大きな報いが・・
 
 
聖書のこの部分の悪用については
前に批判したと思うのですが
批判に無反応の彼は
同じことを繰り返しています。
 
今まで自分で思い込み確信して
信条として人に語ってきたことを
今さら改めることが出来ない状況なのでしょう。
固着した思い込みから
被害者意識いっぱいで
復讐を望んでいることが浮き彫りになっています。
 
 
 (へブル人への手紙、口語訳)
10:32
あなたがたは、光に照されたのち、
苦しい大きな戦いによく耐えた初めのころのことを、
思い出してほしい。
10:33
そしられ苦しめられて見せ物にされたこともあれば、
このようなめに会った人々の仲間にされたこともあった。
10:34
さらに獄に入れられた人々を思いやり、また、
もっとまさった永遠の宝を持っていることを知って、
自分の財産が奪われても喜んでそれを忍んだ。
10:35
だから、
あなたがたは自分の持っている確信を放棄してはいけない。
その確信には大きな報いが伴っているのである。
10:36
神の御旨を行って約束のものを受けるため、
あなたがたに必要なのは、忍耐である。
 (へブル10:32-36、新約聖書)
 
読めば分かるように
この聖句は大いなる迫害の時代に書かれています。
信仰を許さない迫害者は明らかでした。
信仰を守ろうとすれば殺される日々を生きた使徒と人々の話です。
 
それを今の時代にそのまま持ってくれば
自分の絶対正義に反対する者を神の敵にしてしまいます。
 
書いてあるように
この聖句での確信は信仰を守るための忍耐です。
 
自分の解釈の絶対化ではありません。
 
彼が確信しているのは
誰の批判も無視してやまない自己確信に他なりません。
勝手に神の敵を想定したうえでの呪詛に近い忍耐です。
 
彼が「確信」という言葉で守ろうとしているのは
彼の思い込みの言説に他なりません。
前にも書きましたが
そのために聖句を悪用して
あらゆる反対者を
「報いが来る」と呪っているのです。
前に書いた「復讐は神に任せよ」と並んで
自分の敵を呪うには打ってつけの聖句なのです。
 
こういうことを臆面もなくやってのける者は神を恐れていません。
自分が神がかった絶対正義を持っているつもりだからでしょう。
徹底して学習することを放棄した態度のようです。
 
>あの方に信頼し、その言葉を事実として受け取る者は幸いなのですね。
 
「その言葉」とは彼の解釈と彼の言説です。
聖書に書いてあると言って欺く態度に他なりません。
恐ろしいことにそういう者は
聖書を引き合いに出して悪用することを恐れないのです。
 
>聞き及んでいた言葉がすべて事実であったことがわかるのだそうです
 
「聞き及んでいた言葉」も彼の解釈に利用される聖句でしょう。
それを事実だと信じるように言っています。
聖書から都合の良いところを持ち出して
自説の根拠として利用する者は神も聖書も恐れません。
 
信仰による忍耐ではなく
既に破たんしている思い込みの自説によって
あたかも今迫害されているかのような煽りによって
反対者に対する無節操な敵視と疎外が生み出すものは
まさに自説を通そうとする者による暴虐の精神なのです。
迫害と被迫害が逆に近くなってゆくのです。
 
>この方のことばを信用していた者たちは
>誉れと栄光をいただくことになるのだそうです
 
彼の自説と解釈を「この方(神)の言葉」にして
具体的なことは一切言えないことを当てはめて
空約束が常套手段となります。
 
 
 (へブル人への手紙、口語訳)
10:37
「もうしばらくすれば、
きたるべきかたがお見えになる。
遅くなることはない。
10:38
わが義人は、信仰によって生きる。
もし信仰を捨てるなら、
わたしのたましいはこれを喜ばない」。
10:39
しかしわたしたちは、信仰を捨てて滅びる者ではなく、
信仰に立って、いのちを得る者である。
 (へブル10:37-39、新約聖書)
 
信仰と殉教の覚悟を表している聖句も
「遅くなることはない」・・前にもありましたが、
学習せずに繰り返すことを信仰の美徳としてしまうと
厚顔であることにも慣れてしまうのでしょう。
 
修正不能にすることが信仰だと
優しさも聖句も利用できるもの総てを利用して
逆らう者を次から次に神の敵にして睨みながら
自らと仲間たちを締めながら結社化してゆく集団が
世界に溢れている有り様を垣間見るような気がします。
 
 
(2015年04月30日)