主の中で・・
 
 
3:12
わたしがすでにそれを得たとか、
すでに完全な者になっているとか言うのではなく、
ただ捕えようとして追い求めているのである。
そうするのは、
キリスト・イエスによって捕えられているからである。
3:13
兄弟たちよ。わたしはすでに捕えたとは思っていない。
ただこの一事を努めている。
すなわち、後のものを忘れ、
前のものに向かってからだを伸ばしつつ、
3:14
目標を目ざして走り、
キリスト・イエスにおいて
上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである。
3:15
だから、わたしたちの中で全き人たちは、
そのように考えるべきである。しかし、
あなたがたが違った考えを持っているなら、
神はそのことも示して下さるであろう。
 
12節はパウロの信仰と敬虔の表明のようです。
13節は求める姿勢のようです。
  12節あっての13節だと思います。
  この違いは大きいです。
14節は賞与とは恩恵または栄光のことでしょうか。
15節、さて、
  今までの彼の記事から
  神の意思を知っているという彼は
  「全き人」と言われたら
  「はい」と手を挙げそうです。
  パウロでさえ
  神は違った考えも示してくださると書いているのに
  彼は違った考えの入る余地を持ちません。
 
>使徒パウロも、信仰と事実との関係について、
>あの方が「こうした」とおっしゃるから、
 
聖書の言葉を文字通り受け取る
という彼の信仰のあり方のようですが
実際は聖書の言葉を都合よく受け取る
という信仰だということを今まで書いてきました。
彼にとって御言葉絶対は自分絶対に結び付きます。
 
>そのお言葉に信頼して、
>そうなっていると受け取っているけれど、
 
彼は
彼の信仰のあり方を
一見支持するかのように見える言葉だけを選んで
信頼というより信仰しているだけなのです。
 
>事実はこれから起こることなので、
>それを得るよう、
>その事実に向かって身をのばして
>走っているのだと言っているようですね。
 
パウロが言っているのであって
私たちがいつもそう思ってよいということではありません。
 
>私たちも、
>今、なっているかどうかに気を取られて立ち止まりがちなのですが、
>なっていない自分を認めて、
 
一見自分の不全を認めているように見えますが
神がまだ成就していないことを「なっていない自分」に
すり替えて使っていると言わざるを得ないでしょう。
前にも似たようなすり替えを彼は行っています。
不全を認めるどころか
これでは自分がなっていないのは神のせい
と言っているようなものでしょう。
 
いつ成就するかを書けと言っているのではありません。
いつ成就するのか人には分からない
ということを認めるべきなのです。
神に対する恐れと敬虔によって
人間としての不全を認めるべきなのです。
しかし彼はそのことについて書こうとしません。
 
>ただ、うしろのものを忘れて、
 
無視して見ようとせず
あるいは見て無視してゆけば
後ろのものとして忘れるというより
すべて覚えることを拒否しているのです。
これからも自分の意志によって限りなく
無視し続けて忘れ続けるつもりでしょう。
 
>ひたすら、前に向かって身をのばし、
>その事実が自分の身の現実となるようにと
>主に求めていくことのようですね。
>今日も。
 
今までの記事の流れと
以上に述べたことから
彼が書けば書くほど明らかになってきて
書けば書くほど明らかになってゆくこととして
 
ひたすら他者の言うことをすべて無視し続けて
自分の言説の中の事実どおりになることを求めると
彼は自分の筋書き信仰を宣言している
と言わざるを得ません。
 
 
(2015年04月27日)