「日常×非日常」 批判。
以前から
「神は未来を知らない」を、学説ではなく「事実」だと言い張ったり、
孤独な人への死刑宣告となりうるような
「共感できる人間関係のないところには希望はない」
といった疑問だらけの不用意な問題発言が目立っていた。
それが漸く一段落ついたような気持ちのときに下の記事である。
「神は未来を知らない」を、学説ではなく「事実」だと言い張ったり、
孤独な人への死刑宣告となりうるような
「共感できる人間関係のないところには希望はない」
といった疑問だらけの不用意な問題発言が目立っていた。
それが漸く一段落ついたような気持ちのときに下の記事である。
モノローグ・自戒だという言い訳は通用しない。
一般に公開されている以上、学者だけではなく、
一般の人も一般のクリスチャンも見るからである。
しかもコメントに対して答えることも説明することも
貴殿は放棄したのである。
一般に公開されている以上、学者だけではなく、
一般の人も一般のクリスチャンも見るからである。
しかもコメントに対して答えることも説明することも
貴殿は放棄したのである。
私は神学そのものを毛嫌いしているわけではない。
今回ブログを立ち上げたのは
コメント欄が閉鎖されたからという理由と、
そのあとの記事に
今回ブログを立ち上げたのは
コメント欄が閉鎖されたからという理由と、
そのあとの記事に
「隣人愛のないところに、聖なるものとの出会いはない。」
と書いてあったからである。
と書いてあったからである。
「聖なるものとの出会い」のある・なしを、
それは個人の神との間の秘め事であるはずなのに、
人間である貴殿が、条件をつけて、何故語れる。
これもまた孤独な人への死刑宣告となりうる。
それは個人の神との間の秘め事であるはずなのに、
人間である貴殿が、条件をつけて、何故語れる。
これもまた孤独な人への死刑宣告となりうる。
結局、前記事における①について努力する気など元々なく、
自説を訂正する気もなく、自説の断定的発言を続けるために、
うるさく書いてくるコメントが邪魔になって
コメント欄を削除したと推測せざるを得ない。
自説を訂正する気もなく、自説の断定的発言を続けるために、
うるさく書いてくるコメントが邪魔になって
コメント欄を削除したと推測せざるを得ない。
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