讃美?
 
 
「この方(神)の御思いのとおりに創造され、
 御思いのとおりに存在している」 
 
上のように信じているということでしょうけど、
ことさら書く必要があるでしょうか。
 
神様は別に
人にほめられる必要はないわけです。
 
讃美ばかりを強調する人というのは
今の自分の幸福の根拠を
神に求めて正当化したがる
という傾向を考えるべきでしょう。
 
言い換えると
今の自分が神を賛美してもいいほどに
不幸ではないから讃美できている。
 
あるいは苦難があっても讃美していることを
ひけらかしたいか、押し付けたいか、・・
 
今神を賛美できないほど
酷い情況から救いを求める祈りしかできない人に
 
「御思いのとおりに存在している」
と言うのは
 
御思いは分かるつもりでいて、
一方で
人の思いや気持ちの分からない者であり、
軽率で無神経で不謹慎な発言だと思います。
 
しかも前に
「神は心を痛め・・云々」と
共感する神について書いたことがあるのに・・。
 
苦難の中にある信仰者が
立ち直ったならば必ず感謝し讃美するでしょう。
誰かに言われなくても・・。
 
信仰者同士が出来ることは
苦しみや悲しみはなかなか共に出来ないので
ともに祈ることと、ひとりの時にも祈ることと、
立ち直った人と喜びを共にすることだと思います。
 
少なくとも苦難の人がいることを
ある程度でも考えるならば
自己流の言葉で言い得たかのように
 
「御思いのとおりに存在している」
といった
 
現状が総て御心のままみたいな
人間には受け入れがたい言い方は
ふつう控えるものだと思いますが、
こう書くことが人の世界で
いったいどんな幸いにつながるというのでしょう。
神様だけは是としてくれると固まる?
それとも
神様は褒められて恵むタイプ?
・・違う・・
自分の聖書語の言語世界だけに生きていると
人間的共感や配慮というのが出来なくなるのでしょうか・・
たまたまの言い間違いではなく
培った体質によるものと判断して
・・一応指摘しておきます。
 
 
(2014年11月15日)