敵意
 
 
神は 神から与えられたもの 
特に 理性も知性も感情も捨て去って
信仰の延べ棒になれ とは言っていない
 
使徒に選ばれた人々を見ても
弟子から裏切り者に そして使徒になったペテロも
迫害者から使徒になったパウロも
特筆するべきは
感情の豊かさと反省力だろう
彼らは激しく困惑し悩みながら
強く述べ伝える賜物を生かしたのだ
 
彼らのような聖人でなくても
個性を捨て去るのが信仰ではあり得ない
 
例えば
 
エペソ人への手紙
5:20
そしてすべてのことにつき、いつも、
わたしたちの主イエス・キリストの御名によって、
父なる神に感謝し、
5:21
キリストに対する恐れの心をもって、互に仕え合うべきである。
 
「すべてのことに・・感謝」を文字通りに受けて
その一念に信仰の正義をかけて
気合いもろとも人間の本音を押し潰して
自分を縛りながら生きてきた人は
その信仰と生き方を批判されると
オブラートに包んでも脆い破れ目から
根深い怨念を垣間見せる
 
その人は言葉をやさしくした分 
心が犠牲になって
残酷になった心が徒に燃焼している 
 
例えば
 
過ちを犯す人間の弱さから
神の憐れみにすがる信仰を述べる文脈で
 
ローマ人への手紙/ 12章 19節
愛する者たちよ。自分で復讐をしないで、
むしろ、神の怒りに任せなさい。なぜなら、
「主が言われる。復讐はわたしのすることである。
わたし自身が報復する」と書いてあるからである。
 
迫害は別に述べるべき大きなテーマにもかかわらず
ここに「復讐は神に任せよ」の聖句を持ち出せば
復讐するべき敵がいることを示すのだから 
ほのめかすように さりげなく 短く 
敵への意識を挿み込む意図を問われるだろう
 
私たちには 自らを振り返っても
考えるべきことが あまりにも多いのに・・
 
 
(2014年11月18日、同日一部修正)
あくまで例えば・・の話ということです。