ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

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  信仰とは3
 
 
前に書いたことも含めて、折に触れて、信仰について、まとめるという作業は、人間の言葉の不完全性によって、遅々として進まず、また、私の凡庸なることもあり、人間の本性として不完全であることを承知の上で、なお、努めなければならない務めとなっています。
 
 
神の存在も不在も証明できない、だから信じるのだ、ゆえに、信仰なのだ、と考えていたことがあります。しかし、その場合、なぜ信じるのか、何をどう信じるのかという問題があり、それは、人が、こういうことだと伝えても、その人の考えであります。
 
信じる内容が、超常のことなら、どうしてそれが正しいか、超常なのだから、人に分かるはずもないことです。思い込み信じ込んで、それを信仰?と呼ぶのなら、その信仰?が、何も癒せず、むしろ、心を狭く鈍くするばかりになるでしょう。
 
このことに、気づかなくなったら、もはや、妄想を固めているカルトに過ぎないと言ってよいのです。繰り返し唱えておれば信仰・・ではないです。
 
聖書を読んでも、聖書の筋書きを、いくら懇切丁寧に言って、こんなこともして下さると、聖書の言葉を繰り返しても、聖書解釈としても、それだけを唱えることは、現実の人生に生かせるものは殆どないと言ってよいのです。
 
そこを補っているつもりで、きっと助けて下さると現実を保証するような言い方をすれば、今度は、その責任を負わされることになります。何が起こっても、これが導きなのだから、喜ばなければいけないなどと言ってしまえば、現実の悲劇を否定して、悲しみから顔を背けて、仮面で讃美することになります。
 
何でもありがたがることはマゾヒスト的な宗教になってしまうし、そういう信じ方は、先ず、受け入れるべきものを受け取っていないか、受け入れたつもりで思い込みを強くするだけでしょう。神の意志と行為について、正確に解釈して責任を負える人はいないのです。
 
説教者であれ、信徒であれ、人に福音を伝えるとき、大事なのは、共感であります。信じれば救われます・・ではなく、共に人間であるのだから、一方が、もう一方に出来ることで大事なことは、教理を繰り返すことではなく、上から教えることではなく、人間としての共感だけなのです。
 
そして、その共感には、明らかに、罪深い、信仰が足りない、という不完全と不信仰の共感も含まれているのです。それが無いままの、上から下への教えは、いかに、優しそうな言葉を並べても、カルトへの広い門に過ぎません。
 
 
信仰とは何か、ということになると、神の全知全能・完全絶対・永遠不変は、人には分かりません。人は、聖書に書かれている御方あるいは存在によって、ようやく生きてゆける希望を見い出し、祈りと告白を捧げることを信仰と呼んでいる身であります。
 
人生の真実について何かが分かるということは感動を伴いますが、人は、いつでも、分かっているわけではありません。少なくとも、神に対して、分からないことを分からないと言えることが、不完全の自覚であり、信仰の要(かなめ)であります。
 
このことが、自己愛、自己中、高ぶり、強がり、慢心、高慢、傲慢からの解放となります。その解放は、理解というより、共感と希望であります。希望することは、人の側のことですから、人にとって、一生続くことがありえます。
 
それが、絶えることのない希望に支えられた信仰となるでしょう。ゆえに、神の側が否定することはないのだから、人の側が否定しない限り、永遠と呼んでいいのです。人が、固く信じようとすることは、しばしば、心に神のイメージや思いを自分で作ってしまいます。
 
むしろ、信じ込みは罪であり、罪として赦しを乞う性質を持ちます。ゆえに、祈りにおいて、正直であることが必須となるのです。項垂れても、仰ぐ姿勢でも、祈りの、最も大切で、不可欠なことは、正しいことでも美しいことでもなく、本音の、正直な祈りであります。
 
つまり、現象としては、神は、人が永遠の神の存在を熱望して、祈ることに他ならないのです。ゆえに、神聖について、既知であるかのように、見える、知っている、分かっている、などと決めつけることは、思い込み信じ込みになるので、信仰ではなくなるでしょう。
 
二千年前の、物や肉体への奇跡の事実性は、神のみぞ知ることであって、二千年前の奇跡が事実だと信じるのがキリスト者ではありません。神のみが知ることを、人があった、あるいは、なかったと、決めつけることこそ、神に対する冒涜であります。
 
肉体の復活を執拗に唱えながら「罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい」などと平気で言っている偽善者が現にいます。「悔い改めは神が与える」という言い逃れをしますが、悔い改めていないならば、神が与えていないってことだろう・・という自己矛盾に、自ら堕ちているのです。
 
物や肉体の奇跡よりも、遥かに遥かに、大きく、かつ、人間が受け取れる奇跡を、キリストは成就しています。神の前に、祈りにおいて、願いにおいて、遜ることを知っており、かつ、正直でありうる人だけが、キリストに信仰の義を与えられ、慰められ、癒され、救われています。
 
キリストを殺した者たちは、尊大であり、自己あるいは集団の解釈、すなわち、人による解釈を絶対としたがゆえに、戒律主義に陥り、それを守っているという傲慢によって、キリストに退けられ、ゆえに、キリストを殺したのです。今のキリスト者がそうであってはならないという悪の見本となっています。
 
また、キリストは復活したんだから大丈夫などと、死を知りもしないで生きている人間が、キリストの犠牲の死の意味を軽んじて、感謝と讃美だけを唱えるのも、信仰ではありません。
 
悔い改めは、罪人であることを自覚し、神に、告白し、祈ることです。神の前に正直でなければ成立しません。信仰は、それを繰り返すことです。つまり、生きることであります。信仰は、神の前に、成長することであり、決して、一時に完成することではありません。
 
 
私たちが、聖書によって知るべきは、神と人の決定的な違いを基本的な自覚として、自らの、決して絶対ではない人間の立場を弁える節操と、絶えることのない希望を支えるのが、今は目に見えないキリストの共感に満ちた同伴である、という、2つに絞られてきます。
 
語るのが、聖職者であれ、一般の信仰者であれ、いかに、聖書に忠実と言われても、あるいは、面白くて詳しい説教でも伝道でも、この2つを語らなければ、説教とは言えないでしょう。説教や伝道が、人の決めつけの保証や、おまじないや、謎解き話に、堕ちることのないように、祈っています。
 
 
妄想や、真逆の解釈と信条を言いふらして、人々を惑わす者たちがいます。また、遠回しに、聖書とキリスト教およびキリスト信仰を、お伽噺にしてしまう輩もいます。また、小理屈や屁理屈をこねては、人を罠にかけて困らせて、その様子を、面白がる者もいるのです。
 
今のキリスト教とキリスト信仰も、その言説を眺めれば、節操において、情緒において、弱いか、あるいは、カルト的になっている傾向が、無視できない傾向として、一部にあり、信仰のカルトの方向への堕落に陥る可能性を示唆しているのです。
 
しかも、カルトは、何か言われると感情的になりやすく、気の弱い人は、カルトの、格好の、いじめと誘惑の対象になるでしょう。カルトやカルト的な人に、近づくことなく、過ごせたとしても、意地が強くなることは、信仰が強くなることとは逆の変化であります。
 
思いこみや信じ込みから生まれてくる信仰は、決して人を癒やしません。むしろ、悩ませ、病ませるものになります。そういう者に限って、うれしそうに、神を恐れず、"神の平安"、また、"揺るがない信仰" などという讃美言葉を繰り返すでしょう。
 
その検証が、自分で、出来なくなっている人は、既に、カルト信仰への危機と言ってよいでしょう。大方の人は、他者からの、そして、自分発信の、カルト信仰に誘導される危険にさらされていると思います。
 
神は完全、人間は不完全、という弁えと、神の前に、主イエスキリストの御名によって、精いっぱい正直に、祈りを捧げること、それが信仰であり、それ以上でもそれ以下でもありません。しかし、このことさえ、守っているとは思えない場合があります。
 
 
救い、信仰

救い 信仰
 
 
信仰者も、現世において起こってくる様々な悪の有り様と、突然の不幸の有り様を知ることになります、ただ、信仰者は、災いの背後に、今は隠れて見えないけれど、人間に対して至高の存在が、大きな歴史を動かしておられる存在を希望として想うしかなく、キリストを信じ、神を仰ぎ、祈るのであります。
 
昔の人は、考えたのでしょう。今は、こんな有り様だが、きっと、いつも、その御方が背後にはおられ、その御方の計画があって、人を選んで働かせている、そして、いつか、その御方の支配によって、救われる時と所があるに違いないと。そう思う人が出てきて、宗教が生まれることは必然だったのでしょう。
 
それは、まさに、その時代の人が、この世に絶望せずに、生きるためでした。
 
そして、そのことを今考えているのが、私たちなのです。
 
昔の人は、地上の人として、その時代の重荷を負うゆえに、神を、想わなくてはいられませんでした。しかし、その資産によって、現代に至るまで、考え始める切っ掛けとなる聖書が、二千年の間、引き継がれていることを忘れないでほしいのです。
 
聖書は、必ずしも、読みやすいとは言えません。長々と系図で始まったりもしますし、そんなこと分かってると言いたくなることもあるでしょう。大事なのは、人間は不完全ゆえに罪深い、ということです。
 
そして、罪人への伝道が、人の与える名誉や金銭的利益に何のメリットもないのに、憐れみ、共感、愛のみによって、命を捧げた御方が、イエスキリストだということであります。その御方を、救い主として、好き訪れとして、即ち、福音として伝えてゆくのが、キリスト信仰者の務めとなっています。
 
 
旧約聖書では、神と人が直接語り合う場面も出てきます。神という絶対者は、この世の総ての物と生き物と人を造る御方、つまり、全知全能・絶対完全・永遠不変の創造主として書かれています。
 
そして、神は、嵐や雷とともに顕れ、戒める神であり、また、ときには、懲らしめる神であることから考えれば、旧約聖書に徹底して書かれているのは、神と人の違いであります。
 
神は恐るべき全知全能を持つ完全なる存在であること。そして、人は、全知でも全能でもなく、不完全な存在であること。つまり、神の完全を覚えることは、人自身の不完全を知ることであります。それが、人の罪性として理解されることこそが、人類の英知なのです。
 
新約聖書では、実際に生きた人間としての体を持つイエス・キリストが中心であります。ゆえに、キリストは、様々な人々と交流をします。そこで、キリストに救われた人々と、キリストに厳しく批判され否定された人々が分かれます。
 
聖書において救われなかった人については、見える、守っている、知っている、分かっている、という自画自賛や、さらには、人を指して、あのような者でないことを感謝します・・などと神に自慢してしまうような、罪性の自覚のない者だったため、キリストは、彼らを、徹底して批判し、退けました。
 
多くのカルトは、このようにして、退けられます。しかし、思い込みから感性の鈍麻によって固定されたカルト信条は、集団も、個人も、なお、蔓延っているようです。ということは、カルトは、訂正不能のまま、変わらない、という性質を持ちます。
 
ただし、聖書には、パリサイ人にも、律法学者にも、変わる、または、その可能性のありそうだ、という例外も書かれています。そういう例外的な人がいることも、キリストは見逃しませんでした。
 
キリストに救われた人は、キリストの前で、正直に告白し、あるいは、そういう身の上を表しました。世辞のような讃美よりも、率直な物言いを大事にして、ときに、食い下がるように救いを求める人もいました。キリストは、それが、飾らない本心であったため、善しとされました。
 
 
キリストに向かって、へりくだりながらも、飾らず、嘘を吐かず、罪の告白から願いまで、正直に、本気で言いたいと思うことを言う、という祈りの原型が、ここにあります。
 
そして、それは、救われた人々が、孤独ではないことを知る初めの体験でもありました。キリストが人間ひとりひとりの人生に同伴するという福音の原型がここにあるのです。
 
祈りは、唯一、積極的に可能な、人から神への音信であり、導きは、神から人へ心の現象、あるいは、秘められた出来事として与えられます。即ち、信仰は、神と人の、秘められた双方向であります。
 
 
なお、出来事の現象、つまり、成り行きとしての導きは、人には、導きだったかもしれないと推測されることはあっても、神髄については隠されているとしか思えません。それを、決めつけると、自分の推測を信仰?することになるので、注意が必要です。
 
物や肉体に起こる奇跡は、驚くことはあっても、人間は、そういう驚きを、不思議なだけで手に負えないことを、生きる理由とすることは出来ません。大切なことは、起こったとしても一時的で過ぎ去ることではなく、魂つまり心に起こって、心を震わせ動かすことだけが、生きる力になるということです。
 
 
物や肉体に起こることは、人を驚かせますが、それは信仰の神髄ではありません。驚きだけでは、有り難がるだけで、心が成長せず、人は、本当に救われることにはならないからです。また、総てが魔法のように起こると言い張る信仰?も、成長の余地がなくなるので、退けられます。
 
人間は、人間に分かることと、分からないことを、分別するのでなければ、個人においても、集団においても、全体においても、楽山やシャロームなどの易坊類のような陰謀屋によって、容易く騙され、滅びに向かうように出来ているようです。
 
実際、彼ら邪悪な者は、人を、たぶらかし、だまして、存(ながら)えているようです。彼らは、全く、キリスト教を、信仰を、敬虔を、理解していません。なのに、柔和を装い、敬虔芝居をしてきます。自己中で訂正不能のために、学習せず、成長せず、にもかかわらず、自慢し悦に入るのです。
 
 
信仰についての証しとなることは物や肉体の奇跡によるのではありません。人間の心に起こっていることを忘れないでください。超常の言葉と理屈と芝居だけで誘導しようとする心無き者たちの罠に嵌らないように注意してほしいのです。
 
二千年前に、パリサイ人などの偽善をすっぱ抜いて、厳しく批判したのが、イエスキリストです。私はキリスト者なので、キリストを救い主として信じていますが、いつくしみ深きキリストは、鋭い批判者でもあったのです。及ばずながら、キリスト者は、邪教や偽善者に対して、批判者でもあるべきでしょう。
 
少なくとも、悪い言葉の中に批判を含めて、いつも、聞こえのいい言葉だけを使うように教えている教師は、それこそ、ハイソみたいに上品になりたいだけの、神の言葉も、人の言葉も、言葉の本質を何も弁えない偽善の堂々巡りをして、キリストが最も憎んだ偽善を促しています。
 
 
 (エペソ人への手紙、口語訳)4:29
悪い言葉をいっさい、あなたがたの口から出してはいけない。必要があれば、人の徳を高めるのに役立つような言葉を語って、聞いている者の益になるようにしなさい。 
 (エペソ4:29、新約聖書)
 
悪い言葉は、何かを善くしようとする意志のない言葉であり、悪意の言葉であります。ゆえに、悪い言葉に批判を含めることは、パリサイ人を批判したキリストを、おとしめる冒涜であります。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
23:23
偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。はっか、いのんど、クミンなどの薬味の十分の一を宮に納めておりながら、律法の中でもっと重要な、公平とあわれみと忠実とを見のがしている。それもしなければならないが、これも見のがしてはならない。 
23:24
盲目な案内者たちよ。あなたがたは、ぶよはこしているが、らくだはのみこんでいる。
 (マタイ23:23-24、新約聖書)
 
人は、キリストようには無理でも、意見を言い、間違っていたら、できる人が、できるだけ、批判をしなくてはなりません。「悪い言葉」だからと、批判を禁じる者は、キリストの福音を禁じる者、キリストを十字架にかける者であります。そのような動きは、現にあるように思われます。
 
聖書の御言葉は、心で読むものです。言葉面だけで読んだつもりになるのは、心の解放感を伴わないことによって見分けられるでしょう。そして、聖書を読んだ人は、恐れと、救いの共感によって、理解を保留することが出来ます。シャロームは悪意で思い込み、楽山は読まずに呪いながら決めつけてきます。
 
 
(2020年01月01日)
(2021年01月02日、再録+加筆)
(2022年01月12日、再録+修正)
 
蔓延る(はびこる)
遜る(へりくだる、謙る)
嵌る(はまる)
 
 
 
  祈りと叫び
 
いつくしみ深き
神様に感謝します
という賛美の祈りより
神も仏もあるものか!
という叫びの方を
神様は熱心に聞いておられる
ような気がすることがあります
その血塗(ちまみ)れの
蒼白い手に叫びを込めて
父に祈る御子を
遣わされた神様だから
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
人間、そんなものでしょ、・・とでも言いたげな「人間の性」という言葉です。この "2."レスコメント自体が、楽山固有の偽善とペテンの罪を表しています。言えばブーメランで自分に返ってくるという成り行きで、なおも、他人のことを、恥も知らずに言い続ける柔和芝居が、一日も早く、終わりますように。、
 
 
 
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  人からの自由2
 
 
今回は、キリスト信仰の話です。前に書きましたが、キリスト信仰においては、他者からの自由、人からの自由という大きな恵みがあります。ただし、楽山のような、無反省、無責任とは全然、違います。できること精いっぱいする、それ以上できないなら、あとは神に任せましょうと言うことです。
 
しかし、一歩間違えると、神はいつも自分の味方、自分の敵は神の敵、いつか神が復讐してくれる、というような、恐ろしい自己中心の怨念信仰に陥る危険があります。神に対する身勝手な曲解に基づくもので、個人の偶像崇拝であり、正体は、結局、自分信仰であり、一種のカルトであります。
 
例えば、自分について、これでいい・・を神にささげることは出来ません。これでいいかどうかは、神が判断なさることです。これしか出来ません・・を捧げるべきです。
 
愛と恵みばかりを強調して、神への恐れ、戒める神、懲らしめる神を自覚せず教えもしない説教を続けていると、身勝手な依怙贔屓の神信仰、ありがたや信仰になりやすいと思います。
 
そういうカルトに共通しているのは、自己中心、自尊の絶対化、無反省、無責任、無理解、訂正不能、学習不能、成長不能、良心・良識・常識欠如、そして、結果として、妄想の絶対化、理解力・共感力の喪失という人格の破壊です。
 
 
人からの自由、というのは、超人になることではないし、他者からの自由、というのは、他者を無視することではありません。この2つは、似たような意味ですが、カルト的思考という点では、大きな問題であります。この2つを、そのまま実践しているような、反キリストのカルトが現にいるからです。
 
  「妄想コメント」
  に追加して
 
その偽牧師は、
「罪は悔い改めなくても救われるから気にしなくていい」と言い、
それは、キリスト信仰ではないと批判すると、
「今、悔い改めないのは、悔い改めは神が与える」からだと言い、
そのようなキリスト信仰はどこにも存在しない、
まず最初に自由意志で告白し悔い改めるのが信仰の始まりで、
悔い改めていないのは、神が何も与えていない証拠だと言うと、
「生まれながらの自由意志ではなく御言葉と御霊による自由意思」などと言い出し
思いつきで聖霊を持ち出して、自己正当化に悪用し振り回し、中身のない理解不能の造語的組み合わせを平気でしてきます。
 
 その場で繕っただけの言葉遊びを
 自動的に聖霊によって正当化したつもりの偽牧師です。
 
このような妄想をキリスト教として言ってくることこそ、人間らしさから乖離した神がかりの超人意識であり、自分の思いつきが聖霊による神の啓示だと思いこみ、人間らしい自由意志を嫌い、人間を嫌って否定している証拠なのです。
 
そうして、こちらの言ったことを何一つ受け取れないほど理解力が欠け落ちて、妄想が固定してしまっている者がいるということです。人間が、人間離れしたら、人間的な情感の喪失と、人格の破壊によるところの、カルト的狂気に堕ちてしまうのです。
 
そこでは、人間離れした超人気取りが、神がかって、自分の言ったことを、総て、ほぼ自動的に、神の意志と思い込むということが起きていて、反省は皆無のまま、訂正不能になります。
 
そのくせ、好きなように言って、批判を受け取らず、理解も出来ず、しかも、それほど劣悪な精神を見せながら、世辞の丁寧語によって、いつも、まともな宗教指導者であると見せかけて、さらに、次の機会には、何事も無かったかのような白々しさで、挨拶を入れて、また、ゴタクを並べるのです。
 
自尊の絶対化、という、神が最も嫌う大罪を犯しながら、いつも、神の平安の中に守られています・・などと言うほどの、100%の背教と、180度の逆転が、恒常的に起きるのは、初期の信仰理解が、まるで成り立っていないからです。
 
まともに人の話を理解できず、自分の理解というより都合だけで、キリスト教の言葉を的外れの方向に振り回して、悦に入っている妄想的人格破壊の姿であります。それが、その者の中だけで終わらず、キリスト信仰として、広めようとするのだから、迷惑というより邪悪かつ有害であります。
 
 
キリスト信仰による人からの自由は、超人になることではなく、完全になることでもなく、また、ゆえに、神のしもべとして完全になるという詭弁でもなく、神に近づくことでもなく、他者より優位に立つということでもなく、優れた者になることではなく、ただ、人間としての一生を全うすることであります。
 
そのために、キリストの同伴を必要とし、主なる神を恐れ、主なる神に対してだけは正直となるためなのです。
 
キリスト信仰による人からの自由は、おもに、旧約聖書から、神という絶対の存在を知り、それとは違う不完全な存在としての自らを知ることです。見方を変えれば、自分と同じような不完全な他者に隷属する必要はないという意味で、人からの自由なのです。
 
そして、おもに、新約聖書から、キリストの御名によって、正直に祈ることを学びます。よって、他者の批判を無視することでなく、反省・自省・修正・学習したうえで、他者の執拗で悪質な言葉や、世俗の思い込みや先入観・固定観念から、自由になることです。
 
むしろ、神を恐れ、不完全な自分を知り、その違いと分別をわきまえ、主の慈しみを知るゆえに、恐るべき神への信仰が、人への恐れから解放し、ゆえに、人からの自由とも言えるのです。神を恐れ、主を愛するがゆえに、恐れることなく、人を愛するようになるという恵みです。
 
 (詩篇、口語訳)111:10
主を恐れることは知恵のはじめである。
これを行う者はみな良き悟りを得る。
主の誉は、とこしえに、うせることはない。
 (詩篇111:10、旧約聖書)
 
キリスト信仰による人からの自由は、キリストの御名によって、他者をないがしろにすることではなく、他者に誇ってよいことでもなく、・・ただただ、人間らしく生きるためであります。だから、苦難に直面し、くずおれることなく、回復する力でもあります。
 
キリスト信仰による人からの自由は、この世の形骸に命を託すことのないように、カルトの誘惑や脅迫に支配されることのないように、欲望を貪るだけの餓鬼になることなく、人を貪る悪魔に魅入られることなく、・・ただただ、人間らしく生きるためであります。
 
キリストの同伴という慈しみによって、人が見捨てても、見捨てられた者となることなく、絶対孤独に囚われることなく、生きることを諦めることがありません。罪深いこの世の形骸に、ときに従うことがあっても奴隷とならず、いかなる人の奴隷ともなりません。支えるのは、正直な祈りであります。
 
打ちひしがれることがあって失望しても、絶望とはなりません。悲しんでいても、絶望に支配されず、キリストの限りない愛と共感に個人として結ばれ、決して誤りのない生き方の境地とかではなく、信仰は、過ちを犯しても、正直に祈り、悔い改めて立ち直れる道であります。
 
ゆえに、キリスト信仰の、"人からの自由" は、他者の思惑に振り回されることなく、どのような境遇にあっても、他者から独立し自立した人格の尊厳から、むしろ、同じ人間である他者を大切に思う心を育てるためであります。人間を生かす愛と共感を学ぶために、キリスト信仰があるとも言えるのです。
 
 
自由

自由
 
 
(2019年12月10日)
(2021年01月07日、加筆して再録)
 
 
 
  問いと自由
 
なぜ生まれたのか
なぜ生きるのか
なぜ死ぬのか
土の上にも土の下にも
答は見つからないだろうし
その答を探そうとするうちに
問いの方が先に消滅する
ということは分かっている
 
水の上にも水の下にも
問うこともなく
答を求めたがることもなく
生きて死ぬ動物も植物も
子孫を残すという目的に
すべてを捧げ命を削っている
 
子孫を残すかどうかを選ぶという自由は
火の上にも火の下にも
クローンの時代のように残酷である
 
自らの遺伝子を残すことに
無条件の喜びを疑わない一方で
動物にも植物にも人間にも
種を残せない生と死があることは
遺伝子の皮肉だろうか悲劇だろうか
種に問いかけられることのない
自由だろうか
 
問いの自由の
木から落ちた猿よ
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
詫びても芝居、反省も芝居、言ってることの根拠は偏見、攻めるに守るに嘘を吐き、失敗にも罪にも偽善にも悪にも気づくことなく、不都合を自分の中で無かったことにして、平気で厚顔無恥のまま、行進するピエロには、出会うことが不幸、つまり、楽山に関わることが悲劇であります。
 
 
 
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  詭弁について2
 
 st、楽山 問題を振り返る 2019年12月22日
 楽山日記(LD)の批判記事を再録+
 シャローム( shalom、シャロム、あなた、彼)
 
 
楽山ブログは、ほぼ、カルトと詭弁の資料となっています。去年の楽山の記事にシャロームの言をみつけたので、カルトの詭弁について考えてみます。楽山は、シャロームが正当だと主張するために引用しているわけですが、結局、シャロームの詭弁がまとめられていて、楽山は肯定しているのです。
 
 (ローマ人への手紙、口語訳)
2:3
ああ、このような事を行う者どもをさばきながら、しかも自ら同じことを行う人よ。あなたは、神のさばきをのがれうると思うのか。 
2:4
それとも、神の慈愛があなたを悔改めに導くことも知らないで、その慈愛と忍耐と寛容との富を軽んじるのか。
 (ローマ2:3-4、新約聖書)
 
神が導く、ゆえに、悔い改めは神によって与えられる。これを、シャロームは、自分で悔い改めることをしないことの言い訳にしています。
 
悔い改めるのは人であること、そして、シャロームが悔い改めていないのは、神の導きがない、または、シャロームが導きを無視している証拠、それは、そのまま、シャロームがキリスト者ではないことの証拠です。
 
>「イエスの十字架によるあがないを信じていれば、悔い改めは必要ない?」
悔い改めなしにイエスの十字架の死による罪のあがないを信じることはあり得ません。しかし、重要なことはイエスの十字架による罪のあがないによってのみ、人はまことの悔い改めに導かれるということです。ですから、悔い改めは人のわざではなく、神によって与えられる恵みの賜物なのです。
 
キリストだけに罪の贖いをさせて、自分は、罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい、といって訂正する気のないシャロームの言い訳の詭弁です。
 
シャロームは、神が悔い改めに導くと、人は操り人形のように悔い改めをするとでも思っているのでしょうか。祭りの見世物のように、極めて幼稚な解釈です。
 
このように、シャロームは、心で悔いることがないために、聖書を、超常の奇跡~魔法のようなこととして受け取っていることが分かります。ゆえに、カルトでしかありえないのです。あるいは、キリスト教遊び~ごっこをしているだけです。
 
言うまでもなく神への冒涜ですが、それ以上に、シャロームの言は、人への嘘吐きそして詐欺行為ということです。だまされた人は、トンデモ偽善クリスチャンもどきになるだけです。
 
悔い改めることの主語は人です。人の悔い改めに答えて人を赦す主語は神です。人が悔い改めるのです。与えたり人がもらったりするものではありません。シャロームは、言葉も理路も、主客の区別も、分からないので、メチャクチャなことを言っています。
 
神は、悔い改めの道を用意して導き、人が悔い改めるのを、即ち、正直に祈ることを、愛の寛容をもって、待っておられます。
 
神のほうから救いの約束を反故にすることはありません。したがって、悔い改めない者が赦されることも、決して、ないのです。
 
だからといって、キリスト者以外は地獄行きなどというのは、恐らく、自らの信仰に舞い上がった未熟者の言うことでしょう。天国か地獄か、死後の沙汰など、人に分かるはずもありません。人が決めつけて語るのは、神を恐れないトンデモ信仰になります。
 
肉の働きから悔い改めは決して生じないのです。
 
恐ろしいことに、シャロームは、人が、自分の意志で悔い改めることを、肉の働き、つまり、欲望のなせる悪しきわざと見なしています。まさに、シャロームは、自分に悔い改める意志のないことを、自分で証ししているのです。
 
これは、シャロームが、悔い、ということを、高等感情が鈍麻しているために、直感できず、全く理解していないからだろうと思います。
 
人が自分の意志で悔い改めなくては、人が、神のもとで、人自身の意志で生き続けることは出来ないということです。つまり、シャロームは、自分が生きているのではない、という、超常魔術妄想を語っています。
 
シャロームは、信仰者は、神が信仰者を何でも良いほうに導かれるのだから人として考えるのは止めろ、と言っています。だから、人の意志を汚れたものと見て、人の意志で悔い改めることを肉の欲望と言っているわけです。
 
シャロームは自身のことを神が動かすオートマタのような人形となっているという信仰です。この男が、クリスチャン、そして、恐ろしいことに、元牧師を名乗って記事を書いていたのです。人間離れの化け物に過ぎません。
 
楽山は、このシャロームに、無条件賛同しています。楽山の、聖書と神とキリストと信仰についての言は、全く信用してはいけないということが、これで明らかになっています。
 
悔い改めをもって自分を義としたり、誇ったり、人を裁くこと、だれも他の人に悔い改めを要求することは出来ないのです。そのような悔い改めは神から与えられた悔い改めではなく、人の自我から生じた肉のわざなのです。
 
キリスト信仰に、悔い改めは必須です。それをしない偽者を、偽者だと言わなければ、この世は、カルトの天国あるいは地獄となって混乱するでしょう。
 
悔い改めを要求してはいません。悔い改めていないならば、キリスト者ではありえないと言っています。悔い改めは、神に対して、正直に罪を認める祈りであります。
 
私は、できることをしているだけです。私は自分を義としてはいません。私は折に触れて精いっぱい正直に祈っています。キリストの荷は軽いから、出来ることです。
 
シャロームが、真逆を言っていることが分かります。このように、自分が言われそうなことを、言葉だけいじくって、詭弁をしつらえて、あたかも主張であるかのように言ってくるのは、今に始まったことではありません。それも、詭弁を生業とする者の手段なのです。
 
自我の欲望のほうを向くのをやめて、神のほうを向くことが、祈りであり、悔い改めなのです。
 
悔い改めて、行いが神に相応しくなることは、比較的にはあるでしょうが、完全には、ありません。
 
すなわち、神のほうを向くとは、行いを正すことを努力することではありますが、必須としてはいません。神のように正しくはなれないからです。精いっぱい正直に・・と前に書いたのは、そのためであります。
 
シャロームは、神のほうを向くことのない、信仰の欠片もない、職業的宗教詐欺師なのでしょう。これまでのことから、良心の欠片もありません。信仰者らしい良心を見せたことがないからです。
 
自分を義としたり、誇ったり、人を詭弁で騙したり、裁いたりしているのはシャロームに他なりません。そして、これは、シャロームの欲望が為せるわざに他なりません。
 
>「イエスの十字架によるあがないを信じていても、悔い改めは必要?」
必要ですね。イエスの十字架による罪のあがないを信じることによって、罪の赦しを与えられますが、私たちは人としての弱さをもった存在には変わりませんから、罪を犯し、過ちを犯さないでで生きていくことは出来ません。
2018/12/12(水) 午後 6:29[ shalom ]返信する
 
シャロームは、今までの、おびただしい偽善と背教を隠していますが、どういう顔をして、神の前に立つつもりなのでしょう。また、今までも悔い改めの祈りなど捧げたことはなく、自動的?に赦されたかのような妄想的な思い込みに過ぎないのに、罪を犯し、偽善を働くたびに、また、嘘を積み重ねるつもりでしょうか。シャロームは、今、所在不明です。気をつけましょう。
 
しかし、それも神の恵みによって、私たちを罪の性質から清め導く神の恵みの御業のなかにあるのです。罪を犯し過ちを犯すたびに聖霊様がわたしたちをイエスの十字架のもとに導き、悔い改めに導いてくださるのです。
 
だから、悔い改めたのかと言っています。その代わりに、上のような、いちゃもんが返ってくるのです。
 
神の恵みの御業の中にあって、平気で、嘘を吐き、偽善を働き、詭弁を弄してきたシャロームです。どうやって清められるつもりなのでしょう。導きに気づかず、悔い改めず、どうやって、キリストの十字架のもとにゆくのでしょう。キリストを騙すつもりでしょうか。神は、総てを既に見抜いておられます。そして、いつまでも黙って見ておられる御方ではありません。
 
そのように御言葉と聖霊の助けによって私たちの心の闇が明るみに出されることによって、はじめて、私たちの心の闇が御言葉の光にさらされ、悔い改めに導かれ、その光にさらされることによって闇の力は砕かれ、清められるのです。この点においても悔い改めは神の恵みによって与えられるのです。
罪の増すところ恵みもいや増せり(ロマ5:20)
 
詭弁を弄するとは、このことです。御言葉、聖霊、助け、闇が明るみに、光、悔い改め、闇の力は砕かれ、清められ、・・美辞麗句の聖書語を、こんなに安っぽく並べて、何より"悔い改めない"シャロームは、どうやって、救われるつもりなのでしょう。
 
罪の増し加わったところには、恵みもますます満ちあふれた。(ローマ5:20)
という聖句ですが・・
 
 (ローマ人への手紙、口語訳)5:20
律法がはいり込んできたのは、罪過の増し加わるためである。しかし、罪の増し加わったところには、恵みもますます満ちあふれた。 
 (ローマ5:20、新約聖書)
 
律法を曲解して信仰を堕落させる者たちによって、むしろ、罪が増し加わったが、そのために悔い改めによる恵みもますます満ち溢れた、という意味のパウロの言葉でしょう。
 
パリサイ人は悔い改めずキリストを殺しました。人自身が悔い改めないところに信仰は生まれず、恵みが増し加わることはないのです。
 
そういう深く悔いる罪人は深く悔い改めるから恵みが満ち溢れる、という意味の聖句を、悔い改めなくても恵まれるからと、罪を増し加えているシャロームは、自分に都合よく解釈をして、自分の意志で悔い改めないでいられるわけです。
 
それで救われるつもりでいるのは、シャロームだけです。シャロームも楽山も、日本語訳の通常の理路さえも、理解しているとは思えません。つまり、キリスト教について、何も知らないのです。
 
偽キリスト者、偽牧師の、シャロームの、詭弁の言い逃れです。もう、たくさんです。
 
口語訳エペソ
5:12 彼らが隠れて行っていることは、口にするだけでも恥ずかしい事である。
5:13 しかし、光にさらされる時、すべてのものは、明らかになる。
5:14 明らかにされたものは皆、光となるのである。だから、こう書いてある、/「眠っている者よ、起きなさい。死人のなかから、立ち上がりなさい。そうすれば、キリストがあなたを照すであろう」。
2018/12/12(水) 午後 6:30[ shalom ]返信する 
 
シャロームが隠れて行なっていることは、口にするだけでも恥ずかしいことであります。光にさらされるとき、総てのものは、明らかになる。シャロームは、まだ嘘を吐き続けるのでしょうか。キリストがあなたを照らし、総てのものが、あなたが大嘘吐きであることを明らかにするでしょう。
 
シャロームは、これだけ、聖句が自分を斬っていても、笑っていられる男です。なぜかと言えば、シャロームは、神を、全く信じていないからです。だからこそ、シャロームは、今までのような悪意と嘲笑いの嘘から出てくる詭弁を平気で得々と言ってくるのです。
 
カルト、偽善者、詐欺師、など、嘘吐きは、批判されると、嘘を守るために、また嘘を吐くしかありません。それが、嘘吐きの宿命であり、現象として起こってくる必然の報いなのです。
 
嘘を吐いていると、その嘘によって個人が、他覚的にも自覚的にも、規定されてゆき、嘘が癖となり、普通となります。つまり、嘘が常態化すると、本当の自分が、嘘を吐かない自分がいなくなるのです。
 
シャロームは、現在、所在不明です。ひょいと、丁寧語の世辞で挨拶をして、コメントを書いてくることがありますから、くれぐれも、丁寧語や世辞に騙されないように、注意してください。
 
 
恐怖の群れ

きょうふのむれ
 
 
(2020年03月15日、同日一部修正)
(2021年03月18日、再録+)
 
 
 楽山のリツイートですが
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
>>
水木しげるZZ
@shigerumizukizz
「自由には責任が伴います」
まじで「どの口が言う」だな幸福の科学。
周庭氏の守護霊を騙って垂れ流した発言が国際問題レベルで騒がれた時、信教の自由だ表現の自由だと言って訂正を拒んだお前らが一体どんな責任を取ったと?
こういう団体をきちんと取材し続ける存在は絶対に必要だと思いますけどね。
>>>引用ツイート
 藤倉善郎YoshiroFujikura@やや日刊カルト新聞総裁
 @SuspendedNyorai
  · 22時間
 幸福の科学のコメント「自由には責任が伴います。」
 そうだよ。幸福の科学だって、信教の自由と同時に社会的責任がある。だから取材するんだ。これ からもな。
 取材で「幸福の科学」施設に立ち入り ⇒ 罰金10万円の有罪判決。
 「報道の自由が大きく損なわれる」と控訴へ
<<<
午前5:37 · 2021年3月17日·Twitter for iPad
<<
 
引用元2人を批判する気はありません。
 
2人は、「自由には責任が伴う」というHSの発言を、HSもだと、HSの社会的責任を追及しています。正論だと思います。
 
しかし、楽山がリツイートして賛同する資格はありません。
 
楽山こそは、反省せず、責任を負わないでいる自己中カルトに過ぎないのです。楽山は、楽山として責任を問われるべき人です。
 
この楽山のリツイートは、盗人が、盗みをしてはいけない、と説教しているようなものです。
 
楽山は、批判者にはなれません。楽山は、アンチにはなれません。
 
楽山は、アンチHSではなく、HSでもなく、嘘と詭弁と誘導と印象操作で、人を疲れさせ、傷つけて悦ぶだけの異常者です。
 
楽山は、まともな応答が出来る理路も共感も持っていない病質的エゴイストです。決して関わらないでください。相手にしないでください。近づかないでください。
 
 
(2021年03月18日)
 
 
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  繰り返す厚顔無恥2
 
 私の記事「Rose Garden」コメント欄
 コメント者:シャローム( shalom、シャロム、あなた、彼)
 
 
偽善者・偽クリスチャン・偽牧師のシャロームが、凄まじい詭弁で言い逃れをしている、という、過去記事を、加筆修正して再録します。偽善者の典型が表れています。
 
"名無し"からの荒らしコメントです。私が既に言って、反論も弁明も出来なかったのに、また、書いてきます。荒らしは"猫かぶり"です。
 
宗教家に成りすました、恐らく、シャロームが、自分で、そう名乗っています。呆れます。あとで、何か言われたとき、自分じゃないよと、とぼけるためでしょうか。
 
1. 所在不明の名無しの猫かぶりです
 2020年01月21日 10:50
st5402さん おはようございます
「罪を認めることからキリスト信仰は始まります。」とのことですが、
キリスト信仰は神の赦しから始まります。
 
シャローム、名前を書きなさい。卑怯者め。
 
何を赦すというのでしょう。罪を認めて告白して、赦されるのです。認めてもいない罪は、赦しようがありません。
 
あなたの都合に合わせて、神が、告白もしない罪を赦す、などということは、決してありません。
 
人はイエスの十字架の血潮に罪贖われ、神の恵みによって赦されてはじめて、罪を悔い、自己受容でき、赦すこと、他者受容ができるのです。
 
血潮に罪贖われ、などと、かっこつけても無駄です。前にも言ったことを、また繰り返す愚は、そのまま、ネットの疲労物質としてのあなたの悪意です。
 
どんな罪でも自己受容して気にしないシャロームですが、信仰者が求めるのは、神に受け入れられることであります。シャロームの、汚い詭弁は、永遠に、神に受容されることはないのです。
 
使徒パウロは「それとも、神の慈愛があなたを悔改めに導くことも知らないで、その慈愛と忍耐と寛容との富を軽んじるのか。」と書いています。
 
これも、前に、私が書いたこと。あなたシャロームが悔い改めないでいるのは、神の慈愛も受け取らず、悔い改めもしていないという、あなたが信仰に関する何ものも受け取っていないことの証明です。
 
初めに神天地を創り給えりという言葉で聖書が始まっているように。
神の天地創造のわざにおいて人は指一本もなしうることはありませんでした。神は創造されたすべてのものをご覧になり、“すべてはよかった”と言われたのです。
 
"すべてはよかった" のを、自分で台無しにして、悪質な言説におとしめているのが、あなたシャロームです。シャロームは、人の自由意志を、神の御心とは、まるで逆方向に使っているのです。
 
これも、前に、あなたシャロームが、言ったこと。ここにしがみついている醜さが、あなたシャロームです。すべてがよかった、だから、悔い改めない自分もよい、これが、あなたのエゴから出た詭弁です。自分の都合に合わせて、聖書解釈を捏造する、あなたシャロームの醜さ全開。
 
使徒ヤコブは「あらゆる良い贈り物、あらゆる完全な賜物は、上から、光の父から下って来る。父には、変化とか回転の影とかいうものはない。」と書き記しています。ほかにもたくさん同じ意味の言葉がありますが、
読んだことはありませんか?それともst5402さんの聖書には書かれていないのですか?それともいつものように読んでおられないのでしょうか?
 
実に、ふざけた皮肉を書いています。シャロームの、自分のほうが上で、私が下だと言いたいがための醜い文言です。私は、学者ではないし聖書も完璧に読んではいません。
 
しかし、シャロームが、聖書を読んでいるとは、少しも思えません。誇大妄想に聖書を悪用しているだけです。この皮肉によって、シャロームの悪意は明らかでしょう。
 
さらに、シャロームが聖書をまともに読んでいるなら、今の悪意も、今までの偽善も、なかったはずなのです。シャロームは、自らの悪意を、自ら証明しています。
 
前に私は書いています。聖句は検索すればよいと。あなたは、本当に、人の言うこと、聞いてないですね。記憶障害でしょうか、認知症その他の精神障害でしょうか、否、知ったかぶりの傲慢からの悪意です。それで気持ちがいいのでしょうか、それが悪魔性です。
 
あなたシャロームは、わずかばかりの聖書の知識さえ、人をおとしめる道具にするのです。そういう性質しか持たないのでしょう。これも、あなたシャロームの罪と偽善に対して与えられる報いなのでしょう。明らかなのは、聖書を読んでも、何も受け取らないシャロームという悪意の者がいるということです。
 
 (ヤコブの手紙、口語訳)1:15-16
欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生み出す。愛する兄弟たちよ。思い違いをしてはいけない。
 (ヤコブ1:15-16、新約聖書)
 
これが、あなたシャロームです。そして
 
 (ヤコブの手紙、口語訳)1:17-18
あらゆる良い贈り物、あらゆる完全な賜物は、上から、光の父から下って来る。父には、変化とか回転の影とかいうものはない。父は、わたしたちを、いわば被造物の初穂とするために、真理の言葉によって御旨のままに、生み出して下さったのである。
 (ヤコブ1:17-18、新約聖書)
 
私は、神について、全知全能、絶対完全、永遠不変、と書いています。何を勘違いしているのでしょう。絶対言葉を理解できなくても、神は恐るべし、ということです。それを、全く恐れず、悪だくみに利用しているのが、あなたシャロームです。
 
「信仰は聞くことから、聞くことはキリストの言葉から」という言葉もありますがだれがどこに書いているのでしょうか?
いつもwikiは役に立ちますね。
名無しの猫かぶり
 
ふざけたHNと態度で、聖書とキリストを語るな。
 
あなたシャロームは、聖書のキリストに聞こうとしません。また、あなたは、人の言うことを聞こうともしません。あまりにも、哀れな、くずれようです。それでも、分かっているかのように、教えようとします。
 
あなたは、あなた自身の惨状にさえ、気づかなくなっています。一切、無駄なのです。もうバレてしまったのです。だから、聖句をいくら引用しても、一切は無駄なのです。
 
 (ローマ人への手紙、口語訳)
10:14
しかし、信じたことのない者を、どうして呼び求めることがあろうか。聞いたことのない者を、どうして信じることがあろうか。宣べ伝える者がいなくては、どうして聞くことがあろうか。
10:15
つかわされなくては、どうして宣べ伝えることがあろうか。「ああ、麗しいかな、良きおとずれを告げる者の足は」と書いてあるとおりである。
10:16
しかし、すべての人が福音に聞き従ったのではない。イザヤは、「主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか」と言っている。
10:17
したがって、信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来るのである。
 (ローマ10:14-17、新約聖書)
 
(ネットより)
御言葉を通して主と人格的な交わりを持つ事はもっと重要です。
http://shinjuku-shalom.com/archives/4227
新宿シャローム教会・・同じシャロームでも、えらい違い。
 
私たち人間は、人格的な交わりを持つことしか出来ません。神聖を、自分に当てはめたり、なぞらえたりすることは、神に対する大罪であります。神聖は神のものです。
 
したがって、神聖を分かってるふうに上から教えようとするシャロームは、何か書くたびに、大罪を犯しているのです。その罪の日数は、赦されることを拒んでいる日数となります。
 
あなたシャロームは、いったい、何を聞いてきたのでしょう。聞くこと、そして、キリストの言葉から、何も学んでいないことだけを表してきたのです。むしろ、逆へ、逆へと進んでいます。
 
だから、私も、もはや、あなたとは、関わりたくないのです。あなたのコメントは、カルト宗教からのハラスメントに他なりません。
 
あなたシャロームは、福音に聞き従わない者たちの一人です。キリストに聞かず、聖書に学ばず、しかも、分かっているふうに、妄想の上に、ふんぞり返っているから、パリサイ人であり、偽善者であり、ますます、醜く、かつ滑稽です。
 
あなたシャロームに好意的に関わる者は、あなたと同じように、人格が破壊されてゆきます。
 
恥も罪も知らないということは恐ろしいことです。こんなに醜悪な者たちが、キリスト教の内部や周辺には、我を張っているのです。
 
あなたシャロームは、罪の門口に待ち伏せている悪魔に、詭弁で言い訳することになるのでしょう。その結果は、・・目を覆うばかりです。だから、私も、偽善者の資料として以上には、もはや、関わりたくないのです。
 
このように、ネットだからと甘く見て、書き捨て御免とばかり、嘘、でっち上げ、妄想、詭弁など、いい加減なことを、好きなように言って、傍若無人を通していると、履歴と記録の残るネットだからこそ、偽善に対する批判記事の集積という莫大な負の財産を残すことになります。シャロームは10年分です。
 
 
恥知らず

恥知らず
 
 
(2020年01月22日)
(2021年01月23日、一部加筆修正して再録、さらに加筆)
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
https://ameblo.jp/st5402jp/
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  丁寧語の災い2
 
   「知と恥を捨てる者」コメント欄
   シャローム(shalom、シャロム、あなた、彼)
   過去記事を再録+
 
 
シャロームは、バカ丁寧な言葉で、まるで今でも先生であるかのように書いてきます。もう、既に何度も馬脚をあらわして、偽善者でしかなく、反キリストでしかなく、良心の欠片もないことが明らかになっており、弁明の余地はないのに、まだ、何かを教えようとする、びくともしない説教根性というより因業であり、シャロームが、何かを書けば、嘘か妄想か背教が、そのたびに明らかになるという繰り返しの成り行きであります。
 
シャロームは、もはや、常識的な判断力がないのでしょう。完全に拒否しているのに、相変わらず、お愛想で訪問すればいいじゃろ・・と思っているのです。総てが崩れているのに。つまり、シャロームは、既に瓦礫と化した中を、デパートの売り場を巡るように、和みを表しているつもりの世辞とともにうろついている亡者なのです。説得力の欠片もないからです。
 
1. shalomです。おはようございます
 2019年12月16日 08:49
引用した言葉はST5402さんが書かかれたものです。
精神科の医師として患者さんと面会し、あなたは大切なことを学んでいながら、実践しておられることは前半だけで、後半は少しも実践していないようですね。
 「精神科の面接をしていて、心に弱点を持つ人に接して、考えたことがあります。依存されないために大事なことは、好意的な、よそよそしさを持つ、ということです。あなたはあなた、私は私、でも、できることはしますよ、というスタンスを持つことが大切だろうと思っています。これは、精神的な距離の問題ですが、距離という言い方をしなくても、当然のことなのです。」
 「あなたはあなた。私は私、でもできることはしますよ、というスタンスを持つことが大切だろうと思っています。これは、精神的な距離の問題ですが、距離という言い方をしなくても、当然なのです。」
  」
いいですね!
 
私が、個人のこととして書いたことを、好きなように持ち出して、あたかも一人前が半人前に説諭でもするように、いいですね!と、ここに至って、丁寧語でごまかしていますが、シャロームの丁寧語=慇懃無礼の害毒であること知ってほしいと思います。
 
「後半は少しも実践していないようですね」と、シャロームは、シャローム自身に対して私が出来ることをしていない、と言いたいようです。これが、慇懃無礼の、無礼であり、侮辱なのです。
 
反キリスト丸出しのシャロームに対しては、書いてくる嫌がらせについて、根拠をもって否定するのみであり、好意的に出来ることなどありません。もはや、シャロームは、背教と反キリストの実例としての資料に過ぎません。
 
シャロームは、持ち前の丁寧語という害毒で、思いやりを示したつもりのようですが、シャロームの丁寧語は、底意地の悪さを隠すための、言うだけはタダという、これも気持ちとは裏腹な作り事、つまり嘘、すなわち、偽善なのです。
 
シャロームの発言を、長く受けておれば、むしろ、いっそう、嫌らしさが伝わってきます。これが、学習機能の、有りと無しの違いなのです。学習しない者は、成長がないので、嘘で飾り続けるしかなくなってゆくということです。
 
2. shalomです。おはようございます
 2019年12月16日 08:52
精神的な距離という言葉もいいのですが、私は境界線という言葉をよく使います。アドラー心理学もとても大切にしている考え方のようです。
日本社会は母性社会であり、自他未分化、共依存社会ですから、この人と人との精神的な距離、境界線が不明瞭な社会であると「母性社会日本の病理」において河合隼雄氏は書いておられるようです。
自分が自分であることができないため、他者を他者として認め、人を個人として受け容れることができない、つまり、自分と他者を区別できず、あるがままで受け容れることができない、愛することが執着化してしまい、心の病の主因ということもできるかなと思います。もちろんその他の多くの要因はあると思われますが・・・
 
あなたの見解など、何も聞いておりません。私は、あなたシャロームの日本語には、ずいぶん以前から、理路もなく共感も感じないと言ってきました。心が無いのに、何かを伝えた気になりたいのでしょう。
 
境界線、母性社会、自他未文化、共依存社会、・・シャロームの言っていることは、既に、大方、私に当てつけたボロクソ節なのです。しかも、何かの本から取ってきた言葉で、シャロームが理解しているとは思えません。
 
そして、境界線を守ることを他者無視と自分勝手と置き換え、母性社会の未熟を境界線がないことと置き換え、自他未分化を批判者に当てて、自己正当化をしたつもりなのです。しかし、総て、シャロームのほうの自己中・身勝手・人格の未熟・自己中に従わない他者への侮辱の正当化の詭弁です。
 
そういう話を何度も聞かされている者、つまり、こちらとしては、おえっと吐き気を覚えるほど、食傷する独り善がりなのです。シャロームこそ、自他未分化で、自分の言うことに他者が従わないことを考えることができず、何の対処も弁明もできない人です。
 
シャロームは、恐らく、自他未分化だけでなく、人神未分化の状態でしょう。だから、自己の妄想を、そのまま神意として、前には、聖霊による導きだと言っていました。
 
既に、私を、散々貶めてきたという今までの状況で、今ここで、その話をして、教えようとすることが、状況と前後関係からありえないし、独りで浮いている格好だし、奇妙で不適切であるということだけであり、それを弁えることも出来なくなっているシャロームです。
 
鬼のような顔の次の瞬間、仏の顔真似だけしてくるのは、嘘吐きの詐欺師だからこそできる劣悪な原始反応です。状況の把握ができない証拠です。シャロームの丁寧語は、そういう本質を持ちます。
 
※人を個人として受け容れることができない・・・
自民党の憲法改正案には現在の憲法に規定してある「人は個人として尊重される」ではなく、「人として尊重される」という文に書き換えられていることは注目しなければなりません。基本的人権を否定する道に通じています。
 
シャロームは、ここで、脈絡もなく、政治の話になっています。私は、護憲派ですが、嘘吐きの話を、誰かの正論の引用であっても、決して受け入れてはいけません。これも騙しのテクニックです。シャロームの、体のいい話に、体のいい返事などすると、大喜びの振りをして、うんざりするような続きを聞かされるでしょう。すでに経験・実証済みです。
 
シャロームは憲法の精神を全く理解していません。憲法によって守るべき個人の尊重は、それが、公共の福祉に反しない限り、という制約が吐きます。反社会的な詐欺師などの犯罪者が個人の尊重によって無罪になることはありません。
 
であれば、自己中妄想に凝り固まって嘘と詭弁をばらまいているシャローム個人の場合、強制的に刑罰を与える対象でもないのだし、言論で批判対象とすることは、何ら憲法に反することではありません。吐き気のするようなシャロームの詭弁の大嘘です。
 
グローバル化し、異なる国、民族が、異なる価値観、文化が激しく衝突を深め、国も民族も、個人もアイデンティティー危機によって、ますます混乱と閉塞感を深めていくことでしょう。
分断を深めていくか、統合の道を見出すことができるか?
わたしたちは、死ぬか、生きるかの分かれ道に立たされているようです。迷走と模索は続きますが、人の手の内に、その道があるのか疑問です。 
 
このような話は、シャロームの得意なボロクソ節です。独り有頂天の誇大妄想です。脅しに近い極端な言い方を好みます。シャロームは、預言者気取りなのでしょう。実質は、真逆です。
 
シャロームの言論が統合を失調しているのは、文脈が、個人の人間関係から、国政の話へと、脈絡もなく飛んでいます。つまり、その間にあることを、スコ~ンと無視している、つまり、話の筋を追えないのが、シャロームの文章です。シャロームの言のベースに理路はありません。
 
グローバル化、民族、価値観、文化、衝突、国、アイデンティティー危機、混乱、閉塞感、いずれも、シャロームが、既に、他者の言葉を拾い集めてきた言葉で、深い理解も考察もなく、自分は政治をも語れるのだ!という誇大気分で豪語でもしたくて興奮したときに、並べ立てるボロクソ節であります。
 
あなたシャロームには、悔い改めないのであれば、キリスト者として生きる道はありません。また、政治思想は、あまりにも貧弱でお粗末な、受け売りと人真似と誇大妄想ですから、これも、生きる道にはなりません。
 
みんな、バレてしまったのです。反キリストのシャローム、せめて、黙っていなさい。退いて、二度と来ないように。
 
このシャロームに対して、かわいそうなどと思ったら、あざ笑う用意だけはいつもしているシャロームに、逆に、調子に乗られて、食われてしまうわけです。既に経験済みのことです。
 
3. shalomです。おはようございます
 2019年12月16日 08:53
統合の道は人の道か?
新約・マルコによる福音書1章1~3節
1:1 神の子イエス・キリストの福音のはじめ。
1:2 預言者イザヤの書に、「見よ、わたしは使をあなたの先につかわし、あなたの道を整えさせるであろう。
1:3 荒野で呼ばわる者の声がする、『主の道を備えよ、その道筋をまっすぐにせよ』」と書いてある。
 
先ず、おのれから、まっすぐにせよ、嘘を吐くな、と言いたい。これは、聖句というより、信仰に適うところの、人間の道徳です。しかし、それよりも、信仰において、いちばん大事な、正直さを、シャロームは、神に対しても、人に対しても、全く持っていません。
 
>統合の道は主の道か?
 
先ほどの政治の話の「統合の道を見出すことができるか」の流れなら、
 
 (マタイによる福音書、口語訳)22:21
彼らは「カイザルのです」と答えた。するとイエスは言われた、「それでは、カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」。
 (マタイ22:21、新約聖書)
 
と書いてあります。信仰の話に、政治をぶっこむな。
 
新約・マタイによる福音書7章13~14節
7:13 狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い。
7:14 命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない。
 
あなたシャロームは、安易な、ぱっくりと大きな口を開けた罪と偽善の門、広き道、嘘吐きの道、讃美しておけばいいという大袈裟な豪語の道、他者を気にせず失禁する流涎の言葉とともに、陰気な暗闇の洞窟を、ずっと、選んで、実際は独りで、堕ちてきました。
 
ST5402さん 永い間ほんとうにお疲れ様でした。
随分悪態をつき、有終の美とは程遠い終幕となりましたが、
ありがとうございました!
人生の終幕はイエスさまの死と共にもう既に切り裂かれ、
拓かれていますので、希望をもって、
イエスさまが開いてくださった新しい道を歩みたいと思っています。
Shalom!
 
こうやって、言葉面だけ、整えようとするのが、あなたシャロームの、忌まわしい丁寧語なのです。昔、ずいぶん騙されたものです。丁寧語の中の、獣性を見逃さないことが大事です。
 
「随分悪態をつき」・・あなたのことですか。心にもないことを。もう何を言っても信頼されないところに来ています。楽山より先に、信頼度ゼロになったシャロームです。
 
「イエスさまの死と共にもう既に切り裂かれ」ているなら、あなたシャロームの「罪は悔い改めなくても赦されるから気にしない」という信条も、今までの嘘っぱちも、無かったはずなのです。また、嘘を吐いています。
 
「イエスさまが開いてくださった新しい道」・・悔い改めない者には開かれていませんし、信仰の希望もありません。白々しい聖句引用はやめてください。全部、嘘でした。そして、全部、嘘です。今となっては、もう、はっきり言えることです。
 
14. shalomです。 おはようございます
 2019年12月16日 13:17
>>9
「せめて、黙っていなさい。退いて、二度と来ないように。」
アレッ st5402さん 妄想癖、虚言癖に加えて、健忘症も加わっているようですね!まだまだ私に比べてお若いのに・・・
かつては、私が死ぬまでつきまとって批判し続けるんだとおっしゃっていましたね。
 
私の「みんな、バレてしまったのです。反キリストのシャローム、せめて、黙っていなさい。退いて、二度と来ないように。」に対するコメントですが、私が、人間だからです。あなたシャロームと違って。
 
あなたシャロームが書いてくるなら、前と同じです。ずっと、そうしています。しかし、今は、あなたシャロームが、愚かな、おとしめ言葉しか書いて来ないほどに、堕ちていますから、そのような言葉に付き合いたくないからです。
 
あなたからの殺意を感じるからです。あなたはサイコパス、人の滅びも死も、何も気にならないで、横暴な人格となった者です。人間らしい感受性がなくなっています。
 
そういう人だと思うようになっているから、低い評価の中でも、さらに低く、邪悪だ、という方向になってきたということです。よって、愚かに付き合って体力を消耗して死ぬのは嫌だなと、ふつうに思うわけです。
 
※ シャロームは、現在、ネット上も所在不明ですが、シャロームの記事とコメント、そして、私の批判記事は、約十年にわたっていて、既に、資料となっていますから、時々、見返しては、典型的な偽善者に対する批判記事として、加筆して公開しています。
 
聖書には神様は試練も与えられますが、逃れる道も備えてくださるという言葉もあります。
yahooブログの閉鎖という思いもかけない道を備えてくださったのですね!
また新しい道はst5402さん自身が開いてくださったようです。
人には神の御業は初めから終わりまで見極めることが出来ないという言葉もありますが、本当にそうだなと、心からの讃美と感謝をささげています!
 
シャロームは、神の意志とヤフーブログ閉鎖を、結び付けています。こういうとことは、いかにも、カルトの思い込みだと分かるところです。神への恐れを知らないシャロームです。
 
いちばん邪悪な偽善は、神の意志と行為である導きを、人が決めつけることです。神を恐れない者だけがすることです。
 
自分の意見を、神の啓示と聖霊の導きによって、正当化し、絶対化しているあなたシャロームは、具体的に道を備えて下さった、開いてくださった、と決めつけながら、見極めることができない、と書いています。シャロームには、何も整っていないから、見極めるどころか、何も実がないのです。
 
つまり、自分に都合の良いようにだけ、決めつけていることが、明らかになっているわけです。今までも、ずっとそうでしょう。あなたは、嘘っぱちを書いて、しかも、嘘っぱちであることを、自ら、表すようになったのです。「心から」の心の無いシャロームの讃美は酸味の腐敗臭です。
 
それなのに、退いて、二度と来るななんてつれないお言葉ですね!
yahooブログが閉鎖され、寂しい思いをしていたのですが、
st5402さんが私の言葉を伝達するために、たくさんブログを開設してくださったので、
私は新しいブログを開設する手間が省けて喜んでいるのです・・・が・・・
ハレルヤ!
Shalom!
 
また、「つれない」などと、白々しい嘘を吐いている。いつも、嘘を吐いている。どこでも、付き合えば、結局、嫌がられる存在として、生息してきたシャローム。どこにも、弁明の余地がなくなっても、殺意に匹敵する無視の力で、人を人とも思わず、「手間が省けて喜んでいる」というような、余裕を見せようとする。
 
これは、サスペンスドラマなどによくある極悪人の、相手を呑みこんだつもりの醜く陳腐な台詞、つまり、根っからの悪にしかできない悪意の開き直りと強がりです。わけもわからず余裕に見せかけても、あなたは、既に、丸裸なのです。
 
この悪意は、易坊に通じる筆致。
 
そうだ、いつも感じていたのは、シャロームの、この獰猛(どうもう)な極悪人気質、人が死んでも、そのそばで、ニヤニヤ笑っていられるような、人間らしい感情を失った者だけが持つところの、人ではなく、ケダモノの中の、とても醜くて、醜悪な気質として、よだれを垂らしているイメージ、そして、その臭いです。
 
あなたシャロームの文章を読んでいると、喉を鳴らすのが、聞こえるようであり、汗と粘液と、蒸し暑い息の臭さが漂ってくるようであります。しみついた常習の詐欺師の臭い。あなたシャロームの書く、わざとらしい文章に深く深く染み込んでいる、この臭いを、私は、あなたの文章を見るときに、いつも感じていました。
 
丁寧語は、ある意味、暴言よりも悪質になります。どんな批判を受けても、自分は安らかで冷静で、びくともしない、ということを表すために丁寧語を使う者がいます。実際は、すべて無視しているだけなのです。
 
 
くさい、くさい

くさい、くさい
 
 
(2020年01月06日、同日一部修正)
(2021年01月19日、加筆して再録、さらに修正)
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
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(ここは、たまにブログ記事をリンク)
 
 
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