体裁
 
 
神の意思はこうです
神様はこう考えておられます
神様はこうなさるのです
と言えば
神に向かって
あなたはこう考えていて
あなたはこうしようと思っている
これは言い換えると
神に向かって
あなたの言いたいことは知ってるし分かってる
ということに等しい。
 
表現を荒くしていくと
いかに神に対して不遜であるかが分かるでしょう。
一方で
神の言いたいことは知らないし分からない
これは人間の不全性から
不遜ではなく常に真実だと言えるでしょう。
 
言うまでもないことですが
私は信仰によって
全く別人に生まれ変わり真理を悟り
神の絶対正義を身に着けた
などということは全然ないので
 
書いて公開した文章を修正することが当然あります。
 
どう修正したかを文章中に逐一書いてゆくと
文章全体の体裁が汚くなるので
多くは修正年月日だけを記すことにしています。
こういうことは不全の人が
重いテーマについて書くときには
不可避なことだと思っています。
 
体裁という言葉を使いましたが
文章について・・
 
必要な体裁:
 本音を本気で文章に表すために整えること
 自分の真意の表現努力
不必要な体裁:
 本音や真意を隠す目的か
 真意がはっきり表せないときに
 質を問わず恣意によって
 間違っていると言われないためだけの目的で
 美辞麗句で飾ったり
 曖昧で優しい言い方を並べることによって
 整っていないことを整っているように見せかけること
 虚栄の表現
 
 
(2015年04月29日)
 
 
 
  秤
 
 
人が信仰について語れるのは
信仰から出た言動が
人の世界で正しいかどうかの判断にとどまる
それは
正しいという判断より
むしろ人として間違っている
としか言えない場合のほうが多い
 
つまり
いやしくも人が考え
判断できるのは人間性だけであって
信仰ではない
 
信仰を裁けるのは神だけだ
 
信仰そのものは人の秤(はかり)に乗らない
 
人の信仰を秤にかける者は
何も載せなくても
自分のほうに傾いてくれる秤を持っているのだろう
 
そういう者はしばしば
人の世界で判断するべきことを語らず
 
最初から神の判断つまり裁きを行っている
 
信仰は
神が与えた愛すべき人間性を問われるという一点において
人としての判断が可能だ
 
信仰を裁く信仰には人間性が欠落している
 
神の関わる信仰そのものを裁けるのは神だけである
 
問うことと裁くこととを混同してはならない
 
 
(2015年04月29日)