人の真善美
真善美の完全なる調和と一致は神の領域のものである。
人の作る真善美も、人の感じる真善美も、
常に相対的であり、不変ではない。
人の真善美に完全な調和も一致もない。
人の真善美は移ろいやすい仮の姿を見せるに過ぎず、
しかもそれを正確に判断する視野と洞察を人は持ち得ない。
一つを追求すれば、
その一つがさらに偽になることもあり、
他の二つが本物から離れてゆくこともあるだろう。
ここでも、その都度において、
偽である疑いを持ち、
本物から離れることを自覚することによってしか
近づくことさえ出来ないのが
人の真善美の有様であろう。
それでも人は真を考え、善を求め、美を感じるのである。
それがおかしいというのではない。
死ぬまで受けて反応する過程において、
偽の否定と排除を実は行っているということである。
人は容易に偽に親和しやすい
ということをわきまえないままの追求は、
作り物に支配された人になって、
ますます偽を加えてゆくことになるだろう。
人の真善美の追求は、
偽の真善美を排除してゆく務めに他ならず、
そのプロセスのうちに人の寿命は尽きるのである。
務めを履き違えてはいけない。
人に完成はない。
人の生み出すものは総て過程の結実だ。
表すことの役割は、
真善美の一体として感受し思考する事柄について、
できるだけ偽を明らかにすることによって
近づこうとして動く姿勢に終始する不断の努力であり、
儚く移ろいゆく時々の結実の空しさに、
ひととき吐いてしまう溜め息の向こう側に
望みと祈りを託すことなのだろう。
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私は知識が乏しいので頻繁に辞書を引くのですが、
いつも思うことは、
言葉を言葉で説明することは困難だということです。
同義語といっても、完全な同義ではなく、
一つの言葉には
その言葉しか持ち得ない語感があります。
しかもそれは人によって違うのです。
したがって辞書の役割は、
類語や実例によって近似することであり、
それによって言葉への類推やイメージや
概念形成を促進することに他ならないと思います。
ましてや言語化できないものを
言語で説明することは不可能です。
概念形成すらできないのです。
固定化した途端に偽になってしまうものがあります。
務めを履き違えてはいけません。
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私のPCは頓に不安定で
起動できないこともあり、
起動できても、使えるようになるまで時間がかかり、
・・かつ遅い・・時々フリーズする・・オレみたい・・
というような私ですから、
もう書くことも書く気力もなくなりそうですが、
これもまた偽である可能性を感じながら、
甚だ拙いけれど、
PCが使えて、書く気力が少しでもあるときに、
うろたえて書いております。失礼。
(2013年07月07日)
(2013年07月08日、一部修正)
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