新しい契約
 
 
旧約聖書エレミア書より、
31:33
しかし、それらの日の後に
わたしがイスラエルの家に立てる契約はこれである。
すなわちわたしは、
わたしの律法を彼らのうちに置き、その心にしるす。
わたしは彼らの神となり、
彼らはわたしの民となると主は言われる。
31:34
人はもはや、おのおのその隣とその兄弟に教えて、
『あなたは主を知りなさい』とは言わない。
それは、彼らが小より大に至るまで皆、
わたしを知るようになるからであると主は言われる。
わたしは彼らの不義をゆるし、もはやその罪を思わない」。
   (エレミア書31:33-34)
 
旧約聖書エゼキエル書より、
36:24
わたしはあなたがたを諸国民の中から導き出し、
万国から集めて、あなたがたの国に行かせる。
36:25
わたしは清い水をあなたがたに注いで、
すべての汚れから清め、
またあなたがたを、すべての偶像から清める。
36:26
わたしは新しい心をあなたがたに与え、
新しい霊をあなたがたの内に授け、
あなたがたの肉から、石の心を除いて、肉の心を与える。
36:27
わたしはまたわが霊をあなたがたのうちに置いて、
わが定めに歩ませ、わがおきてを守ってこれを行わせる。
   (エゼキエル書36:24-27)
 
聖霊についての預言のように思われます。
 
「行えば生きることができる言葉、旧い契約。
 けれども、イスラエル1500年の歴史を通して実証されたのは、
 これを行えない人間の実態だった」
 
新しい契約から約2000年の歴史と現実が証明しているように
人の罪は絶えたことがないというのも人間の実態であります。
 
「聖である霊と呼ばれる方を私たち人間の内に派遣し、
 この方によって、
 私たち人間の心に御自身の思いと同じ思いを書き付けるという道を、
 新しい契約として提示しておられる」
 
「心に書きつける」というのは比喩的表現でしょう。
聖霊が働くという言い方でも大きな違いはないと思います。
ゆえに聖霊が書きつけたから読めばいい
というほど簡単なことでないのは周知であろうと思います。
 
教理について語るとき
こうなることが望ましいという
理想を語っていることが多いようです。
 
そしてそのことは
幾つかの具体的な「こうするべきだ」を生むのですが、
それがいつの間にか
素直に?「こうなっている」に変わりやすいのが人間です。
 
聖霊に従ったと慢心しないためには
聖霊は働くけれど人はそれを
本を読むようには確認できない
ということを知るべきでしょう。
聖三位について
知ったと言うことが不遜である理由です・・。
 
前に書いたことを繰り返します。
 
聖霊の働きを信じます。
それは密かに
これが聖霊だと人には分からないように
秘められた神の意思によって働くのでしょう。
 
理想があれば
それに適わない現実の負の部分がある
ということに目を向けなければ
聞いたことにも信じたことにもならないと思います。
 
聖三位の思いを知ることよりも
聖三位への思いを希望として感受し考え
判断して行動し、あらゆる過ちを経ても、
結局は正直に祈り続けることだけが正しい
ということではないかな・・と今は思っています。
 
 
新約聖書ヨハネ書より、
15:12
わたしのいましめは、これである。
わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。
15:13
人がその友のために自分の命を捨てること、
これよりも大きな愛はない。
15:14
あなたがたにわたしが命じることを行うならば、
あなたがたはわたしの友である。
15:15
わたしはもう、あなたがたを僕とは呼ばない。
僕は主人のしていることを知らないからである。
わたしはあなたがたを友と呼んだ。
わたしの父から聞いたことを皆、あなたがたに知らせたからである。
15:16
あなたがたがわたしを選んだのではない。
わたしがあなたがたを選んだのである。そして、あなたがたを立てた。
それは、あなたがたが行って実をむすび、
その実がいつまでも残るためであり、
また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものはなんでも、
父が与えて下さるためである。
15:17
これらのことを命じるのは、あなたがたが互に愛し合うためである。
   (ヨハネによる福音書)
 
「愛し合う」ことは(うんざりするほど)正しいけれど、
人にとって、社交辞令ではないのだから、
これほど難しいことはないのです。(13節など・・)
 
これも前に書いたことですが、
 
永遠の友である救い主は
永遠ではない人間の友とは違います。
 
14節は大いに心から
へりくだって遠慮するべきところです。
 
私は18歳の時に洗礼を受けました。
新約聖書もほんの一部しか読んでいませんでした。
そのとき洗礼を決意させたのは
キリストとは一生の付き合いになる
という思いが否定できなくなったということです。
今も続いている付き合いとは結局
祈ることに他なりません。
 
キリストそして聖三位についてくる言葉、
全知、全能、絶対、永遠、・・
どれをとっても人には手に負えません。
永遠の命、・・不可解です。
 
 
(2014年11月13日、同日一部加筆)
 
 
ずっと前に書いた詩のようなもの
殆ど叫びですが・・
 
 
  祈り・永遠の命
 
 
過ごしている時間と
過ぎた時間の
長さの違いのようなものだ
計られ記録に残る時間と
計れず記憶に残る時間
の違いのようなものだ
どんなに長くても短くても
誰がそれを掴(つか)むことができようか
途方もなく
知らない部分が多すぎて
大方は知らない時を過ごしている
長さでは計れない時に在って
私の時を御手に委ねます
と祈りながら耐えられず
さらに心のうちに呼ばわる
主よ、私ではなく、あなたが
永遠と名付けられたものを賜(たまわ)るなら
一生は一瞬でよいのです
 
 
(2005年01月02日)