ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

年寄りです。1954年2月24日、長崎市の生まれ。17か18歳で、佐世保で洗礼を受けたクリスチャン。現在、教会へ行っていない逸れクリスチャン。ブログのテーマは、キリスト信仰と、カルト批判が中心です。ヤフーブログから移行してきました。ブログは、2010年からなので、古い記事も多いです。

「日常×非日常」 批判。
 
記事を見ると、
パワースポットで「聖なるものに出会い、」には隣人愛がないゆえに自己満足・・・
という文脈になっている。それゆえに
「隣人愛のないところに聖なるものとの出会いはない」
という文脈は整っていると思える。私は間違ったのだろうか。
少し間違ったかもしれないので、その点は謝罪したいと思う。
しかし
何故パワースポットの話しの例という流れで語り終えなかったのだろう。
なぜ私は前コメントのように受け取ってしまったのだろう。
少し離れて書かれている短い言葉
「隣人愛のないところに聖なるものとの出会いはない」
は、あとで思い出すと、そこだけが印象に残る。
短く最後に語られているだけに、格言か、聖書の箴言の一節のように、
パワースポットの話しの流れとは乖離してゆく印象である。
そうなると私の前コメントのような見方が出てくる。
 
そういう短い文を最後に書くことは必要であろうか。
そこだけが独立して記憶される可能性を考えると・・・
 
例えば対偶命題にすると
「聖なるものとの出会いがあるならば、そこには隣人愛がある(生まれる)」
となって受け取りやすい。
ただ
「隣人愛のある・ない」や「聖なる出会いはある・ない」も
独立した文・結論となりうることを考えると・・・
 
「隣人愛のないところに聖なるものとの出会いはない」
だけが印象に残った場合、前コメントのような批判は出て来やすい。
 
うがった見方として、パワースポットの話しは、話しのつなぎに過ぎず、
「隣人愛のないところに聖なるものとの出会いはない」
という結論だけを本当は言いたかったのではないか
となると話しは全然別になってしまう
ということを申し上げておきたい。
あまり格言的格好付けは、やりすぎないほうがいいということだろう。
 

  母とマットレス
              戸田聡

老いたる母がいて
まだ生きている
ROM化したルーチンのように
毎日買い物に出かける
そこそこ元気だ
母は腰掛け付きのコタツテーブルを買った
私は予測もし注意もしたが
椅子のほうが立ち上がりやすいのも事実だ
母は年老いたのである
予測どおり母は居眠りして
時々椅子から落ちる
ドッテンと落ちる
母が居眠りをしていることに気づいたら
マットレスを折りたたんで
椅子の横に敷くことにした
母は椅子を肘掛け付きに替えた
なおもマットレスは必要だ
今度は椅子ごと倒れると予想している
 
 

「日常×非日常」 批判。
 
以前から
「神は未来を知らない」を、学説ではなく「事実」だと言い張ったり、
孤独な人への死刑宣告となりうるような
「共感できる人間関係のないところには希望はない」
といった疑問だらけの不用意な問題発言が目立っていた。
それが漸く一段落ついたような気持ちのときに下の記事である。
 
モノローグ・自戒だという言い訳は通用しない。
一般に公開されている以上、学者だけではなく、
一般の人も一般のクリスチャンも見るからである。
しかもコメントに対して答えることも説明することも
貴殿は放棄したのである。
 
私は神学そのものを毛嫌いしているわけではない。
今回ブログを立ち上げたのは
コメント欄が閉鎖されたからという理由と、
そのあとの記事に
 
「隣人愛のないところに、聖なるものとの出会いはない。」
と書いてあったからである。
 
「聖なるものとの出会い」のある・なしを、
それは個人の神との間の秘め事であるはずなのに、
人間である貴殿が、条件をつけて、何故語れる。
これもまた孤独な人への死刑宣告となりうる。
 
結局、前記事における①について努力する気など元々なく、
自説を訂正する気もなく、自説の断定的発言を続けるために、
うるさく書いてくるコメントが邪魔になって
コメント欄を削除したと推測せざるを得ない。
 

まず
「日常×非日常」管理者:vernunft
についての批判。
 
日常的な話題を載せる日記的ブログが多いけれど、中には
学術的ブログというのもある。前に別のSNSに書いたブログのことである。
再参加するにあたって肝に銘じたことがある。
まず感情的にならないこと、前にキレて失敗したから。
「疑問があったらどんどん反論してください」ということだったから、
そういうブログもあるのだと思って、
納得ゆくまで問い続けること、だった。
 
そのブログのコメント欄が閉鎖になった。
突然ではあるが、たぶん原因は私だ。
私が「人を傷つける心無い言い方が多い」と指摘したことを受けて
①文章の稚拙さ
②自戒やモノローグなのに対話と受け取られた
どちらも自分の責任といいつつ、
①は努力するしかない。②の可能性を排除するために
コメント欄を閉鎖するという。
メールアドレスは最初から非公開である。
「自分は好きなように書くが、人の意見は言わせない」となると
ブログではなく電子出版ということになる。
学者らしいというか・・・
人の意見を聞かずに①をどうやって努力するのだろうとも思う。
 
過去のコメントも削除された。
気づいているのだろうか。
自分の記事の著作権は堅持しているが、
コメントの著作権を抹殺したこと・・・
法律云々というより、人道の問題だと思う。
 
ブログは日記・モノローグから始まる。
しかし純粋な日記ではない。
なぜなら意図して公開されているからである。
そこには「みなさんは、いかが?」というメッセージがあり、
公開するのには目的や希望があるはずである。
 
私のHPのほうには書き込み欄は無い。
技術的問題・容量の問題・めんどくささ
などが理由だが、メールアドレスは公開している。
批判的感想メールを受けて修正したこともある。
 
人を傷つけることをいくら恐れても
傷つけてしまうことはあるはずだ。
それを恐れていては前進はないと思う。
それよりも怖いのは
人の意見を聞かなくなることだと思う。
傷つくこと、傷つけられることのほうを恐れたのか。
閉ざされ限られた環境から発信だけ続けて
何を目的として求めるのだろうか
と思ったことであった。
 
私が追い込んだのだから私の自己中なのだろうか。
コメントも連絡もできないのである。
向こうが聞かないのならば、
こちらで書くしかないのである。 

 

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