楽山は、好きなだけ、信仰者の心の秘密のエリアを、傷つけ、侮辱してきます。それが快感で、生き甲斐なのだろうと思います。宗教の堕落による弊害に隠されている、かけがえのない福音を、知っている者は知っていて、それなしでは生きられないのに、魂の殺人を企む無神教カルトがいるのです。
 
 
*宗教は人から生まれたものなのか?
とはいえ、スピリチュアルな方面からは、「新たな思想宗教は、この世を超えた世界の存在を信じない唯物論者には人々の営みの中から生まれたように見えるかも知れないが、実際には人々の霊性を向上させようとする神の計画に基づき地上に展開されているのである。世界宗教の開祖などはそのような使命を担って生まれた存在なのである」云々という反論があるかもしれぬ。
 
インチキだけの楽山がスピリチュアルを語るのでしょうか。霊性を向上させるという言い方は、スピリチュアルの宣伝でしょうか。聖書を学んで人間として成長するのが、信仰であります。"霊" という言葉は、恐らく、楽山が、気取るために悪用した最初の材料なのでしょう。
 
 
これはこれでスピリチュアルな世界観の内側ではそれなりに筋が通っているようにも思われる。けれどもこの考え方の背景にあるのは「人の本質は霊であり、輪廻転生をくり返してさまざまな経験を積み、霊性を向上させることを目指している」という霊性進化論であり、これはダーウィンの進化論の影響を受けて生まれた思想であるという見方があるのだ。
 
私はキリスト者のつもりですが、霊性進化論などという超常の論理については、聞いたことがないし、むしろ、霊に興味があるのは、教祖願望の楽山のほうでしょう。しかし、楽山の教えには、いちゃもんはあっても、救いにつながる何ものも見い出すことは出来ないのです。
 
霊から、超常の輪廻転生に、話が行くのでしょうか。さらに、「霊性進化論」という言葉さえも利用して、学問だという箔を付けて、さらに、ダーウィンの進化論まで結びつけるに至っては、食傷というか食中毒とでも言うべきでしょう。ゆえに、楽山は、ネットにブログに吐いているのです。
 
このように、楽山は、学問や学者を引用~悪用して、実質がないのに、言葉の面構えを作ります。これを、知性であるかのように受け取ってしまうと、実は、楽山の、欺瞞に満ちた架空の、霊が分かるっぽい幼児体験から、右翼思想にまで、誘導されてしまうという悲劇が待っているのです。
 
不思議なことですが、神の超常奇跡を否定する楽山は、自らの、仏様の気持ちが分かるっぽい?ということに始まるところの霊を信じているのです。唯物的なことを言えば言うほど、ほころんでゆく宿命を持っていますから、今後も壊れてゆく楽山を相手にしてはいけないと思います。
 
 
もしこの見方に真実があるなら上の考え方は一人の天才が悟りを得るなり神の啓示を受けるなりして突然に言い始めたのではなくて、先行する思想宗教等の影響下において生まれたものであり、新たな思想宗教は人々の営みの中から生まれるという見方の正しさをますます補強するものでしかなくなるだろう。
 
「新たな思想宗教」は、人間において、一挙に完成されるものではなく、数多の先人の真摯な努力と実践の中で、一人の優れた洞察によって開かれるのでしょう。そこに働く神の秘密の導きを、恐れもなく否定する楽山には、恐らく、別の近道、つまり、暗闇へと滑り落ちる勾配への引導が渡されるでしょう。
 
「人々の営み」という曖昧な表現が使えるところではないのです。さらに、この「人々」の中に、決定的に、楽山は含まれません。楽山は、人の営みを妨害する作用しか持っていないからです。ゆえに、楽山の味方も、何をも補強せず、ただただ、堕落が堕落を呼んでいるだけです。
 
 
こうしてみるとどうやら現時点においては、宗教というものは、地上の人々の間から生まれたものだとは言えても、地上の人々の手には届かないこの世を超えた世界で生まれたものであるとは言い難いものだと言わざるを得ないように思う。
 
このように、詭弁を進めて、何の説得力もないのに、説得したつもりになって、"現時点においては"、という免罪符まで付けて、超常の神も、地上に降りたキリストも、無視して、自身の悪魔性の霊だけは分かるっぽくない楽山の性根が、臭気を放ってきます。
 
「言わざるを得ないように思う」・・無責任の楽山の婉曲ボンヤリ言語も、どんどん退化してゆくのは、こちらが、楽山の文章から楽山の偽善を知り、信頼度がゼロになり、なおも書いてくる楽山の、根底にある病魔に気づくに至っているからです。楽山に近寄ってはいけません。
 
 
きなくさい霊障

きなくさい霊障
 
 
(2021年)
(2022年08月05日、再録+加筆)
 
 
 
 昔書いた聖霊の話
 
聖霊体験なるものを
重視するのが主流らしいが
聖霊と友だちのように
直接交わる体験の話に
抵抗を覚えてしまう
 
父・子・御霊(みたま)という神格
即ち神様とキリストと聖霊のうち
人格となって語られ
人間の永遠の友でありうるのは
イエス・キリストだけではないのか
キリスト教はいつから
聖霊教になったのか
キリストはいつから教義上の
贖罪仲介者になってしまったのか
 
聖三位は恐れ多い御方であり
神の導きや聖霊の働きは
聖なる領域からの
秘められた賜物(たまもの)であり
もっと心に恐れを
口に慎(つつし)みを
持ちたいと思うのだが…
 
キリストの神格について
わかっているわけではないし
これも独り善がりの独り納得の
信仰観に過ぎないのだろうか
 
嘆息よ
レスポンスのない
置き去りにした課題
何ひとつ解決していない
 
 
  対話
 
光が街中で叫んでいたのに
二人腰掛けて
向かい合って話していた
一人は一人の後ろの人を
もう一人はまた別の人を
二人が話していたという場面
それは対話
光も記憶もそれ以外を写さなかった
光が街中で叫んでいるのに
あれから数々の対話
人とだったか
幽霊だったか
幻だったか
夢だったか
話す方も答える方も
数さえわからない
対話?
今も光が街中で叫んでいる
 
 
  誰の死
 
一つの死を前にすべての言葉は無力だ
茶色のうねりだったような道の中に突っ立っている
夕暮れの青ざめた人々
夕焼けさえ悪意の色で迫るかのように
焼かれる炎は
さらに焼かれる
誰のものなのか
いきなり破裂する
色も光も音も
皆ばらばらの吐物のようだ
誰のものなのか
鈍く包んでいく闇では終わらない
幽霊でもなく
幻でもなく
朝よりも静かな熱をもって
墓標よりも先に
冷ややかに立ち上がる
誰のものなのか
一つの無力の前にすべての言葉は命だ
 
 
  求めよ
 
求めよ、さらば与えられん
・・・・・
あまりにも有名な聖書の言葉
しかしいったい何が与えられるのであろうか
言うまでもないことだが、求めればいつでも
欲しいものが与えられることではないわけで
むしろ苦難の時の霊的な賜物というべきか
勇気や安らぎに似たものか
こころゆくまで苦悩を表現したときに感じる
昇華作用のようなものがあるかもしれない
精神的効用と言ってしまえばそれまでだし
表現する相手によっては損をしたような気色にもなる
しかし相手が神様となると事情は違うだろう
はかない独り言のように思えても
限りない包容といつくしみを
忘れかけている者にとって
祈り求めることは違った働きを持つ
 
無限といっても有限といっても
奇跡といっても気休めといっても
霊的といっても心理的といっても
心の底の底、奥の奥まで
人にわかるはずもなく
またそこまで理解する必要もない
祈り求めることは
生きた働きをもって返されれば充分である
 
偽りのない
正直な祈りは
告白を伴って受けとめられ
信仰がまさに絶えんとするきわに
神と人との契約
基督と個人とのきずなによって約束された
閉じた目のぬくもりを身近に目覚めさせるであろう
 
 
  朝までの群れ
 
懸濁液のコロニーから
生えてくる社会ひとつひとつは
整然として燃焼を収めてゆく
炉に投げ込まれる人の形の
氷の造形も黄昏て
その節々に時を刻み
離れ離れの役者の帝国に
歌姫を連れてきて笑わせる
けばけばしい提灯の夜
イオンの息子たちは集まって
はみ出したやつが道になる
 
放り込むのか夜明けの虫
安いライターを燃やすのか
そこここに蝉の亡霊が鳴き
病人のベッドを濡らし
小火(ぼや)に逃げ遅れて肉片は踊り
間違って太陽がひょっこり顔を出す
危ないぞパイプと鎖
すでに火だるまのバクテリア
ブローバックの煙
路上に転がる金属音
連続した紙幣と貨幣
たちまち飛び散って
レスキューの箱に収まりきれず
遠くの信号が点滅して
踏切で眠りにつく子守歌
 
細く丸く輪になって焼いて・・・
朝の短い把手(ノブ)を擦り抜けて
割れたフラスコを絡ませた頭の
ありふれた生前の手によって
寝起きの試験管から
コロニーはシャーレに移される
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
楽山には、良心による反省力などの、人間性が育っていません。だから、反省も後悔もしない、責任を負わない、他者の言うことを受け取って考えることが出来ない、という修正不能の故障を来たして、自覚のない無病識のまま慢心して、しゃしゃり出てくる厚顔無恥となっています。
 
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
「光の天使は、みな詩人である」という言葉は、何の本に書かれてあったのか失念していたが、ここにあったか…。
どうやら、若干の記憶の変換もおきていたようだ。
この言葉を念頭におきつつ、愛のあとさき、格はいく集を読むと感慨深いものがあるなあ。
「(引用)
ryuho-okawa.org
天使たちが人々を導く方法
言葉というのは非常に大きな力を持っているわけです。 そして、言葉というのが、言葉および言葉に備わっているところの霊力というのが、天使たちが人々を導くときの最大の方法論の一つであります。これが、宗教家がみな詩人であることの事実そのものであります。
 」
午後7:42 · 2022年8月4日·Twitter Web App
 
HS教祖ORの引用で「天使」「霊力」というのが方法論で「宗教家がみな詩人であることの事実」で、楽山は「感慨深い」と言っています。アンチではないことの証明です。我もかくありたい・・とでも言いたいのでしょうか。楽山の、嘘と詭弁と猿芝居で惑わしたい教祖願望でしょう。
 
 
 
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  楽山の幼稚3
 
 『モラル・アニマル(上)』ロバート・ライト著
 2020年07月11日 楽山日記(LD)
  を改めて批判。
 
 
(ネットより)
モラルハラスメント:
モラル(良識とされる道徳や倫理)によって行われるハラスメント(嫌がらせ)。 俗語としてモラハラと略すこともある。
(ウィキペディア)
 
過去の楽山の記事ですが、改めて批判します。楽山は、いかんなく、自覚のないモンスターぶりを見せています。モラルハラスメント・アニマル楽山といっても過言ではない。楽山は、自己中からの判断だけで、都合の悪い人を無視し、理解もできないまま宗教をおとしめる人です。
 
楽山の論理めいた詭弁は、扉を、その外見だけから、開けないままで、行く先は空しいと言うのに似ています。扉を開けて中に入るのが面倒で、机上で、中の部屋を、決めつけて満足しています。一切の労苦をしないで、真理を得たと思いたいだけの幼稚さです。
 
 
本書では主に進化心理学の立場から男と女の心理について考察しているが、あっと驚かされる話が沢山披露されていて面白い。たとえば誤解を恐れずに大雑把な言い方をすれば、一夫多妻は女性に有利で、離婚は男性に有利だとか、結婚相手に求めることは男と女とではどのような違いがあるかなどだ。こういう話は実に面白い。
 
楽山にとって面白い話は、楽山の我欲に都合のいい話で、楽山は、あっと驚いても、それに相応しい感受性など持っておらず、都合がいいという思いだけだと思います。あっと驚く=面白い、という判断こそ、背伸びした楽山の興味本位の宗教話に過ぎないことを示しているのです。
 
楽山は、「あっと驚かされる」のだそうです。しかし、このような楽山の発言に、全く信頼性がないことが3年余りの批判によって明らかになってきたのです。あっと驚く楽山ですが、驚きを表す単純な言葉しか思いつかないようです。「実に面白い」も、表現の乏しさを表すだけです。
 
楽山が、あっと驚くことは、小学生なら、驚くかもしれないが、中学生なら、あまり驚かず、高校生なら、舌打ちをするようなことでした。自己満悦しかない者というのは、本当に困りものです。しかも、訂正不能に繰り返すだけで、学習と成長がないのです。
 
楽山が言っていることを信頼しないでください。男女のことは、単純に割り切ることは出来ない、という当たり前のことが、楽山の頭にも心にも入っておらず、実に、安易に、自己満で、分かったとか、驚いたとか、面白いとかいうのが、楽山の嘘っぱちの特徴なのです。
 
 
ただ著者の語る人間観については、人によって合う、合わないははっきりわかれることになりそうだ。たとえばまず著者は、人の心について次のように規定している。
 
人によって合う合わないがあるのに、なぜ、上では、男女の話を実に面白いと肯定するのでしょうか。主張の一貫性がなく、ばらばらなのも、楽山の特徴です。つまり、楽山には、一定の主張というものはないのです。その時その場で、適当に言葉の字面を並べて楽しんでいるだけなのです。
 
 
利他主義、同情、共感、良心、公平などの感覚は、すべて遺伝子を基に生じている。
(『モラル・アニマル(上)』ロバート・ライト著、竹内久美子監訳、小川敏子訳、講談社、1995年、p.33)
 
遺伝子を基にしていることを知っても、予測など付かない、ということを、楽山は、考えることが出来ない人です。遺伝子がどうなって精神がどうなる・・という具体的なことは、分かってはいないのに、それで、次のようなことを言うのです。
 
 
おそらくは、人の精神について他の生物とはまったくの別物とし、なんらかの崇高な存在に由来すると考える人にとっては、このような人間観は承服し難いものだろうと思う。
 
崇高な存在に由来するとは、人間を無条件に高めるのではなく、神と信仰のことですが、また、楽山は、反キリストらしく嫌がらせの当てつけをしています。こういうことを言って、自分は真理を知っていると思い込んで満悦するのが、哀れな楽山であり、崇高とは逆の存在の有り様を見せ続けているのです。
 
ゆえに、承服しがたい対象は楽山であり、小学生レベルの夢物語で現実を語ったつもりになる人なので、くれぐれも、真に受けないでください。楽山は、弁明も反論も出来ない無理な人です。多くの人の中に少数いるところの相手にしてはいけない人が、楽山です。
 
遺伝子の存在と、学校で習った機能を、否定するのが宗教ではありません。そういう科学で表されたものだけで説明できないのが、心です。楽山は、心が無いので、心を抜きにしたところに居たいのでしょう。そこで、何も分かっていないのに、本を読んだからと自慢したいのでしょう。
 
そこで、止まってしまうから、誰とも共感を持ち得ないのですが、無反省で訂正不能の楽山は、そのことを無視して、学習も成長もなしに、自身の鈍い停滞を神?として、自分は、他者と違って、崇高だと思い込んで、他者を軽く見て、自己満足しているのです。
 
間違っても、楽山の、低レベル、停滞、精神の鈍化、自己満足と満悦、他者の軽視、などと、同様になってはいけません。それこそが、人格破壊による、人間の、あらゆる機能の鈍麻から、コントロールが効かなった姿です。だから、いつまでも、恥知らずに、これ見よがしに書いてくるのです。
 
 
また著者は、人の自由意思についてはこう書いている。
遺伝子とは、無意識のうちに私たちを動かすものなのだと頭に入れておいて欲しい。そうすれば、セックスだけに限らずさまざまな領域で、自分たちは操り人形だということがわかってくる。かろうじて手にすることのできるわずかな自由といえば、人形遣いの論理を解読することだ。
(同上、p.65)
 
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の楽山は、このことで満悦し、賛同しているのでしょうか。だとすれば、呆れます。楽山の体質的異常の、自己中からの分かっている妄想の不治の弊害に、誰も巻き込まれないようにしてください。
 
操り人形だと分かることも、操り人形ではなく自由意志だと思うことも、操られているだけの必然であるならば、結局、操り人形であるかどうかを考えること自体が無意味だという理路が、楽山には、分からないのです。だから、盛んに、神に文句を言い、神を否定してきました。
 
人間は操り人形だから、自分が詭弁と嘘で操ってみせるとでも企んでいるのでしょうか。またしても、いつものように、自らの辻褄に、短絡して、酔い痴れて、のぼせて、自らの論理といっても、実際は、思いつきに、妄想に、満悦する楽山です。酷いインチキの詭弁です。
 
このような、何も良いものをもたらさない空論は、楽山の好むところではあります。意味の帰結を考えず、とにかく、結論を出して決めつけることだけが、楽山の快感なのでしょう。それで、悟ったような気持ちになるのでしょう。救いがたい浅はかさです。
 
恐らく、楽山は、生きることに何の望みも見い出せないのでしょう。だから、毎度毎度、気持ちの悪い詭弁の言説をもって、信仰を卑しめるサディストになっています。楽山は、人を、絶望と怠惰と疲労へと誘導する煽動者です。シャロームや易坊、そして賛同者まで、類が激しく類を呼んでいます。
 
今回の楽山の主張は、操り人形という詭弁を語って、絶望を広め、絶望仲間へと誘いたがっているのです。楽山の言を読んでも、真実と希望の欠片も受け取ることはない、つまり、全くの無意味発言と無責任が飛び交う世界に住んでいる楽山だということを知ってほしいと思います。
 
 
これはドーキンスの『利己的な遺伝子』で語られている人間観と同一のものだろう。
いくら個体レベルでは利他的に見えたとしても、遺伝子は一貫して利己主義を貫いている。
(同上、p.240)
 
遺伝子に、感情はありませんが、利己という主義があるのでしょうか。遺伝子を見ることも測ることも出来ない楽山が言っています。比喩表現であることは分かっているのかな・・とさえ思います。ただ、やたら遺伝子の悪口を言いたいのでしょうか。自らの誕生を呪っているのでしょうか。
 
喩えであってもなくても、遺伝子の利己主義が、人間の利己主義につながるわけではないのは、次元が違うのだし、かつ、遺伝子をモニターも出来ないのだから、常識があれば、当然のこととして、分かるはずなのです。楽山のような自己中が、言葉の表面をなぞって悪用しているだけなのです。
 
しかし、利己主義の自己中の楽山は、利己主義という言葉だけで、自らの自己正当化が成ったかのように、大発見?であるかのように、驚くべき理解?だと思い込んで、酔い痴れて、"残念だが、これが真実だよ" と言わんばかりに、書いてくるのです。
 
真実への、真っ当な追求が出来なくなった楽山は、殆ど、学者からの文字列を運んでいるだけのピエロです。それで見栄を張って、付き合う人をおとしめ、本を理解できず、心を思いやることもできないまま、ガラガラ音やガチャガチャ音を立てる陶器の破片のようです。
 
 
これも上と同じ人間観だ。
 
操り人形のどこが人間観なのでしょう。見たことも分かったこともない遺伝子なのに、遺伝子に規定されているというだけで、楽山は、総ての結論を得たかのような気分になるのでしょうか。ここにも、自己中のもたらす害毒が表されています。
 
その結果、虚無に陥り、努力を怠り、何も実のあることを学習できなくなって、都合の良い文言だけを、本の中から漁って投げてくる楽山の惨劇であります。楽山の言は、洞察も深みもなく、殆ど我欲からの、原始的な反応系です。
 
 
先に述べた通り、こういう考え方には人によって合う合わないはあるだろうが、自分はこれをユニークかつリアルに感じるタイプではある。これが進化心理学というものであるなら、もっと知りたいとも思う。
 
合う合わないではなく、楽山は、理路が全く分かっていません。ユニークかつリアルではなく、未熟かつ幼稚なのです。分かっている自分という慢心があると、こうなってしまうという例です。その後の学習を怠ってきた楽山の、これまでと、これからの、経過は、恐らく、とても悲惨です。
 
 
人間の心…たとえば「利他主義、同情、共感、良心、公平」、信仰、愛情、希望、うそ、エゴ、怨恨、懐疑など、崇高または下劣なあらゆる心理を、超自然的な何かを持ち出すことなく、進化論で説明できるとしたら、実に面白く、興味はつきない。
 
人間の精神を進化論で説明するという虚妄を語る楽山です。楽山は、「興味は尽きない」と書いていますが、それは、真実の興味ではなく、自己満悦欲求からの妄想に過ぎません。自己愛性に凝り固まると、このような人格になって、あらゆる間違いが噴き出してきます。
 
人間の心理を、進化論で説明することは出来ません。個別と全体、人間と人体、という、追究のワールドが全く異なります。それに、心の問題は、"論" で尽くすことは出来ません。楽山は、それも分からないのです。楽山の異常性の病理は、増幅して、人格の退化を進めるだけなのです。
 
楽山が欲しているのは、自分は偉いんだという満悦だけですから、そのうち、今度は、現実の市井(しせい)で、悟り?を語り始めるかもしれません。だまされた人々と、自己中のお仲間も、巻き添えになるのでしょうか。そうなれば、カルトだと、はっきり分かりやすくはなるでしょう。
 
精神病院に収容されるでしょうか、恐らく、否です。人格障害は、医療や薬では治らないので、扱わないでしょう。犯罪行為に及ぶまで、野放しになる可能性が大です。その犯罪行為は、恐らく、ペテンから詐欺、そして、とんでもカルトの教祖の排尿に至るでしょう。
 
楽山の人格の低格化は、凄まじいものがあると思います。それとともに、罪悪感も羞恥心もなくなり、今後、さらに、誇大妄想を、実際は、絶望への妄想を、むやみに押し出してくることが予想されます。決して楽山に関わってはいけません。
 
楽山については、関わらないことと、批判することと、情報を敷衍(ふえん)すること以外に、出来ることはないです。批判は、批判する気になった人がします。楽山は、情緒も理性も、まともではない危険人物です。どうか、近づかないでください。
 
 
※ 
 
楽山の言の、語尾を「と言えなくもない」「否定できない」「かなあ」などは、語尾を濁しているから断定していないつもりのようで、それで、楽山がやってきたのは、多くのことを曖昧なボンヤリ言語でごまかして、責任を負わない態度でした。しかし訂正不能であれば明らかに断定なのです。
 
しかし、断定して、訂正不能でありながら、楽山は、責任だけ負わないのです。何だか、とても、イージーな言論を、楽山は、味わっているつもりなのですが、全く成り立ちません。自己愛者が考える論理というのは、大方、そのようなものに堕しています。論理構築過程が、既に詭弁です。
 
何故なら、通常、人間は、何を言っても、何をぼかしても、書いても、総ての語尾には「と思う」が付いているようなものだからです。それが、楽山には分からないので、ボンヤリ言語でごまかせると思うのでしょう。いったい、どういう論理を学んできたのでしょう。言葉の遊びごとでしかありません。
 
神を否定しておきながら、ある教会を褒めたり、祈り芝居の詩のような?ものを書いたり、否定も肯定もしていないから、責任問題は発生しないと、言っていたことも、言論の論理が分かっていない証拠です。否定と肯定、両方とも、それぞれ、その都度、責任は発生します。
 
このように、楽山には、何か発言するたびに、無責任な詭弁の必然があり、元の言論の責任+詭弁の責任が、大きな問題、というより、大きな作為の欺瞞として発生してきます。治らないでしょうから、議論においても、論者の精神衛生上も、楽山を相手にしてはいけないのです。
 
断定していないと言い張りましたが、語尾を曖昧にすれば断定していないことになるなら、楽山には、すべての議論は結論が出ず、楽山の言論は不能という循環になります。責任を負いたくないものだから、曖昧で柔和を装う楽山の企みは、害毒だけで、本質的に無意味です。
 
 
嘘吐きの有頂天

嘘吐きの有頂天
 
 
(2020年)
(2021年)
(2022年08月04日、再録+加筆)
 
 
 
 イメージ断片
 
緑の向こうに
濃い緑
その向こうに
また緑
その向こうに
バキッ
耳に残る
急ぐ足の下に枯れ枝が
たまたま折れやすくあっただけなのだが
 
走るオートバイの上から
葉を残した
落葉樹を見つけるのに時間がかかった
寒さはすでに
秋から冬を教えているのに
秋には秋を
なぜ探す
 
枕木の上に横たわる
霧を轢(ひ)き轢き
列車は自らを牽引する
遠く向こうの霧の中へ
後戻りできない水滴を乗せて
 
 
  ウソの国
 
男は登っていく
深夜の階段を
息せき切って走っていく
走らねばならないのだ
走らねばならない
遅れてはならない
遅れてはならない
 
遅れた
男は人前に連れ出され
何人もの男から
したたか腹を殴られたが
痛みはなかった
 
夕暮れの街を歩いていく
人々は夕闇と過去に追われながら
すでに死んだ油の眼で
われにもない毒の顔をさらして
ネオンの間から間へ
苦しい巡礼を始める
あぁ この七色の 肉色の
光のおりが天国とは
拳を握りしめて
「何もない」
「何もない」と
壁に向かって叫び続ける男
誰もいない街角に向かって
手を振り続ける女
眼を振り続ける人々
通り過ぎる車が
水たまりをはねて
尻が濡れた
時が引き裂かれた
青春と人情の墓場から抜け出し
人通りの少ない路地で
恋人に声をかける
お茶でも?
あいされたいわ たれからも
 
吐物をまき散らしながら
男は逃げる
転びそうになりながら
 
幾分か小高い丘に
塀のある幼稚園があった
数人の子供が砂場で遊んでいる
ジャングルジムがある
子供たちが登れるようになると
外が見えるようになるわけだ
 
男は登ってみる
もう吐き気はしない
尻のあたりの濡れた感触もない
男はようやく安んじて眺めている
人っ子一人いない街の風景を
 
あたりはもうすっかり明るい
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山
@komo266
自覚がないから、神を自称し、人にああしろこうしろと説教できるのかもしれないですね。
自分を棚の上において、人にああだこうだ言うことにかけては、大川さんに勝てる人はいないでしょう(笑)
午後7:44 · 2021年7月22日·Twitter Web App
 
また、他者のことを「(笑)」っています。自分が、いちばん、醜いことに気づかないのです。楽山の言ってることが当てはまる悪は、楽山に他なりません。詭弁と嘘による誘導、乗らない人は無視する、自分を棚に上げて、「人にああだこうだ言う」のは、他でもない、楽山です。
 
楽山を受け入れると、疲労し、人格が破壊されるおそれがあります。楽山とは、議論してはいけないし、関わってはいけません。世辞を真に受けないでください。楽山を相手にしないでください。霊が分かるっぽいと思い上がり、いつも満悦したいために、人を人とも思わず、詭弁の餌食にします。
 
 
心機一転★こも楽山
@komo266
最近は、この手のニュースを見るたびに、大川隆法が表社会の高い地位についたら、過去の言行をさらされ、えらいことになるだろうなあと想像してます(笑)
 (引用省略)
午後7:28 · 2021年7月22日·Twitter Web App
 
引用元を批判するつもりはありません。
 
また、性懲りもなく「えらいことになる」ことを「(笑)」っている楽山です。人格に締まりがなくなってきたのでしょうか。無意味に、無理に、他者を嘲笑いながら、低次元の快楽を、笑いを、求めているようです。
 
楽山が「社会の高い地位についたら」ネットで言ってきたことなど「過去の言行をさらされ、えらいことになるだろう」と思います。楽山のように、他者を、自分の都合だけで、平気で無視して、勝手に発信だけを続けるなんて厚顔は、社会人でも、まともな人間でもありません。
 
 
 
★こも/楽山日記3さんがリツイート
藤倉善郎@やや日刊カルト新聞
@SuspendedNyorai
人権問題は「信教の自由」で正当化できない。「5大宗教」だけ別格扱いで「信教の自由」を強調し、「カルト」はその対象外みたいな発想では、人権侵害が問題なのだという普遍的な視点に立ちにくい。そもそも信教の自由の問題じゃないと思います。
globe.asahi.com
カルトの危険性を学校が指導、「宗教の自由」と見なさないドイツ 旧統一教会問題:朝日新聞GLOBE+
7月8日に安倍晋三元首相を銃撃した容疑者が、犯行の動機として「母親が旧統一教会に多額の献金をしたことで家庭が崩壊した。安倍元首相が統一教会に近い人間だと思い襲撃した」と話したことから、日本では最近、新興宗教にスポットが当たり様々なメデ...
 」
午後3:30 · 2022年7月31日·Twitter Web App
 
信教の自由も、公共の福祉に反してはいけないのだから、人権問題が信教の自由で正当化できないのは当然のことです。つまり、自分絶対正当化の立場に安穏として、人の意見を無視し、嘘と詭弁で人心を誘導して偏見を広めようとする楽山の行為も、同様に、決して見過ごしてはいけないと思います。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
楽山の体質的訂正不能は、病気だから同情するべき・・なとど言えません。「だよなあ」「なんでしょうかね」という言い方で、人間の性だからオレは悪くないとでも言いたいのでしょうか。「嘘ばかり」「保身」「魅力の欠片もない」「失敗」・・どこが人間なのでしょうか。
 
 
 
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