奇跡を信じ込む?
私たちは聖書から
魔術を受け取るべきだろうか
私たちは魔術や
人知を超えた奇跡に親和するように
出来ているだろうか
奇跡だ、奇跡だ、これが神の業、と言って
人知を超えた奇跡を信仰の中心に据えて
それを受け入れるのが信仰だと言う者は
人知を超えた、と今言ったことを
どう受け取り得たと人に言うつもりだろうか
何も分かっていないから
同じ言葉を繰り返しているだけなのに
それを讃美し続ける者の話が
どうやって愛と赦しと救いの
感動に変わるというのか
空を眺めながらずっと
聖書のマナの降ってくるような救いだけを
口を開けて待っていろ
それが神から受ける救いだと言うのか
人間らしい知性と感性を等閑にして
奇跡ばかり強調して
奇跡でない人間の気持ちを
まるで汲み取ることの出来ないような
魔物になるのが信仰だろうか
救いはいつも
分かったふりをしないといけない奇跡だ
とでも言うのだろうか
私たちは人間であり
人間として生きたいし
人間として理解したい
ということが分からないのだろうか
理解できないことを
理解できないと言わずに
受け入れ、受け取ったと言うのは
人間らしい受け取り方だろうか
神は
人が超常に住めないことを知らない
とでも言うのだろうか
※
聖書には
奇跡も全能も理解しないまま
当時の救いの筋書きなど知らないまま
目の前にいるキリストに
恥ずかしい自らをさらすことで
救われた人たちの話が載っている
http://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp/18408774.html
※
信じても
信仰によって高ぶるなら
それは信仰とは言えないだろう
信じる者は救われる
ではなくて
低き者は救われる
また
魂の砕かれた者は救われる
ということかもしれない・・
私たちが祈るべきは
奇跡を起こされる神を信じて讃美します
ではなく
神のなさる奇跡や超常を
人間であるために理解できず
信じ込むことの出来ない私たちをお赦しください
ではないのか・・
(2016年04月27日、同日一部修正)
業(わざ)
等閑(なおざり)
コメント