復讐
復讐について少し聖書を検索してみました。
(エレミヤ書/ 11章 20節、旧約聖書)
万軍の主よ/人のはらわたと心を究め/
正義をもって裁かれる主よ。わたしに見させてください/
あなたが彼らに復讐されるのを。
わたしは訴えをあなたに打ち明け/お任せします。
(ローマ人への手紙/ 12章 19節、新約聖書)
愛する者たちよ。
自分で復讐をしないで、むしろ、神の怒りに任せなさい。
なぜなら、
「主が言われる。復讐はわたしのすることである。
わたし自身が報復する」と書いてあるからである。
(ヘブル人への手紙/ 10章 30節、新約聖書)
「復讐はわたしのすることである。
わたし自身が報復する」と言われ、
また「主はその民をさばかれる」と言われたかたを、
わたしたちは知っている。
(シラ書〔集会の書〕/ 28章 01節)
復讐する者は、主から復讐を受ける。
主はその罪を決して忘れることはない。
※
『シラ書』は、
ユダヤ教とプロテスタント諸派では外典として扱われ、
カトリック教会と正教会では旧約聖書に
含めている書物のうちひとつ。
『集会の書』もしくは『ベン・シラの知恵』とも呼ばれる。
タイトルは著者のベン・シラ(シラの息子の意)に由来。
ウィキペディア Wikipedia より
旧約聖書では
イスラエルによる異民族に対する復讐は大方
神の意思によるものとして書かれているので
・・ひょっとしたら、そこから
復讐は神のもの、神に任せよ、が生まれたのかもしれません。
でもその辺を明らかにすることは学者の仕事なのでしょう。
・・正直言って私は、こういうことには詳しくありません。
ただ申し上げたいのは
何十年も聖書を研究してきた人の信仰と
今日、聖書の一行を読んで祈り、
信仰者となった人の信仰と
知識において差があっても
断じて信仰に優劣はないということです。
私怨によるのではなく
「復讐は神に任せよ」が聖句となるのは
人が自分の裁きを
神に委ねるという前提があるときだけです。
自分は正しいから
この世で守られたのち天国に行き
誰かのことを神の敵だから神が復讐する
などということを言うための聖句ではありません。
自分を絶対正義の位置において
誰かを滅ぼすための聖句ではないのです。
絶対正義の位置に立てる人は一人もいません。
それが人間の共感であるべきなのですが
現実にはそうなっていないのが現状で
その現状さえ知らない者が多いということです。
(2015年04月27日)
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