神の前に空しく
前にも書いたけど
とにかく聖書の
天地創造をなさって人まで造った御方を表すために
これ以上ないという形容を集めたのだ
唯一・絶対・全知・全能・永遠・不変・・
これを信じよと叫んだのだ
どう信じようがある・・
永遠の最初から終わりまで
いったい誰が把握できるというのだ
手に負えない御方について
人に知らせるために抽出した言葉は
やはり手に負えないのだが
中には
手に負えないことを並べて
分かったようなことを吹聴して
味方を増やそうとする者が現れたので
人をご自身に似せて造った創造主は
似せるだけではなく
御自身の心を委ねる御子を遣わした
早速30年余で
殺されてしまったのだが
その御子に
後の人々が忘れられないような
足跡とその心を託した
あとにつづく者たちが
それを表し
その御子を継ぐ弟子たちを
さらに語り継ぐ者たちが
時代を超えて表れてきた
しかし彼らは人間だった
たかが人間だったのだ
その弱みからは逃れられなかった
ある者は強がってエクレシアをなしたが
人がそんなことを決めていいのかと
ある者は弱くて挫折した
歴史上の信仰者を
決して無謬化してはいけない
つまり神聖化してはいけない
彼らは人間として命を懸けて努め
人間だったから傷だらけだったのだ
正しい信仰は
人の間では難題にならざるを得ない
シンプルに
出来ないことをお任せすればよいのだが
中には
したくないことの言い訳に
お任せするのがいちばんなのです
などと
苦し紛れに言う人もいるから難題なのだ
救いは洗礼である
儀式のことではない
救いはいつも
死にかけた人間の乾いた魂を潤した
祈る取税人と
サマリアの女性と
パンくずを求める女性と
衣に触ろうとした女性と
十字架上の犯罪人は
キリストの意思も目的も
十分に理解していたわけではなかったが
キリストすなわち神の前での弁えを
言葉で教えられることなく誰よりも知っていた
彼らは打ちひしがれて
決して人の上に立てないことを
弁えざるを得なかったからだ
そのことを弁える者たちばかりだったら
人の上の立つ者は必要なかっただろう
だから彼らは
神の前で神をほめたたえるよりも
自らの赦しと救いを求める他なかった
彼らには
目の前におられる御方以外に
救いがなかったからだ
その最後のチャンスだったからだ
聖書を読むときに
一つの言葉にしがみついてはいけない
千の表現を知る賢者の言葉を弄しても
なお救いを表すには程遠い
だから聖書に学び
人間として救いを賜りたいならば
信仰告白は
へりくだった不信仰告白にまさるものではない
讃美は決して
へりくだった罪の告白にまさるものではない
救われた罪びとたちは
どうあがいても
神の前に
何の役にも立たない空しい自分を知っていた
(2016年08月26日)
弁える(わきまえる)
弄する(ろうする)
どんなに書いても、本当に程遠い・・拝
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