「日常×非日常」 批判。
 
記事を見ると、
パワースポットで「聖なるものに出会い、」には隣人愛がないゆえに自己満足・・・
という文脈になっている。それゆえに
「隣人愛のないところに聖なるものとの出会いはない」
という文脈は整っていると思える。私は間違ったのだろうか。
少し間違ったかもしれないので、その点は謝罪したいと思う。
しかし
何故パワースポットの話しの例という流れで語り終えなかったのだろう。
なぜ私は前コメントのように受け取ってしまったのだろう。
少し離れて書かれている短い言葉
「隣人愛のないところに聖なるものとの出会いはない」
は、あとで思い出すと、そこだけが印象に残る。
短く最後に語られているだけに、格言か、聖書の箴言の一節のように、
パワースポットの話しの流れとは乖離してゆく印象である。
そうなると私の前コメントのような見方が出てくる。
 
そういう短い文を最後に書くことは必要であろうか。
そこだけが独立して記憶される可能性を考えると・・・
 
例えば対偶命題にすると
「聖なるものとの出会いがあるならば、そこには隣人愛がある(生まれる)」
となって受け取りやすい。
ただ
「隣人愛のある・ない」や「聖なる出会いはある・ない」も
独立した文・結論となりうることを考えると・・・
 
「隣人愛のないところに聖なるものとの出会いはない」
だけが印象に残った場合、前コメントのような批判は出て来やすい。
 
うがった見方として、パワースポットの話しは、話しのつなぎに過ぎず、
「隣人愛のないところに聖なるものとの出会いはない」
という結論だけを本当は言いたかったのではないか
となると話しは全然別になってしまう
ということを申し上げておきたい。
あまり格言的格好付けは、やりすぎないほうがいいということだろう。