ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

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  楽山の偽善性2
 
 楽山日記(LD) 2020年06月17日
 『読む力 現代の羅針盤となる150冊』松岡正剛・佐藤優 著
 
 
楽山は、有名人、知識人、学者、などインテリが大好きです。しかし、自分に好都合なところだけを引用したり、賛同したりして、結局、自分もインテリだと言いたいだけの自己顕示欲だということが、以前から、表れており、信頼度はゼロなのです。
 
 
常々、もっと本が読みたい、もっと読解力を身につけたいと思っているので、タイトルにひかれて読んでみた。その中身はどうかといえば、どうも自分には高尚過ぎてついていけないところも多いのだが、全体的には期待した通り面白くて一気に読んでしまった。
 
一気に読んだと言っている楽山が言いたいことはというと・・
 
面白かったところをいくつか挙げるとすると、まずは宗教の通俗化についての話がある。恐らくは学者が書いた宗教関連書籍のことを念頭においての発言のようだが、佐藤優は「面白くないし、本質において宗教を信じる人の内在的論理がわからない。これはセンスの問題ですからどうしようもないです」(p.219)とし、さらには著名な宗教学者の名を出して、「読んでいると、本当に眠くなってくる」(同上)とバッサリ切り捨てているのには驚いたし、おかしくもあった。信仰のある人には、この発言に賛成する人は多そうではある。
 
いかなるジャンルの本にも、文章にも、面白いものと、面白くないものは、あるでしょう。面白くないだけなら、読むのをやめることも出来るわけです。しかし、楽山は、面白くないと書いてある本が大好きなようです。
 
宗教は、宗教自体の問題もありますが、楽山のように、興味本位で読んでいるだけだと、楽山のように、自分を見ず、反省もできないような、揶揄するだけの偽インテリにしかならないと思います。あざ笑って悦に入る者は、恐らく、いかなる宗教も信仰も理解できないでしょう。
 
楽山の書く文章は、面白くないだけでなく、有害な文章でもあります。何よりも、共感が全くなく、書いた人の妄想とインテリ気取りと無理な自慢だけというのもあるから厄介なのです。宗教と信仰にとって、妨害行為になるので、批判しないといけないからです。
 
ここで、楽山は、知識人の口から、眠くなる、という感想を持ってきます。全か無で、いつも、自分と同じ意見を漁っては、書いてくるのが、楽山の特徴です。キリスト教、面白くない、というのを、印象付けたいのでしょう。いちばん面白くなくて有害なのは、楽山自身です。
 
「眠くなってくる」だけなら、読むのをやめればよいのです。つまり、楽山は、バカにすることで生き甲斐を感じる人だということです。こういう人は、弱い人に対しても、同じような態度で、おとしめて笑う、ということがあるので、決して近づいてはいけないと思います。
 
楽山の文章は、面白くないだけでなく、狡くて、嘘や詭弁が溢れており、汚い口で、読者をマイナス方向に誘導してきますから、キリスト者としては、読むのをやめるだけでなく、抗議の批判を書くことになります。誰も、一人も、楽山に、近づいてほしくないからです。
 
 
もう一つ本書のなかで面白かったところを挙げるとすると、渡部昇一が高く評価されているところだ。「世間は「右側」の色でしか見ていないけれども、非常に優れたカトリック知識人だということは、やっぱり記録に残しておかなければいけない」(p.178)と、佐藤優は最上級の評価をしてベタ褒めをしている。
 
渡部昇一のことは、よく知りません。Wikiによると、宗教の著作より、はるかに、政治思想の著作が多いようです。しかし、楽山は、カトリック知識人ということを重視しています。そういう立場の人のことを書いて、自分を高め、宗教と低く見なして、やはり、悦に入るのでしょう。
 
 
自分は渡部昇一は大好きで愛読していた時期があったのだが、そのうちに言ってることがあんまり大雑把すぎると思いはじめて遠退き、「書痴の楽園」を見てやっぱり面白いと思いなおしそのままになっていたのだった。でも根が単純なので、氏を高評価している文章を読むと、また読みたくてたまらなくなってくる。口述筆記のものは読みやすくていいが、そうではない初期のエッセイなどは特に中身が濃くて、着眼点も新鮮で面白かったと記憶している。いま読み返しても以前のように面白いと思えるか試してみたい。
 
ぐだぐだと書いているようですが、言葉の字面だけを並べてキリスト教をおとしめ、今までほとんど聖書も本も理解できていないことが明らかになっているところの、楽山にとって、新鮮で面白かったというのは、どういうことでしょう。説明できないから、面白かったと書くだけではないでしょうか。
 
 
あとは、「読む力」ではなくて、書く方の話も面白かった。文章を書く際には誰に向けて書くか、その対象となる読者を明確にしておくべきだとか、書評における引用の必要性やケチをつけないことという心得も興味深かった。これらは文章作法の基本ではあろうが、ともすれば忘れがちなことでもあろうし、文章を書く毎に再確認しておくべきことである。
 
「ケチをつけないこと」を当てつけています。私は、ケチをつけているのではなく、楽山が語る宗教と信仰の記事を、ほぼ、全否定しているのです。自己愛と自己中は、宗教と信仰には縁はないのです。楽山は、反省と学習が出来ないので、読むことも、書くことも、まともに出来ていません。
 
というのは、楽山は、反省と学習ができない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。自分の気に入った文言だけしか、読み取らないし、書くことも出来ないのです。読めば読むほど、書けば書くほど、その自己中だけが、表れてくるでしょう。
 
 
本書はタイトル通りに、本、読書についての話題は豊富であるし、読むべき本のリストも提示されているので、本好きにとって楽しい本である。ただし一読すれば、まちがいなく読書欲を刺激されて、濫読したくてたまらなくなってしまうので、読書時間を十分に確保できている時以外は読むのは控えた方が無難ではある。そうしないと読みたいのに読めないというストレスで大変なことになるだろうから。
 
楽山のように、自己愛による自尊過大の人は、心で読む、心に深みを感じる、ということが出来ないし、そういう深みや人間味を感じさせる文章になっていないという事実経過が、書いてくる文章に表れてきました。楽山が、読んで面白いとか、分かったと思って、書くことは災いにしかなりません。
 
そういう人は、乱読も、熟読も、少なくとも、その感想文が、誰かの糧になるということはないのです。この記事も、解説につながることは、何も書いていません。自身の意見も、一般の意見も、書かず、解説もしていないことを、見逃してはなりません。楽山は、以前から、そういう人です。
 
読むのは勝手だが、書いて公表すれば責任が生じることを知らないのです。だから、好きなように、平気で他者を侮辱してきます。小学校の作文も、採点がついて、公表されるのは優秀作品だけでしょう。扱っているテーマはとても大きいのに、楽山には、小学生レベルの心得も出来ていないのです。
 
自己主張ばかりして、不都合な他者の意見つまり批判を無視している楽山は、いつまでも、自由に伴う責任というものを、自覚できずにいるのでしょうか。それは、読者家としてはもちろん、常識人として、人として、失格なのです。
 
 
 
    今までに表れてきたこと。楽山についての資料まとめ。
    このまとめ記事は、加筆修正しながら、
    前半は前の記事と重複しますが、
    これからも、たびたび再録することになるでしょう。
 
 楽山についての、資料を、繰り返しもありますが、まとめて、
 加筆しておきます。
 
自己愛が強く自己中である。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)。
 
平気で嘘を吐く。世辞と、謙虚芝居と、様々な詭弁を弄して、柔和と中立に見せかける。
 
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。しかも訂正不能である。
 
理路が常識的にも浅く、理解も出来ない。特に批判に対しては不感不応、または、無視するだけ。
 
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が全く成り立たない。障害に全く不釣り合いな満悦感から、厚かましく、学者・批評家・読書家・インテリ気取りで、分かっているという我執から、いつまでも離れられない。
 
深い情感がなく、共感性がない。広く、人間として好ましい心が無い。
 
後悔することがなく、罪悪感、羞恥心がない。
 
世辞と社交以上の、議論や交流が、できないし、する気がない。
 
 
ボンヤリ言語:曖昧で婉曲的な言い方をして印象だけでも刷り込もうとする。
 
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の反省言葉。やさしさ芝居。柔和芝居。
 
ボンヤリ言語の、曖昧な筆致でごまかしながら、決めつけて、決めつけて、偏見を刷り込む。
 
トホホ言語と芝居で、謙虚を装いながら、暗に、自慢して、自慢して、自己満悦する。
 
 
アドラー心理学の宣伝をしていたが、それが抜けない自己中が表れてくる。
 
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
 
 
反キリストである。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
 
聖書を字面だけで読んで、理解したと思い込んでいる。
 
成長がなく、幼稚な疑問のまま、止まっている。
 
聖書や、他の文章も、心で受け取る、ということがない。
 
文章の、心無い字面(じづら)の皮相を、いつも、さすっているだけ。
 
 
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
 
楽山は、学習の結果としての自身の顔を持ちません。ゆえに、反キリストでありながら、キリスト教に執着したりなど、一定の見解もなく、求めることもなく、いくつもの良さそうな仮面を作っては見せびらかし、自己顕示して自己満足するだけなのです。
 
ボンヤリ言語は、狭義には、少し誇張した例で言うと、・・であるに違いないと言えなくもない、といったような、二重否定の肯定で、自信の無さよりも、謙遜味を出すこと、あるいは、あとでつけ込まれないように、安全策を施したつもりでしょうか。
 
まるで、無事に帰ってくるかどうか分からない自分の発言という船を見送る不安を減らすための、虚空相手の自慰行為のような癖が染みついているのでしょうか。こう言っとけば、柔和で中立と思ってくれるじゃろ・・という書き方が多い。
 
それと、ボンヤリ言語は、加えて、文脈の進め方として、回りくどく、粘着するような言い方をして、読者が、ああそうですか、というような、めんどくさがりながら、同意するという、角の立たない受け入れをしてくれるように誘導してくることが多い。
 
私の経験から、いい文章は、その一部にでも、大なり小なり、はっとするような感動を伴います。そういう文章を誰もが書きたいと思うし、努力するのでしょう。しかし、楽山には、その方向に努力する意志もなく、既に、感動を、自己満足で置き換えている。
 
そのために、読んで、否定はしにくいが、退屈であり、平凡であるのに、よく読んで批判されることが、いちいち不当にしか思えないのでしょう。楽山の実際は、読書においては、楽山は、本当の自己満足を打ち砕くような感動をしたことがないのでしょう。
 
だから、字面の辻褄があっただけでも、文字列検索一致だけでも、涙した、などと、また、自分の言葉で表現できないために、そのまま、あっと驚いた、などという、原始的な書き方をすることになっているのだろうと思います。
 
上のような言葉の悩みは、私にもありますし、多かれ少なかれ、誰にもあるのかもしれませんが、だからといって、あんまり、白々しい、まんま表現だけで書いて、それで、そのあとに満悦するなんてことはないと思います。それに、言ったことには責任が伴うことを、普通は知っています。
 
ましてや、謙虚な自分を、トホホ言語の謙虚芝居の、わざとらしい書き方で表したつもりになるというのも、これも、同じ、まんまだけの、字面だけのものになるわけです。「反省、とほほ」などという言い方が、典型になります。
 
即ち、楽山は、自身の、字面の平面を、いつも、滑っているだけになり、他者の言葉を借りて、文章を書き、それで足りるとか出来たとか、のつもりになっている間、どこにも届かない字面のジレンマが続くことになり、だます方向に行ってしまうのだろうと思います。
 
言語表現に向かない人は、絵を描くとか、音楽とかの、別の世界にという可能性もありますが、少なくとも、言葉と伝達の、一対一対応という幻想に満悦固定してしまって、字面=言いたい内容として、書いた書いたと満悦し、批判に当てつけだけ書いてくる間は、どうにもならないのです。
 
 
参考までに、前に何度も、結果だけは書いてきたことですが、次は、シャロームshalom と楽山の関係を示している事実です。
 
  偽善者の自滅
 
シャロームのことです。自滅というのはシャロームの言論・信条の自滅のことです。私は、シャロームには、キリスト者に不可欠の、罪の意識がないと思ったので、それと問いただしていました。すると、シャロームは言ったのです。
 
「罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい」
 
シャロームは、悔い改めて罪を認める、ということを否定したのです。これは、いかなるキリスト教、キリスト信仰にも、ありえないこと、というより、反キリストの証明になります。当然、そこを、追及することになります。
 
すると、シャロームは、その場を繕うような、白々しい詭弁で言い逃れをしてきます。
 
「悔い改めは、神が与える」
 
シャロームは、神が与えるなら、悔い改める、今は違う、とでも言いたかったのでしょう。
 
しかし、この文脈で、この発言は、シャロームがキリスト者ではないことを表しているのです。
 
なぜなら、シャロームが、今に至って悔い改めをしないのは、神が、シャロームに、悔い改めに必要な信仰の導きを与えていないということになるからです。つまり、シャロームは、自身がキリスト者でないことを、自ら証明してしまっているのです。
 
そして、このシャロームの言説に、無条件で賛同したのが、楽山なのです。楽山は、シャロームの妄想発言に賛同しました。このことは、楽山が、自主性の無い人であり、シャロームの、成りすまし、親族、仲間、そのいずれかであることを、楽山が、自ら、証明したことになります。
 
 
参考までに、神が人を悔い改めに導くという聖句です。↓
 
 (ローマ人への手紙、口語訳)
2:3
ああ、このような事を行う者どもをさばきながら、しかも自ら同じことを行う人よ。あなたは、神のさばきをのがれうると思うのか。 
2:4
それとも、神の慈愛があなたを悔改めに導くことも知らないで、その慈愛と忍耐と寛容との富を軽んじるのか。 
2:5
あなたのかたくなな、悔改めのない心のゆえに、あなたは、神の正しいさばきの現れる怒りの日のために神の怒りを、自分の身に積んでいるのである。
 (ローマ2:3-5、新約聖書)
 
神を信じて善人になりましたという信仰の因果ではなく、神の前に、キリストの前に、悔い改めて、正直に告白した、あるいは、弱みを見せざるを得なかった人が、キリストによって、救われていることを覚えてください。救われないパリサイ人は、讃美はするが、告白の正直さがなかったのです。
 
 
偽善の花と鼻

偽善の花と鼻
 
 
(2020年06月18日)
(2022年06月19日、再録+加筆)
 
 
 
楽山のツイッター
 
★こも/楽山日記3
@komo266
図をよく見ると、
「人間の自己中心主義」というよりも、
「人間の男の自己中心主義」になってるじゃないか。
宗教は、神という上位の存在を想定するものだから、それを信じれば信じるほど、何でも上か下かでしか見られなくなるのかもしれないな。
 
図(省略)には、人間が三角形の頂点にある EGO と題された絵と、人間が動物の円の中にある NATURE と題された絵が描いてあります。様々な生命という意味で意義はあるでしょう。しかし、楽山のような自己中心の欲望しか持っていない者が、これを宗教否定に使うのは、著しい妄想的筋違いであります。
 
楽山はいつも、他者を、上から見下ろして勝手な文句ばかり言います。「何でも上か下かでしか見られなく」なっているのは、まさに、楽山であります。またしても、斬るための発信によって、楽山が斬られているという証拠なのです。楽山の口は災いです。楽山は、カルト的決めつけの害虫です。
 
正常な信仰においては、神のみが上であり、その下に不完全で罪深い人間がいるということです。楽山は、そのことを、まるで理解していません。理解できないのに、文句だけは書いてくるのです。いちゃもんしか言えない楽山、・・こうなったら、おしまいかもしれません。
 
楽山は、ここしばらくの間、私の知っている楽山ブログでは記事を書いていませんが、他にブログがあるのかもしれません。さらに、このように、ツイッターで、持ち前の実に嫌らしい捨て台詞のような筆致で当てつけをしてきます。あらゆる人間の良心のセンスを持たない病質者です。
 
 
 
  偽物
 
真実を悟っていると少しでも思うときには
たとえば信仰について
いちばん信じていることに
自ら偽物の称号を与えてごらんなさい
少しはへりくだった気持ちになれるでしょう
少しは自ら信じることに嘘がないか
内省してみる気持ちになれるでしょう
それを謙虚と呼びたいのです
 
人は人が知るべき真実に
近づき触れる機会を与えられていながら
見かけの美しい言葉で飾らなければ
理屈で辻褄を合わせ思いで納得しなければ
真実として人前に出せないような気がして
どこにも響かない空気の流れや
派手な排泄物にしてしまうのです
 
 
  求めよ
 
求めよ、さらば与えられん
・・・・・
あまりにも有名な聖書の言葉
しかしいったい何が与えられるのであろうか
言うまでもないことだが、求めればいつでも
欲しいものが与えられることではないわけで
むしろ苦難の時の霊的な賜物というべきか
勇気や安らぎに似たものか
こころゆくまで苦悩を表現したときに感じる
昇華作用のようなものがあるかもしれない
精神的効用と言ってしまえばそれまでだし
表現する相手によっては損をしたような気色にもなる
しかし相手が神様となると事情は違うだろう
はかない独り言のように思えても
限りない包容といつくしみを
忘れかけている者にとって
祈り求めることは違った働きを持つ
 
無限といっても有限といっても
奇跡といっても気休めといっても
霊的といっても心理的といっても
心の底の底、奥の奥まで
人にわかるはずもなく
またそこまで理解する必要もない
祈り求めることは
生きた働きをもって返されれば充分である
 
偽りのない
正直な祈りは
告白を伴って受けとめられ
信仰がまさに絶えんとするきわに
神と人との契約
基督と個人とのきずなによって約束された
閉じた目のぬくもりを身近に目覚めさせるだろう
 
 
  森の叫び
 
霧の酸を散らし
薬の雨を浴びる
森の叫びよ
かつて空気を水を浄化した
森の面影よ
迷い込んで途方に暮れて
蹲(うずくま)る旅人に告げよ
この地は最早(もはや)
旅人を癒す泉も潤いも持たず
刹那の益に流された血と汗と油と
股間を擦(す)り抜けた風の
腐敗の住処(すみか)になるのだと
砂塵を防いだ森林は
砂塵によって妨げられる
変わり果てる色彩は声よりも叫ぶ
滅びゆく森の最後の叫びは
乾いた砂の咽喉から病んでゆき
木々は虫食いの古文書に記(しる)され
果実は偽りの花押となって落ちてゆき
古びた墓碑が
眠らない屍の埋もれる砂の中に倒れていると
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
良心と良識のある人間でありたい人は、楽山と交流や議論をしてはいけません。楽山は、だますための嘘と詭弁だけを身に着けていて、まともそうに見える屁理屈へ誘導し、異常な疲労を与える病原だからです。楽山は、ただの無神論というレベルではなく、悪意の軍団なのかもしれません。
 
 
 
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  笑止い自慢の楽山2
 
 「ヨブの信仰」羽仁もと子著
 楽山日記(LD)2020年06月16日
 
 
(辞書より)
笑止い(しょうしい):気の毒、滑稽。(東北・信越地方で)恥ずかしい、おしょしい。
笑止(しょうし):大変なこと。困ったこと。気の毒なこと。笑うべきこと。おかしいこと。恥ずかしく思うこと。
( Ex-word 広辞苑 )
 
 
楽山は意地になっているのでしょうか。それとも、びくともしないことを示したいのでしょうか。出力は、受け取れば、必ず、その性質が表れます。
 
その積み重ねがあり、そこに問題があれば、自然の流れとして、問題点についての資料が多ければ多いほど、詳細な文章となって返されることになります。楽山は、鈍感~無視~厚顔を鍛えるために、それを望んでいるのでしょうか。驚くべき不感不応で、書き続けているのです。
 
 
 楽山の偽善性
  改めて、今までに表れてきたことから現状の、楽山についての資料まとめ。
  
自己愛が強く自己中である。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)であろう。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。
特に批判に対しては不感不応。理路が理解できないからだろう。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が全く出来ない。
 
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)という障害の自覚に全く不釣り合いな満悦感から、厚かましく、学者・批評家・読書家・インテリ気取りで、分かっているという我執から離れられない。
 
深い情感がなく、共感性がない。
後悔することがなく、罪悪感、羞恥心がない。
世辞と社交以上の、議論や交流が、できないし、する気がない。
 
ボンヤリ言語:曖昧で婉曲的な言い方をして印象だけでも刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の反省言葉。やさしさ芝居。柔和芝居。
 
ボンヤリ言語の、曖昧な筆致でごまかしながら、決めつけて、決めつけて、偏見を刷り込む。
トホホ言語と芝居で、同情を誘い、謙虚を装いながら、暗に、自慢して、自慢して、自己満悦する。
 
このような小細工をすることで、楽山の文章は、何ともじれったく辛気臭いものになっている。
 
アドラー心理学、実は、アドラー教という自己中推進カルトの宣伝をしていたが、それが抜けない自己中が表れてくる。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
 
反キリストである。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
聖書を少しばかり字面だけで読んで、理解したと思い込んでいる。
成長がなく、幼稚な疑問のまま、止まっている。
聖書や、他の文章も、心で受け取る、ということがない。
文章の、心無い字面(じづら)の皮相を、いつも、さすっているだけ。
 
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
以上の多くは、シャロームと共通である。楽山は、シャロームや易坊の、キャラを変えた芝居の成りすましではないかという疑惑がある。でなければ、親族か、カルト仲間か、筆致を変えているが、内容が、実に、よく似ている。
 
この楽山の資料まとめは、必要があれば修正加筆して、これからも載せるつもりです。
 
 
楽山は、他者の言葉を借りて、自分を高めようとしてきました。いかなる他者の言葉を引用しようとも、楽山が選んで自己満足のために書いてきたものなので、楽山の意見として、責任を追及し、批判することになります。
 
 
『羽仁もと子著作集 第十五巻 信仰篇』に収録されている「ヨブの信仰」を読んだ。ヨブが「悶掻きつつあらゆる言葉で神を怨じるのは、神の愛を信じきっているから」であり、神はこれを喜んだとのことである。
これは、あっと驚かされると同時に、妙に納得させられた。胸にストンと収まる感じだ。彼は神に恨み言をいいつつも、心の奥では神を信じきっており、神はそのことをすべてご存知の上で、受け入れてくださったというのであれば涙が出る。
 
「あっと驚かされる」「ストンと収まる」「涙が出る」・・大嘘です。ヨブは、悲劇に遭って神が助けてくれないので裏切り、自己正当化をして、神と議論したいなどと、神に悪態をつきます。しかし、神が顕れて叱りつけると、すぐに、悔い改めました。
 
ですから、ヨブは、神を "信じきっている" というのは、間違いです。
 
苦痛の中でも、神を信じ切っていたのは、キリストだけです。
 
私たち信仰者は、神が目に見えない地上の世界に住んでいます。したがって、代わりに与えられた聖書から、感じ取り、考え、信仰を受け取ってゆく必要があります。
 
そう考えると、楽山の無理解の経過から、妙に納得、胸にストン、というのは、嘘であり、実際は、分かっているふう、ちゃんと読んでいるふうを装っている嘘であり芝居に過ぎない、ということが感じ取れるわけです。
 
ましてや、涙が出る、に至っては、今までの記事とコメントの流れ、文章の中の前後関係から言って、質量の無い文脈の典型で、嘘吐きペテン師である楽山の、ふざけた三文芝居であることも分かるのです。
 
文章を読むときに、その文章だけではなく、過去の文章とその主張の流れを把握しておくことが大切です。過去と一致せず、反省もしていないならば、言い逃れの嘘と判断できるでしょう。
 
楽山にとって、言葉は、真実を表す手段ではなく、自分をよく見せる安いツールでしかないと思います。ここまで、平気で、偽りを続ける楽山に、毛ほどの信頼も寄せてはいけません。
 
楽山の 隠された悪意の本性は、随所に、深みの無い、まともな文脈の無い、罪悪感の無い、皮のような垢のような思い付きの、泡を吹くような、きれいごとによって、化けの皮が剥がされてゆくでしょう。
 
ここに至って、なお、平気で、恐らく笑いながら、白々しい記事を書いてくるところに、楽山の、不治の病巣の深さが表れてきます。もはや、悪魔性、全開です。
 
 
宗教界隈では、神に対する恨み言を呟いてしまったなら、もうそれだけで、即、バツ判定されることも珍しくないけれども、神はそんなことはせず、もっと深いところまで理解してくださるというのであれば、こんな有り難いことはない。
 
本音の疑問なら、私も祈りにおいて言うし嘆くことこともあります。しかしながら、楽山のように、嘘を吐き、だまし目的で語るところの、おとしめと、けなし言葉と、嘘の納得を、受け入れる神ではないのです。
 
楽山は、神を知らないから平気で言っていますが、露骨な悪意を、平気な顔で、今に至るまで、神に対して、さらし続けているということです。恐ろしいことなのです。
 
 
でも考えてみれば、実際こんなものかもしれない。ちょこっと順序だてて説明するなら、神の愛を信じていなければ恨み言なんて言えるはずもなく、ただもう怖くて怖くてコチコチに緊張しているしかないが、それを心の奥で信じきっているならば、自分がどのようなものであれ受け入れてもらえることを予期できるわけで、
 
神の愛を信じていないから、恨み言を、だまし文句を多用して、平然と言えるような根腐れ者もいる、ということが、楽山を通して分かるわけです。
 
肯定的な文言が、ことごとく世辞や嘘や芝居であるような偽善者が、神に受け入れられることは決してないことが、聖書を読めば、どういう人が救われ、どういう人が敵となったか、キリストの言葉を知れば、ふつう、分かるのです。到底、赦されないことを、楽山は、言い続けてきました。
 
楽山は、人間性のない乾燥麻薬のような害毒だから、反省も成長も後悔もしないでいられるのです。凝固した人格が、麻薬のような粉の言をまき散らしながら、人格を失ってゆくプロセスが、楽山を通して表れています。
 
このリスクは、神の裁きが下るまでは、人間が、自分の自由意志で、回避するしかないのです。それまでの間、楽山は、束の間の全能感に浸ることになるでしょう。
 
 
だからこそ心にある思いをそのまま口に出し、自分のありのままの姿をさらけ出せるのであり、神はそのことをすべてご存知だということである。
 
このことを信じている楽山なら、今までの、そして、今回の、嘘と偽善と自己中、ましてや、霊が分かるっぽい慢心に至ることはなかったわけです。ここに至っても、あるいは、ここに至るほどに、楽山の言を、楽山自身の言が否定している、ということに、全然、気づかない楽山です。
 
 
この辺りの機微を解せぬ、頭がかたい人は、誰かが不敬発言をしたなら、それだけでもって怒り、裁き、受け入れを拒否するけれども、真の神はそんなものではなく、もっと深く包容力があるということ。
 
神は、キリストは、偽善者に対しては、対立し、批判しました。楽山の言は、信仰を求める心からの不敬発言ではなく、神と人を騙そうとする偽善の反信仰発言です。こういうことを平気で言ってくるのは、聖書のキリストの言葉を、楽山が、まるで受け取っていないことの証拠です。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
23:27
偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは白く塗った墓に似ている。外側は美しく見えるが、内側は死人の骨や、あらゆる不潔なものでいっぱいである。 
23:28
このようにあなたがたも、外側は人に正しく見えるが、内側は偽善と不法とでいっぱいである。
 (マタイ23:27-28、新約聖書)
 
 
こういう流れをリアルに感じることができるかどうかは、人によるのだろうけれども、自分はこれを現実以上にリアルに感じる性質ではある。
 
今になって、何を自慢しているのでしょう。しかも、"現実以上に" リアルに感じる、と言っているのは、自分が霊能者だと、自慢しているのです。病巣が、むき出しになってきました。どこまでも、自己正当化を図るゆえに、ますます、病巣を露わにする偽善者、楽山です。楽山にリアルはありません。
 
 
即物的に考えれば、こういうどこまでも甘い神をリアルに感じるのは、自分の幼少時の親子関係や、他人に甘い自分の姿を投影しているだけにすぎないのだろうが、自分には、何かというとすぐに怒り、裁く厳格でいかめしい神は想像できず、こういう大甘な神しか考えられないのだから仕方ない。
 
楽山の幼少時代は知りませんが、他人に甘い自分というのは、自身のボンヤリ言語にかこつけて、またしても自慢であり、今度は、やさしさ自慢と自己満悦であります。楽山は、とても卑怯で陰険な人です。「大甘な神しか考えられないのだから仕方ない」で、正当化できる何ものもありません。
 
このように、発言が、いちいち自慢ベースで語られるのが、病原ナルシストの特徴です。シャロームも同様でした。意識しなくても自慢してしまうようになってしまうのでしょう。
 
「大甘な神しか考えられない」・・だから、楽山は、知恵もなく、情緒もなく、良心もなく、キリスト者ではなく、中立でもなく、偽善を生業(なりわい)とする偽善の反キリスト、宗教詐欺師なのです。これも証拠と言ってよいでしょう。
 
 
羽仁もと子の著作は、まだ全然といっていいほど読んだことはないのだけれども、俄然、興味がわいてきた。羽仁もと子が信じている神は一体どんな神なのだろう。この「ヨブの信仰」からすると、自分の感じている神と近いところがある気もするけれどもどうかな。ちがうかな。
 
引用元のことは知りません。しかし、楽山が、興味を持つと、ろくなことはないでしょう。楽山の感じている神と近いと言われることは、最大の背教、最大の裏切り、最大のペテン、最大の侮辱だからです。
 
 
本書について検索してみたら、二種あるようだ。自分は新版で読んだが、こうなると文語体の方もどんなものだか見てみたくなるなあ。
 
楽山の聖書や書物の誤読と曲解については、今までも書いてきました。それに、何の弁明もしないまま、「文語体の方も」「見てみたくなるなあ」などと、これもボンヤリ言語ですが、恥ずかしげもなく書いてくるところなど、次々に、自らの偽善性を、虚偽性を、自ら証明している楽山です。
 
優しさと親しみと冷静を装う楽山の、今回の記事も、「なるなあ」排泄も、前の「言えなくもない」も、ボンヤリ言語であり、嘘っぱちであります。そのたびに、反キリストぶりを表しているのです。
 
はっきりと物が言えないくせに、前の記事で、他者の言葉を引用して「キレる高齢者、暴走老人」などと当てつけてくる楽山の、どこが中庸でしょう、どこが中立でしょう、どこが柔和でしょう、どこが弱いでしょう。楽山にあるのは、高慢と、無反省と、自己中の、厚顔無恥だけなのです。
 
 
真っ赤な嘘だらけ

真っ赤な嘘だらけ
 
 
(2020年06月17日)
(2022年06月18日、再録+加筆)
 
 
 
  知らない町
 
昔、駆けていった子供らが
大人の顔で帰ってくる
知らない町へ行ったらしい
蝶々追いかけていた子供らが
花を咲かせておいた
その一輪を
その匂いを
また蝶々が追いかける
知らない蝶々は
区別がつかない
知らない子供らは
知らない大人になる
花を知らない大人たち
匂いをかいでごらんなさい
においに覚えがないのなら
今ここは知らない町です
 
 
  神と私(わたくし)
 
真理は神にある
人にあるのではない
それを知るところから宗教が始まる
それを「知っている」と言うところから邪教が始まる
 
真実は神による
人によるのではない
それを知るところから信仰が始まる
それを「知っている」と思うところから狂信が始まる
 
言葉は神による
人によるのではない
それを知るところから謙虚が始まる
それを「我がもの」と決めるところから嘘が始まる
 
人には人に
限られた真理
人には人の
知るべき真実
人には人を
生かす言葉
与えられ、蓄えられ
泉のように湧き出づる
 
 
  偽物
 
真実を悟っていると少しでも思うときには
たとえば信仰について
いちばん信じていることに
自ら偽物の称号を与えてごらんなさい
少しはへりくだった気持ちになれるでしょう
少しは自ら信じることに嘘がないか
内省してみる気持ちになれるでしょう
それを謙虚と呼びたいのです
 
人は人が知るべき真実に
近づき触れる機会を与えられていながら
見かけの美しい言葉で飾らなければ
理屈で辻褄を合わせ思いで納得しなければ
真実として人前に出せないような気がして
どこにも響かない空気の流れや
派手な排泄物にしてしまうのです
 
 
  (抜粋)
 
はじめに言葉ありき、言葉は神なりき
真実の言葉を語りたかったのです
しかし言葉が人に渡ったとき嘘が生まれ
人の中で言葉がもまれればもまれるほど
それは踏みつけられ、互いにむさぼり
言葉は人の中で死んでいくのです
 
 
  涙の定め
 
売れない役者の嘘の涙
売れる役者から買った涙
忘れたくないのは
演じることのできない
孤独な舞台に立たされて
売ることも買うこともできない涙
を受け止める器(うつわ)において
忘れたはずの涙も
今流している涙も
隠して耐えることをしなくても
いずれ必ず乾く定めを持っており
元々涙は売ることも
買うこともできないということだ
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山の白々しい嘘は、神によって、全て見抜かれています。それだけでなく、今までの経過を知っておれば、人によって見抜かれてもいます。どれだけ長い間、嘘を吐いてきたのでしょう。嘘は、結局、嘘を吐いた者に返ってくるのです。とんでもない人格を破壊するために。
 
 
 
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  虎馬生産的楽山2
 
 トラウマ反応!?
 2020年06月13日 楽山日記(LD)
 を改めて批判。
 
 
私には、トラウマがあるんだろうと思っています。そのトラウマに楽山は関係ありませんが、ずいぶん昔のことで、一部はブログに書いています。そして、楽山は、不感不応と無反省から、トラウマを与え続ける人だと思います。
 
楽山は説明していませんが、トラウマ反応とは、トラウマの後に起こってくる、むしろ症状のことで、再体験、苦痛、思考や会話などの回避、反応性の麻痺、一方で驚愕反応、意欲減退、睡眠障害、などがあるようです。
 
 
ツイッターを眺めていたら、トラウマ反応うんぬんという話があり、次のページに行き着いた。
自分自身のトラウマ反応にどう対応するか?
どうやら過剰な攻撃の裏には、トラウマがひそんでいることがあるということらしい。
 
楽山は、批判されていることを、過剰な攻撃と言っているようです。批判と攻撃の区別もつかない楽山です。前者には理由と根拠があり、楽山の場合、分かってもいないキリスト教と信仰を、幼稚な屁理屈で侮辱したことです。したがって楽山の反応こそが根拠のない攻撃なのです。
 
楽山については、トラウマを受けて感じる繊細さは無いと思っています。したがって、心に傷を負った人についても共感できないのです。カルトは、抜けた後でも、小さくないトラウマと後遺症を残す原因となりうるでしょう。楽山は、トラウマを受けやすい人ではなく、与えやすい~与える人なのです。
 
 
これを自分に当てはめるなら、認めるのは癪ではあるがHS批判がそれなのだろうな。大概の一般人はHSのことはさして気にせず、スルーしているわけで、自分にそれができないのはそこにトラウマがあるからなのだろう。
 
楽山は、HSを自己顕示に利用しているだけだと思います。そう思うのは、楽山自身の考え方が、カルトに似た訂正不能・無反省・無責任の典型だからです。楽山は、トラウマを受けたのではなく、トラウマを与える人です。
 
楽山の、不感不応の、他者無視の、無反省の訂正不能の、執拗なボンヤリ言語の、あくどい筆致は、誰の心にも消えないトラウマを残し得るものなので、以前から、そして、これからも、決して誰も関わらないように、批判を続ける必要があると感じています。
 
 
一般にはあまり知られていないHSの問題点を明らかにし、社会に知らしめ、注意喚起をするために批判をしているとも言えば言えるわけではあるが、
 
楽山については、全く言えないと思います。楽山の卑怯さは、自身の問題点をぼかし、注意喚起をよそに向ける雑言でしかありません。だまされないでください。楽山は、HSだけでなく、キリスト教も仏教も攻撃してきます。そして、適当に信じるのがいいと、いい加減な宗教を勧めています。
 
そうやって、楽山のような、無反省、無責任な、詭弁屋の、嘘吐きの、サイコパスの、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の因業として、自分の尊大さを誇示して、他者を隷属させるか、最低の人格のまま、保身を図っているのです。
 
 
それにしたってトラウマは皆無であり、それが批判の動機になっている可能性は微塵もないとは断言できないのだから仕方がない。
 
トラウマは、心の傷ですから忘れることなど出来ないものです。トラウマに気づいた人にとって、トラウマが「微塵もないとは断言できない」という曖昧な言い方は出来ないのです。また、白々しい嘘っぱちの楽山の、実感のない思想の捏造です。
 
つまり、ここでも、楽山は、トラウマを受けた人を、高みから見下ろして批評しているわけです。その結果、このような曖昧表現でトラウマを語る文章こそが、楽山に、トラウマに対する共感性が微塵もないことを表しています。
 
どこまで行っても、何を書いても、誰とも共感できない楽山が表れるだけです。自己愛の我執と我欲から、書けば書くほど、関われば関わるほど、他者に心配りが出来ない楽山は、反省だけは出来ないまま、他者の心にトラウマを与える続けるのでしょう。
 
 
考えてみれば、これは信者側でも同じかもしれない。ツイッター上の信者のなかにはアンチに対して過剰反応を示す人は少なくないが、これは過去にアンチと何かあり、それがトラウマになっているためかもしれない。
 
このように、楽山には、アンチという自覚が根無し草であり、釣り合いをとるかのように、信者側のトラウマを語って、バランス・中庸・中立を言ったつもりで得意になっています。このようなことは、元々、トラウマを受けた自覚などない部外者だから書けるのです。
 
 
信者ブログの中には、もう何年も前に終わった話を度々蒸し返し、既にブログは止めて消えてしまった人のことをとやかく言うブログ主もいるが、これもトラウマが関係してるかもしれない。
 
楽山は、批判に反応しないし、反省せず、自分が言ったことの責任も負わない人なので「もう何年も前に終わった話」と言っていますが、終わってなどいないのです。不都合を全て無視する陰険で白々しい奇声虫のような人です。爽やかさを微塵も持っていません。
 
自分が批判されていることを言っているのかもしれません。楽山には、悪意はあっても、トラウマはありません。そんな繊細は感性など持っていないと思います。だから、トラウマについて、他者のことばかり書いているわけです。
 
このように、他者のことばかり云々するというのが、自己愛性人格障害者の特徴です。自分を見る目を持っていないのです。自分のことを書くときに、自分は大丈夫という暗黙の前提で、軽々しい自尊過大から、他人のことばかり云々して、評論家を気取るということに結びついてゆきます。
 
楽山が残した嘘と偽善については、楽山が、反省もせず、修正もせず、無視している分、いつまでも無反省の自己中の厚顔無恥の楽山からの心的外傷(トラウマ)を生み出す病原性の遺残物として、その内容と言動を、資料として、参照できるようにしておかなければなりません。
 
 
ああそうだ。上とは別の信者ブログの中には以前、記事をパクられたとして騒いでいた人がいるが、この人は最近はまた別の人に向かって同じことを言っている。反省と爽快感、顔施(笑顔)、知ることと信じることなどは大川隆法の本に書いてあり、支部でも話題になることであろうし、信者または元信者であれば普通に話題にのぼることであるし、他者の文章を引用しその感想または意見を書き、長文になるときは分割するというのは一般に行われている常識であろうし、パクリ、パクられたという話にはならないと思うのだが、それにもかかわらず、パクられ妄想を持つということは、そこにはやはり何らかのピンがあるのだろう。
そういえば、大川隆法もわりとちょいちょいそういう話を繰り返しているのだった。自分の意見をパクられた、真似されたとか…。でも実際は次のようになってるんだけどね。
 
楽山のような自己中は、不祥事を、必ず、人のせいにする特徴があります。自分は弁明しているつもりですが、自分を斬ることだけは出来ないという成長不全の人格なのです。楽山が語ることは、ひやかし半分の世間話のように、どんなに人を傷つけても、終われば忘れてしまう軽口に過ぎません。
 
記事の引用は、批判するために必要ですが、まだ、ピンという言葉を使って、それを説明しないところに、楽山の高慢も表れているのです。HS関連など検索しても明確な答えが見つからないので分からないが、ping 応答(時間)、ピンハネのピン、・・?・・などを考えておきます。
 
パクられるということが、「パクられ妄想」とまで書いていますが、トラウマと、どう関係があって、楽山は言及しているのでしょう。楽山は、他者の記事をパクったことがあるのでしょうか。トラウマの話からは浮いているように思われます。こうして文脈が乱れて、悪口だけになってゆく楽山です。
 
それで、相手のことを、「パクられ妄想を持つ」などと言っているのでしょうか。真相が分かれば、重大なことのような気がします。いつも、本や発言などから、都合のよい文言だけを引用してくる生業の楽山だからです。それにしても、こういうのを、理路の散逸というのでしょう。
 
 
根本経典からしてこうであれば、あとは推して知るべしというべきか…。(画像など省略)
とりあえず今思いついたのはこれだけだが、詳しい人であればもっと具体例を挙げられるだろう。こうしてみると、激しいパクられ妄想の根っ子には、過去にパクリを批判されたトラウマがある可能性は低くはなさそうにも思えてくる。
なんだかいつのまにか自分のHSに対するトラウマ反応が発動されて、大分話がそれてしまった観がないでもないが、結局のところ、人は誰でも多かれ少なかれトラウマがあり、それに影響されているということなのだろう。
 
トラウマは、しばしば言われているけれど、そんなに「誰でも多かれ少なかれトラウマがあり」というほど一般化は出来ない心的外傷のことです。楽山は、恐らく、トラウマを与えるほうでしょう。それで、一般化して、徒に責任逃れをしていると思います。
 
"トラウマ反応" という題で、楽山が書いていることは、冒頭に書いてリンク付けているトラウマ反応とは言えないことのようです。自己愛者の特徴として、不祥事を他者のせいにする、というのがありますが、そのために、トラウマの話を持ってきて、ますます他者をおとしめているように思えます。
 
楽山の言う「自分のHSに対するトラウマ反応」は、信用できません。楽山は、トラウマを与えるほうであり、トラウマを受け、トラウマ反応を起こすような繊細さはないと思います。筆致にも表れたことはありません。いつも不感不応だから、トラウマを受けるような要素を持ち得ないのです。
 
トラウマというテーマは、体験からのもので症状を伴うものですから「話がそれてしまう」ことではありませんし、話を逸らすことでもありませんし、ありもしないトラウマの嘘を吐くことでもありませんし、他者を無視することでもありません。もちろん、他者を責める道具ではありません。
 
楽山の言っているのは、本当のトラウマではなく、楽山のような、面の皮の厚い、罪悪感も羞恥心もない、人をおとしめてよろぶ病質、いわば、虎と馬みたいな在り方に当てはまる悪意でしょう。自己愛者は、悪意で面白がって、他者のせいにするときに、都合のよい病因の理屈を当てはめてきます。
 
トラウマというのは、病気・病態であり、心的外傷後症候群PTSDとも呼ばれるわけですから、「誰でも多かれ少なかれトラウマがある」・・などという気安い見解で済ましてよいことではありません。楽山はトラウマとトラウマ反応という言葉を利用して遊んでいる虎の尻尾か馬の鼻です。
 
楽山は、何を言われても返せないのに、平気でいられる人です。つまり、病的人格からの故意の自己中なのです。トラウマを与える人であって受ける人ではないのです。根拠は、今までの総ての批判記事です。楽山の狡賢さは、卑しくて、虎、馬、というより、蛇、鼠、・・の類かもしれません。
 
 
もし、トラウマがない人はいない、一人もいないというのであれば、それについて人を責めても仕方がないし、それならまずは人のことをどうこう言うよりも、まずは自分のトラウマを解消することに努めるのがよさそうだ。うん。納得。
 
楽山は、生きてい関われば、必ず、人を傷つけてしまう人格なのでしょう。だから、今、必死に、唾を飛ばして、言い訳をしているのです。「トラウマがない人はいない、一人もいない」・・大嘘です。いつのまにか、この嘘を前提にして言い逃れている楽山の醜さを心に留めておいてください。
 
人を傷つけて平気な人には、トラウマはないのでしょう。情緒が鈍麻して、傷つくという心の状態を知らないのです。そういう人に限って、人を責めても仕方がない、などと言ってきます。自己愛者の書いてくることは、大方、自己正当化に過ぎません。一人前の人間に成り損なっているためです。
 
そして、そういう人は、自分の無反省を棚に上げて、「自分のトラウマをを解消する」などと言って、三文芝居で「うん、納得。」などと平気で言ってきます。この作為は、被害者を残酷に無視できるような、あざ笑う者だけの特徴であり、殺人的に、あくどいです。
 
結果として、楽山には、トラウマとトラウマ反応について書いておきながら、人のせいにして、自分だけの独り納得で解決を装って満悦する、という、とても残酷な不感不応の人格の、継続する醜い性根だけが表れてしまいます。
 
楽山は、こういう人で、関わると、無反省と無責任で、こういう目に遭い、こういう返しが来る、ということは知っておいたほうがよいでしょう。楽山の与えるトラウマは、虎の放屁、馬の小便、いずれも、張り子に過ぎません。無視して、まともに受け取らないことが、さらに、近づかないことが肝要です。
 
 
トラウマを与え続ける輩

トラウマを与え続ける輩(やから)
 
 
(2020年)(2021年)
(2022年06月17日、再録+加筆)
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
カタコルネ@堕天使にアイム・バッド
@korettedounano
衝撃の真実!キリストは青森に来ていた!絵文字(大爆笑大爆笑嬉し泣き)
#幸福の科学 #イエス・キリストの霊言
午後8:59 · 2021年6月15日·Twitter for Android
 
楽山らしい引用です。キリストの御名によって神に祈り、その臨在を信じ仰ぐ信仰に対して、どこそこに「来ていた」「衝撃の真実!」「キリストの霊言」ということを面白がっています。そういうことにしか関心を持てないのです。楽山は、どこまでも安っぽさだけを引用して、はしゃいでいます。
 
心貧しさは先入観と偏見のないこと、精神の貧困は先入観と偏見しかないこと、という意味を学習するための、後者の悪い典型例に、楽山はなるでしょう。楽山の目には、魔法の空想が映って、真実が全く映らなくなるウロコが、へばりついているようです。
 
 
 
  汚れ
 
降りくる芥
明日の今
捨てられた油
を食む魚
跳ねて弱々しく
一時(いっとき)に泳ぐ
昨日の海
降りくる塵
波が熱く
眩しい距離
受けて呑む
肉体の空
晴れ時々曇り
一時の雨
薬のにおいがする
肉の肉
今の明日
 
 
  中へ
 
赤い水を呑み続ける
未だ見ぬ土地を知識だけで語るように
骨の中へ肉の中へ土の中へ
乾きに濃縮され続ける
未だ見ぬ外界を飢餓だけで知るように
乳飲み子の川の底へ
土の中へ肉の中へ骨の中へ
 
 
  魔・興
 
魔は隠れた所に差してくるものだ
興は見る見る醒(さ)めてゆくのに
 
 
  頂点を極める者
 
山頂は常に其処(そこ)から
上には登れないことを示しているのだが
登りつめた者は
まるで空までも征服したかのように
誇らしげに四方を見渡している
高い高い大気と吹き上げてくる風は
なかなか下りようとしない者たちの
有頂天の背後から少しずつ
密(ひそ)やかに帰り道を隠してゆく
 
 
  無償
 
祝福もなく夜に生まれ
墓石もなく野辺に朽ちよ
燃える血を竦(すく)み凍らせ
今は亡き人の影を踏め
臨終の霧を呼吸し
濁りの水泡を食らっては吐き
泡吹く毒の晩餐(ばんさん)を
肝胆に秘めて漏らさず
ただ自らの牙を脆く腐らせ
折ってゆけ最早
立てず座せず臥したまま
やがて唯一の薄い揮発の間として
体内を巡る全ての血が
しずかに止まる音を聞くだろう
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山は、感受性が壊れているので、自分があたえたトラウマも、迷惑も、害も、全部、相手のせいにして過ごしてきたのでしょう。こういう人は、決して、交流や話し合いに参加させてはいけない人です。自己愛・自己中によって、疲労を与え、他者の人格を破壊しても、平気で、人のせいにします。
 
 
 
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  詩篇88-再録+
 
 「わたしの親しき友は――暗闇のみ」(詩篇87)2020年05月09日
 旧約聖書 詩篇 (岩波文庫 青 802-1)
 楽山日記(LD)を、改めて批判。
 
 
楽山のような、キリスト教が憎くて、偽善もバレてしまって、恨みと憎しみからの悪意しか持たない者は、こういう意地の悪いことをしてくるという例です。詩篇から不吉な文言を漁って、またキリスト教とキリスト信仰をおとしめたいようです。
 
ここにおいて、憂さ晴らしのために、"災いをもたらす"のは、楽山その人であります。楽山こそ不吉な男なのです。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)者が、満悦気分で書いた醜い記事に過ぎません。
 
 
しばらく前から、聖書の詩編を少しずつ読んでいるのだが、「わたしの親しき友は――暗闇のみ」(詩篇87)という一節には、はっとさせられた。胸にズブリときた。訳者の解説を確認してから読み直すと、どうやら詩人は親しき友からも避けられる不治の病だったらしい。「全詩編中最も悲しい詩」といわれるのも頷ける。
 
ひどい形容です。楽山は「胸にズブリと来た」そうです。胸の中の悪意の沼にでも沈んでゆくのでしょうか。胸に突き刺さったのなら、こういう表現にはならないはずです。楽山は、作文の勉強が成っていないので、しばしば、見当外れの表現を使って、ボロを出しています。
 
私の使っているネットの口語訳聖書では、詩篇87は讃美であり、上のような一節はありません。たぶん詩篇88の「わたしの親しき友は――暗闇のみ」に似た一説は、18節「わたしの知り人を暗やみにおかれました。」とあります。訳による聖書の節の区分が違う可能性もあります。
 
(ネットより)
この詩篇の詩人は、「私は若い時から苦しんできました。今は死を待ちます。」(16節)と歌っています。この言葉に表されているように、この詩人は、若い時から病に苦しみ、その病が癒されることのないまま、死を待つ身となっている希望なき状況に立たされています。
この嘆きの言葉を述べる詩人には、慰めや希望の光は一条も差し込んできません。彼は、「今、わたしに親しいのは暗闇だけです。」(19節)とこの嘆きの祈りを結んでいます。ついに彼の深い嘆き、苦悩の問題は答えられないまま終わっています。この詩篇は答なき詩篇です。
 
まさに、命が終わろうとしているときの信仰の詩であり祈りなのです。何も良いことがなかったというときの、神に対しての告白に、信仰の凄まじい迫力が表れているのです。信仰を利益でしか考えず、何でもハッピーにならないと信仰ではないと思っている楽山には分からないでしょう。
 
この世の、どうしようもない苦難の中だからこそ信仰が必要なのです。まさに、そのような絶望的な境遇だからこそ、正直に告白し、神に救いを求めているのです。楽山のように利益と言葉面だけを追って神をけがすような浅ましい勘違いをしてはいけません。
 
信仰は、見た目の良い言葉だけを捧げている間は未熟です。叫びのような本音を捧げることによってのみ、苦悩と死に同伴する神を知ることになるのです。この聖句は旧約ですが、新約においては、同伴者が、他でもない、キリストになります。
 
信仰は命です。キリストは救い主です。安っぽいご利益の思い込みしかなく、深い意味を何も理解しないで信仰について書いているつもりの楽山は、実に、人間の正直な苦難に何の共感も持ち得ない、浅ましいクズだと思います。
 
 
また解説によると、「詩人の中心問題は「死」。死は詩篇において肉体の死よりも、神からの隔絶をいう」とのことである。とすると、「あなたは死者のために奇跡をなし給うや、亡霊は起き上がって、あなたをほめたたえようか」という一節は、墓の下の死者について言っているというだけではなく、信仰を失った者をも招いてくださるのかを問うているという解釈も無碍に却下されるとも限らないということだろうか。それともこれはいくらなんでも手前勝手でご都合主義に過ぎる考え方かな。
 
詩人の中心問題は、紛れもなく信仰です。だから、詩篇に載っているわけです。「あなたは死者のために奇跡をなし給うや、亡霊は起き上がって、あなたをほめたたえようか」に相当する口語訳は、私の聖書では10節になっています。未だこの世しか知らない人間の悲哀が表れています。
 
「信仰を失った者をも招いてくださるのかを問うている」・・ひどい曲解です。信仰のない者が、絶望だけになるなら、このように正直な感想を、神に向けて、救いを乞うたりはしないでしょう。楽山の白々しい嘘の信仰芝居とは違うのです。
 
 (詩篇、口語訳)
あなたは死んだ者のために
奇跡を行われるでしょうか。
なき人のたましいは起きあがって
あなたをほめたたえるでしょうか。
 (詩篇88:10、旧約聖書)
 
楽山は、根っからの反キリストなので、また、反省しないがために学習せず成長しない知恵足らずで深い理解が出来ないので、マイナスの文言が並んでいたら信仰の否定と思って悦に入る単純さです。まったくもって詩篇および聖書の逆説を理解できないわけです。
 
楽山は、詩篇88を読んで、大ごとだ、神否定の証拠だ、・・みたいに舞い上がってしまうような短絡だから、ボンヤリ言語でごまかしたつもりでも、キリスト教に対する悪意全開となって、滅裂で批判にもならないような、神否定の悪口を書いています。そういう文言を探していたのでしょう。
 
そういう、聖書も、あらゆる本も、虚心に読むということが出来ず、訂正不能の頭で、都合の良いところだけ受け取って自分を飾ることしか出来ない楽山は、まるで当然の成り行きのように反キリストになっているのです。真実の深みという深みに、楽山にだけは、縁がないのでしょう。
 
こういう、一見、現実に照らして、神に対して、嘆くような、否定のような文章は、聖書が扱っているテーマでもあり、私が読んだ範囲だけでも、ヨブ記や伝道の書などに、いっぱい書いてあります。それらを、ことごとく、我執で解釈して、神否定に結びつける楽山の安易さと怠慢が表れているだけです。
 
答えが謎解きや道徳みたいには、はっきり書いてないというだけで、これで、キリストを否定できると空想する楽山は、愚かであるだけでなく、極めて質(たち)の悪い、執拗にサディスティックに攻撃してくるだけのサイコパス人格であり、反キリストだと思います。
 
信仰者は、幸不幸、喜怒哀楽、絶望希望、全て正直に、本気で、本音で、祈るということです。聖書の詩人は、そういう祈りこそが、総てを統べられる神に届き、神によって受け取られることを、たとえ苦難から臨終に向かうときも、絶対孤独からの解放があることを、知って書いているのです。
 
楽山は、快か不快かだけの原始本能の人です。極めて迷惑です。悪意の原始反応だけで思い上がった学者気取りの、何もまともに考えていない人で、世辞と嘘と詭弁だけの楽山は、小学校の道徳でも学んだほうが、まだマシでしょう。楽山こそ、まさしく "手前勝手でご都合主義" の権化であります。
 
カルト的な思想というのは、有神無神を問わず、でっち上げの妄想から出発しているので、自分で文句を言って、それに自分が斬られる、というのは珍しくありません。そのことを、本人は、理解できないために気づかないという醜態です。聖書をけなす楽山は、実に、自らの醜さを体現しているのです。
 
温もりも潤いも感じさせることが出来ず、教えるためのインテリジェンスの欠片もない、自己愛性人格障害の楽山は、否定の文言を、詩人が、神に向かって叫んでいることを考えないのでしょう。信仰を捨てたのなら、神に向かって祈りません。楽山のように悪口を言うだけでしょう。
 
 
と、ここまで書いて思ったけれども、ここで語られている悲しみは、多分に激しさを秘めている感じがする。日本の古典にある悲しみは、激しいというよりも、静かで乾いている雰囲気があるので、この辺りはやはり異文化ということなのだろうか。自分は優劣を問題にしたいわけではないけれども、どうもこの質的な相違に無頓着ではいられないのだから我ながら面倒な性格だ。
 
「静かで乾いている雰囲気」などありません。信仰の叫びなのです。楽山は、面倒な性格なのではなく、人間らしい知性と感性の欠落です。信仰者が、いつも讃美だけを書いてくるとでも思うのでしょうか。信仰者は、本気で、神に対しているのです。
 
世辞だけを悦ぶ楽山は、日本の古典の静かで渇いている表現が、いっそう、深い悲しみを表すことも知りません。聖書を「異文化」で済ませる浅はかな楽山を相手にしないでください。
 
楽山は、義務を果たさず権利を主張し、責任を負わず自由を行使します。シャロームと同様の、全く文責というものを負う気のない、自己愛性人格障害の自己中が表れているのです。
 
既に、どこかで、身勝手な悪口を否定されたのではないかと思います。ひょっとして、キリスト教の教会にでも行って、未熟な自説を否定されまくったのではないかとさえ感じます。それで、恨みに燃えて、詭弁だけを学び、似たような偽善者シャロームと世辞のつきあいを始めたのでしょう。
 
しかし、そこは、仲間ぼめによって、怨念を培養し、自己中を貪食し、悪意と敵意を増幅して、良心を捨て去るところなのです。あるいは、シャロームと楽山は、同一人物の成りすましではないかとさえ思います。この世への怨念だけを潜熱のように深く抱えているところが一致しています。
 
 
楽山の記事は、ネットの口語訳聖書では、87章ではなく、次の88章と思われます。
11~12節は、むしろ、人間的共感のために、私のお気に入りです。
 
 (詩篇、口語訳)
第88篇 1-18
聖歌隊の指揮者によってマハラテ・レアノテのしらべにあわせてうたわせたコラの子の歌、さんび。エズラびとヘマンのマスキールの歌
88:1
わが神、主よ、わたしは昼、助けを呼び求め、
夜、み前に叫び求めます。
88:2
わたしの祈をみ前にいたらせ、
わたしの叫びに耳を傾けてください。
88:3
わたしの魂は悩みに満ち、
わたしのいのちは陰府に近づきます。
88:4
わたしは穴に下る者のうちに数えられ、
力のない人のようになりました。
88:5
すなわち死人のうちに捨てられた者のように、
墓に横たわる殺された者のように、
あなたが再び心にとめられない者のように
なりました。
彼らはあなたのみ手から断ち滅ぼされた者です。
88:6
あなたはわたしを深い穴、
暗い所、深い淵に置かれました。
88:7
あなたの怒りはわたしの上に重く、
あなたはもろもろの波をもって
わたしを苦しめられました。
88:8
あなたはわが知り人をわたしから遠ざけ、
わたしを彼らの忌みきらう者とされました。
わたしは閉じこめられて、のがれることはできません。
88:9
わたしの目は悲しみによって衰えました。
主よ、わたしは日ごとにあなたを呼び、
あなたにむかってわが両手を伸べました。
88:10
あなたは死んだ者のために
奇跡を行われるでしょうか。
なき人のたましいは起きあがって
あなたをほめたたえるでしょうか。
88:11
あなたのいつくしみは墓のなかに、
あなたのまことは滅びのなかに、
宣べ伝えられるでしょうか。
88:12
あなたの奇跡は暗やみに、
あなたの義は忘れの国に知られるでしょうか。
88:13
しかし主よ、わたしはあなたに呼ばわります。
あしたに、わが祈をあなたのみ前にささげます。
88:14
主よ、なぜ、あなたはわたしを捨てられるのですか。
なぜ、わたしにみ顔を隠されるのですか。
88:15
わたしは若い時から苦しんで死ぬばかりです。
あなたの脅しにあって衰えはてました。
88:16
あなたの激しい怒りがわたしを襲い、
あなたの恐ろしい脅しがわたしを滅ぼしました。
88:17
これらの事がひねもす大水のようにわたしをめぐり、
わたしを全く取り巻きました。
88:18
あなたは愛する者と友とをわたしから遠ざけ、
わたしの知り人を暗やみにおかれました。
 (詩篇88:1-18、旧約聖書)
 
11~12節が、特に、逆説的に、正直な気持ちの発露として、好きです。つまり、いつくしみは・・、まことは・・、神の義は・・、そんなはずはない、主よ、どうか救い出してください、という、世辞の讃美では済まない、なりふり構っていられない本気の叫びであります。
 
迫害が迫っている状況なら、讃美も、迫力と勇気に満ちたものになるでしょう。しかしながら、そこそこ平穏なときに、讃美ばかりを勧めるのは、大仰な感じがして、信仰自慢に思えて仕方ないです。
 
人生において、私たちを信仰に向かわせるのは、讃美ではなく、どうしようもない悲しみだったはずです。この詩篇は、本音をそのまま叫んで、神に委ねようとしているから、好きなのです。
 
私たちは、いつも讃美したくなるほどの立派な信仰など持ってはいないのです。悔いること、改めること、望むこと、求めること、叫ぶこと、それらより、讃美が優先するとは、思えません。讃美するのが信仰・・ではありません。
 
讃美すれば、神様は、ごきげんよろしいのでしょうか、違うと思います。正直以外、神には、通用しないのです。祈るごとに、唱えるごとに、飾りは飾りだと、偽りは偽りだと、神様によって、すべて、見抜かれているのです。
 
こういう、逆説的だが、率直で正直な言葉が削除されずに聖書に載っているところが、私のお気に入りであり、共感であり、感動なのですが、嘘吐きの楽山には分からないのでしょう。正直な本音の告白こそが、共感に満ちた聖書の宝なのです。
 
人間の悩み苦しみの本音が表されていなければ、楽山やシャロームのような世辞付き合いしか出来ない偽善カルトの宗教に過ぎないのです。本音の告白があり、考えさせるところが、聖書の持つダイレクトでダイナミックな深みなのです。
 
いつも讃美で溢れているわけではないのが、生きる人間のための聖書です。それを上回るだけの共感と癒しと慰めと救いがあるからです。楽山やシャロームのような異常人格は、それが分からないものだから、ここぞとばかり、いちゃもんだけを吐き出してくるのです。実に不潔です。
 
本音もクソも分からなくなっている楽山と、その仲間の、白々しい嘘っぱちの讃美、讃美、讃美、そして酸味ばかりの、精神詐欺師で偽牧師シャロームの記事のようなものは、その吐物の臭気に、さらに吐き気を催すだけで、救いどころか、腐って漬物にもなりません。
 
楽山やシャロームなどの偽善者は、躓(つまず)いたら、石に、道に、道路作った人に、道路のある街に、文句を言う者たちです。そのくせ、彼らは、好きなだけ、道に唾を吐いて、人に嘘を吐いて、人を躓かせるのです。
 
分からないなら、分からないことについて偉そうに書くべきではない、ということを弁えず、文字通りに受け取って、洞察もなく、根拠もなく、キリスト教を否定してくるから、楽山の、単細胞の無理解は、迫害と言ってもよいほど、総てのキリスト者の敵となるのです。
 
次の詩篇の聖句を唱えることのできる人は、そんなに多くないと思います。
 
 (詩篇23:4、口語訳)
たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、
わざわいを恐れません。
あなたがわたしと共におられるからです。
あなたのむちと、あなたのつえはわたしを慰めます。
 (詩篇23:4、旧約聖書)
 
聖書と信仰によれば、神の戒めと懲らしめの、鞭(むち)は鞭だけではないことがあり、不幸は不幸だけではないことがある、杖の助けともなる、ということなのですが、その一番大事なところを、共感力と反省力が皆無の楽山やシャロームは理解していないのです。
 
どうしようもない悲劇があるからと神を否定するのではなく、どうしようもない悲劇があるからこそ、神を必要とするのです。人は、信仰によって、神と、正直な本音の付き合いをするのです。
 
楽山やシャロームの口車に乗ることの、決して、ないように、さらに、その前に、彼ら病原に、決して接近しないように、祈っています。拝。
 
 
 
楽山とシャロームなどの自己愛者は、いつも正しく、威勢の良いのが信仰だと思っているようです。その分、高慢になり、厚顔になり、傲慢になります。
 
例えば、精神的に健康で、謙譲の心を持っている人は、批判されると、しゅんとなって、書くことをやめて考えるでしょう。それ以前に、気の弱い人は、元々、楽山やシャロームのような厚かましい書き方はしません。
 
批判されて、どういうことかと尋ねてくるのは正常です。反論か弁明をするのも正常です。しかし、批判されても、何も答えないで、反論も弁明も出来ないまま、嫌がらせのように同じ否定の悪口を書いてくるだけなのが、楽山とシャロームです。
 
このような者たちは、決して、真面目に書こうなどとは思っていないと思います。遠回しであってもなくても、とても、いやらしい根性の持ち主です。だから、以前は説明もしましたが、受け取り方も主張も固定していて、まるで話にならないので、今は、直接の遣り取り~交流はしません。
 
そういう者たちが、知ったかぶりで、キリスト教とキリスト信仰を、説教~攻撃してくるならば、信仰者の務めとして、できる人が率先して、たとい悪と呼ばれても、こちらの言い分だけでなく、相手の外れ方も書かなければなりません。
 
 
信仰の叫び「

信仰の叫び
 
 
(2020年)(2021年)
(2022年06月16日、再録+加筆)
 
 
 
  絆
 
自らの信仰を暴き
すなわち十字架を倒し
墓を掘り起こし
死地を招き
振り返ったものすべてを否定し
背教の命題と
血の反証を繰り返し
繰り返し
我に問い
かかる実験の後にも
否むことのできない想い
拒むことのできない絆
それだけを
信仰と呼ぶ
 
 
  叫び
 
叫びがある
叫びになりたい
 
命ある人ではなく
命になりたい
夢見る人ではなく
夢になりたい
歌う人ではなく
歌になりたい
 
何を見つめたらいい
 
無意味な人ではなく
無意味になりたい
死ぬ人ではなく
死になりたい
 
叫びがある
叫びになりたい
 
 
  ウソの国
 
男は登っていく
深夜の階段を
息せき切って走っていく
走らねばならないのだ
走らねばならない
遅れてはならない
遅れてはならない
 
遅れた
男は人前に連れ出され
何人もの男から
したたか腹を殴られたが
痛みはなかった
 
夕暮れの街を歩いていく
人々は夕闇と過去に追われながら
すでに死んだ油の眼で
われにもない毒の顔をさらして
ネオンの間から間へ
苦しい巡礼を始める
あぁ この七色の 肉色の
光のおりが天国とは
拳を握りしめて
「何もない」
「何もない」と
壁に向かって叫び続ける男
誰もいない街角に向かって
手を振り続ける女
眼を振り続ける人々
通り過ぎる車が
水たまりをはねて
尻が濡れた
時が引き裂かれた
青春と人情の墓場から抜け出し
人通りの少ない路地で
恋人に声をかける
お茶でも?
あいされたいわ たれからも
 
吐物をまき散らしながら
男は逃げる
転びそうになりながら
 
幾分か小高い丘に
塀のある幼稚園があった
数人の子供が砂場で遊んでいる
ジャングルジムがある
子供たちが登れるようになると
外が見えるようになるわけだ
 
男は登ってみる
もう吐き気はしない
尻のあたりの濡れた感触もない
男はようやく安んじて眺めている
人っ子一人いない街の風景を
 
あたりはもうすっかり明るい
 
 
  椅子(いす)
 
他人(ひと)の作ってくれた椅子に
腰掛けていると
誰かが笑いながら声をかけてくる
立ち上がり
椅子を打ち壊す
人は驚いていなくなり
誰もいなくなった
扉をあけ
扉を閉めた
長い廊下がつづいた
長い廊下が続いた
 
長い廊下の終わりには
錆びた扉がしまっていた
外では何やら
がやがやと音が聞こえた
戻ろうか と思っていると
誰かが笑いながら声をかけてくる
あわてて扉をこじあけた
するとまたたく間に
彼をとらえた光の中に
彼はいなくなり
誰もいなくなった
 
彼のを行方を
たずねてはならない
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山は、詩篇も、聖書も、あらゆる本も、身勝手な自己愛からしか読んでいません。そこに、自尊過大からの他者無視という、お山の大将的な訂正不能の傲慢があります。ゆえに、平気で、大いなるものに対しても不平不満の果てに否定してしまうところの、無知と無恥の堕落した蟻地獄があるのです。
 
 
 
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  後悔しない楽山2
 
 後悔しない生き方(『聖フランシスコ・ザビエル全書簡1』)
 2021年06月13日 楽山日記(LD)
 
 
楽山に見られるところの、わざとらしさ、うさんくささに気づいてほしいと思う記事です。
 
 
ザビエルの書簡集をつまみ読みしていたら、川で溺れて九死に一生を得た男の話が紹介されていた。この男は救けられたあとで、水中で死を覚悟したときをふりかえって「生きているあいだ中、自分が死ぬための準備を何もしていなかったこと」、修道院に入りたいと思いつつも「何も実行していないこと」の二つを後悔したといっていたという。ザビエルはこの話を次のようにまとめている。
私は友人や知人が、善い考えや主なる神に奉仕したいとの望みを抱きながら、実行に移す時を延ばしていると、いざ行おうとする時には、時間も機会もなくなってしまうのではないかと、気の毒に思っています。
(『聖フランシスコ・ザビエル全書簡1』河野純徳訳、平凡社〈東洋文庫579〉、1994年、pp.62-63)
 」
これは出来すぎた話のようにも思えるが、この教訓はまったくその通りではあるし、それだけに耳に痛い言葉だ。自分は昔から怠け者の面倒くさがり屋で、何でも先延ばしにして、せっぱつまってから慌ててはじめるという風なので…。
 
「耳に痛い言葉」「昔から怠け者の面倒くさがり屋」という卑下が白々しいのです。「せっぱつまってから慌ててはじめる」・・何を始めるというのでしょう。知りもしないキリスト教と信仰を、浅知恵で決めつけて否定するだけです。何も始まっていません。
 
歴史的に有名な人物の書いた書簡を、「つまみ食い」するのだそうです。恐らく、聖書も、他の書籍も、いかなる有名人の名言も、同様だったのでしょう。だから、おつまみ程度に、いい加減な記事を、趣味的に書いてきたのでしょう。書くべき必然が、どこにもありません。
 
楽山は、「いざ行おうとする時には、時間も機会もなくなってしまう」というザビエルの言葉を受けて、同情を誘いたいのでしょうか。しかし、「耳に痛い言葉」「反省。」「自分は昔から怠け者の面倒くさがり屋」「せっぱつまってから慌ててはじめる」は、大嘘です。
 
楽山は、「反省、とほほ」と書いたことがありますが、その前後で、全く変わりなく、今に至るまで、ずっと、自己中の、偏向した記事でした。自分を見ることが出来ないのです。また、楽山は、他者の言うことを、世辞以外、すべてと言ってよいほど、無視してきました。何も変わっていないのです。
 
したがって、他者の言葉が、「耳に痛い」こともないのだろうと思います。平気で、無視して、平気で、同じようなことを繰り返し書いてくるのです。人間として大切な反省をせず、責任を負わないのですから、「面倒くさがり屋」ではなく、邪悪で、怠慢で、学習意欲がないのだと思います。
 
都合の悪いことを平気で無視するので「せっぱつまってから慌ててはじめる」のではありません。あわてて訂正や反省を書いた記事があるはずですが、全く見られません。前に、アドラー教の、気に入らないことは無視しましょう、という信条?を書いて宣伝して、そのまま実行しているのでしょう。
 
このように、楽山の軽々しい芝居は、うさんくさくて、嘘だと分かる人もいるでしょう。楽山というHNを見たら、あるいは、話に出てきたら、嘘吐きだと教えてあげてほしいと思います。この2年間、いいほうには何も変わっていません。
 
今になっても、こういう白々しいことを書いてくるところを見ると、やはり、原因は、元々訂正不能の自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だと思います。平気で、嘘を吐くのです。それに引っかかって、「やさしいお人柄ですね」というコメントが付いたこともあります。あくどい。
 
今でも、そういう嘘が通用すると思っているのです。知性・感性・洞察力・共感力は、自己中によって鈍麻しています。だから、また同じことを言えるのでしょう。ふつうなら、察しが付くところを、気づかない哀れな人です。それにしても、よくも、また、白々しいことを書いてくるものです。
 
 
こういうところは本気でなおさなければならないなと思う。
 
ですから、これも、嘘です。この2年余り、楽山の本気は、自分を改善する方向に向いたことはありません。楽山に、本気はないと思います。「なおさなければならないと思う」も嘘です。前から書いてきた自己愛性人格障害によって、楽山は、自分を直す必要を感じないからです。
 
直す気があるなら、とっくに、反省して、この記事のような言葉面だけでなく、記事の内容に、はっとさせる何らかの変化があるはずです。何もないとしか言いようがありません。はっきり言って、こういうことを言うときの楽山は、笑っていると思います。嘘が上手いつもりでいるのです。
 
ただ、だんだん、白々しさが増しているようです。人格破壊が、また、進んだのかもしれません。少しずつ、内面に比例した、下手くそを、否応なしに出してしまう、という傾向はあるでしょう。嘘の理路、自己中の辻褄合わせは、いずれ、無理を生じることが考えられるからです。
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山
@komo266
ナタリー・ポートマン守護霊の霊言では、その美しさを強調しているが、
本人は、見た目で判断することに思い切りダメ出ししとるじゃないかい。
・ナタリー・ポートマン、女性を見た目で評価する軽薄な価値観を批判
午前7:07 · 2021年6月13日·Twitter Web App
心機一転★こも楽山
@komo266
「宗教者よりも、あの世を信じない唯物論者の方が倫理的なことが多い」という話があるが、これもその例か。
午前7:11 · 2021年6月13日·Twitter Web App
 
何も信じておらず、人を惑わし傷つけるだけで、無反省・無責任の、反倫理・反キリストが、楽山です。今日も、霊言とばかり、知ったかぶりで、女優のことを言っています。こういうゴシップと、宗教・信仰とを、同じオモチャ扱いで、雑に、批評する軽々しさが、楽山の特徴です。
 
「宗教者よりも、あの世を信じない唯物論者の方が倫理的なことが多い」などという決めつけは、反キリストならではの暴言です。キリスト教の悪口だけは忘れないようです。好きなだけ、ゴミをばらまいて、自己満悦の散歩でしょう。日課のように公共を荒らしています。それしか出来ない人です。
 
今まで、理路は好きなように捻じ曲げ、知識は小学生レベルの拙劣な理解、共感の深みは皆無であり、我執だけが強く、芸能・作家・宗教家・学者など、遠慮もなく勝手に引用して、同じ悪口を、繰り返し言ってきます。真面目な態度が皆無で、様々に言っても、結局、偏向した揶揄の域を出ません。
 
楽山は、何気なく書いているつもりでも、揶揄しか出来ない体質は表れてしまいます。自己愛性人格障害の因業だと思います。それを隠そうとする欲動と、自慢しようという欲動によって、楽山は、だんだん、曇りガラスのような、正直も本音も見えない人になってきたのでしょう。
 
楽山は、今まで、我執と怨念によって、同じことを繰り返し書いたり、思いつきを書いたり、安定しない、いい加減さを、表してきました。それもこれも、一切、責任を負わないし、負えるだけの芯を持っていないことを如実に物語っているのです。
 
※ 
 
こういう楽山のような人は、書いてくる文章を観察し、筆致を、つまり、書き癖のようなものを、できるだけ読み取ってゆくしかありません。したがって、継続的に、経時的に、今まで3年間余り、そして、これからも、楽山の記事を、読み続け、批判してゆく必要があるのです。
 
楽山の体質は、人の言うことを無視して平気でいることです。それを利用して、鈍麻した警戒心と散漫な注意力のために平気で書いてくる記事が、資料となりうるのです。楽山には、バレるから書かないでおこう、という選択肢が想起されないのだろうと思います。白々しさに気づかないからです。
 
 
偽善者は笑う

偽善者は笑う
 
 
(2021年06月14日)
(2022年06月15日、再録+加筆)
 
 
 
  惑いの台詞
 
わかっているさ
 が
 繙(ひもと)こうとしているのは
解けない帙(ちつ)の夥(おびただ)しい中味
 
勝手だろ
 が
 映し出す姿は
儘(まま)ならぬこの世の物事に
圧倒されている詰めの甘い自分
 
ほっといてくれ
 が
 教えることは
ほっとかれて為し得る事の乏しさ
 
詰まるところの惑い
 
まだ団居(まどい)を求めているか
中身のある談笑を信じたいか
 
 
ちつ【×帙】 の解説
[名]書物の損傷を防ぐために包む覆い。厚紙を芯 (しん) とし、表に布をはって作る。文巻 (ふまき) 。文包 (ふみづつみ) 。
[接尾]助数詞。帙入りの本を数えるのに用いる。「和本三―」
https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E5%B8%99/
 
 
  わからないと
 
わからないと
なぜ言えない
まずいものを無理やり飲み込んで
頭のどこかから笑みをとってつけて
力み続けるつもりか
飲み込んだのは食べ物だったと
なぜなら飲み込んだから
という理由しかないのに
 
わからないと
なぜ言えない
辻褄を合わせて硬直した顔は
喉に引っかかった異物のために
すでに歪んでいるのに
誰にも文句を言わせないと
ここからは通さないと
道を塞ぐとき
食道も塞がってしまうのだ
 
わからないと
なぜ言えない
絶対に耐えられるのか
本当にわかっているなら
わかっているという顔をして言ってくれ
 
 
  すごい団欒
 
「じゃあ」と手を上げて
別れたあとも門の前で
頭をかきながら、うろうろしている
恋人を置き去りにして
 
娘は茶の間に飛び込んできた
「すっごい面白かったよ」
「すごい」を連発している
娘の一日の話に
「すごい」を連発している
息子たちを見ながら
 
母さんは終始
微笑んでお茶を飲んでいた
父さんは
すごさがわからなくて当惑した
じいさんは、この家が
荒れ果てていくように思えて悲しんだ
 
隣の部屋に寝ていた
ひいじいさんは
ひ孫は外国語が上手になったのだと
安心して昇天していった
四世代にわたる
すごい夜の団欒である
 
 
 
 楽山のツイッター追加ですが
 
心機一転★こも楽山
@komo266
HSの場合、
「神に従順であれ」というのは、
「大川隆法に従順であれ」という意味になってしまうからね。
大川隆法の教えに、異論を述べたり、従わなかったりすると、
「従順でない」「自己中だ」と叱られてしまう…これはもう話にならん(笑)
午後7:20 · 2021年6月13日·Twitter Web App
 
楽山は、いかなる不正も批判する資格はありません。楽山はアンチではありません。楽山は、自己愛性人格障害です。他者を揶揄して遊んでいるだけです。だから今日も「((笑))」と書いて結んでいるのです。軽薄で、表面的であり、真摯さ、真剣味が、何もない人です。
 
自己中の楽山を鵜呑みにすると、人格を破壊されます。人を誘導して、だますような、楽山に従順であってはいけません。自分の害悪に気づけない病気の体質なのです。悔いることも改めることも反省することも責任を負うことも出来ない人ですから、近づかないでください。
 
楽山は、いつも正しく中立な自分に従えと言いたいのです。サイコパスでサディストで、他者を下に見て、学者気取りで教えたがるのは、カルト教祖気取りの人格です。ゆえに、双方向が成り立ちません。一見、まともなことを言っているように見せかけている分、いちばん悪性度が高いのです。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
罪悪感がなければ、悔いることがなく、ならば、学んで成長することもないのでしょう。上から眺めては、善悪や正邪の判断を、自分で決めつけてきますが、自分については、決して非を認めることがないのです。上に、反省は難しいと書いていますが、ふざけて「反省。とほほ」と、何度も書いてきました。
 
反省と書けば、反省したことになるのでしょうか、否です。反省したならば、その前と後で、違ってきて当然です。実際は、何の変化もありません。さらに「とほほ」は、反省するときに書かないでしょう。反省と書いたから、ええじゃろ・・と嘲笑っているのです。ふざけているのです。
 
 
 
 
無神教カルトにけしかけられて、神の存在の証拠を巡って論争するのは愚の骨頂です。証拠があれば、信じる必要はないのです。さらに分かりやすい証拠をもって存在する神は、キリストが表し、信仰者が信じる神ではありません。
 
全知全能・絶対完全・永遠不変の神は、不完全な人間に、ご自身を容易く表し理解させるような安い神ではないからです。
 
 
 
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