新しく・・(2)
 
 
彼なら言うだろうということを言っています。
 
>一人の人アダムの離反によって罪が世界に入り
 
聖書の物語をそのまま歴史と現実に当てはめて
人の罪をアダム一人が悪かったからだと決めつけています。
 
私の見る限り
彼は今まで自分の罪を認めたことがありません。
そういう人間の本質についての鈍感さなら
上のような責任転嫁の判断は軽くしてしまうということです。
 
>天の神、主は、イエスの十字架刑での処刑によって、
>私たちのからだを
>きれいに掃除された家のようにして下さったのだそうですが、
>空家として放置することはなされないで、
 
さてキリストの十字架刑によって
私たちはきれいに掃除されているでしょうか。
そして比喩的に空家と呼んでいいのでしょうか。
 
彼は生きている人間の現在進行形を認めないようです。
とても単純な人間理解に立っているようです。
 
私たちは掃除されてきれいでしょうか。
私たちは空家のように空っぽなのでしょうか。
罪は昔の話なのでしょうか。
 
>聖である霊と呼ばれる方を送って下さって、
>この方が住まわれるところ、神殿として下さり、
 
送られた人が神殿になるという意味でしょうか。
自らを振り返り神殿に相応しいかどうかを
人間として考えない人の発言だと思います。
 
>この方が心に書き記して下さる御思いによって行動するという新しい生き方を
>私たちの内に新創造して下さるのだそうです。
 
>それで、私たちの内に律法の要求が全うされることになるのだそうですね。
>今日も。
 
いつものように聖霊による大安心説を唱えているようです。
毎日「今日も」を繰り返せば結局いつもと言うことになります。
 
現在進行形をすべて完了形にしてしまうと
こういう話になるのでしょう。
 
 
(2015年04月26日)
 
 
  新しく・・ (再録)
 
 
習い覚えた言葉と概念に
囚われていることに対峙しようと思っても
やはり言葉でしか語っていない。
 
むしろ言葉とその先入観にまみれて書くのです
・・とでも自覚しておかないと
何も言えないし書けない。
 
何か独立した論理や感性があって
スーパーバイザーのように表現しようとすればするほど
ますます言葉の深みにはまってゆくようだ。
 
人が言葉と既成の概念をすっ飛んで超えることは出来ないが
新しい言葉の期待は関係というものに寄せられる。
 
言葉の新しい関係つまり結びつきはポエムの仕事かもしれない。
しかし比喩や逆説や飛躍など
詩的な文章に広げるとポエムに限ったことではないだろう。
 
言葉の新しい関係は
人の関係に他ならない。
 
同じ人同士においてさえ
関係に既得はあり得ない。
 
人間はいつまでも未熟なので
新しい関係を求めずにはおれないからだ。
 
 
(2014年03月16日)
 
 
新鮮さを求めず人間性を考えない信仰・・
 
完了形だけで賛美され
進行形のない信仰・・
 
使徒たちは予想したでしょうか。
新約から二千年を経て
信仰が有頂天話の創世記になっていること・・
 
 
(2015年04月26日)