悔い改めについて
 
 
罪は悔い改めることによって救われる
というのは実は
かなり無理があるのです
 
悔いて祈ることは誰であっても可能です
 
それに
罪に気付いたときに
改めることが出来る場合もあるでしょう
しかし
悔い改めがいつも出来るなら
その人はいつも正義に近い人として
生きることが出来ることになる
 
無理があるのです
 
悔いても
改めることの出来ないことがあるからです
 
生業において
犯罪でなくても罪の必然があるという場合が
あるかもしれません
 
言い換えれば
罪の必然の世界に私たちは住んでいる
ということも出来るのです
 
罪を犯すことなく生きることが可能なら
それは聖人以上ではないかという問題があります
 
悔いて祈りながら改めることが出来ず
日々告白によって罪人が救いを求める日々
という信仰生活はある
というより皆そうなのかもしれません
 
キリスト者のブロガーは
多くがそうしているのかもしれません
 
そういうブログなら
罪というものの本質に触れてゆく
という告白と考察の
深みのあるブログが可能です
 
ですが少なくとも
罪と偽善を隠蔽して
虚飾の日々を続けることによって
 
洗礼を受けて罪は贖われたから罪なき人になった
という自覚で
いろいろ苦労もありましたが洗礼を受けて救われてからは
どんなときにも罪を犯すことがないので平安でいられます
などという態度が
キリスト者としてあり得ないことは言うまでもありません
 
 
(2016年04月29日、同日一部修正)
 
生業(なりわい)
隠蔽(いんぺい)