重いテーマのブログについて(3)
信仰について
理解できない学説のようなものや
根拠のない結論だけのコメントを書かれても
レスしようがないですが、
その理由も含めて
「レスしようがない」というレスは可能です。
それも気が向かないならスルーすればよいのです。
相手が一応真面目に書いているらしいコメントなら
削除してはいけないと思います。
テキストだけとはいえ
相手は人
の書いたコメントですから
人格の否定につながります。
話を合わせて
その場しのぎのレスを返してもいけません。
記事にもコメントにも流れがあり
バーチャルとはいえ
ひとつのブログの中で
別人になることは出来ません。
いずれ誰かに変だと気づかれるからです。
客観的な根拠のある意見の遣り取りが
正しい議論ではありますが、
テーマが信仰となると
根拠も前提も、
根拠、の根拠、の根拠、・・、となれば、
つまるところ論理的ではありません。
この場合
前提を共有できるかどうかの問題になります。
コメントを書く人が皆、
生産的で正しい議論を始めるために来ているでしょうか。
実際にはコメントの大方は
ツイッターよりは少し詳しい感想という程度だし、
人対人として付き合い方を判断することはあっても、
相手が一応真面目に書いているなら、
書けるときだけでいいから、
たとい苦言であっても本気で対応するべきでしょう。
だから恐らく、
それを不毛というなら、
私は不毛な遣り取りで時間を無駄にしてゆくだろうと思います。
不毛も無駄も非生産的も、私には日常です。
それをも諦めるのは、相手が人間だと思えなくなったときです。
削除したのは、
論客とは限らず
議論するためとも限らない
コメント、人が書いたものです。
リニアでバイナリの心性が
「根拠がない」→「正しい議論にならない」→不毛(→面倒?)→削除。
つまり
一途だが直線的で、1か0か(全か無か)という対応をするとき
自己完結のセキュリティのようなプログラムが、
論理的にプログラムされた通りに
ファイル(コメント)を選別し
排除するようなものになり、
その果てに見えるのは、結果とは程遠い、
茫漠たるウソの国・・
そして自己満足か体裁のために
白々しい看板を掲げるのです。
「反論大歓迎」と・・
その見えない国境に私たちは立っているのです。
(2013年05月24日)
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