陶酔?
 
 
「神」という言葉を使わない・・
「あの方」「創造された方」と言う。
まさかとは思うが、
 
出エジプト記の十戒
20:7
あなたは、あなたの神、主の名を、みだりに唱えてはならない。
主は、み名をみだりに唱えるものを、罰しないでは置かないであろう。
 
ひょっとして、これを守っているつもりだろうか。
だとすると誰に聞いたかを書かない伝聞の
「・・だそうです」という姑息な表現も同じ理由だろうか。
 
「みだりに唱える」とは
神への恐れを持たず、気安く使い、利用する
というようなことではないかと思っているのだが
 
別の呼び名や表現に言い換えることで
みだりに唱えていないことになると思っているのか。
言い換えればよいと考える気安さこそ
みだり
と言うべきではないだろうか。
 
形から入るという言い方はあるが、
形から入って
形のままとどまっていて、
むしろそれで不義はない気分になって満足している。
 
・・こんな気安いキリスト教があるのか・・
 
それと
文字を大きくしても
それだけ強く伝わるというわけではない。
おかしいところがあれば
おかしさも強調されるということです。
 
と前置きして・・
 
 
引用は
旧約イザヤ書
65:18
しかし、あなたがたはわたしの創造するものにより、
とこしえに楽しみ、喜びを得よ。
見よ、わたしはエルサレムを造って喜びとし、
その民を楽しみとする。
 
この65章には
7節に
彼らの不義と、彼らの先祖たちの不義とを
共に報い返す。
8節に
ことごとくは滅ぼさない
 
といったような
懲らしめる神と赦す神も書かれています。
 
新約ヨハネ書
4:34
イエスは彼らに言われた、「わたしの食物というのは、
わたしをつかわされたかたのみこころを行い、
そのみわざをなし遂げることである。
4:35
あなたがたは、刈入れ時が来るまでには、
まだ四か月あると、言っているではないか。
しかし、わたしはあなたがたに言う。
目をあげて畑を見なさい。はや色づいて刈入れを待っている。
4:36
刈る者は報酬を受けて、永遠の命に至る実を集めている。
まく者も刈る者も、共々に喜ぶためである。
 
やはり、ここも「刈り入れ」にたとえて
「永遠の命に至る実」を「喜ぶ」という箇所。
 
現実の問題とそれに関する疑問を考えることもせず、
自分の罪性についての内省を全く語らないならば、
あとは「喜び、楽しめ」のところだけを引用して
感謝と讃美を勧める以外にやることがないのでしょう。
 
都合のよい引用をして
うれしそうに夢のような世界を語り、
読む人にも
楽しいでしょう、うれしいでしょう、
の一方通行で押し通して福音伝道のつもりでいる。
 
苦難の時に活きてくる糧が何もない。
 
聖書の物語の中をうっとりして生きている陶酔
のように思えます。
 
 
「相続の手続きは全部ご自身の側で済ませた」
 
相変わらずで、むしろ強調している。
神の意志と行為を
自分が語ることに恐れを抱かないようです。
 
「この新しい世界を御子イエスと共に相続する者を
 求めておられるのだそうです」
 
伝聞の「そうです」は今までの経緯から謙虚ではなく、
神のことは知っているという確信からだと思います。
その中に自分が入っているから、
うれしい、楽しい、と言いたいようです。
 
「その御心が成るように、心を一つにし、
 招待のことばをすべての人に届ける人を求めておられる」
 
教理の言葉をやさしく同じように繰り返せば、
いつの間にか心に沁みて離れなくなり
理解したような気分になるということでしょう。
それを聖霊の賜物と言うつもりなのでしょう。
 
独裁者のスピーチや、カルトや、
政治思想の繰り返しによって摺り込まれ煽られて、
とんでもないことが
いつの間にか当たり前になってゆく
という手法に似たところがあります。
 
徹底的に信徒から
人間的共感や思考を奪ってゆく宗教のようです。
人間的共感や思考を
元々失っている人だから臆面もなく
続けることが出来るのでしょう。
 
今まで見てきた発言で、
このことを誤解だったと思わせてくれる内容が
全くと言っていいほど見つからなかったので、
以上、申しあげるべきだと判断しました。
 
私たちはまだ、人づてでも、ネットにおいても、
無視しない限り、様々な情報を得ることが出来るし、
違った人々の意見を聞くことが出来る
ということを忘れないでほしいと思います。
 
 
(2014年11月17日、同日若干修正)