杯(さかずき)
 
 
誇らしくて勇敢で
弱みを見せないキリストであったなら
イエスは
私にとっての救い主にはならなかったかもしれない
 
信仰の根拠を言葉にするのは難しいが
キリストの罪と偽善に対する鋭い洞察とともに
あえて言うなら
キリストの偉大さは
超然としていることではなく
人間の心の琴線に触れる共鳴
すなわち共感を与えてくれるからだろう
 
新約聖書には
キリストが
「この杯を私(キリスト)から過ぎ去らせてください」
と祈る場面があり
私はキリストの迷いと苦しみと受け取っている
 
そのあとに続けて
「みこころのままになさってください」
と祈っているからと辻褄を合わせて
キリストは迷ったのではない
という言い分は成り立たない
 
(死という)杯が過ぎ去ってほしい
という気持ちが無かったら
「過ぎ去らせてください」
という祈りの言葉はないのである
 
キリストは
何ものも恐れず動じないで死に向かったのではない
 
すべての人に、神にも、見捨てられて
死にゆくことの孤独と苦悩を
人間に通底する共感を
このキリストの祈りに見るべきである
 
酸っぱいまたは苦い杯を与えられることがある
 
その究極の悲しみと苦しみをキリストに見るゆえに
キリスト・イエスは私にとって救い主となったのかもしれない
 
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
26:36
それから、イエスは彼らと一緒に、ゲツセマネという所へ行かれた。
そして弟子たちに言われた、
「わたしが向こうへ行って祈っている間、ここにすわっていなさい」。
26:37
そしてペテロとゼベダイの子ふたりとを連れて行かれたが、
悲しみを催しまた悩みはじめられた。
26:38
そのとき、彼らに言われた、
「わたしは悲しみのあまり死ぬほどである。
ここに待っていて、わたしと一緒に目をさましていなさい」。
26:39
そして少し進んで行き、うつぶしになり、祈って言われた、
「わが父よ、もしできることでしたらどうか、
この杯をわたしから過ぎ去らせてください。
しかし、わたしの思いのままにではなく、
みこころのままになさって下さい」。
26:40
それから、弟子たちの所にきてごらんになると、
彼らが眠っていたので、ペテロに言われた、
「あなたがたはそんなに、
ひと時もわたしと一緒に目をさましていることが、できなかったのか。
26:41
誘惑に陥らないように、目をさまして祈っていなさい。
心は熱しているが、肉体が弱いのである」。
26:42
また二度目に行って、祈って言われた、
「わが父よ、この杯を飲むほかに道がないのでしたら、
どうか、みこころが行われますように」。
26:43
またきてごらんになると、彼らはまた眠っていた。
その目が重くなっていたのである。
26:44
それで彼らをそのままにして、また行って、
三度目に同じ言葉で祈られた。
26:45
それから弟子たちの所に帰ってきて、言われた、
「まだ眠っているのか、休んでいるのか。
見よ、時が迫った。人の子は罪人らの手に渡されるのだ。
26:46
立て、さあ行こう。
見よ、わたしを裏切る者が近づいてきた」。
 (マタイ26:36-46、新約聖書)
 
 
(2015年10月01日)