ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

年寄りです。1954年2月24日、長崎市の生まれ。17か18歳で、佐世保で洗礼を受けたクリスチャン。現在、教会へ行っていない逸れクリスチャン。ブログのテーマは、キリスト信仰と、カルト批判が中心です。ヤフーブログから移行してきました。ブログは、2010年からなので、古い記事も多いです。

 
  騙されていた頃
 
 st問題資料集(1)初期コメント
 2022年02月23日 楽山日記(LD)
  を批判。
 
ウイルスでしょうか。入力が、約10秒刻みで、フリーズと再開を繰り返しています。今回の記事は、楽山が批判されて裏切られたとでも思ったのか、昔の遣り取りを出してきました。時間は過ぎ去るのです。楽山のような男に、長続きする信頼関係など成り立ちません。
 
私が楽山に騙されていました。恥を晒しておきます。社交の世辞に騙され、数か月、楽山を信用していた時期があります。その分、本性を知ったときには、今まで知らなかった罪悪感のない無反省の楽山には驚き呆れました。こんな種類の人間がいるのかという驚きとともに、決意を新たにしました。
 
人間は学習するのです。ゆえに、昔はこんなに愛されていたのに・・などという思い出話は、楽山の愚痴に過ぎません。本性を知れば、とんでもない人だったということです。楽山は、人間は不変と思っているのでしょうか。成長のない楽山が明らかになります。
 
もし私が書けなくなったら、楽山のことを、それぞれのサーバーに報告してください。楽山は、手段を選ばないようです。
 
 
*初期
st問題に関連したコメントを整理してみました。
まずは、st氏が当ブログに来訪し始めた頃のコメントから。
*例一
以下は、「★カルト体験 (新興宗教を信じたら、心の冷たい人間になってしまったという話)」でのやりとりです。
1. st5402jp2018年08月03日 11:56
この体験とご意見は敷衍するべきだろうと思いますが、転載させていただいてはいけないでしょうか。ブログ記事設定で転載可としていただくとうれしいのですが。
2. 楽山 (自由)2018年08月03日 20:26
転載OKです。転載可にしときました!
3. st5402jp2018年08月05日 03:10
自由さん
転載させていただきました。感謝いたします。拝。
4. 楽山 (自由)2018年08月05日 14:57
確認してきました。拙文を転載してくださり、こちらこそ感謝してます。ありがとうございます!
 
つまり、こういうことを書いてくるのは、楽山が未練がましい人だということです。それは、議論とは何の関係もありません。ここに表れているのは、楽山が、交流とか議論というものを理解していないということです。真実を求める意志がなく、愛されることを求める未熟者だということです。
 
議論の中身は、議論の経過によって変わってくるという常識が、楽山にだけはないのです。これこそ、楽山が、異次元的な見当違いの男だという証拠です。人間として成長不全なのです。丁寧語で、いつまでも、ごまかせる、騙せるものではないのです。即ち、楽山は言論者ではありません。
 
 
*例二
これは、「【st自由同一人物説!?】「stと自由は同一人物?」「いいえ、stさんと私は別人ですよ」」でのやりとりです。
1. st5402jp2018年08月18日 16:55
記事本文とリンク先を読ませていただきました。分析力に感心します。全部把握しているかと言えば分からないけど、読みごたえはありました。私は、信仰者でもあり、また性格的にも、かっとしやすいところがあって、反省しない人にならないように気を付けたいと思います。ありがとうございます。拝。
2. 楽山 (自由)2018年08月19日 06:37
コメントありがとうございます。
前によく議論していた某団体の信者らに対して、この種のこまごました記事を書くと、「屁理屈言うな」「もっともらしいことを言っても騙されないぞ」「粘着するな」と酷評されることが多かったので、褒めてもらえるとうれしいです。
私もけっこう短気なので、そこは注意したいと思います。
 
楽山は、短気ではなく、粘着性の嘘吐きです。社交の世辞以外は、何も持っていません。その異常な精神で、人を騙して、操ろうとしてきます。精神の詐欺師です。粘着する人格異常者です。ゆえに、昔のことを持ち出して、言い訳になると思うのでしょう。
 
 
*例三
こちらは、「アブラハムと信仰義認 (アブラハムは義人と認められたのか?)」でのやりとりです
1. st5402jp2018年08月31日 04:37
一応キリスト者のつもりの私より、自由様は、立派な教理と解釈の説明をなさっておられるのに感心します。
加えて、ということになりますが、アブラハムが息子イサクを神への生贄とするために殺すという行為が、たとえ神の正しい命令であったとしても、人間がそれで、はい、理解しました、と言ってしまうのはおかしいという考え方を私はしています。聖書を読んでいると、正直言って、神の正しさを、いつも人間が理解できるとは思えないのです。だから、ここは保留するべきという主張になりました。
2. st5402jp2018年08月31日 04:43
アブラハムが、間違いを犯さない完全な義人ということになると、息子を殺すことも正しい、ということになりますが、神は殺そうとしたのを止めたわけですから、そのときの神の気持ちは軽々に分かると言ってはいけないならば、人間である自分が分かってないんだということで保留にするしかないのです。カルトは、誰にでも偉そうに語ろうとして、分かったことにしないと気が済まないようです。
 
楽山は、神の正しさを理解できないのではなく、神を知らず、神を、信仰を、奇跡を起こさないからという理由で否定してくる極めて幼稚な反キリスト・反信仰です。楽山は、希望を持ち得ない自分信仰者に過ぎず、深い思慮も分別も共感性も常識も持っておらず、荒らして快感を得る慮外者です。
 
 
3. 楽山 (自由)2018年09月01日 07:00
コメントありがとうございます。
でもこの記事は、みなさんの議論を読んだ後に書いたもので、もろに、後出しじゃんけんになってます。ですから、もしこの記事によいところがあったなら、それはみなさんの議論が良かったというですよ。
4. 楽山 (自由)2018年09月01日 07:01
おっしゃる通り、あちらの方は、分からないと言うことに抵抗があるみたいですね。
私が、とあるクリスチャンから「聖書は四十年、勉強してきたけど、まだ全然分からない」という話を聞いたというのに対して、そんなことは極々、内輪の話ならまだしも、外部には言わないものだ、分からないものを人に勧めることはできないから、それを言ったら伝道できなくなる云々と批判されてたと思うので。
5. st5402jp2018年09月02日 03:49
自由さん
>>内輪の話ならまだしも、外部には言わないものだ
>>分からないものを人に勧めることはできない
正直でないなら真実でもないし、何だか、企業戦略の話みたいで、おかしいですよね。
 
「外部に言わない」とは、気づかれないように騙してくる楽山の、保身と秘密の精神なのでしょう。「分からないものを人に進めることはできない」というのは、宗教も神も分からないなら否定するという楽山の自己愛~教祖気取りなのでしょう。実に、楽山は何も分かっていません。
 
 
6. 楽山 (自由)2018年09月02日 08:38
そこはすごく違和感ありましたね。どうも、分からないということに対して、自分とはちがう受け止め方をしてることは確かっぽい。
ちなみに自分の受け止め方はこんな感じですね。
「聖書は分からない ⇒ 聖書はとても奥深くて、そう簡単に『分かった』なんて言えない」
「神の心は分からない ⇒ 神は偉大であり、はかり知れない存在である。どのような賢者であっても、その心を忖度することさえかなわない」
「宗教的体験から、聖書の一節、神の心の一端を『分かった』と実感することはありえるし、これは尊いことではあるが、聖書全体、神のすべてを『分かった』とするのは危ない…」
7. st5402jp2018年09月03日 03:06
自由さん
ほぼ同意します。
聖書の一説については、あるとき分かったということはありますが、一生を通じて正しいか、神の前に正しいかは、やはり分からない。私の知っている世界と人生は、そのごく一部だ、という弁えを敬虔と呼んでいます。しかし、そのときの気持ちとして、大事にはします。
8. st5402jp2018年09月03日 03:08
大事にしているから、まあ、記事に書いたりもします。後日、間違いに気づいたり、それ以上に大事な理解が与えられたら、修正するのが成長だと思っています。
 
分からないと、楽山は言いながら、キリスト教の神を、何度も否定してくる反キリスト・反宗教です。つまり、混乱させて、退かせるという楽山のやり方が始まるのです。実際は、神もキリストも聖書も、曲解して妄想を伝染する偽善者です。
 
 
9. 楽山 (自由)2018年09月04日 19:19
stさんのコメントを読んで、なんとなしに、仏教の筏の譬えを思い出しました。
ある男は、川を渡れずに難儀していたが、筏を使うことで無事に向こう岸につくことができた。
でも、このときに、いくら筏が役に立ったからといって、この後もずっと担いでいこうとするのはおかしなことであって、川を渡り終えた後は、筏はその場に置いてゆくべきであるという話。
これは、仏法(筏)にさえも、執着してはいけないということらしい。
分かったという気付きについても、これと同じことが言えるかもしれないと思います。
 
教訓を垂れたい楽山です。こういう説教好きなところに教祖願望が表れてきます。その実質は、ただのペテン師であり、知識にも思考にも感性にも捨てられてきた排泄物に過ぎません。柔和や中庸など持っておらず、自己顕示欲を満たして悦に入る悪意のネット浮浪者なのです。
 
 
お山のペテン師 陰険 陰険 陰険

お山のペテン師 陰険 陰険 陰険
 
 
(2023年01月11日)
 
 
 
 まだ終わってなかった(アマミ氏と遠江氏)
 2023年01月10日 幸福の科学とは何だろう?by 
  を批判。
 
 
*思ったこと
この手のやり取りを見ていると、議論になっているテーマについて意見をいうよりも、相手の心を悪く想像した上で、その人格を否定し、その意見を無効化しようする人が案外に多い。こういうのは傍から見ていても気分が良いものではない。
 
もはや犯罪者の楽山は、自分を表していることに、恐らく、一生気づかないのでしょう。楽山こそ、ただの自己愛ではなく、サイコパスであり、心がないために、他者の心を傷つけて、他者の意見を無視してゆく人です。最近では、今、最悪の状態にあると思います。
 
 
人の振り見て我が振り直せというし、自分も気をつけるようにしよう。
 
人の振りを見ず、我が振りを直さない楽山です。恐らく、今後、殺すか殺されるかの事態を招くのではないかと危惧しています。実に恐ろしい男です。私が出会った中で最低の男です。人間とは思えません。決して関わらないでください。楽山の日が早く落ちますように。
 
 
 
  満たされよ
 
人のいる場所で
歩いているとき
腰掛けて順番を待っているとき
人目(ひとめ)を気にする
緊張と不安
不安は対象のない恐怖だ
 
そんなとき逆に居直ってみる
見下(みくだ)されよ
見縊(みくび)られよ
侮(あなど)られよ
貶(おとし)められよ
忌(い)み嫌われよ
蔑(さげす)まれよ
嘲(あざけ)られよ
誰からも嘲笑(あざわら)われよ
不審者か変質者のような
二目(ふため)と見られぬ
お前の醜(みにく)い顔を晒(さら)せ
 
それが邪悪の時ならば
悦(よろこ)び安んじて死を賜(たまわ)れ
神の御手のうちに死ぬるがよい
 
うちに巣くう諸々の邪悪よ
恐怖よ悪意よ敵意よ…
…去れ
と心に語りかけよ
 
力が抜けて
周(まわ)りの人を見る目が
優しい気持ちに変わるなら
ゆるやかに へりくだり へりくだり
神のふところに消滅せよ
 
 
  すべて意欲は
 
すべて意欲はからからと音をたて
枯れ葉のような空回りをした 
その目は絶えず中空(ちゅうくう)にのぞみ
底知れぬ空しさにのめり込むようだ
 
すべて情熱は ふれあう縁(よすが)もなく
真っ赤な嘘に目をまわしていた
心は絶えず波の上 木の葉のよう
いつしか海に沈むことに憧れていた
 
雲がわき
雲が飛び
雑多な雲が流れ
千々に流れて
虚空(こくう)へ消えた
 
すべて祈りは尽くせぬ歌のよう
とまどう思いに吐息を返した
その手は絶えず
差し伸べる力もなく
さわれぬ何かを待っているようだ
 
ひととき光が枯れ木にさして
ほんの一滴しずくがこぼれた
しずくの下まだ傷ついたまま
春は静かに眠り続けた
 
まぶたの裏に 語らぬ唇に
明日(あす)に届かぬ夢がうずいた
明かさぬ胸に あたためた やさしさだけ
伝えたかった 誰よりも先に
あなたに
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
楽山は、ただの荒らしではなく、もっと凶悪な人物のようです。自己愛性パーソナリティ障害NPDというより、反社会性が強いようで、サイコパス(精神病質psychopath、反社会性パーソナリティ障害)で前科もあるのではないかと思います。決して近づかないでください。
 
 
 
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  不安をごまかす楽山
 
 
ウイルスらしいものが、ブログ下書きを書くのに、日本語入力変換を邪魔しています。楽山以外は心当たりがありません。思うようにならないと、嘘、詭弁、自己満妄想、無反省、無責任などの病質は、邪魔をしてくるようです。いったい、どういう世界に生存しているつもりなのでしょう。
 
 
 2023年01月08日
 幸福の科学は、大川隆法ファンクラブなのか? 宗教の本質とは?
  を批判。
 
 
*幸福の科学は、大川隆法ファンクラブなのか?
このツイートをしてから思いついたのだが、信者は教祖のファンであるならば、幸福の科学は大川隆法のファンクラブみたいなものだとも言えるかもしれない。
 
今さら、こういうことを言って何になるのでしょう。楽山に騙されるファンが一人もいなくなるように批判記事を書いています。楽山ファンクラブは、何の実りもなく、騙し文句で、人格が壊されてゆくだけです。教祖願望をいくら抱いても、楽山は、結局、恨みの対象にしかならないのです。
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
信者自ら、教祖と信者の関係を、歌手とファンの関係にたとえてる!
信者は、こういうたとえは嫌がるもんだと思ってたけど、そういうわけでもないんだね。
 
慕う相手のファンというのが、楽山には不可解なようです。楽山は、慕われたことがないからでしょう。楽山をしたう=楽山に騙されることになるからです。キリストを崇拝することは、多かれ少なかれ、キリストのファンになることかもしれません。慕うということが楽山にはないのでしょう。
 
楽山は、佐倉哲と同様に、信仰を、辻褄でしか表せないようです。心のない人には、慕う・・という心情も分からないのだろうと思います。いつも人を下に見て、上からしか物の言えない楽山です。正当な愛など分からないのでしょう。情緒が感受できず、言葉遊びにしかならない楽山です。
 
 
*本来の宗教
私見ながら、本来、宗教というものは、神と人との関係であって、人と人との関係ではないように思える。 たとえば、こんな風に。
 ○ 神(人を超えた、人ではない存在)を人が信仰する
 × 教祖(人)を人が信仰する
 
当たり前のことを、新発見のように書いてくる楽山です。嘘と詭弁だけの楽山が慕われることはないということです。また、人間は、人間に理解・共感できる範囲でしか本当の信仰は成り立ちません。楽山が超常を、いくら、いじくっても、それは、信仰とは何の関係もないのです。
 
 
上の信者の発言には違和感をおぼえるのだが、その一因はこの辺りにありそうな気がする。スターを神のごとく崇拝する熱烈ファンと、教祖を神のごとく崇拝する熱烈信者とには、たしかに共通項はあるだろうけれども、どちらも本来の宗教や信仰とは異なるものだし、それを宗教の本質であるかのように語るのはおかしいのだ。率直に言って、ここでたとえとして挙げられているのは、まっとうな宗教というより、いわゆるカルト宗教的な形態なのだと思う。
 
似たようなところはありますが、キリスト信仰の場合、キリストは目の前にはいないのです。憧れもあり、愛もあるでしょうが、人間としての限界があります。そこで成り立つ信仰とは何かを、クリスチャンは、一生のテーマとするのです。
 
さらに、楽山には、一般のファンの心理も理解できないほど、体験が未熟なのでしょう。何ごとにも真剣味のないのが楽山です。だから、ことさら、大きなテーマで豪語したいのでしょう。騙されないでください。インテリぶって言ったところで、楽山に実質は欠片もないのです。
 
 
 
 2023年01月08日
 今の時代に、宗教なんて必要なのだろうか?
  を批判。
 
 
*宗教なんて必要?
 ツイッター上で、次の議論が話題になっていた。
・あらゆる困難が科学で解決するこの令和の時代に、『宗教』は必要なのか?
 
あらゆる困難が科学で解決することはないでしょう。人間には心があるからです。こういう簡単なことを、いちいち、大仰に言ってくる楽山です。ゆえに、人間には宗教が必要であり、楽山には宗教理解が不可能になっています。自己愛性パーソナリティ障害NPDには、委ねる姿勢がないからです。
 
 
*私見
自分なりの考えを述べると、結局のところ、この問いには、人それぞれとしか答えようがないように思う。大雑把に言うと、心の慰めだとか、ものごとの意味だとかを欲する人には、宗教は必要だろうけれども、そういった欲求が希薄な人にはさほど必要ではないだろうと。
 
心のない楽山には必要ではない、というより、理解できないのでしょう。潤いと温もりが、楽山の心にはないと思います。乾燥して干からびた灰のような、心ではなく、辻褄合わせだけで生きているのです。そういう欠陥を自覚せずに、まともに言っているつもりの、この4年間が悲惨な資料です。
 
 
ちなみに自分はどうかと言えば、過去に近親者を看取ったときには、その近親者の人生に意味があったこと、天国で幸せにしていることを願わずにいられなかったので、宗教を必要とするタイプなのだと思う。
 
また白々しい嘘を吐いています。自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)の感情に、人のために願うことなどありません。自分に都合よいように、あらゆる文脈を捏造してゆきます。楽山は、まとも芝居をして、成り立たない自分を露呈してゆきます
 
 
ただ、だからといって、宗教にどっぷり浸かるということはできない。人は死んだら無になる、天国も地獄もなく、神もいない、人生に限らず、一切の物事には意味も目的もないという世界観が成立しうることは分かる。
 
楽山らしく、分からないとは言えず、自分が無になる世界を、分かると言ってしまいます。誰も、自分の「無」など理解できません。また、見栄を張って、墓穴を深くする楽山です。安易に今の自分の虚無感が表れてしまいます。ずうっと、楽山は、言葉の苦し紛れの、お漏らしをしてきました。
 
 
この点、自分は宗教を必要としない人の感覚を理解できなくもないので、宗教を必要とするタイプではあっても、前近代的で単純素朴なそれとはいえない。我ながらこういうところは面倒くさい奴だとは思う。
 
楽山は「宗教を必要としない人の感覚」ではなく、自己満と教祖願望から、宗教をけなすタイプです。自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)だと判断しています。4年間批判しても、反省することがありません。
 
昨日からウイルスらしいものによって、一時的に入力変換をフリーズさせることが繰り返されていて、日本語入力を邪魔しています。変なサイトにアクセスした覚えもないので、楽山を疑っています。楽山は、言論で返せないと、そういうことを平気でしてくる人なのでしょうか。
 
おかしなことが起これば、楽山が、真っ先に疑われることになります。そして、サーバーに報告されます。個人特定されるなら、楽山は、アウトです。ネット犯罪者、嫌がらせをする者として、履歴~前科が残るでしょう。注意・警戒して、楽山に関わらないようにください。
 
 
背筋の凍るようなウイルス

背筋の凍るようなウイルス
 
 
(2023年01月10日)
 
 
 
  愛して
 
二十代から数えて
四十年以上のの凹凸を噛んで
出来上がった顔が弱っている
さしのべた手をかすめて
わずかの小銭が通り抜けた
歪んだ顔を隠す
愛してもいないのに
 
二十年の空白を吸いきれずに
出来上がった変質者がふらついている
その辺り昔話でいっぱい
作り話でいっぱい
もう一杯と
暗い路地に足の裏を残しながら歩いていく
歩く後ろから世界は崩れていく
前は暗闇
 
どちらを選ぶか
どちらを選んでいるか十年後
路地に人影はなく
多くの足跡乱れて
入り組んだ空白から
もれた明かりが凹凸を噛む
愛してもいないのに
 
 
  括れない
 
童謡・メルヘン
風刺・断定・メタファ
皮肉・洒落・語呂合わせ
もっと決定的な括(くく)りが
未だ思い浮かばずにいるような・・・
すでに括っておいてだらだら
と宝探し
 
腸を下し
腸も括れず
首も括れず
考え過ぎて
考え過ぎで
いっそ考えない歌
そのまま歌えたら
正気も狂気も喜んで
そんなとき
変質者出没
と町内会のビラ
危ないな
独りだし付き合いないし
こもってばかりだし不潔だし
何かあったら真っ先に
疑われそう・・・
 
食って出して寝ろ!
はい!日夜そうしております
でもいつの間にか
道理で白髪頭
また探し始める玉手箱
昔々もらった気がする
 
 
  死んでいます

私は日々死んでいます
聖者の叫びは程遠く
詩人の鐘さらに遠く
私は日々滅びています
体は衰え心は萎え
気力は失せて
私の耳は砕け散ったかけら
響きも笛も聞こえない
私の目は汚れた鱗
涙ながらに涙は流れず
渇いて乾いて
重なるものを見抜けない
私の昼は空しい排泄に終わり
私の夜は繰り言の始め
ありふれた風景
世界の末席から転げ落ちて
私は日々死んでいます
私は日々滅びています
しかもそれらすべてが
必ずしも悲しみだけではない日々を過ごしています
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
言論の責任を負わない者に、言論の自由はありません。言論の義務を守らない者に、言論の権利はありません。それを理解しない者が、「反省」しないことを「人間の性」と言って居直っています。笑いと怒りだけがあり、悲しむ心を持ちません。反省せず罪悪感もないサイコパスなのでしょうか。
 
 
 
★こも/楽山日記3 
@komo266 
RT @vincent20200110: リツイートしただけで地獄に堕ちると言われるかもですが、リツイートします。(ま、いいわ、今さら。さんざん信者から脅されてるけんね)。 
 」
 
なぜ、楽山は、これをリツイートしたのでしょう。脅されているのではなく、ネットで、嘘を吐き、詭弁を弄し、人をだまし、批判を無視して、リーダー気取りを続けている楽山は、罪と偽善の必然の結果そのものを無視して書き続ける悪魔の意志表示でしょうか。やはり犯罪者なのでしょうか。
 
 
 
楽山の害毒メモ:
 
今までに表れてきたこと。これは、楽山に限らず、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、世に数多いる偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。楽山は無責任です。決して信用しないでください。しかも犯罪行為に及ばなければ強制的に抑制は出来ません。
 
楽山は、1つのことを書いて、別の時には、それに反することを平気で書いてきます。そこで、反省、修正、というステップを置かず、あたかも最初から思っていたことのように書いてきます。自分に誤りを認めない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。
 
偽善者の特徴でもあります。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
笑いと怒りしかなく、悲しみの情がない。
共感がなく、罪悪感がなく、反省しない。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して誘導し、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。相手が疲れるのを見て快感を得る。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。サイコパスと思われる。
アドラー心理学の宣伝をしていた。自己中心である。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
 
奇怪な単細胞。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わないし、できないし、元々する気もない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取りなど。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
騙して、言い分を詭弁や嘘で通そうとする、通っていると思い込む。
 
訂正不能の偏執。
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
精神構造はカルトに似ているので、無神教カルトと呼んでいる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
慢心して中身の無い形骸。
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
 
 
 
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  的外れの批判(2)2
 
 
前にも取り上げましたが、偏狭な学者気取りの文章です。改めて批判してゆきます。対象は、佐倉哲という人です。独りよがりに一気に決めつけてくることなど、筆致が楽山に似ています。宗教と信仰の的外れな理屈に溺れているようです。佐倉哲は、理解力がないのに、学者気取りで書いてきます。
 
佐倉哲は、楽山と似て、超常を語るのが宗教だと思い込んで、史実性や、辻褄で、否定してきます。おおよそ的外れで、分からないはずの超常を、論理とは言い難い拙劣さで書いてきます。世の中には、信仰も宗教も分からないのに、慢心だけで書いてく傲慢な偏執者がいるようです。
 
こんな人間がいて、様々な気取りで、自己満足のみならず、他者に影響して、他者を巻き込んでくる、というのが、宗教をめぐる現実であることを、警鐘としたいと思います。害と混乱しかもたらさない楽山と、その成りすましキャラが、不幸と災いの伝染者となっているのかもしれません。
 
 
わたし自身の(キリスト教)棄教の経験から言っても「信仰を棄ててしまえばあっけないもの」です。これは、棄教とは無理を止めることだからだと思います。無理な姿勢を止めて自然体に戻るからだと思います。本当は何も知らないくせに、まるで何か知っているかのごとく振る舞う無理(信仰)をやめて、知らないことは「知らない」と、自らの無知を認めること。これが棄教の本質だと思います。
佐倉 哲
 
信条や教理を無理に信じ込むことが信仰だという大間違いです。信仰は、個人の人生の体験と、聖書から、心に訴えかけるものを感受して、共感によって、キリストを好きになり、離れがたくなり、生きる縁(よすが)とすることです。信仰は現実の支えであって、超常だけでは信仰にはなりません。
 
佐倉哲に、理も、無理も、明らかにすることは出来ないと思います。佐倉哲自身が、無理であり、高所大所から言ってくるように見せかける詭弁屋だからです。恐らく、精神が、幼稚で、まとまらないことの代償行為でしょう。そこには、根深い怨念があると思います。
 
 
聖書とは
What is the Bible?
96年x月x日
聖書という言葉の指すものは決して一つではありません。「どの時代の誰にとって」ということを明確にしなくては、決して答えることのできないものです。
 
聖書の言葉の指すものは、読者にとって、生きるために必要と判断された場合、信仰となります。「どの時代の誰にとって」ではありません。生きている自分にとってです。人間としての共感や共通や共有はありうると思いますが、事実や史実がどうとかは、本質からは遠く離れているのです。
 
佐倉氏は、超常を信じ込むことが信仰だという先入観のお化けです。だから、言ってることが、いちいち、本質から外れてゆきます。どの宗教のことでしょう。キリスト教にもカルトみたいな人たちは紛れ込んでいるでしょうが、それは、信仰ではないのです。
 
 
聖書の間違い
Biblical Errancy
03年11月27日更新
「聖書の間違い」シリーズの目的は、「聖書は、神の霊に導かれて書かれたものであるから、すべて正しく、いかなる間違いも含まない」という主張の真偽を吟味することです。たとえ神の導きを仮定したとしても、実際に聖書の各書を書いたのは不完全な人間なのですから、それはきわめて疑わしい主張のように、わたしには思われるからです。
 
聖書は神の言葉と言われることから、「すべて正しく、いかなる間違いも含まない」ということですが、人が、間違いなく読み取れるかというと、神の言葉を、受け取る人の言葉の限界があり、全て正しく・・というわけにはいきません。そのことを知っていることが信仰の節操であります。
 
ですから、決めつけないことは大事ですが、救われたのだから、否定できないということがあり、そういう言葉の意味や価値は、今、不可欠のもの、という気持ちでいればよいでしょう。少なくとも、佐倉哲のように、正否を理屈で決められる問題ではないので、見当外れも甚だしいです。
 
 
聖書は書き換えられたか
Has the Bible Been Rewritten?
97年8月15日
「聖書は神の霊によって書かれたものであり、いかなる誤謬も含まない」という聖書信仰が、わたしたちにとって意味あるものとして認められるためには、単にオリジナルの聖書に間違いがないというだけでなく、現在のわたしたちに伝わってきた聖書に誤りがない、ということでなければなりません。
 
上に述べたように、今の時点で言葉について、変な理屈で、正否を論じて、結論が出るようなものではありません。信仰は、決めつけられるようなものではなく、学習し成長してゆくためのものです。聖書は、人間である私たちのためなのです。その理解が佐倉氏には全くありません。
 
佐倉哲は、人間が誤りなく理解できないといけない・・と言っているようですが、むしろ、同氏のように、正誤を決めつけてくることこそ、聖書の読み方を知らないということです。評論みたいに書いているが、宗教と信仰の理解が、偏狭で、短絡的で、幼稚です。
 
 
しかし、果たして、長い伝承の経過のなかで、聖書は誰かによって書き換えられた可能性はないのでしょうか。本論は、「申命記」の作者に関連した部分の最新翻訳をいくつか吟味することによって、聖書が人間の意思によって意図的に書き換えられている事実を示し、しかも、この場合、その書き換えの動機が聖書信仰そのものであること、つまり「聖書には誤謬がない」と信じる聖書学者が、聖書の矛盾を隠蔽しようとしたためであることを明らかにするものです。
 
佐倉氏は、まるで、聖書も信仰も完全なものでないといけないと言っているようですが、神の言葉が、人にとって完全に受け取られることのほうが無理なのです。信仰は、完全になることではありません。それを自覚して判断できるような能力が人にはないからです。佐倉哲には特に無いからです。
 
信仰が必要な人にとって、信仰を全否定することは、出来ません。佐倉哲には、心とか、共感とか、何かを受け取って実感して希望となるものを持ったことがないのだろうと思います。佐倉哲が的外れに断定してきても、それは、子供が、"絶対違うからねーー!" ・・などと決めつけて言い張るのと同じです。
 
 
聖書における「死後の世界」
The Life After Death
97年11月11日
「人は死んだ後どうなると思いますか?無に帰るのでしょうか?モーセやサムエルを はじめとする旧約の偉人達は今頃どこで、どうしていると思いますか?また神を知ら ずに死んでいった世界中の多くの人達の場合はどうでしょうか?そして現在生きてい る我々は死ぬとどうなると思いますか?」というお便りを AK さんよりいただきました。人間は死んだらどうなるのでしょうか。本論は、聖書における「死後の世界」について考察します。
 
死んだ後、どうなるか、佐倉氏は、分かるというのでしょうか。聖書の文言を、人の不完全な知性で云々できると思うほうが間違いなのです。言葉と体験から、学ぶことが必要であり、佐倉氏の言うような、今考えて、今決める、などという必要はないことを知るべきであります。
 
 
「永遠の命」の思想
The Eternal Life
97年11月29日
キリスト教(新約聖書)は「永遠の命」の宗教です。キリスト教の救いとは「永遠の命」を得ることです。キリスト教における信仰者の究極的目的は「永遠の命」です。しかし、このことは、キリスト教が本来の聖書(旧約聖書)の伝統から逸脱した宗教であることを意味しています。本来の聖書には「永遠の命」の思想なるものは存在しないからです。
 
ここで、佐倉氏は、「永遠の命」という、いちばん、難しいことを俎上にあげてきました。この人は、一瞬が永遠と感じることがある、ということも、理解していないようです。ひょっとして時間的永遠と思っているのでしょうか。そういう永遠は、人間には手に負えません。
 
佐倉氏は、永遠の命の思想がないと言っています。ひょとして、佐倉氏は、時間的永遠を考えているのでしょうか。そんな永遠など、超常のこと、人に分かるわけがないのです。あるいは、分からないことを、分からなければいけないキリスト教は、おかしいと言いたいのでしょうか。
 
「永遠の命」を得ること・・という気安く言って、表せるものではありません。思考、考察、そして、希望、などといった視点が必要であり、地上では、答えの出ることではありません。佐倉氏の文章には、そういう洞察や感受性が全く感じられません。楽山と同様に思考が浅いのです。
 
 
キリスト教と日本
征服の踊り
A Dance of the Conquistador
96年x月x日
メキシコのインディオの人々に「征服の踊り」という民族ダンスがある。それは、スペイン人がマヤ文明やアステカ文明を壊滅し、先住民を奴隷化し、メキシコにおける征服者となったこと忘れないためインディオが踊るダンスである。踊り手はスペイン人に似せた仮面をかぶり、左手に十字架、右手に剣をもって、聞く者の心をえぐるような、もの悲しいリズムにあわせて、十字架と剣を、「これを取るかそれともこれか」、というようなしぐさで交互に突き出しながら踊り歩く。これを見物するインディオの人々の顔が悲しい。私はこれを見て、いつも涙を禁じ得ない。このやり場のないような悲しみはどこからくるのだろうか。
 
こういうことで、佐倉氏が、人間としての自己顕示をして、キリスト教は、こんなに、おかしいんだと言いたいのならば、悪質なペテン師ということになります。この話は、キリスト教を征服の象徴か道具みたいにしている人々の、とんでもない過ち~罪なのです。
 
これは、一部の汚点をもって、全体を否定しようという詭弁です。かつ、悪いイメージを刷り込もうとする、悪意の印象操作でもあります。ここで、佐倉氏への信頼度は、ゼロとなります。このような詭弁が通用すると思っているのでしょうか。残酷なんだよ・・と悪口を吹き込む下種のやり方です。
 
 
十字架のあがないと日本人
Redemption and the Japanese
97年9月4日
本論は、なぜ、キリスト教の十字架のあがないの思想が、日本人にとって分かりにくいかを考察したものです。
その他
殺せ!と神が命じるとき
When God Commands a Murder
95年12月9日
イスラエルのラビン首相暗殺事件も、オウム真理教の一連の殺人事件も、ある困難な宗教的問題を抱えている。殺人が、神あるいはその代理者の命令として与えられるとき、信者はいかにすべきか、という問題である。
 
佐倉氏は、吟味も考察もせずに、悪い例ばかり重ねて論ってきます。ラビン首相暗殺はユダヤ教徒が犯人ではなかったでしょうか。また、十把一絡げで、オウム真理教まで持ち出してくる下種根性は、いったいどこから来るのでしょう。佐倉哲にまともな宗教観はありません。
 
 
「世の終わり」は1914年に始まったか(96年x月x日)
Has "the End of the World" Begun in 1914?
メキリストが1914年に戻って来られ、敵のまっただ中で支配を開始されたことを示す聖書的証拠については、この本の16章で考えました。それで次に、キリストの臨在の「しるし」の様々な特色と、サタンの邪悪な事物の体制が「終わりの日」にあることを示すさらに多くの証拠とを、注意深く調べてみることにしましょう。‥‥(中略)‥‥以上述べた事柄を考えると、キリストが言われた「しるし」や、キリストの弟子たちが予告していた証拠となる事柄が今起きつつあることは明白ではありませんか‥‥。それでわたしたちは次のことを確信できます。まもなく、すべての悪と悪人が、ハルマゲドンで突如終わりを迎えるということです。(『あなたは地上の楽園で永遠にいきられます』より)
本論は、このエホバの証人の終末論を検討します。
 
引用でしょうか。佐倉氏の意見でしょうか。こういう超常の謎解きみたいな考え方をするところ、空想家の楽山に、酷似しています。これ以上、キリスト教と信仰について何も語ってほしくないです。佐倉氏の、この記事は、楽山と同様、詭弁と印象操作だらけの悪意に満ちたインチキ思想に過ぎません。
 
 
最後に
キリスト教に関するわたしの最後のコメント
My Last Comments on Christianity
2004年6月9日
「佐倉さんご自身はキリスト教をどうお考えでしょうか?...佐倉さんの率直な意見を聞かせていただけたらと思いメール致しました。」という便りを最近いただきました。もちろん、本サイトにはわたしのキリスト教に対する数多くの言及がありますが、ここ数年キリスト教についてはほとんど何も研究していないので、その理由も含めて、これを機会に、わたしのキリスト教に関する最後のコメントを述べさせていただきます。半年ほど前に書いた「結論」もまた参照してください。
 
自己顕示欲からか、言い方だけ、学者風だが、思想の質が低いから参考にもならないし、詭弁ばかり書いて、ここで、謙虚芝居とは、まさに、楽山が、ずっとやってきたことです。お仲間か、楽山の成りすましである可能性が高いと思います。恥を知らない人々です。
 
 
キリスト教が再びわたしの関心の相手となり得る日
The Day When Christianity Can Become Worthy of my Attention
2004年6月9日
「佐倉さんは、もうすっかりキリスト教批判の意欲を無くしてしまわれたんですね」というおたよりをいただきました。わたしの「キリスト教に関する最後のコメント」の発表と行き違いになるようなタイミングでいただきましたので、「最後のコメント」の補足として、なぜ、キリスト教が再びわたしの関心の相手となりえる日が期待できないか、を簡単に述べます。
かつてキリスト者であった私ですが、現在、個人的には -- つまり自らの救済とか生き方とかといった地平では -- キリスト教にはもう全然興味がありません。キリスト教の本質は、結局のところ<根拠のない思い込み>であり、キリスト教が生み出す輩はその<ドグマの奴隷>だからです。
 
「かつてキリスト者であった私」・・以上より、嘘臭いです。佐倉氏は、程度の低い詭弁屋です。キリスト教に興味がないなら、二度と書かないでください。キリスト教と信仰は、思い込みではありません。キリストを好きになり、生きる同伴の縁とすることです。
 
「ドグマの奴隷」ということなら、多様なキリスト教内外よりも、佐倉氏の決めつけの教祖願望のほうでしょう。楽山も同様です。丁寧はうわべだけで、決めつけが強く、にもかかわらず、考察と理解力が欠落しており、自己愛性という点でも、楽山に酷似しています。
 
 
それは、本サイトにおける来訪者とのやり取りの中でも、意図せずして自然に明らかにされていった事柄の一つです。
心理学的あるいは社会学的問題としてとか、歴史的興味の対象としては、もちろん、オウムやイスラム教などとともに、まったく無視してしまうということもないでしょうが、なにか自分自身のために、キリスト教を学ぶとか、それについて云々するといったことは、もうまったくありません。そのためにわたしの大切な時間を費やすなんの魅力もキリスト教にはありません。
 
それは、佐倉氏の勝手。しかし、他者に詭弁で影響を与えないでください。数々の詭弁によるデマ宣伝、読むに堪えない芝居がかった落胆の様子、三文芝居の大根役者である楽山にそっくりです。佐倉氏は、明らかに、故意に、キリスト教を否定して宣伝しようという意図で書いています。
 
信仰は歴史的興味ではありません。何学でもありません。生きるか死ぬかを問われた人にとって、唯一の支えとなることです。楽山、シャローム、易坊、佐倉哲、などのペテン師たちには、これからも、恐らく理解できないでしょう。共感性と理解力のない彼らは人間性の「魅力」がないからです。
 
 
しかし、わたしは、ながい時をかけて自分がキリスト教や聖書を学んでみたことは、結果的に良かったと思っています。キリスト教は、まだ日本人にとっては、鼻をつまんでも飛び込んで<体験入学>してみる価値はあると思います。単なる教養としてではなく、体験的にキリスト教を知っておくこと、つまり、食わず嫌いではなく、自ら食べてみて「本当にまずい」と身をもって知っておくこと、それも決してわるいことではないからです。
 
佐倉市の文章は「鼻をつまんでも」見ないでください。楽山の妄想主張にほぼ同義であります。佐倉氏は、体験入学などしていないと思います。嘘吐きでもあろうと思われる者の学者気取りの詭弁など、関わる時間が総て無駄な徒労と疲労であります。
 
長いことキリスト教と聖書を学んだ?・・とんでもない。何も本質的なことを理解していません。どうやら、カルト教祖願望の強いプロのペテン師のようです。楽山も、三文芝居の大根役者ですが、悪意と欺瞞だけの、とんでもない人のようです。楽山と同一か、同様の病質と思ってよいでしょう。
 
 
わたしは、キリスト教に関する最後の個人的関心 -- 聖書の無誤謬性 -- に結論が出てしまったからでしょうか、自分でもむしろ意外なほどの速さで、キリスト教は忘却の彼方に小さく小さく消え去っていきました。
 
独りで結論を出すことの恐ろしさを佐倉哲について再確認しています。それこそドグマです。忘却は自由ですが、ならば、キリスト教と信仰について、何も語らないでください。自己愛性の臭いがプンプンしてきます。恐らく、佐倉氏は、多くの大事なことも理解せずに忘却しているのでしょう。
 
 
キリスト教のような閉じられたシステムからは革新的な発展は期待できないし、日本での信者も相変わらず1%の域を超えられず、日本が欧米のように成り果てる心配もあまりないので、キリスト教が再びわたしの関心の相手となりえる日が来ることはおそらくないだろうと思います。
佐倉 哲
 
閉じられてはいません。信仰は自由なので、私のような単一の信仰者がブログを書いています。また、佐倉氏が、閉じられていると感じるのは、何も理解できず、理解しようともしていないからでしょう。クリスチャンであった過去も嘘だと思います。裏の顔が、いずれ明らかになってゆく人です。
 
「日本が欧米のように成り果てる心配」・・ここで、右翼的思想からの固定観念が見受けられます。欧米を「成り果てる」という言葉で否定し嫌悪しています。丁寧語は見せかけで、相当な危険人物のようです。理路は浅く、感性は鈍く、共感は皆無で、悪意に満ちています。
 
 
「聖書の間違い」シリーズの目的は、「聖書は、神の霊に導かれて書かれたものであるから、すべて正しく、いかなる間違いも含まない」という主張の真偽を吟味することでした。その結果、わたしはこの主張は間違っているという結論に達しました。つまり、聖書の記述には多数の間違いが含まれており、聖書はいわゆる<神の言葉>ではありえない、ということです。したがって、聖書は真理の根拠にも権威にもなり得ません。
 
考察もなく、詭弁だけで、何も吟味できず、決めつけだけです。佐倉氏が、聖書の間違いを書いてゆくなら、私は、佐倉氏の間違いと詭弁と悪意を書いてゆくことになるでしょう。同一成りすましでないなら、シャロームの偽牧師、楽山の反キリストに、劣らないほどの、無神教カルト狂祖がいます。
 
宗教は、思い込み、妄想、訂正不能、学習不能、などに至れば、非常に危険です。しかし、それは間違っているのであって、宗教と信仰の本質ではないのです。佐倉哲は、詭弁屋、そして、煽動者だと判断します。実に、楽山のペテンの刷り込みに、よく似ています。反信仰の訂正不能、最悪です。
 
楽山やシャローム、そして佐倉哲には、文章に魅力がなく、まともを装う詐欺的な、一種異様な詭弁臭と腐敗臭を感じます。関わらないでください。本物を何一つ持っておらず、詭弁で騙して、自己満足してゆく生き方です。楽山一人かもしれないが、この世で、何の真実も得ようとしない者たちです。
 
 
反宗教の理路狭窄 詭弁

反宗教の理路狭窄 詭弁
 
 
(2021年)
(2023年01月09日、再録+加筆)
 
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
最後のくだりを読むと、不認可とされたのは、HS側が意固地になって役所の助言に従わなかったためだということを総裁自ら認めてそうだね。😁
 
末尾の絵文字は笑い顔です。このように、楽山は、他者をバカにして笑うのが生き甲斐のようです。楽山は、キリスト教をバカにしても、救いのヒントになるような何ものも提示できない人です。書くたびに無反省・無責任の病的ナルシストには宗教的感性は皆無だと、自分でバラし続けています。
 
楽山は、どこに行って何を語っても必要とされないだろうと思います。考えることが苦手なので、評論家気取りで騙そうとします。心を洞察したり、何かを鑑賞する感受性は皆無であることが、この約4年間で明らかになったのに、オナニーのように書き続けている自己満悦が、とても見苦しいのです。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山は、佐倉哲氏を肯定的に、ブログの記事に書いています。同類なのか、成りすましなのか、いずれにしても、息を吐くように、嘘を吐き、詭弁を弄する。それ以外の、例えば真実を、一度も書いたこともないし、書く気もないのでしょう。病質のために現実認識が出来ないからです。
 
楽山は、仲間がいるかのように引用して書いてきますが、実際は、独りの一人なのかもしれません。社会適応が出来なくて、復讐に成りすましているのかもしれません。そういう楽山に振り回されることは、予想以上の、疲労と徒労と、果ては、人格鈍麻~人格破壊をもたらすと判断しています。
 
 
 
  きらいだ
 
何故そんなことを聞いた
「いやとんでもない僕なんか」
とでも言えば満足だったのか
少なくとも嫌な思いをせずにすんだんだ
そう、済んだことだった
些細なことだった
ずっと後になって
全く別のことで
もっと冷たい目と口が向けられるまでは
 
学生の頃、ずいぶん昔の話
悪意と作為には耐えられなかった
 
最初から用意されたような
答えを期待されて
質問されるのは
きらいだった
 
 
  誰の死
 
一つの死を前にすべての言葉は無力だ
 
茶色のうねりだったような道の中に突っ立っている
夕暮れの青ざめた人々
夕焼けさえ悪意の色で迫るかのように
焼かれる炎は
さらに焼かれる
 
誰のものなのか
 
いきなり破裂する
色も光も音も
皆ばらばらの吐物のようだ
 
誰のものなのか
 
鈍く包んでいく闇では終わらない
幽霊でもなく
幻でもなく
朝よりも静かな熱をもって
墓標よりも先に
冷ややかに立ち上がる
 
誰のものなのか
 
一つの無力の前にすべての言葉は命だ
 
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
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  他人事のように語る楽山2
 
 2021年12月27日
 『地球を包む愛』を見た。
 幸福の科学とは何だろう?ブログ by 楽山
   を改めて批判。
 
 
楽山は、元HS信者、ということは、興味本位で語ってはいけない立場です。多くのテーマにおいて、楽山の、この、自覚がない、病識がない、誠意がない、興味本位、ということが表れてきます。無反省、無責任、そして、自己愛病質などが、楽山の書いたものによって明らかになってきます。
 
 
*メモ
大川隆法総裁の法話『地球を包む愛』の動画を見た。自分のメモは次の通り。
体をゆらゆら揺らしたり、ぼそぼそ言ってるかと思ったら、急に声を張ったりしている。
日本の超古代文明の話。富士山の近くにもう一つ山があったが、宇宙船が着陸したら潰れたとか、当時の女性は凛としていたとか…。
現代の哲学者は、計算式や記号をつかって何を言いたいのか。こんなものは一円にもならない、給料泥棒だ。
 」
 
超常の架空の動画が好きな楽山にとって、興味本位以外ではないようです。荒唐無稽な話をすることで、何が言いたいのでしょう。茶化すことは出来るが、批判は出来ない楽山です。つまり、HSの影響を、今も受け続けているということです。真面目なアンチからは程遠いのです。
 
 
イスラム原理主義には反対する。
私が嘘つきに見えますか? 見えたら地獄です。
我が言葉を軽んじるなかれ!
わたしの言葉を聞かなかったら人類半減する。どうか、わたしの言葉を信じて、伝えてください。
 」
*感想
個人的な感想を述べると、こうなる。
ひさしぶりに大川隆法総裁の話を聞いて、善川顧問を思い出した。善川顧問の話は聞き取りにくかったが、大川隆法も年をとってそんな風になってるなあと。
ゆらゆらしたり、ぼそぼそ言ってるかと思ったら大声を出したりで、落ちつかない人だ。
超古代文明の話は好きだったのだが、今回、日本のそれを聞いても、それほど面白いとは思えなかった。自分の興味関心は前とは変わってきたということか。
 
HS批判ではなく、「年をとって」と、老化したことを、あざ笑う楽山です。楽山と付き合うと、こういう扱いになるということを学習するべきでしょう。センスがズレているようです。しかし「ゆらゆら」「ぼそぼそ」「落ち着かない」は、いずれも、楽山自身の印象とイメージであります。
 
楽山には、無学習からの、思いつき、節操のなさ、言ってることが安定せず、まとまらず、行ったり来たりで、かつ、責任をいっさい負わない、つまり、冷静を気取るだけで、実際は、落ち着いた冷静な筆致など、見かけだけで、どこにも認められません。
 
だから、感想が「面白いとは思えなかった」になり、楽山は、批判するのではなく、真剣味のない、趣味的な「興味関心」だけで揶揄して楽しみたいのです。真実を追求したいのではなく、面白おかしいことや、自分が満悦できることだけを求める態度です。
 
 
原理主義に反対しながら、自分の言葉を軽んじるなかれ、そうすれば人類半減するというのは矛盾しているように思える。
原理主義に反対するなら、「我が言葉は字義通りに受け入れなければならないことはない。その時々の状況次第で応用、解釈してよろしい。どうしてもその状況には合わないのであれば放棄してもよい。批判するのもよい。これは我が言葉を軽んじることにはならない。それがために災厄を招いたり、人類半減することなどない」とすべきではなかろうか。
 
楽山は、これまでのことから、単方向だけの、詭弁屋の嘘つきですから、原理主義もなく、そして、現実主義もありません。気持ち悪いことに、お手本を示していますが、これは、宗教は、いい加減なのが良い、という、以前からの、宗教と信仰についての無理解からの、何の役にも立たない愚痴です。
 
 
*ハズレ
法話について、このような内容を予想していたのであるが、ハズレだったようだ…残念。
総裁の法話は、タイトルと内容が一致しないことがあるのを忘れてた。
 
「このような内容を予想していたのであるが、ハズレだった」・・楽山は、日本語が苦手のようです。恐らく、思いついたままに書いて、反省も推敲もしないのでしょう。そして、書いたことさえも、忘れてゆくのでしょう。こういう無責任筆致は、ずっと前からです。
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
気張って、こんなこと言いそうだな。
「我はかつて愛の発展段階説を説いた
いまここに、愛の最上段階として
包む愛が存在することを明かそう。
包む愛とは何か?
それが知りたければ、その権化たる我を見よ
さすればその何たるかを垣間見ることができよう」云々。
 
三文芝居好きの大根役者である楽山は、しばしば、求まられても信頼されてもいないのに台詞を考えて、さらに無責任に書き捨ててゆきます。程度の低い揶揄です。人を揶揄して、自己満悦する芝居が、自己満足を表します。幼稚なのに冷静を装いながら誇大的なのが楽山ですから、とても気持ち悪いです。
 
楽山は、前に、愛について詩を書いているつもりだったか、"愛させてくれないことには” みたいなことを書いています。愛させてくれる・・?って何でしょう。ニヤニヤしてくれとでも言いたいのでしょうか、裸になれってことでしょうか。楽山は、誰かを本気で愛したことのない人だと思います。
 
 
自己陶酔の傾き

自己陶酔の傾き
 
 
(2021年12月31日)
(2023年01月08日、再録+加筆)
 
 
 
  失恋の歌
 
私のための
喪があけた
君の情事も終わった
流れのように足の下で
歌のように繰り返される悔恨が
やがて花開く
私の胸の空洞だ
招きもしないのに
別れを告げられても困るからと
微笑よ
君の純潔が苛立つとき
首のないセックスが
傾いたベッドの上で
ケラケラと笑いころげ
君の喪があけ
私の情事が終わるとき
うぶな陶酔は
血まみれの風音をたて
血の気のない泣き声をあげて
遠い崖ふちから肉体まで
ひそかに受胎する砂と唇
 
 
  あの世
 
明け方バイクに乗って山の上から
雲海を眺めていた
太陽、雲、あらゆる光
この目はうばわれて、どこか
この世にいなかった
翌朝、山のふもとの道
雲海の雲の中を走っていたのだろう
体はバイクの上で冷たく濡れていった
急に開ける視界
いつのまにか朝日をあびて
シャツが乾いて汚れていた
体はうばわれて、どこか
この世を離れていた
 
昼下がり、車のフロントガラスから
太陽を隠す大きな雲
そのふちは輝き、やわらかい輪郭の
空の上から下へ
隠された太陽から放射状にまっすぐ広がって
注ぐ光、光の帯
天国への階段かと
虹を思い出そうとして
色をうばわれて、どこか
この世に別れを告げていた
 
太陽は神ではない
しかしときに自然が見せる
とくに太陽にまつわる
この世ならぬ感覚は
ある種の喪失か自己消滅か
あの世
でもいいけれど
信じているものは求めて目に見えず
信じたい世界では
信じたい人々からは
信じるべきものは目に見えて闇のようだ
 
 
  私の青春は
 
かみ合わなかった歯車
 
倒れるときの独楽(こま)
 
誰もいない部屋で
まわり続けたレコード
 
最後までからみもせず
ほどけもしなかった
君と 僕の いと
 
気の抜けた苦ビール
 
ふためと見られぬ顔をしていた
酔いつぶれた翌朝の
鏡の中の気分のように
 
電線にかかった凧(たこ)の糸
ちぎれて 汚れて
それと気づかれることもなく
今は春風に揺れている
 
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
信者さんの発言を見てると、今のHSでは、閻魔様の裁き、鬼による拷問を説いてるみたいだけど、また教義変更されたのだろうか。
私が信者だったころは、閻魔様の裁きも、鬼による拷問も、どっちも迷信に過ぎず、事実ではないとされてたと思うので。
 
楽山こそ、宗教とアニメを混同して、好き放題にキリスト教を否定してきましたが、他者が、超常の存在を語ると、超常についての理屈?を言い立てます。宗教は超常を決めつけて信じ込むことという浅薄な理解だからです。楽山こそ、仏様の心が分かるっぽい自覚からの教祖願望があると思います。
 
迷信と言いながら、楽山こそ、超常がらみの迷信と妄想の塊です。キリスト信仰における神と聖三位について、何も理解せず、妄想と決めつける妄想を振り回してきました。心で受け取るという情性も理性も持っていないことが明らかになっています。
 
楽山が、本や聖書を読んで受け取るのは、事実性や整合性の、幼稚な判断→決めつけ→妄想だけなのです。しかも、それで訂正不能になっているために、説得は全く無意味です。楽山は、真実追求の場には、いてはならない人で、理路も情緒も混乱させるだけです。関わらないでください。
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
これは創造論よりは、進化論的な発想だね。
愛の心は、人だけにあって動物にはなく、両者は断絶してるというのではなく、その程度に違いはあっても、人にも動物にもあるというなら、それは進化の過程で獲得したものであり、人と動物は連続してるということだろうから。
 
「連続」という曖昧な表現で発言していますが、創造論について事実として考えているのでしょうか。神について肯定を決めつけるカルト、そして、神について否定を決めつける無神教カルト、精神は同根だと思います。人が、神の領分に立ち入って語れると思う段階で、論ではなく、妄想です。
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
石原慎太郎は、人は死んだら虚無になり、来世なんかないとしてたから、HS教義的には無意識界に行くことになりそうだけど、霊言をしてることになってるんだね。表紙からすると、良さそうなところに還ってそうだ。
 
何が「良さそう」なのでしょう。また、説明を忘れて悦に入る楽山です。重要なテーマについて、薄っぺらな感想ばかり書いて決めつけてきた楽山らしい雑言です。霊言へのこだわりが感じられます。無意識は、世界なのでしょうか。分からないことを分かったふうに書く楽山の偽善的日常です。
 
超常にこだわっていると、日常が疎かになり、超常を語って、日常の自らを省みない楽山のような変質者になってしまいます。罪悪感も羞恥心も反省力も共感性もなくなり、上から他者を判定するようになります。人に対する説得力も失せて、何やら自慢げな独り言が日常となります。近づかないでください。
 
 
 
楽山日記へのコメントを再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
約3年もの長きにわたって批判されていながら、何も気にせず、平気で書き続けられるのは、楽山が、羞恥心も罪悪感も感じない、いわゆる厚顔無恥だからでしょう。おかげで、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)についての資料にはなってゆきます。
 
 
 
自己愛性パーソナリティ障害の特徴
 
この障害の特徴として、思い描いている理想的な自分と、何一つ取り柄のない自分という両極端なイメージしかなく、等身大の自分のイメージがないという点があります。
 
また、結果が全てと考える反面、地道な努力は意味がない、努力をしないことが自分の能力を証明するといったように全く正反対の考え方をする傾向にあります。
 
注目されたい、褒められたいという思いが強い一方で、他者からの指摘や評価に対して傷つきやすく、引きこもってしまったりうつになってしまったりします。
 
こうした傾向が認められ、社会生活に支障をきたすレベルになっている場合に自己愛性パーソナリティ障害と判断されます。
 
女性よりも男性に多く見られ、また、大うつ病や物質使用障害を合併しやすいという報告があります。
 
 
 
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  信仰の節操
 
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 加筆して再録
 おもに偽牧師シャロームshalom 自称ヨシュア、などが言った驚くべき背教コメント。
 
 
● 罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい。
  悔い改めは、神が与える。
   (絶対自己正当化、シャローム型)
 
● 見かけだけの丁寧語に皮肉や悪意を込める。
   (丁寧は敬虔とは限らない。偽善者の侮りの特徴でもある。)
 
● 完全になれる。
   (神と人の違いの無理解、自称ヨシュア型、パリサイ型)
 
● 何かをすれば救われ、しなければ救われない。
   (行為義認の主張、善行でないと非難、パリサイ型)
 
● 信仰と関係のない個人情報をバラして罵る。
   (信仰以外で批判、卑怯な罵倒型)
 
● 神の啓示と聖霊の導きなど神聖を根拠とする。
   (全能全知を自分に当てはめる冒涜、神がかり型)
 
● 自己正当化に固執。(同上、正体は自己中)
 
● 他者を無視してよい。
   (思いわずらうほどこだわる必要はないということを曲解)
 
● 神の愛がストーカーのようについてくる。
  (自己愛を信仰に結び付ける、
   キリストを忘れられないことを誇大妄想化、犯罪に喩える?)
 
● 罪に死んだから、罪はない。死んだから、叩いても蹴ってもびくともしない。
   (罪に死ぬ、ということの誤解~曲解、揺るがない信仰の不適切な比喩
    信仰を死体に喩える?)
 
● 命を懸けるようなことを、ことあるごとに言う。
   (信仰自慢、芝居的な讃美。信仰者は豪語しません)
 
● 霊の祟り、悪霊憑き、呪いなどを言い、あと何日などと脅す。
  (自称ヨシュア・マグダラマリヤ型)
  嫌な予感や悪い予想を言うことはあるが、根拠を示せなければただの脅し。
  キリスト信仰に、戒めはあるが、脅しはない。
  キリスト信仰に、報いはあるが、呪いはない。
  キリスト信仰は呪術ではない。
 
● 頻りに讃美と感謝を繰り返し、さらに、自らの悲劇を語り、命をかけるなど大仰なことを言う。
  (自称マグダラマリア型、あるいは、魔女型)
 
 
● 情欲の聖句の「女」を「他人の妻」と書き換えて、キリストの言葉を、不倫はいけませんね・・という、安い道徳におとしめて、人間の根源と、救いの根源を、骨抜きにしてしまうのは、神に対する大罪であります。
● 神を「恐れる」を「畏れる」と書き換えて、神に対しては、恐れるのではなく畏(かしこ)まればいいのですよ・・ということにして、救いの根源を、骨抜きにしてしまう。
  (新共同訳の訳者たちによる聖書の曲解とキリスト教形骸化の過ちあるいは悪魔的な企み)
 
 
 
  《キリスト者も注意・警戒するべき言動》
 
 
「神は、いつも守ってくれる。いつも愛してくれる。永遠に変わらない愛」について、どのように守るのかを、自分の都合ではなく、神に任せるのなら是であります。戒める神、懲らしめる神、試練を与える神を忘れてはいけません。神は、地上での死も与える御方であることを忘れないように。
 
信仰が偽物だったり堕落したりすれば、ずっと神が愛してくれるというのは、妄想です。それは、陶酔感から罪の自覚を失って、神を侮り、むしろ、神の赦しと救いを拒む態度だからです。
 
 
「ほめたたえよ」という聖句があることで、讃美しておれば信仰だからと偽善者やその傾向のある人は盛んに讃美をします。一方で、自分の罪や反省や悔い改めを語ることが全くないのが偽善者の特徴です。
信仰についての発言を、大きく勘違いした的外れは、背教の暴言に等しいのです。
 
神への讃美であるはずが、讃美したから信仰が成ったとばかり納得してしまうのは、心からの讃美ではなく、むしろ、信仰自慢になってしまうことを自覚してほしいです。また、讃美しなければならないという義務を自らに強いるのは強迫神経症の症状です。
 
問題となるのは、発言そのものよりも、その心にあります。神の、愛、恵み、賜物、など、めでたいことばかり強調するのは、特に、継続して繰り返される場合は、カルト傾向です。そこに信仰の祈りや発言が集中してしまうのは、偽善者の特徴であることを覚えてほしいのです。
 
 
私たち信仰者が、いつも考えるべきは、不完全であることの罪の自覚であり、それが敬虔であり、それゆえの罪の赦しであり、それゆえのキリストの共感と愛なのであり、それゆえの神の愛と寛容があり、それが、人を生かす赦しと救いなのです。聖書の教条ではなく、聖書の心を学ぶことが大切です。
 
不完全で罪深い自分を、神が憐れんで、生きてゆける者として、折々の悔い改めを受け入れてくださる御方への、人間が出来る唯一の捧げものが祈りであることを忘れないでください。人の行いなど、信仰の義において何の根拠にもならず、ただ、正直な祈りだけが必要十分なのです。
 
多くの信仰の恵みは、めでたいことばかりではなく、自分が生きるために不可欠の動機~試練として、与えられているのです。悲しみは反省と忍耐のために与えられるでしょう。揺るがない信仰とは、思い込みの確信ではなく、共感であり、それが忍耐強い信仰を生み出してゆくのです。
 
正直に祈ることが悔い改めであります。悔い改めないのは、悔い改めの祈りをしないことであり、神の救いを自ら拒むことです。悔い改めは、信仰者の人生において、しばしば、必要です。洗礼を受けたから安心とか大丈夫とかではなく、洗礼を受けたから、祈りと悔い改めの信仰生活が始まるのです。
 
なお、いつでも、信仰に、キリストのもとに、神のもとに戻ることは可能です。いつでも、正直に祈ることが出来ますし、神は、それを待っておられると思います。それが、神の寛容であり、永遠に変わることのない愛であります。飾らずに、ただ、神の前に、正直な祈りだけを捧げてください。
 
神の寛容さゆえに、神のほうから救いを拒むことはありません。ゆえに、悔い改めの祈りの機会は、それぞれの人の全人生にわたって与えられています。それゆえに、キリストの荷は軽く、神の寛容は絶えることがありません。飾らずに、ただ、神の前に、正直な祈りだけを捧げてください。
 
神の永遠不変の愛とは、祈りにおいて、いつでも、いつまでも、人には言えないことでも、正直な告白と願いを祈り、それを聞いてくださる御方がいるということです。願いの成就は、神に任されており、そこに、信仰者の使命と忍耐があります。その上で出来ることをするのが信仰者の人生です。
 
 
信仰の節操と偽善

信仰の節操と偽善
 
 
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★こも/楽山日記3
@komo266
こういう意見が出るほどに、自分が手を合わせてる神様に無頓着な宗教観は実に面白い。
なにごとの おはしますかは 知らねども かたじけなさに 涙こぼるる」とはよく言ったものだ。
引用ツイート
島田裕巳@2版出来『宗教対立がわかると「世界史」がかわる』晶文社
伊勢神宮のアマテラスは弟スサノオの前に軍装で現れたし、八幡神は武士が崇めた戦の神。神道と戦というのは深く結びついているので、どの神社に行っても、境内に神明社や八幡社があれば、軍神に参拝したことになる。
 」
午後8:10 · 2023年1月5日
 
「面白い」は嘲笑いでしょう。「神様に無頓着な宗教観」とはよく言ったものです。楽山は、神について知っているつもりなのでしょうか。楽山のように、幼稚な辻褄で神を否定し、人を傷つけてゆく慢心は、知識不足だけでなく、訂正不能の自己愛性からの病的な悪意の偏執です。
 
楽山は、笑うことと怒り憎むことはあっても、「涙こぼるる」ように悲しむ情感を持ちません。だから共感性もなく、神について物を扱うような安易な辻褄で知ったかぶりをします。楽山は、思い上がりの醜態から崩れてゆく人格を表し、慢心して良心のないインテリ気取りの末路にいるのです。
 
 
 
  悪い顔
 
また顔が悪くなった
と鏡の前で気づくか気にするか
また顔が悪くなった
という
顔が悪くなる瞬間というのは
何か嫌なことや
好(よ)過ぎることがあって
あるいは何もなくて
皮膚が乾くのだろうか
変色するのだろうか
顔の肉が強張(こわば)るのだろうか
弛(たる)むのだろうか
特に目や口の辺りの
しかし若(も)しも逆に
年齢相応ですが
少し顔が好くなりました
なんてことが
ないだろうけれど
仮にあるとしたら
身の毛も弥立(よだ)つ
を通り越して
人間は疾(と)うに死んだのに
人体だけ死に損なって
残ってしまったような
顔のどこかに責任が持てるだろうか
 
 
  未熟な象形
 
読解が受け取る側の
誤読と誤解で出来ていて
伝えるべき想いが
思い込みに変わっていて
責任が伝える側の
ただただ未熟さにあったとしても
伝えたい想いがある限り
走るペンが細く描く象形の紙で
不器用に折られた紙飛行機は
やはり飛ばされ続けるだろう
どちらからともなく裏切りとなって
紙飛行機は思いも寄らない方向へ飛び
あるいは落ちて踏み拉(ひし)がれて
たとえ幻滅から失望への傷ついた夜に
沈黙の痛みだけが帰ってきたとしても
未熟は
未だ熟(こな)れないという
未来を持っているし
未熟は何よりも
走ってゆくペンや
飛んでゆく紙飛行機を
止められないほど未熟なのである
 
 
 
心機一転★こも楽山
@komo266
傍から見ての感想だけど、
KENTO氏は継続的にアンチに関連したツイートしてるので、アンチから継続的に反論があるのは当然だし
すぐツイート削除するのでスクショ撮られるのも当然
直接対話を拒否するので、他所でいろいろ言われるのも当然
これはストーキングというより、因果応報だと思います。
 
いつも傍から見て、薄っぺらな感想しか書けない楽山です。楽山は、無反省、無責任に、記事を書いて、そのあとも、責任を負わず、無視して反省も学習もしないのだから、他所でいろいろ言われるのも当然で、批判されるのも、「ストーキングというより、因果応報」となってゆく自己中の必然です。
 
楽山は、他者を批判しますが、その批判が、不思議なくらい、楽山に当てはまってしまいます。それに、書いてくることも、大方、雑言の類で、何か生きるヒントになるようなことなど、一度も書いたことはないのです。書けば書くほど、楽山の言が、楽山を責めることになるブーメランです。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
楽山関連の罪と偽善: 無反省で謝罪しない。世辞か、嘘と詭弁。自己中。非を認めない。無責任で、弁明できない。理路も情感も未発達。笑いと怒りと憎しみだけで、しんみり悲しむ情がない。不祥事を人のせいにする。自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)。
 
楽山の因業は、改まることがありません。いつも、楽山の通念的な言葉が表すのは、そういうことしか書けない楽山の体質的異常の証拠になってゆきます。反省せず、責任を負わないでいると、結局、同じようなことしか書けない無学習のもたらす貧相な悲喜劇だけを表すことになってゆきます。
 
 
 
楽山の害毒メモ:
 
今までに表れてきたこと。これは、楽山に限らず、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、世に数多いる偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。楽山は無責任です。決して信用しないでください。しかも犯罪行為に及ばなければ強制的に抑制は出来ません。
 
楽山は、1つのことを書いて、別の時には、それに反することを平気で書いてきます。そこで、反省、修正、というステップを置かず、あたかも最初から思っていたことのように書いてきます。自分に誤りを認めない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。
 
偽善者の特徴でもあります。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
笑いと怒りしかなく、悲しみの情がない。
共感がなく、罪悪感がなく、反省しない。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して誘導し、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。相手が疲れるのを見て快感を得る。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。サイコパスと思われる。
アドラー心理学の宣伝をしていた。自己中心である。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
 
奇怪な単細胞。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わないし、できないし、元々する気もない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取りなど。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
騙して、言い分を詭弁や嘘で通そうとする、通っていると思い込む。
 
訂正不能の偏執。
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
精神構造はカルトに似ているので、無神教カルトと呼んでいる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
慢心して中身の無い形骸。
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
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