「讃美の家」批判13
聖書の聴き語り→「7×7×10=無限」未承認コメント
批判・・・っていうのか・・なんだか・・・
無題→「キリストのまことを信じる信仰」
>「人の義とされるのは律法の行いによるのではなく、
>ただキリスト・イエスを信じる信仰によることを認めて、
>律法の行いによるのではなく、
>キリストを信じる信仰によって義とされるためである
ここまでは聖書の言葉として分かるように思います。
>「信じる」を、「キリストの<まこと>」と読めば、その喜びがわかる
ここまでは他の人の文章のようです。
「キリストの<まこと>」+「を信じる」でないと文として
おかしくなることを指摘しておいて・・・
「信じる」ではなく「まこと」と、わざわざ読んで、
喜びがわかるというのは何故でしょう。
「信じる」では喜びは分からないのでしょうか。
2011/9/28(水) 午前 2:20[ st5402jp ]
>イエス・キリストを信じる信仰は信じる自分自身の信仰にではなく、
>イエス・キリストのまことに信を置く信仰なのですね。
これも「「にではなく・・・なのですね」の繋がりが、
「ではなく・・・なのですね」か「にではなく・・・にあるのですね」
でないと文として少しおかしいが・・・、複雑な・・・
「自分自身の信仰に」のあとに何か省略されているのか・・・、
「イエス・キリストを信じる信仰」と
「イエス・キリストのまことに信を置く信仰」と
どう違うのでしょう。何かの強調でしょうか。
言い換えることに特別の意味があるのでしょうか。
イエス・キリストを信じる者は
イエス・キリストのまことを信じているのではないのでしょうか。
「まこと」をつけないと偽物にでもなるのでしょうか。
また「信を置く」の主語は自分自身ではないのでしょうか。
さらに「信を置く」は「信じる」ことではないのでしょうか。
真の信仰者にだけ分かるという主張でしょうか。
「お仲間語」とでも言うべき奇妙な言語があるようです。
2011/9/28(水) 午前 2:22[ st5402jp ]
聖書の聴き語り→「7×7×10=無限」未承認コメント
批判・・・っていうのか・・なんだか・・・
無題→「キリストのまことを信じる信仰」
>「人の義とされるのは律法の行いによるのではなく、
>ただキリスト・イエスを信じる信仰によることを認めて、
>律法の行いによるのではなく、
>キリストを信じる信仰によって義とされるためである
ここまでは聖書の言葉として分かるように思います。
>「信じる」を、「キリストの<まこと>」と読めば、その喜びがわかる
ここまでは他の人の文章のようです。
「キリストの<まこと>」+「を信じる」でないと文として
おかしくなることを指摘しておいて・・・
「信じる」ではなく「まこと」と、わざわざ読んで、
喜びがわかるというのは何故でしょう。
「信じる」では喜びは分からないのでしょうか。
2011/9/28(水) 午前 2:20[ st5402jp ]
>イエス・キリストを信じる信仰は信じる自分自身の信仰にではなく、
>イエス・キリストのまことに信を置く信仰なのですね。
これも「「にではなく・・・なのですね」の繋がりが、
「ではなく・・・なのですね」か「にではなく・・・にあるのですね」
でないと文として少しおかしいが・・・、複雑な・・・
「自分自身の信仰に」のあとに何か省略されているのか・・・、
「イエス・キリストを信じる信仰」と
「イエス・キリストのまことに信を置く信仰」と
どう違うのでしょう。何かの強調でしょうか。
言い換えることに特別の意味があるのでしょうか。
イエス・キリストを信じる者は
イエス・キリストのまことを信じているのではないのでしょうか。
「まこと」をつけないと偽物にでもなるのでしょうか。
また「信を置く」の主語は自分自身ではないのでしょうか。
さらに「信を置く」は「信じる」ことではないのでしょうか。
真の信仰者にだけ分かるという主張でしょうか。
「お仲間語」とでも言うべき奇妙な言語があるようです。
2011/9/28(水) 午前 2:22[ st5402jp ]
上の引用部分は、
>イエス・キリストを信じる信仰は
>信じる自分自身の信仰に(信を置く信仰)ではなく、
>イエス・キリストのまことに信を置く信仰なのですね。
という意味でしょうか。
それなら分かります・・・と言いそうになりますが、
上と同じような疑問として、
イエス・キリストを信じることが
人の信仰ではないのでしょうか。
信じるの主語は自分自身であるはずです。
ということは、引用部分は
信じる自分自身の信仰に信を置くな。
言い換えると
信じる自分自身の信仰を信じるな
と言っているに等しい。
えらく複雑で矛盾に近いものになります。
キリスト信仰に「信仰にではなく」とまで書いて
「イエス・キリストの『まこと』に信を置く」と
わざわざ「まこと」を強調して書いているのは、
真の信仰者なら
今信じているイエス・キリストの「まこと」が
分かるはずだという主張でしょうか。
結局、引用部分で、あなたから伝わってくることは、
あなた自身は「イエス・キリストのまこと」が
分かっていると思っていて、
それゆえに「まこと」を強調して、あなたが逆に
「自分自身の信仰のようでなければ真の信仰ではない」
と言っているようなものです。
なお「信を置く」が「委ねる」「任せる」の意味なら、
その意味は、私のような信仰者にとっても、
「信じる」にも「信仰」にも含まれています。
「まこと」という、あまりに汎用される言葉を使って置き換えても
信仰の真も誠も表せるものではない例として受け取ります。
わざわざ真意のつかみにくい書き方をなさったから、今回は
冒頭に「・・なんだか・・」と書かざるを得ませんでした。
2011/9/28(水) 午前 6:00[ st5402jp ]
(2011年09月28日、同日加筆修正)
>イエス・キリストを信じる信仰は
>信じる自分自身の信仰に(信を置く信仰)ではなく、
>イエス・キリストのまことに信を置く信仰なのですね。
という意味でしょうか。
それなら分かります・・・と言いそうになりますが、
上と同じような疑問として、
イエス・キリストを信じることが
人の信仰ではないのでしょうか。
信じるの主語は自分自身であるはずです。
ということは、引用部分は
信じる自分自身の信仰に信を置くな。
言い換えると
信じる自分自身の信仰を信じるな
と言っているに等しい。
えらく複雑で矛盾に近いものになります。
キリスト信仰に「信仰にではなく」とまで書いて
「イエス・キリストの『まこと』に信を置く」と
わざわざ「まこと」を強調して書いているのは、
真の信仰者なら
今信じているイエス・キリストの「まこと」が
分かるはずだという主張でしょうか。
結局、引用部分で、あなたから伝わってくることは、
あなた自身は「イエス・キリストのまこと」が
分かっていると思っていて、
それゆえに「まこと」を強調して、あなたが逆に
「自分自身の信仰のようでなければ真の信仰ではない」
と言っているようなものです。
なお「信を置く」が「委ねる」「任せる」の意味なら、
その意味は、私のような信仰者にとっても、
「信じる」にも「信仰」にも含まれています。
「まこと」という、あまりに汎用される言葉を使って置き換えても
信仰の真も誠も表せるものではない例として受け取ります。
わざわざ真意のつかみにくい書き方をなさったから、今回は
冒頭に「・・なんだか・・」と書かざるを得ませんでした。
2011/9/28(水) 午前 6:00[ st5402jp ]
(2011年09月28日、同日加筆修正)
聖書の聴き語り→「収穫の秋来る」
>たとえ今自分が渋い実を結んでいても心配ありません。
>気づかないことの方が問題です。
あなたは、気づいているというなら、
為すべきことを為していますか。
気づきながら、正当化して、
放置している問題はありませんか。
>甘い柿の木に接木され、養分と手入れを受け入れるなら、
>きっと甘い実を結ぶように変えられるのです。
>わたしたちがイエス・キリストを信じるなら、
>イエスという命の木に接木されるのです。
イエスという命の木に接木されたのなら、
生き埋めにしてもよいものがあるのでしょうか。
自分は何をしても何をしなくても
接木されるから心配ないというのですか。
接木されたら人間は変わるはずだと思いますけど・・・
改めないこと、それが使命だとでも?
毎度すごいことを書いてくるたびに
人間性が切り裂かれてゆきます。
2011/9/30(金) 午前 1:38[ st5402jp ]
>たとえ今自分が渋い実を結んでいても心配ありません。
>気づかないことの方が問題です。
あなたは、気づいているというなら、
為すべきことを為していますか。
気づきながら、正当化して、
放置している問題はありませんか。
>甘い柿の木に接木され、養分と手入れを受け入れるなら、
>きっと甘い実を結ぶように変えられるのです。
>わたしたちがイエス・キリストを信じるなら、
>イエスという命の木に接木されるのです。
イエスという命の木に接木されたのなら、
生き埋めにしてもよいものがあるのでしょうか。
自分は何をしても何をしなくても
接木されるから心配ないというのですか。
接木されたら人間は変わるはずだと思いますけど・・・
改めないこと、それが使命だとでも?
毎度すごいことを書いてくるたびに
人間性が切り裂かれてゆきます。
2011/9/30(金) 午前 1:38[ st5402jp ]
(2011年09月30日、加筆修正)
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