反原発+真善美
テレビで聞いて
「安全が確認できれば原発は必要」
という意見について
原発事故は未だ終わっておらず、
また事故というものは、
これからも、いつかまた、
ある確率で必ず起こるものです。
人の作ったものに100%の安全はありません。
起こったときのことを考えるべきでしょう。
例えば飛行機事故は、
墜落ならば多数の犠牲者を伴うでしょう。
しかしそれでも飛行機と墜落する場所に
被害は限定されるのです。
例えば火力発電所の事故は、
火事ならば被害はその範囲に限定されます。
火は見えます。近づけば熱いと感じます。
かなりの可能性で逃げられるということです。
放射能は、よほど高濃度でない限り、
無色・無味・無臭で、浴びたかどうかさえ分かりません。
水や空気や、あらゆる物質を介して広がり、
ゆえに、その範囲は限定できません。
つまり被害も限定できません。
以上の被害の限定不可に加えて、
半径100~200km圏内に人が住んでいない
という場所がない狭いこの国に、
また地震と火山が多く、
廃棄物を地下に埋めようとしても、
その地下が不安定なこの国に、
原発はますます不適であります。
つまり測定しない限り被爆が分からない放射能から
逃げ遅れやすく、行き場がなくなりやすい。
そういう被害を早期に受けやすいとも言えるでしょう。
原発についても、
その他のことについても、
いろいろな意見を聞いてブログを書いてきました。
「みんなへんで、みんなおかしい」とか、
人と人は異種、信仰と偶像と罪、様々な人の選択、
等々のテーマを考えてブログを書いてきましたが、
人の真を求めようとすればするほど
善と美からは離れてゆくような気がします。
賛成や反対はあっても
気分の乗りで乗せられたくはない。
個人においても集団においても
イメージとムードと乗りは
怪しいパッションへ人を導く危険をはらんでいます。
(2013年07月02日)
人の真を求めようとすればするほど
善と美からは離れてゆくような気がします。
賛成や反対はあっても
気分の乗りで乗せられたくはない。
個人においても集団においても
イメージとムードと乗りは
怪しいパッションへ人を導く危険をはらんでいます。
(2013年07月02日)
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