ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

年寄りです。1954年2月24日、長崎市の生まれ。17か18歳で、佐世保で洗礼を受けたクリスチャン。現在、教会へ行っていない逸れクリスチャン。ブログのテーマは、キリスト信仰と、カルト批判が中心です。ヤフーブログから移行してきました。ブログは、2010年からなので、古い記事も多いです。

 
  的外れの批判2
     by 佐倉哲
 
 
佐倉哲という人のサイトですが、楽山の師であろうかと思いましたが、決めつけて説得力のない自己満の筆致が楽山に実によく似ています。既に、聖書のキリストから人間として生存することについて癒しと慰めを得ている信仰者としては、コピペした記事について批判してゆくことにします。
 
もし佐倉哲が楽山の成りすましだとしたら、どういう魂胆で引用したのでしょう。佐倉哲という学者が楽山と同じくキリスト教の神を否定している・・ということで、楽山自身の正当性に箔を付けたいのでしょうか。その佐倉哲の文章が、呆れるほど無理解な先入観に過ぎないのですが。
 
楽山には、高等感情に属する深い情緒からの共感性がありません。さらに洞察力も皆無です。そして、佐倉哲も同様に、事実と理屈の辻褄合わせだけで神を否定したつもりの高慢が表れています。どんなに飾っても、人を生かす言葉として、幼稚は幼稚、無理解は無理解、無知は無知なのです。
 
聖書の神を、深みのない理屈で否定してくる学者モドキの佐倉哲は、楽山の成りすましである可能性が高いと思われます。楽山の無理解を、佐倉哲が繰り返しているように見えるだけです。心の深みを、全くと言っていいほど洞察も共感も出来ないこの二人に、どうか関わらないでください。
 
 
「聖書の間違い」シリーズの目的は、「聖書は、神の霊に導かれて書かれたものであるから、すべて正しく、いかなる間違いも含まない」という主張の真偽を吟味することでした。その結果、わたしはこの主張は間違っているという結論に達しました。つまり、聖書の記述には多数の間違いが含まれており、聖書はいわゆる<神の言葉>ではありえない、ということです。
 
おかしいです。神と聖書の正しさを、人間が完全に理解することは不可能です。そこを弁えないのはカルトや偽善者ということになります。神聖については、人の側に不完全性定理が成り立つようです。神について、人によって、いるとかいないとか、正しいか否か、などは分からないのです。
 
むしろ、そこから、聖書は、心を生かす言葉を見つけて共感することであります。それは聖書がなければありえなかったこととして記憶され、聖書と、体験との間を何度も往復する動機となります。「神の霊に導かれて書かれたもの」かどうか、神でない人に、評価できるものではありません。
 
 
聖書の記述が間違いだらけであるということは、もし神が正しいことしか語らない<真理の神>であるとすると、聖書は<神の言葉>ではありえないという事を意味します。
 
「だらけ」と意味を強めてきました。生かす言葉のヒントも見つけられないでいて「<神の言葉>ではありえない」というような結論に到達することも「ありえない」わけです。聖書から、心、命、人生を、生かす言葉を見つけられない人は、見つけられない自らの身の程を弁えるべきです。
 
 
それでも、もしあくまでも聖書は<神の言葉>であると言い張れば、神は<真理の神>ではないということなり、結局、神の言葉そのものが信用できないという、より受け入れ難い事態が帰結することになります。神が<真理の神>であるとすると、どうしても、聖書は<神の言葉>ではない、ということになります。
 
神と神の言葉を否定して決めつけるのは、反キリストにありがちなことですが、いったい、いかなる保証を、神に、要求するつもりなのでしょう。個人的に、信用できないならば、信じることなどないのだから、神と聖書と信仰については黙っているべきです。理路が悲惨です。
 
自分にないものを人が持っていることへのジェラシーでしょうか。自分は分かっているから、分からない人へ教えようとする態度だけで書くと、こう言う屁理屈を振り回すようになるという例になるでしょう。この屁理屈も、実に、楽山に似ています。情感と感性が悲惨です。
 
 
聖書が神の言葉ではないことの証明
前提:神の言葉は正しい。(神の定義より)
事実:聖書の記述には間違いがある。(調査結果より)
結論:ゆえに、聖書は神の言葉ではない。
 
全能でもない人の分際で、神を判定し結論するという傲慢が明らかです。また、神を判定するのは、自分は神と同等かそれ以上だと言うのと同じです。神聖を自分の屁理屈で否定する・・楽山に似ています。佐倉哲が楽山の成りすましだとしたら、実に有害で狡猾な陰謀と因業であります。
 
キリストの教えに、生きた言葉を見つけた人は、それを救いとして生きる縁(よすが)にして生きるのです。学者も、思想家も、もちろんペテン師も、口をさしはさむ余地はありません。上の判断は、神の言葉でないのはもちろん、人の言葉でもありません。不潔な培地に、ぶわぶわと湧いているカビの類です。
 
 
しかし、もしあくまでも「聖書は神の言葉である」と言い張れば、
前提:聖書は神の言葉である。(キリスト教の教理より)
事実:聖書の記述には間違いがある。(調査結果より)
結論:ゆえに、神は真理の神ではない。
 
歴史の定説と思われたことが、のちに、疑われ、否定されることがあります。過去の事実は証明できませんし、神を証明する事実も否定する事実も証明できません。神を事実によって否定する人の理屈、とても、幼稚だと思います。こういう醜いことばかり書いてくるのも、楽山に酷似しています。
 
人間の辻褄で、貧相な思想家気取りが、神を否定したつもりでも、そこには、神についての事実を人が決めつけるという欺瞞が働いています。これは、信仰を語る思想の是非以前に既に成り立たないことです。恥ずかしげもなく根拠みたいに言う貧弱さは学者気取りの惨めな偏見を表すだけなのです。
 
 
つまり、「聖書の間違い」シリーズから帰着する結論は、「聖書は神の言葉ではない」か、あるいは(聖書は神の言葉であると言い張るなら)「聖書の神の言うことは信用できない」ということです。
 
激しい短絡と傲慢が働いています。この発言者は、人間の理路で、あら捜しはしても、救いとなる言葉の実感に到達していないようです。つまり、聖書について、理屈や事実をいじくるだけで、人生の言葉として何も考えていないのです。自己満だけの、誰も救えない人だと思います。
 
信仰は、論理や事実によるのではなく、共感であり、キリストを好きになることであり、神とキリストを矛盾なく正しいと証明することではありません。人間として、生きるために必要な、心に響く言葉が見つからないなら、貧弱な思想家気取りで浅ましい文句など言わず、ただ黙っているべきです。
 
 
さて、聖書が間違いだらけであるとしても、それで聖書のすべてがでたらめであるということにはなりませんから、たとえば、神が世界を創造し、イエスを救い主として世に送り、彼の犠牲の死によって、彼を信じるものは救われるなどといったキリスト教の中心的教理が間違っていることが、この「聖書の間違い」シリーズから帰結するわけでは、もちろん、ありません。
 
卑怯ですね。否定しまくっておきながら、間違っていること・・帰結するわけではない、などと言っても、それは安い言論者の責任回避であり、このように、神とキリスト教を否定する人が、自らの貧相な理屈を振り回すだけで信仰も真実も知らない証拠なのです。とても、卑怯で、醜いです。
 
 
しかしながら、「聖書に書かれていることは全て正しい」という主張が覆されてしまった以上、「聖書に書いてあるから」という理由では、それらキリスト教の教理が真理であることは、もう主張できなくなります。
 
聖書が神の言葉と信じても、全ての正しさを、人間は理解できるわけではないという敬虔を、このブロガーは分かっていないのです。人間のインテリジェンスは、信仰と聖書を理解するうえで、超常がどうこう・・といったことについては、全く無力です。私たちは超常に住んでいないからです。
 
 
聖書が真理の根拠ではありえないことの証明
事実: 聖書の記述には間違いがある。(調査結果より)
結論1:ゆえに、「聖書に書かれていることはすべて正しい」という主張は間違っている。
結論2:ゆえに、「聖書に書かれているから」という理由は、ある主張が正しいことの根拠にならない。
 
神は絶対であっても、人は絶対ではない、という基本が、信仰の弁えです。同格に見て論ずるなら、それに使う時間はことごとく無意味です。つまり、神と聖書が無意味であると否定することは、そう言った者を、とことん無意味にするでしょう。論理に見せかけた詭弁・・無駄なことは止めるべきです。
 
 
(結論1より)
つまり、「聖書の間違い」シリーズから帰着する二つ目の結論は、「イエスは人類の罪のあがないのために犠牲の死をささげた」とか「イエスをキリストと信じるものは救われる」などといったキリスト教のすべての教理は、それらが「聖書に書かれているから」という理由では、真理であることを主張することはできない、ということになります。言い換えれば、聖書は真理の根拠あるいは権威ではあり得ないということです。
 
論理的に見せかけていますが、現に、キリストを好きになり、生きる縁としている人々への悪質な侮辱になります。その原因は「聖書に書かれているから」が、正しさの理由になっているという先入観的な見方が批判者側にあるからです。共感と愛が人間をとらえること何も理解していない人の言です。
 
聖書は神の言葉であっても、ゆえに、人の言葉しか持っていない私たちには、完全に理解できるものではないということです。人の理論体系に、神は、納まる御方ではない、という恐れをいだくべきなのです。それを自覚せずに、神と聖書を理屈で否定したつもりでいることは、呆れるほど傲慢です。
 
教理は、聖書に書かれているのではなく、聖書に書かれていることから生まれています。この佐倉哲という楽山類は、楽山と同様、理論家ではなく詭弁屋です。楽山の成りすましの可能性が高いです。誰も褒めてくれないから、学者か何かに成りすまして満悦しているのでしょうか。哀れです。
 
 
聖書の記述における数字の不一致のような、一見「些細な」矛盾も、したがって、キリスト教の中心的教理の主張とまったく無関係というわけではなく、むしろ、それらの教理を真理であると主張するための重要な、おそらく唯一の、土台そのもの(真理の権威としての聖書)が、その「些細な」誤謬のために崩壊してしまったといえるでしょう。
 
呆れます。既に生きるとに必要だから信じている信仰者を屁理屈で否定したつもりです。今まで書いてきたように深みも洞察もない決めつけの屁理屈で否定したつもりになっている自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)の見せかけだけで実質が皆無の自慢話につきあってはいけません。
 
信仰は、数字や理屈の一致に支えられてはいません。矛盾がないから信じているのでもありません。また、教理と、信仰は、違います。教理は、直観に結びつきにくいものですから、心の癒しにも直接は結び付きにくいものです。教理は、信仰のヒントとなる言葉の集まりに過ぎません。
 
信仰は、キリストの一つの言葉で生まれることもあり、人によっても、状況によっても、違うことがあり、それは、教理や理屈を大きく超えて、救いと癒しというテーマに関わることです。だから、その経験のない人が、通念的な理屈で語る神は、読むに耐えないほど、幼稚で拙劣なものになるのです。
 
この佐倉哲という人が、批判しているのは、教義教理信仰という、人が決めつけた理屈の中で神を語る偽善的思い込みの類であり、そういう批判は、私も書いています。それを、既に救われ癒されている人の信仰に向けることは、即、侮辱となります。佐倉哲は、直観力も理解力もないと思います。
 
今回、批判対象の作者である佐倉哲は、教会で、教理ばかり信じるように言い聞かされて、傲慢のために反省もしないで、根こそぎ否定の方向に変えたのでしょうか。深いところを受け取れないために、屁理屈だけの筆致は、楽山に、実に、よく似ています。つまり、思い込みだけの空想屋に過ぎません。
 
 
聖書は、長い歴史の中で育まれてきた先人の知恵と、神を表す言葉であり、未熟な理屈遊びで論文の適否を論ずるような思い上がった決めつけの対象には決してなりません。楽山と似たような、勉強しない天才気取りが何を書いても、刺激性の悪臭をもたらすだけです。的外れもいいとこです。
 
 
的外れ 発泡性 根無し

的外れ 発泡性 根無し
 
 
(2021年12月28日)
(2023年01月05日、再録+加筆)
 
 
 
  選ばれた民
 
キリスト者(クリスチャン)は神によって選ばれた民である
それを否定するつもりはないが
選ばれた、とはどういうことなのか
恵まれた、とも言えるかもしれない
しかしこういう言い方は誤解を招きやすい
選ばれた、とは優劣を意味しない
また特別に善いことをしたから選ばれたわけでもない
キリスト者でなくても優れた人はいるし
また尊敬に値する人格者であり
キリスト教についても知識を持ちながら結局
信仰には無縁なまま一生を終える人もいる
強いて言うなら助けが必要なほど愚かだから
神の憐れみによって選ばれたのかもしれないが
ことさら卑下する必要もないだろう
無理な謙譲は陰湿な思い上がりの住みかである
 
主イエスが弟子として選んだのは
人格や知識の優れたものではなく
多くは無学で愚直でありながら
人間的な感情の豊かな人々のようであるが
詳細は明らかではないはずだ
 
少なくとも選ばれるということは
選ばれる人々の都合によってではなく
秘められた神の都合によって選ばれるのである
 
だから選ばれたことは縁のようなものであって
選ばれた民は異教徒や無宗教の人々を
軽んじてはならず憐れむべきでもない
人の憐れみはしばしば陰湿な軽蔑の住みかである
 
キリスト者はただ神の都合により選ばれた民である
そして父なる神から甘くなさそうな盃を与えられた者である
人間としての喜怒哀楽を経て、離れようとしても
盃の縁のゆえに、たとえ苦くとも
盃の宴に立ち返るほかにない人間をキリスト者という
 
 
  深夜の車
 
寒い
深夜
スプレーをかけて
凍った車のウィンドウを拭く
 
寒くない日に
生まれた言葉や
凍りついた励ましや
やさしさが
冷たい息をかけて拭き取られる
 
残った透明なガラス
見にくい
見通し
 
ハンドルを切る
神経が切られてゆく
 
坂道をのぼる
知性が落ちてゆく
 
憎しみでいっぱいの
車から
小さな音をたてて
落としたらしい愛が
草むらを転がり
暗闇にさらされて
悔いを呼ぶ
エンジンが壊れそう
 
アクセルを踏む
怒りが吹ける
煙が尾をひく
 
短いせりふのように
流れ
走り去った車の後に
夜が残る
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
 
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」
「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
嘘ばかり重ねる罪と偽善を「これも一種の、人間の性なんでしょうかね」で済ませようとする無反省の楽山は、恐らく一生、反省、とほほ、などと、ふざけて書くことはあっても、本当に反省することはないのでしょう。しかし無反省で無理解のまま言葉だけ書いて、それで済む世界は存在しません。
 
楽山は、利用できるものを、無断で好きなだけ利用してきました。しかも、言葉の表面だけだから悪用というべきです。しかし、この記事の屁理屈は、楽山の筆致に、実に、よく似ています。上のS氏も、楽山の成りすましなのでしょうか。罪は、犯したとき心地よく、後から、責めをもって、追いかけてきます。
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
★こも/楽山日記3
@komo266
信者の中には、
アンチが相手でも、冷静に対話ができる人もいる一方で、
アンチはこういう者だと決めつけて、即、拒絶する人もいる。
こういう違いは、一体何が原因なんだろうな。
午後0:06 · 2021年12月26日
 
楽山が原因です。人を生かす言葉を、安い世辞と勘違いして、他には何も用意できず、人のせいにする悪口だけ積み重ねてきた雑言屋の宿命です。楽山は、芝居が得意なのではなく、自己中と怠慢のために、いつのまにか、三文にも値しないペテンの芝居しかできない大根役者になっているのです。
 
楽山は、先入観と偏見と妄想で、いつも、「決めつけて」きます。そして、他者の言葉を、都合のよい言葉だけ、都合の良い方向に、引用して、味方が多いように見せかけてきます。一般常識がありません。良心がありません。たくさんのHNに成りすましていると思います。
 
楽山には、冷血はあっても「冷静」はありません。楽山は、正当な対話が出来ません。不快なことや都合の悪いことは無視します。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)なので、自己中の単方向しか持っていません。それを、丁寧語で、ごまかしているのです。
 
 
★こも/楽山日記3 
@komo266 
RT @PdoctorTomy: 自分で決めていいことは、
自分で決めるのが一番いい答えなのよ。
 」
自分で決めていいはずのことに、あれこれ口を挟む人はいっぱいいるのだけれど。 
 
「自分で決めていい」のは「自分で決めていいこと」です。それを、楽山は、何でも自分で決めていいという詭弁にして、宗教や思想というような大きなものをも、自分で決めつけてきたのです。どこまでも、くだらない詭弁で誘導してきます。無反省、無神経、無責任の、訂正不能の自己中です。
 
 
 
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  悲しみと信仰3
 
お詫び:体調が良ければ、毎日、過去作+加筆修正を中心に書いてゆきます。現在、体調は、あまり思わしくないので、不定期発信になるかもしれません。その場合、日付間違いが増えると思います。
 
 
偽善者は、相変わらず、弁明が出来なくても何も感じないで、繰り返し言い張るだけのようです。
聖書でも現実でもネットでも、偽善者が悲しむのを見たことがないです。偽善者は悲しみの感情を持っていないのではないかと思うことがあります。
 
聖書でも現実でも、偽善者の感情は、得意げに笑うことと、怒りと憎しみだけのような気がします。深い悲しみは、抑制がかかって鬱になることもありますが、心が沈んで、激しさが涙になるなら正常で、出口があるということです。
 
悲しみはつらいけれど、心を潤し、心を濡らして、悲しみを洗い流す作用があります。泣けない時には人からも受容が必要です。出口がないと思ってしまう鬱の時には、時に任せて、耐えるだけでも意義があります。何よりも生きていることが大切です。
 
しんみりと悲しむことができるときには、悲しみは、その沈んだ思いのうちに、猛る思いを静めて、内へと向かう思考によって、やがて内省することもできるようになるでしょう。
それができないのは、人格障害の人で、人のせいにしてきます。
 
悲しみを知る人は、悲しく辛くても、やがて、悲しみが去ることを喜ぶことが出来ます。悲しみの克服というのは、悲しみは過ぎ去ることを知っています。人間は成長するからです。そうして意味のある未来が徐々に気づかれてゆきます。
 
悲しみを知らない人は、出口のない感情と思考のために、憤怒だけを、どこかにぶつけることになるのでしょう。悲しみの感情を知らない人がいて、悲しめない不都合に際して、怒り、憎み、恨んで、他者のせいにして鬱憤を晴らす場合があります。人格障害、サイコパスの場合です。
 
悲しみを知らない人は、不快な感情を処理するにあたって、焦燥感が強いあまり、他者を貶めるか、他者をあざ笑うことになるでしょう。そのような処理の方法は、他罰または責任転嫁となって表れるでしょう。特殊な人格~病理として注意が必要です。
 
 
負の感情の出口がない間、静かな思考に向かうか、それとも、停止と遮断に向かうか、衝動と攻撃性につながるか、という違いがあります。自分の感情をモニターできるか、正直に相談する相手がいるかどうかにかかっています。また、正直は祈りに通じます。自分を見ない人になってはいけません。
 
つまり信仰において、悲しみは、悔い改めにつながる大切な感情のように思います。人生において、悲しみは必ず訪れるものです。その時に、成長するか、成長をやめてしまうかが、決まるような気さえするのです。イエスキリストは、悲しむ人に、近づきました。
 
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
5:3
「こころの貧しい人たちは、さいわいである、
天国は彼らのものである。
5:4
悲しんでいる人たちは、さいわいである、
彼らは慰められるであろう。
5:5
柔和な人たちは、さいわいである、
彼らは地を受けつぐであろう。
5:6
義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、
彼らは飽き足りるようになるであろう。
5:7
あわれみ深い人たちは、さいわいである、
彼らはあわれみを受けるであろう。
5:8
心の清い人たちは、さいわいである、
彼らは神を見るであろう。
5:9
平和をつくり出す人たちは、さいわいである、
彼らは神の子と呼ばれるであろう。
5:10
義のために迫害されてきた人たちは、
さいわいである、
天国は彼らのものである。
 (マタイ5:3-10、新約聖書)
 
 
悲しむ人は、おごらないゆえに、心貧しく、うなだれるゆえに、慰められ、求める心があるゆえに、義に渇き、むさぼらないゆえに、憐れみを受け、余計なものがないゆえに、心が清く、一途であり、安らぎたいゆえに、平和を求め、悲しんだゆえに慰めを感受し、癒しが与えられるのでしょう。
 
悲しみを知ることが信仰と偽善を分ける、と言ってもよいほどに、悲しみは大切な感情なのかもしれません。悲しみを知らないのが、人格障害者、特にサイコパスです。
 
 
救いは悲しみから生まれる

救いは悲しみから生まれる
 
 
(2019年)
(2021年)
(2023年01月04日、再録+加筆)
 
猛る(たける)
鬱憤(うっぷん)
憤怒(ふんぬ)
焦燥感(しょうそうかん)
 
 
 
元日のコメントの遣り取りです。
 
1.
とある場所に書き込みした後、大晦日からsossiotron.comとセブンイレブン
でてきました。
画面右下の吹きだしをクリックして右上の「通知の管理」を
クリックしたら「通知とアクション」のウインドウが表示されますので
下のほうの「送信元ごとの通知の受信設定」のsossiotron.comの
ボタンをオンからオフにしてみてください。
謹賀新年2023-01-01 12:53:27
 
 
謹賀新年さんへ。なぜ、HNを隠すのでしょう。
記事をアップしてから、何を押したのか覚えていませんが、消すことが出来ました。恐らく、コメントにあるようなことをしたのでしょう。
あなたは sossiotron.comさんですが。楽山ですか。それ以外の人ですが。楽山を知っていますか。
このようないたずらは違法です。あなたがなさったのなら、二度としないでください。
st5402jp2023-01-01 14:11:25返信する
 
 
 
  死んでいます
 
私は日々死んでいます
聖者の叫びは程遠く
詩人の鐘さらに遠く
私は日々滅びています
体は衰え心は萎え
気力は失せて
私の耳は砕け散ったかけら
響きも笛も聞こえない
私の目は汚れた鱗
涙ながらに涙は流れず
渇いて乾いて
重なるものを見抜けない
私の昼は空しい排泄に終わり
私の夜は繰り言の始め
ありふれた風景
世界の末席から転げ落ちて
私は日々死んでいます
私は日々滅びています
しかもそれらすべてが
必ずしも悲しみだけではない日々を過ごしています
 
 
  祈り・最後の誘惑
 
最後の最後が訪れたとき
耳元で囁(ささや)く者がいるだろう
イエスはキリストと呼ばれるほどに
偉大であったかもしれないが
そのイエスが
誰にも真似のできないことを行い
真似のできないことを言ったがために
お前はキリストの幻想に騙(だま)されたのだ
 
未来があったとしても
過ごす間は耐えがたく
過ぎてしまえば束(つか)の間(ま)に過ぎない
もうこの歳で
良い未来が待っているとは思えないけれど
そんなこの世の未来以上に大切な
現在の希望を失うことなく
自分の過去と人生を
思い込みの不幸で塗り潰(つぶ)さないために
死を視(み)ること帰するが如(ごと)し
その囁きに対して
永遠の友なるキリスト
我が慕いまつる主
イエス様になら騙されても構わない
父なる神の御手のうちに
壊されるのが望みである
と言えるほどの信仰だけを下さい
私を絆(ほだ)して下さい
そして離さないで下さい
悲しみだけではない時を
知るでありましょう
 
 
  祈りを知る
 
祈ったからといって直ちに
悲しみが喜びに変るとは限らない
苦しみが消えうせるとも限らない
でも奇跡的に変わるかもしれない
でももっと魂の奇跡として
悲しみや苦しみが
それだけではないものに変わる
祈る相手がいるという幸い・・・!
 
この世の人はそれを気休めと言い
心理的効果と言い捨てるかもしれない
聖なる働きと解釈するのも
否定し無視するのも
人の自由だ勝手だ
どちらも証明は出来ない
でも祈りは
生きた働きをもって返されるなら
証(あかし)としては
それだけで十分である
だから信じる
祈りが聞かれていることを
だから信仰する
すべては御心のままに
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
 
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
しんみりと悲しむことを知らない人は、しんみりと深く考えることも出来ません。そして、罪悪感を感じないようです。ゆえに、自分の恥と罪と偽善の悪を「これも一種の、人間の性なんでしょうかね」などと白々しく言って、ペロッと舌を出すような軽さの悪ふざけをするのでしょう。
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
★こも/楽山日記3 
@komo266 
RT @PdoctorTomy: 他人が上手く行っているように見えるだけで、気に食わない人間っていっぱいいるのよね。
 」
おめでたい報告は、心から祝ってくれる人だけにしたほうが無難よ。 
 
心を傷つけることで快感を得る楽山が言っています。霊性の悪霊、現実的には、人に教え、人をバカにして生きている楽山です。罪悪感も責任感もなく、理路の周辺に雑言をばらまいて、インテリを気取っている身の程知らずです。悪意の共感、つまり、誘導です。関わらなければ無難ということ。
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
@houndmen@tadamitsu824
犬ジジィ氏と忠光氏の議論を見た。犬ジジィ氏は批判リプを10以上もしながら、忠光氏が反論リプをつけるのをブロックしたのかな? もしそうなら、ズルすぎる。
ブロックするなら、忠光氏が犬ジジィ氏の批判に反論リプをつけ終わるのを待ってからにすべきだったと思う。
 
他者に「すべきだった」などと意見する資格は、楽山にはありません。双方向など、一度も成り立ったことのない楽山です。「ズルすぎる」などと非難する資格もありません。無反省、無責任、無視で、罪悪感欠如、羞恥心欠如の楽山です。厚顔無恥も甚だしい。
 
★こも/楽山日記3
@komo266
信者の中には、アンチ批判をしていながら、アンチが反論しようとすると即ブロックする人がいる。
まるで、「自分が言いたいことを言えればいい。異論、反論は聞く必要なし。その機会を与える必要もなし」と考えてるみたいだ。
HSではこういう考え方を容認してるんだろうかと疑問に思うよ。 
 
キリスト教を侮辱しながら、批判されると、スルー・無視を決め込んだのが、楽山です。あらゆる言論の資格も能力もないのです。「異論、反論」を聞かず、批判すれば、悪口だけを返して、しまいに無視するしかない楽山です。楽山は、「疑問に思う」よりも、全否定するべき対象です。
 
楽山の反論は、相手を負かすことしか考えない嘘と詭弁です。分かったようなことを書きますが、楽山には真剣味がないのです。思いついた理屈遊びで反論しても、そこに、体験者としての実感はないのが、自己愛性パーソナリティ障害NPDの特徴であります。
 
 
 
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  楽山の現実離れ2
 
 大川隆法と高橋信次
 2021年12月19日 
 幸福の科学とは何だろう?ブログ by 楽山
  を再録・加筆・批判。
(隔日投稿になるかもしれません。)
 
 
現実の問題を認識せず、自覚も病識もなく、自らの罪と悪と偽善に全く無反省で無責任な楽山が、他者の現実離れを批判しています。自らの嘘と詭弁と悪と偽善と無理解について何の反省もないまま、また、批判者を気取って、自己顕示してきます。そのような資格は、楽山にはないのです。
 
 
*まえおき
大川隆法と高橋信次について他所で書いたので、それを再構成して以下にまとめました。
*まとめ①
思うに、大川隆法は高橋信次の教えをそのまま流用しているといっていいでしょう。
具体例を書くと、まず高橋信次は次のことを説いていました。
霊界は、四次元、五次元、六次元…と区分されるとしていた。
霊界には仙人天狗などの住む裏側があるとした。
九次元は、仏陀、救世主のいるところで、釈迦、キリスト、モーゼらがいるとしていた。カンターレ、リエントアールクラウドの存在も説いてた。
太古の昔に、宇宙人が地球に移住してきたとした。
波長同通と憑依の関係も説いてた。
本体1、分身5の魂の兄弟が生まれ変わりつつ魂修行してるとした。
大川隆法はこれらの教えをそのまま流用していることは、HS初期を知っている者であれば周知の事実です。
また枝葉を取り払った本質論でみれば、さらに両者の教えは同じことが明らかになります。高橋信次と大川隆法、どちらの教えも、人の本体は霊であり、輪廻転生をしながら霊性を進化向上させているという霊性進化論に根ざしてることは完全に一致してるので…。
 
宗教の話として、超常を語るのは、大方、絵空事です。宗教と信仰は、現実を生きるためにあります。超常をいくら詳しく語っても、それは現実を怒ることにはなりません。空想の、いい気分が信仰ではありません。むしろ現実逃避になって、さらに変人になって、実生活において通用しなくなるでしょう。
 
楽山は、正すために書いてはいません。正す人は、反省もするはずです。楽山は、無反省に、他者を責めることに快感を覚えて、その偽善の立場を通そうとして、正義の味方の客観的な批判に見せかけた嘘芝居と詭弁をインテリ気取りで書いているだけです。楽山は、インテリ気取りのインチキ雑言です。
 
「霊性進化論」は、恐らく、空論~せいぜい仮説でしょう。しかし、楽山は、真に受けて、真に受ける資質があることを空しくアピールしたいのです。理屈の葉っぱを見せて、理路の根っこを何も持たない楽山の、出まかせの空論に、誰も惑わされることのないように願っています。
 
 
*まとめ②
思い出したけれど、初期HSに、元GLAの人たちが多く集まった理由の一つは、大川隆法が高橋信次と同じことを説いていたからでした。
今のHSでは、高橋信次は低評価されているし、現HS信者が大川隆法は高橋信次と違うと言いたい気持ちは理解できます。でも自身の信仰や願望に埋もれて現実を見失ってはいけません。現実は現実として認めなければならないのです。現実が分からなければ、現実と信仰の差異が分からず、結局は信仰さえも分からなくなるからです。
余談ながら、HS信者が議論に弱いのは、現実は現実として認めることができていないからだと思います。
 
楽山は何も「理解」など出来ないと思います。楽山は、無反省、無責任、無学習のために「見失って」いるもので出来ていて、何も新たに受け取れない精神の病質で、現実検討能力がありません。今までの経緯から、自己愛性人格障害の楽山は、正当な評論も議論もしたことはないと思います。
 
 
*まとめ③
大川隆法は高橋信次の教えをほぼ流用したから、元GLAの人たちが集まってきたのでしたが、その後、大川隆法はその部分を改変、否定したため、それらの人たちは去ってゆくことになりました。
大川隆法が改変、否定した高橋信次の教えは、こういうものです。
心の調和が大事。それなくしてペンダント、法具、儀式など意味無し。
疑問追求。疑って疑って疑いきれぬものを信じる。
人につかず、組織につかず、法につけ。組織の歯車になるな。
教祖崇拝はだめ。嘘のつけない自分の心、内なる神を信じよ。
ただ大川隆法はこれらの教えを改変、否定しても、次元論という世界観は変えていません。次元論を否定したら、大川隆法はは高次元の存在だという自らの権威の拠り所を失うことになるので、それはできないのでしょう。
その結果、大川隆法は高橋信次を否定しながらも、高橋信次の世界観、霊界観からは一歩も出られないということになっています。大川隆法は昔はもちろん、今現在も高橋信次の掌の上にあるということです。
(画像省略)
 
ごちゃごちゃと書いて、偉そうに見せるのは、楽山の、嘘っぱちの生業(なりわい)であります。楽山が、何かを分かって言っているなどと思わないでください。読書も作文も、だますための実感の無い詭弁であり、説得力は皆無です。楽山は、語るだけの根拠を、学習していないのです。
 
楽山が文章の中で使っている用語は、それ自体が説明を要するテーマとなることで、その用語だけでは意味不明なことが多く、説明の出来ない楽山は、そういう用語を並べて、文章の体裁だけ専門家であるかのように見せかけているだけなのです。「内なる神」について楽山は何も分かっていません。
 
 
*おまけ
山内氏のツイートによれば、『黄金の法』(旧版)において、大川隆法本人が、「私は、人間・高橋信次の遺した心の教えを土台として、さらに、これから五十年近い年月の間、正法神理を説いてゆこうと思っております」と書いていたようです。大川隆法は高橋信次の教えを流用しているというのは、私が言うまでもなく、本人がそのように宣言していたということです。
(画像)
ちなみに、この辺りの流れを整理すればこうなるでしょう。
大川隆法は、高橋信次の教えを引き継いだ。
その後、大川隆法は高橋信次を批判、否定した。
けれども、自らの教えの土台となっている高橋信次の教え(霊界観、心の法則など)までは排除できなかった。
大川隆法は、今現在も、高橋信次の霊界観、世界観によって立っていて、その影響から脱しきれていない。
こう見ると、大川隆法は他宗教を凌ぐ独自の教えを説いたわけではなく、高橋信次の教えを流用したにすぎず、その実態は高橋信次の没後弟子であり、分派にすぎないことがよく理解できるのではないかと思います。
 
(ネットより)
高橋 信次(たかはし しんじ、1927年9月21日 - 1976年6月25日)は、日本の宗教家で宗教団体GLAの創立者[1]。ハードウェアエンジニアとして会社を設立し経営者を務めた。
高橋によれば、人間はその内側に次元の異なる心や魂の世界があり[2]、その中心に「仏性神性を持っている」[3]。人間は「神の子として(中略)人々の心と心を調和させ、地上に(中略)ユートピアの実現を志すとともに(中略)盲目の人生での修行を通して、豊かな神の心を完成させることが大切である」[4]という。また、自然において安定した環境が保たれているのは「神の大慈悲であり、大いなる神の愛」[5]であるという。
 
楽山は、ORを批判する根拠に、ORが、別の、神仏への信仰を真似ていることを指摘しています。ならば、この、別の超常信仰を肯定しているのでしょうか。どちらも超常を規定する信仰ですから、結局、楽山は、小児期からの、霊が分かるっぽい自覚からの高慢を表しているだけです。
 
だとすれば、楽山は、他者を利用して、結局は、自分が教祖にでもなりたいのだろうという推測が可能です。今までの経過から、実際の楽山は、反省も学習もしない嘘吐きの詭弁屋ですから、その薄汚れた精神から浅ましい欲望を貪っているに過ぎません。
 
楽山を受け入れないでください。楽山の理路めいた言説は、楽山と同じような自己愛性パーソナリティ障害NPDへ通じて誘導するだけの、嘘と詭弁以外何もない空虚な精神崩壊への誘導の入り口なのです。楽山に関わらないでください。楽山を相手にしないでください。お願いします。
 
 
ちんどんは神を知ってるつもりで人を知らない

ちんどんは、神を知ってるつもりで、人を知らない
 
 
(2021年)
(2023年01月03日、再録+加筆)
 
 
 
  消滅のベクトル
 
味方も仲間もいないことが
自分というものなのだと
細くなり薄くなり掠(かす)れるように
座標から消え失(う)せるベクトルの先を
何によって見ようとしている
 
贅沢病だと言われれば
そうでないことを証明するには
死んでみせなければならないだろうか
 
遠ざかるものが
遠ざかることによって
殺しにかかるなら
黙って殺されてあげようか
 
しかし何の土産(みやげ)もない
天に
何の宝も
未だ積んではいないというに
 
荒廃から崩壊へ
喪失から消滅への
方向しか持たないベクトルに
長さを問う儚(はかな)さよ
 
 
  崩壊
 
荒れた道沿いの丘を走っていく
両手で抱えているのは黒い棒切れ
迷彩服は朝日に照らされて
丘の上これ以上狙いやすい的はあるまい
墨でも塗っているのか
黒人なのか
それとも焼け焦げているのか
黒い顔は眼だけがむき出しの形相で
崩れるように走っていく
わからない
よっぽどつらいことがあったんだろう
 
昼の光の陰の通り
近寄って来て声をかけてくる
「@×~※〇÷#&▽=∞+?・・・」
何か尋ねているように聞こえるが
内容が聞き取れない
崩れるように近づいて
崩れるように何度も声を向ける
恥も外聞もないかのように
自らを投げ出している
わからない
よっぽどつらいことがあったんだろう
 
いっそ崩れてしまえば
本当は赤ん坊になって
胎児になって
宇宙か天空へでも帰りたいのだが
もうこんなに歳を経てしまった
黄昏の地平に砕かれて
粉々になってしまえば
黒い顔のまま倒れて
丘の下の草原へ転げ落ちてしまえば
@×~※〇÷#&▽=∞+?
投げ尽くしてしまえば
声が音になって
引き裂かれたあとの沈黙が
静けさになって引き裂かれたあとの
地獄が天国に・・・
 
そんなにも虚無を
求めるかのようでありながら
引き金のない銃に
空(から)の薬きょうを込めて
崩れかけた顔に
水の化粧をして
崩れかけた声に
塩素の泡を流して
目覚めれば今日も
自らに迷彩を施している
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
 
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
嘘ばかり重ねる楽山に、だまされないように、楽山がネットに開いている嘘吐きそして高等感情鈍麻養成の出店を畳むしかなくなるように、誰も楽山を受け入れないように、祈り願っています。楽山の気取りは、異常であり、病気であり、不治なのかもしれません。被害は小さくないと思います。
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
あけましておめでとうございます✨
本年もよろしくお願い申し上げます🤗🎍
午後0:58 · 2023年1月1日
 
楽山のツイッターです。白々しい新年の挨拶です。誰も関わらないでください。12月31日のウイルスか荒らしの悪戯に関わっている疑いがあります。平気で嘘を吐く人です。無反省そして無責任の自己愛性パーソナリティ障害NPDです。新年を祝っていい人物ではありません。関わらないでください。
 
 
2023年元日コメントが付きました。解除方法が書いてありました。しかし、それ以前に、どこを押したかは忘れましたが、試行錯誤で、ウイルスか荒らしの広告は消すことが出来ました。コメント者は謹賀新年というリンクのないHNです。楽山かもしれません。楽山に関わらないでください。
 
 
サーバー
ブロックされています
@taka84156681さんのフォローやツイートの表示はできません。
 」
 
楽山と思われる taka のツイッターは、だいぶ前にブロックされているようです。楽山が、何か、ルール違反でも、やらかしたのでしょうか。原因は不明です。楽山のネットにおける前科なのでしょう。
 
 
 
楽山の害毒メモ:
 
今までに表れてきたこと。これは、楽山に限らず、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、世に数多いる偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。楽山は無責任です。決して信用しないでください。しかも犯罪行為に及ばなければ強制的に抑制は出来ません。
 
楽山は、1つのことを書いて、別の時には、それに反することを平気で書いてきます。そこで、反省、修正、というステップを置かず、あたかも最初から思っていたことのように書いてきます。自分に誤りを認めない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。
 
偽善者の特徴でもあります。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
笑いと怒りしかなく、悲しみの情がない。
共感がなく、罪悪感がなく、反省しない。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して誘導し、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。相手が疲れるのを見て快感を得る。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。サイコパスと思われる。
アドラー心理学の宣伝をしていた。自己中心である。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
 
奇怪な単細胞。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わないし、できないし、元々する気もない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取りなど。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
騙して、言い分を詭弁や嘘で通そうとする、通っていると思い込む。
 
訂正不能の偏執。
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
精神構造はカルトに似ているので、無神教カルトと呼んでいる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
慢心して中身の無い形骸。
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
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  偶像と玉葱の皮3
  
 
 「偶像と玉葱の皮」 : ウソの国-詩と宗教:st5402jp (livedoor.blog)
   を加筆修正。再録+加筆。
 
 
人が神を
特にキリストを信仰するとき
祈るときも感謝するときも
キリストの理想像を
人は心に思い描いています
その根拠は聖書ですが
それも人による聖書の解釈です
 
したがって信仰は
自分にとって望ましく好ましい
また都合のよい偶像になってゆきます
つまり信仰は偶像信仰になってゆきます
 
信仰の偶像は忌むべきです
排除できるなら排除したいのですが
はたして排除できるでしょうか
 
キリストを思うとき
必ずキリストを思い描いています
姿・顔・表情など
詳細な写実のような像でなくても
思い描かないなら概念に過ぎなくなります
信仰が概念だけになるのはイデオロギー化であります
信仰はイデオロギーではありません
 
思い描いてしまうのです
大好きなイエスさまを
 
偶像の完全排除は形無き理屈になりますから
偶像排除も真の信仰も
結局は不可能になります
 
しかし偶像を排除しようという意思を持つことが
折に触れて大切になります
経験を重ねるにつれて余計な尾ひれが付いてくるのが
人が信じるということの必然ですから
 
信仰の偶像を自覚しない信仰にならないために
 
偶像の排除は
玉葱の皮を剥くようなものかもしれません
剥いても剥いても切りがなく
刻めば出てくるのは涙だけ
しかも玉葱の芯があってもなくても
真の信仰だという保証はないのです
 
だからといって
偶像排除など
しなくてよいということにはなりません
 
いかなる信仰であれ
自分に都合のよい偶像信仰に陥る危険はあり
偶像信仰だけならば
玉葱の皮をむいた後に残るものは何もありません
偶像信仰だけでないならば
皮をむき続けるのが信仰者の一生です
この場合
皮をむく作業は終わらないのです
ゆえに信仰は境地ではなく一生続く道なのです
 
したがって人は
皮をむく作業が終わりを予測できないまま
作業を続けることになります
それは空しいだけだと止めてしまうと
玉葱の皮に気づこうとしないまま偶像信仰が続く
という最悪の偶像信仰に陥るでしょう
 
信仰の偶像を自覚する信仰であるために
 
「剥いて刻んでも出てくるのは涙だけ」
と言う偽善者もいますが
 
だからこそ
玉葱の正体を知りたいなら
一生のあいだに
ありったけの涙を流すべきなのです
 
 
上では偶像と書きましたが
ここでは
祈るとき
信仰について考えるとき
必ず不可避的に
思い描いているイメージの意味でもあります。
 
偶像=心に描いているキリスト像
=自分の理想のキリスト像
=自分が出会ったと思っているキリスト像
こういう偶像は
信仰者なら
はっきりとはしなくても
誰もが持っていると思います。
 
そこを自覚しない場合
あるいはカルトなどは最初から、
最悪となる偶像があります。
すなわち偶像崇拝といってよい邪悪な偶像です。
それは不可避的にではなく
思い込みによる偶像です。
多くは
自分に都合がよく
自分をいつも正当化してくれるような
慰め主でありながら
信仰とは別の
自分の都合だけで作られているので
刷り込まれたものであっても
先入観や固定観念や欲望のイメージとして
自分信仰の欲望の偶像であり
この偶像の神そしてキリストは
まさに
自分自身でしかないのです。
 
誰もが持っているのではなく、持ってはならず、
学習と成長を阻害し、自他を傷つけ破壊する危険があり、
自戒して自壊させなければならない偶像は、この後者であります。
 
 
※(補足)
 
偽善者は、神がいるなら悲劇や悲惨な死があるのはおかしいと言って、あっさり、だめだこりゃ・・とでも思ったのか、すっかり反キリストになります。呆れたことに、それで、物を知っているかのような気分になって満悦するのです。
 
信仰者になる人は、悲劇があるからこそ、神の救いを必要とします。何故なら、神がいてもいなくても悲劇から逃れることなど出来ず、悲劇の時の癒しと救いがなくて、この世が、絶望に満たされるのは耐えられないからです。
 
 
偶像は焼かれる

偶像は焼かれる
 
 
(2020年)
(2023年01月01日、再録+加筆)
 
 
 
  残照
 
窓からこぼれてくる
残照を
拾おうとしている
 
拾おうとした
あの日
抱きしめた偶像が
崩れていくのを拾おうとした
真っ白になった目の前で
ぽたぽた落ちて広がる
失った熱を引きずって
ぬるりと臭気の中で
足場がなくなるのを
切り裂いたものだと知った
 
もう二度と真っ白になれない
残照
残したもの
もうとっくに沈んでしまった
もう暗い
もう遅い
もう遠い
今は
あの山の向こうにでもあるんだろうよ
あの日壊れたものは
今も壊れたままだけどね
 
 
  条文か共感か
 
基督磔刑像も
聖母マリア像も
しみじみと眺めたことはない
崇めたこともない
私はプロテスタントだから
むかし通った教会には
屋根や壁や机に十字架があるだけ
 
私が見た偶像は
石や石灰の無機質ではなく
私の中にあって
うごめく生き物として
あたかも信仰であるかのように
私を縛る戒律
恐怖に駆り立てる地獄と天国
歪んだ微笑を呑み込ませる納得
疑いを隠そうとする欺瞞
罪から罪へ走らせる罪
 
それゆえ疑い否み拒み
異端と背教の果てに
出会う私の前にはいつも
あらゆる悲劇に付き添う
ただひとりの人格しかいない
 
宗教の敷石を持たず
学問の土台を持たない私の
信仰に
共感はあっても
信条はない
 
 
  断片
 
信仰は共感に近いと思います。
  
信仰は言葉では表せません。
信条はヒントもしくは題材に過ぎません。
 
神の意志と行為を決めつけて
聖書に書いてある書いてあると豪語するような
自分信仰や心の中の偶像信仰になってはいけません。
 
聖書は神の言葉と言われますが
聖書は人の言葉で書かれています。
人の言葉は絶対ではありません。
 
特に超常現象としての奇跡については
人の信仰は正直に告白するべきです。
「わかりません」と。
 
心を揺さぶる大事なことは
福音書に
キリストが、どういう人を友とし、
どういう人を敵としたかに表れています。
 
 
  私の信仰告白
 
聖書の神様をキリストを信じます。
できることをして生きていきます。
信仰も不信仰も正直に告白し祈ります。
正直でなかったら
そう気づいたときに改めて祈ります。お導きを。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
 
(信仰者も求道者も
 もはや儀式で何かが担保される
 というような信条の時代を卒業するべきです。
 私たちは完全にはなれません。しかし
 いくつになっても成長することは出来るのです。)
 
 
 
楽山の害毒メモ:
 
今までに表れてきたこと。これは、楽山に限らず、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、世に数多いる偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。楽山は無責任です。決して信用しないでください。しかも犯罪行為に及ばなければ強制的に抑制は出来ません。
 
楽山は、1つのことを書いて、別の時には、それに反することを平気で書いてきます。そこで、反省、修正、というステップを置かず、あたかも最初から思っていたことのように書いてきます。自分に誤りを認めない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。
 
偽善者の特徴でもあります。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
笑いと怒りしかなく、悲しみの情がない。
共感がなく、罪悪感がなく、反省しない。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して誘導し、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。相手が疲れるのを見て快感を得る。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。サイコパスと思われる。
アドラー心理学の宣伝をしていた。自己中心である。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
 
奇怪な単細胞。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わないし、できないし、元々する気もない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取りなど。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
騙して、言い分を詭弁や嘘で通そうとする、通っていると思い込む。
 
訂正不能の偏執。
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
精神構造はカルトに似ているので、無神教カルトと呼んでいる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
慢心して中身の無い形骸。
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
楽山の思考が齟齬を来たし、元々欠落している感受性のために、いい加減で、拙劣な文章しか書けないようです。それだけ自己崩壊してゆきながら、なおも、自慢だけは忘れないという病質は、哀れではありますが、仕出かしてきた悪事を思えば、手加減は出来ません。なぜ、書くのを止めないのでしょう。
 
最近、楽山は、記事とツイッターを書くことに抑制がかかっているようです。何らかの都合の悪さか不快を感じているのでしょう。しかし、罪悪感がなく反省することの出来ない楽山は、また再び、イージーな気分で罪業を無視して、思いつきだけで書いてくるかもしれません。
 
楽山には、罪悪感や悔いたり思い遣ったり共感したりする高等感情がありません。恐らくそういう精神の障害を持っています。また、自己中のために、まともな理路も持っていません。何より、共感する心を持っていません。楽山の、薄皮だけを貼り付けてくるような言論に惑わされてはいけません。
 
楽山は歪曲した偏見で語ってきます。批判されると迷路に引き込む技だけ持っています。何も理解していません。自分が言いたいだけです。偏見と先入観だけだから学習せず成長が見られません。ゆえに、世辞で始まることの多い、楽山との直接の遣り取りは、聞く側の疲労と人格の鈍麻につながります。
 
 
 
あけましておめでとうございます。明日はブログ、休む予定です。
 
 
 
昨日スクショした荒らしのウイルスによる広告は、今も並んでいます。×印を押すと順繰りに別のが並んできます。画面表示および作業を邪魔しています。こういうことをする者は、良心も思いやりもないサイコパスでしょう。楽山の特徴に合致します。楽山が、仲間に頼んでやっている可能性があります。
 
マカフィーとセブンイレブンの広告が、同じポップアップで出るでしょうか。sossiotron.com と書いてあります。誰なんでしょう。広告をどうしても削除できません。消すと、また大きな広告が出てきます。いずれにしても、楽山が関わっている可能性が大です。偽計業務妨害に当たるでしょうか。
 
人の迷惑など全く気にしないで衝動的に凶行に及ぶわけですから、自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)の病的ナルシストは、サイコパスへ、そして、いよいよ犯罪者に成り下がってきたのでしょう。犯罪者楽山の可能性が大です。人間の成長と尊厳とは逆の経過です。
 
 
 
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  楽山の妬み3
 
 幸福の科学の元幹部たち
 2020年12月06日 楽山日記(LD)
  を改めて批判。リンクなど、省略。
 
 
楽山は、人間が、無反省・無責任、訂正不能の体質のまま、片寄らない言論者を目指せば、モンスターにしかならないという例になるでしょう。それは、自分の負うべき責任を放棄したがゆえに、自分という存在が消えてゆくプロセスでもあります。
 
本を読んでも、他者の意見を聞いても、反省もなく、責任も負わず、自分を高めるための自己正当化だけが目的ならば、ゆえに、都合の良いことだけ拾って、都合の良いことだけ受け取って、都合の良いことしか書かないならば、そこに、学習も成長もなく、ゆえに、いかなる解決も生みだせないわけです。
 
敵か味方か分からないようなことを書いて、しかも、日によって変わってきて、向上心がないままの高慢な人格ならば、関わる者を、傍迷惑の渦に巻き込むか、破壊するだけでしょう。あらゆる信頼を失うだけのプロセスでは、積み重なるのは迷惑と害だけなのです。個人的な憎悪や恨みではないところの公害であります。
 
楽山は、また、人の意見を引用して、自分の記事を書いてきました。断りもなく人を利用して、無反省の無学習のままの楽山の人生は、責任を負わないことで、真実を求める人を、オモチャをもてあそぶように傷つけて捨ててゆきます。公共の害である楽山には、もはや、見るべきものがありません。
 
楽山は、孤独のうちに、誰にも借りはない、責任は負わない、という世迷言を繰り返し、自らの存在をも、だんだん消していって、最後に口を利かなくなるまでを、誰の信用や信頼を得ることもなく、過ごしてゆくのでしょう。結局は、迷惑なだけの、誰にも相手にされない人生なのでしょう。
 
楽山は、教祖になりたいが、なるための人望も力量もないので、自己顕示欲だけになっています。もはや、真っ当に存在したいという意志もないのかもしれません。だから、楽山は、欲と意地だけで、考察のないまま自己顕示に終始して有害な煙のような実質のない存在となってゆくでしょう。
 
何か言っても、楽山は、世辞と、ごまかしだけで、批判に、反論もせず、答えもせず、逆に、いちゃもんの悪口を、言いたい放題に言うことだけはやめないのです。楽山には、邪悪な宣伝・洗脳・煽動者として批判される悪と偽善以外に、存在様態がありません。
 
 
*元幹部
ツイッターをみてたら、このページが貼られていた。幸福の科学の幹部だった小澤利夫氏が、キリスト者になったという話である。
・創価学会幹部、幸福の科学幹部からキリストへ
 」
*馬鹿げたこと
これは誰のことを言っているのかは明白だ。
考えてみると知識豊かな日本であるのに、宗教関係に至ると、本当に馬鹿げたことを平気でやっている。昔も今も、世の指導者たちの権力と、名誉と、傲り以外の何ものでもないのです。
肉体を有する人間は、生きていても、死んでも人間に変わりありません。ところが日本の宗教界には、「我は神なり」「私は仏なり」等と言っている者たちがいます。
神仏であるなら、人智で計り知れない現代日本の深刻な経済を、好景気に変えてみよ。神仏であるなら、三百万人の失業者に対し、納得のいく仕事や職場を与えてみよ。
 」
教祖が神を自称したり、生き神様を崇拝したりというのは、馬鹿げたことといわれても仕方がないことではある。 
 
宗教を、悪口で否定するなら、それに代わる救いを提示しなければなりませんが、楽山は、言いっぱなしで、責任を、一切、負わないのですから、相当に、いや、いっそう、気味の悪い、馬鹿げた存在と言われても仕方がないのです。人のことばかり悪く言う体質が表れています。
 
仏様の心が分かるっぽい気分で、霊が分かるっぽいことを、自らの超常体験として書いていてhttp://mn266z.blog.jp/archives/17513119.html、ホラーが大好きで、自ら不思議な能力者気取りで、リーダーか評論家気取りで記事を書いている楽山には、思想の実質が何も伴っていないのです。
 
このように、楽山は、人の意見など聞かずに、自分の気持ちの良さと都合の良さだけで、言いたいことを言い続けています。オレこそ生き神じゃ・・とでも言いたいのでしょうか。そういう方向しか持っていないのです。楽山は、誰とも、誠の友人になれない人です。
 
 
*人生は一冊の問題集
「人生は一冊の問題集」という考え方は、HSから離れても頭に残っているようだ。HSをやめた今でも、教えにはよいものがあると考えているのだろうか。
人生とは、まさに一冊の問題集です。
 」
 
問題意識など、持ったことのない楽山が言っています。総て、自分のうちに、自我によって、解決したつもりになって、忠告できるかのように勘違いしても、それは、人間世界に通用しない、無反省と無責任の言動となって、妄想的自己確信から破壊になってゆくのです。
 
あらゆる問題は、楽山に言っても、一定しない楽山の、保身と妄想によって、徒労と疲労を残すだけです。批判する前の最初の3か月、楽山とコメントの遣り取りをしましたが、全くの無駄で、一種異様な徒労感と疲労だけが残っています。こういう人種とは遣り取りは禁忌!ということを敷衍したいのです。
 
相手にしてはいけない人だったと気づいて、私一人のためならば、相手にしなければ済むことでしたが、楽山は、キリスト教と信仰に対して、極めて幼稚な屁理屈で、無知~勘違い~偏見~妄想を表しながら、否定してきたので、以後、批判を続けています。誰も近づかないでほしいとと言いたいのです。
 
キリスト者(クリスチャン)には、議論や、理路について、苦手な人が多いようです。戒められている悪い言葉と批判を混同して、批判禁忌と思っている人もいるようです。悪意でキリスト教を否定してくる楽山は、反キリストのモデルでもあり、できるかぎり、批判を続けてゆくつもりです。
 
 
*生き神様崇拝
ここでは、『太陽の法』を高評価してる。
でも、神を自称する教祖には、どうにも我慢がならないらしい。
宗教に無知な人々にとり、特に『太陽の法』という「幸福の科学」の本は、宗教の何たるかを、やさしく解き明かしたものです。だからこそ、わずか十年の歳月で、数十万人の会員が世界中からその神の教えを求めて集ってきたのだと、思っています。
でも残念なことには、「我は神なり」という誤解される教祖の言動に、その頃から、その会にもいられなくなりました。私以外にも、去る人々が少なくありませんでした。
今、世で「私は神仏なり」という者を真に受けるのは、危険なのです。宗教界の中で、己が神であり仏であるとは、その教祖が口にすべきことではありません。
 」
ふと思い出したが、フライデー騒動のころだったろうか。それより前だったろうか。小澤氏がテレビのインタビューにこたえて、大川隆法は間違ってると思ったら退会するというようなことをいっていて驚いたことがあった。
支部では、これについて、小澤氏は大川隆法が間違うはずがないということを前提としたうえで、たとえ話をいっただけだと説明されたが、小澤氏のその後をみると、これは本気だったようだ。
 
楽山のような理屈倒れの精神の貧困な者でない限り、神聖なる存在は、今まで知らなかったような、魂の解放を伴う何からの光を感じることがあるのだろうと思います。聖書の、キリストと、救われた人々との交流に、それは表れているのです。楽山のような浅はかな知ったかぶりの言とは全く違います。
 
楽山の言うことは、誰かが言いそうな月並みなことばかりです。一応、筋が通っているなどと思って、頷いてはいけません。誰かが言いそうなことは、誰でも言えること、人真似に過ぎないこと、そういうことばかりを、中庸を気取って言っている楽山を、決して信頼してはいけません。
 
 
*十人の九次元霊
そういえば、九次元には十人の神霊が存在して、エルランティ、エルカンターレ、イエスなどが上位にあるという話があったのだった。でもその中では、イエスでなく、エルランティがもっとも偉いというニュアンスだったと思う。エルランティが、他の惑星から人類を連れて来たとか、神の光をプリズムにかけて分光させてるとか。でもまあこの辺りについては記憶が薄れてきているので、自分が間違っているかもしれん。
幸福の科学においては、東京大学出身の大川隆法ご夫妻から、イエス・キリスト様こそ、天上界の十大天使の中で最高の霊力を持たれる「神の中の神」だと、教えられてきました。
イエス・キリスト様のことは、今では聖書的な教えから理解しておりますが、イエス・キリスト様こそ最高の方であることは、じつは幸福の科学時代から教えられていたことなのです。
 」
 
楽山の「自分が間違っているかもしれん」を真に受けてはいけません。「記憶が薄れてきているので」ということと、同じ意味の、一種の安全弁なのでしょう。自分で、既に、間違っているかもしれないと思うなら、攻撃や否定をすることはなかったはずなのです。
 
実際には、無反省・無責任の楽山において、真摯に間違いを認める楽山を見たことがありません。上は、受け狙いの、白々しい謙虚芝居の、心にもない "トホホ言語" なのです。楽山は、謙虚芝居を、病質的思考障害の言い訳として、しばしば書いてきます。
 
もし、楽山が、間違える自分を認めていたら、否定した後で、平気で、祈りの三文芝居など、するはずはないし、そのあと、対話形式で、また、否定するようなことも、ないはずなのです。言ってることがバラバラです。思いつくままに、キリスト信仰を侮辱して、独りで優越感味に浸るのが目的でしょう。
 
それが、自己愛性パーソナリティ障害NPDの人生なのでしょうか。結局、楽山は、楽山自身が積み重ねてきた負の実績によって、否定されてきたのです。今、ブログで書き続けているところの、他者を利用した雑言も、その類から外れるものではありません。
 
人を利用する、有名人も利用する、都合の良いところだけを拾ってくる、真剣味もなく繰り返し書いてくる、それらすべては、真実の追究ではなく、ただただ、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)である楽山の忌まわしき因業と症状であります。
 
 
*ファルコン告発
創価学会や、幸福の科学で経験したことの中には、なかなか文字にしにくいような事柄も、たくさんあります。イエス様は、
「さばくな、さばかれないためである」
と言われましたので、そうしたことなどはすべて、神様におゆだねしたいと思います。 
 」
ファルコン告発では、小澤氏がHS時代のことをあれこれ言わない理由について語られていたのを思い出す。
 
ファルコンというのはHNで、HSを批判した個人のようです。小澤氏というのは、元HSの幹部らしいですが、よく知りませんが、創価学会 → 幸福の科学HS → キリスト教と、目まぐるしい人生を送った人のようです。安穏として人をバカにする楽山とは対照的です。
 
このように、公表するにあたっての説明が何もない、というのが、楽山の記事の特徴です。罪悪感や羞恥心などの、高等感情の鈍麻によって、気配りもないのでしょう。恐らく感受性も乏しく、それこそ、活字のような型に嵌った精神で、合う合わないだけで結論するような偏見の人だと思います。
 
「さばくな」という聖書のキリストの教えは、カルトが、他者に、批判するな、という言い分のために、悪用されやすい聖句です。ここで、楽山が言っているのも、似たようなものでしょう。裁くことではなく、人間同士が、議論し、批判し、弁明することが、信じることの追求と学習が可能になります。
 
言論において、批判を許容する真面目な交流がなければ、教祖気取りの自己満悦か、言論は社交に堕して、真実追求など全然できなくなります。元幹部のことを書くのは何故でしょう。アンチは見せかけで、実際は、俺がいちばん・・と言いたいのでしょうか。
 
 
*原氏
ところで、原氏について検索したところでは、今もスピリチュアルな方面での活動をしているようではあるが、プロフィールには、幸福の科学も、大川隆法の名前も見当たらないようだ。高橋信次については恩師として多く語っていることと比べると、その違いに驚かされる。
教団との取り決めがあるために沈黙しているのか、個人的に思うところがあって伏せているのか、それともほかに理由があるのか、判然としないが、何か深い事情がありそうではある。
 
楽山が、この記事を通して、次から次に、知らない名前をあげるのは、煙に巻くつもりでしょうか。誰がどうした、という話だけになっている楽山です。「驚かされる」「何か深い事情がありそう」などと、結論のない表現も、いい加減にしてほしいのですが、楽山は、平気なのです。
 
それが、病質というものでしょう。楽山は、責任ある主張の出来ない人であります。反省・修正・責任感・直感・推敲・考察などといった言論のセンスが、自己愛性人格障害のために育たず、人格も鈍感になり、論旨がまとまらなくなってゆくのでしょう。
 
 
*期待
いろいろ難しいこともあるだろうけれども、元幹部には、できれば当時のことを率直に語ってほしいものだ。日々の平穏な生活を大事に思えば、口が重くなるのも致し方ないのではあるが、当時の本当の事情を知ることで救われる元会員、および現役会員とその家族は大勢いるだろうと思うので。
 
楽山は、元幹部に対して何かを勧め促すような器量が自分にあると思っているようです。実際は、反省せず、責任を負わず、思い付きで、いい加減なことを言い、それで、まともぶっている楽山は、ただ、ひたすら精神病理の袋小路を徘徊しているだけです。
 
誰からも信頼されていないことを、言葉でごまかして、ヒーロー気取りでいたいのでしょう。人間、堕ちると、あるいは、至らないと、こうも卑しくなるものなのでしょうか。取るに足らない楽山の、中身のない背伸びが続いています。楽山は、関わる人も集団も、結局、裏切るでしょう。病質の宿命でしょう。
 
何も負うことのできない人間が、不都合を無視することで、万能を得たかのように批判されても批判されても、自己正当化に明け暮れて、とうとう、自分の意見など、何も見えなくなって、何も成り立たなくなって、人の意見ばかり、貪っているようです。
 
 
 
評論する亡霊

評論する亡霊
 
 
(2020年)
(2021年)
(2022年12月31日、再録+加筆)
 
貪る(むさぼる)
 
 
 
  哀歌・性
 
想いがうまく伝わらなかったり
想いが独り善がりに伝わりすぎたり
あるいは些細なことから
勘繰(かんぐ)り
疑い
妬(ねた)み
嫉(そね)み
ときに怒ってしまう
人間の性(さが)であろうか
そうなってしまう人間同士の
関わりというものが
哀しいね そんな
哀しいことばかりではないのだけれど
ただでさえ己(おのれ)の業(ごう)や罪の
重さに宿命のように
押し潰されそうなのに
だから もちろん
露骨な悪意を向けられたときには
Fight Fright
or Flight
抗(あらが)うか戦(おのの)き
竦(すく)むか逃げるか
することになるけれど
そうでない限り
本物か偽物か分からないと
疑う性を片隅に抱えながら
どんなちっぽけな出会いも
たとえイミテーションでも
込められたものは
とても壊れやすいかもしれないから
小さな宝石として大切に
そっと扱わなければいけないんだ
あるいは些細なことから
解(ほぐ)れていくまで
 
 
  亡霊妄想
 
働きのない熱は
真冬の硬質な大気に
曝(さら)され刺されながら
凍てつく駐車場へ向かう
やがて外の風を通さない
走る車の温められた鍋の中で
シートにべったり沈み込んで
フロントガラス越しに
冷たい光へ首だけを晒(さら)して
首から下は煮汁になってゆく
 
とにかく仕事もせずに
給料だけ盗んでいるという
とんでもない人ですから
と思う人がいて言う人がいて
人を貶(おとし)めるために
人の名を騙(かた)る人がいる限り
社会の片隅で益々(ますます)動けず
動かないまま流れてゆくだけの
働きのない熱は
帰ってきて車を降りてから
再び大気に曝され
凍り付いた灰汁(あく)から澱(おり)までを
今度は部屋の暖房で
再び融(と)かそうとしている
 
これほど浮かばれぬ
亡霊になろうとは
生きながら鬼哭啾々(きこくしゅうしゅう)
いつまでも不十分な
凍結と融解のまま
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」
「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
誰かが注意しても、聞く耳を持たない楽山は、反省も謝罪もしておらず、邪悪な性根の根深さが治りません。「人間の性」「自分もそんな風です」などと言って、人間一般のように、醜い詭弁の言い訳をしていますが、そうではなく、楽山固有の悪と罪と偽善だということです。
 
自己愛性人格障害の楽山には、病識がありません。効く薬もありません。信仰もなく、信仰をあざ笑っているので、救いもありません。人間以上だと思っているのか、自己正当化に酔うことしかないのでしょうが、これほど、自らに危機意識のない人は、むしろ、珍しいのです。

 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
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昨日から、デタラメなポップアップの広告が出て来て、×を押しても消えません。ウイルスか荒らしでしょう。楽山でしょうか。ついに、あからさまな犯罪者になったのでしょうか。やはり、サイコパスなのでしょうか。スクショ画像を添えておきます。作業画面を妨害しています。犯罪者楽山と呼ぶことになりそうです。
 
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