恐るべき短絡
 
 
 確かなナビゲーター
 2016/11/25(金) 午後 0:38
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27817606.html
 
 人の道、主の道
 2015/2/28(土) 午後 0:04
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/26429266.html
 
 確かなナビゲーター
 2012/8/19(日) 午後 0:28
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/23275206.html
 
 神への信頼とは
 2009/10/28(水) 午後 3:17
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/8761083.html
 
 常に主を覚える
 2009/8/2(日) 午前 8:52
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/4711294.html
 
 
今日も、彼、シャローム氏は、決めつけの断定が、不適切な比喩と短絡を伴って、どういう怖い境地と言動をもたらすか、という結果と経過を惜しみなく表しています。しかも、彼は、訂正も修正もする気がないのです。
 
 (箴言、口語訳)
3:1
わが子よ、わたしの教を忘れず、
わたしの戒めを心にとめよ。
3:2
そうすれば、これはあなたの日を長くし、
命の年を延べ、あなたに平安を増し加える。
3:3
いつくしみと、まこととを捨ててはならない、
それをあなたの首に結び、心の碑にしるせ。
3:4
そうすれば、あなたは神と人との前に
恵みと、誉とを得る。
3:5
心をつくして主に信頼せよ、
自分の知識にたよってはならない。
3:6
すべての道で主を認めよ、
そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。
3:7
自分を見て賢いと思ってはならない、
主を恐れて、悪を離れよ。
 (箴言3:1―7、旧約聖書)
 
>あなたやわたしの人生の歩む道をまっすぐにしてくださる方がおられます。
>あなたやわたしはどうすればよいのでしょうか。
 
そうして、自分の道は真っ直ぐだと、そこに不感不応の境地を置いて、身勝手な安穏を平安と呼び、反対意見を受け付けなくなったのが、彼、シャローム氏です。
 
>問題は何でしょうか。
>誰に、何に頼るか、ということですね。
 
>安易に主に信頼するのと、
>「心を尽くして」主に信頼するのとは、どう違うでしょうか。
 
心を尽くして主に信頼すると言って、自分の思いに、主の冠を付けて、人々を、反論不可の隷属の下においてきたのが、彼、シャローム氏なのです。
 
主は、なんと教えてくれたのでしょう。罪も偽善も、悔い改めなくていいんだよ、神の代官、神の子としての身分があるのだから、罪と隠蔽の偽善を言ってくる者など、気にしなくていいんだよ、とでも、お告げがあった、神に教えられた、という信仰?でしょうか。・・怖くなります。
 
>私たちの生活にもどうしてよいかわからないときがあります。
>そんな時、今日の聖書のみ言葉は心強いですね。
 
彼は、詭弁によって、聖書の御言葉を、自分に都合の良いように、曲げて受け取り、自分の罪も偽善も省みない者です。このようなペテンに引っかからないようにしてください。彼は、口で讃美しながら、行いで背く者です。
 
>確かな導き手に全面的な信頼をするのです。
>たとえ、その道に困難があっても、
>いままで一度も通ったことのない道であっても、
>主が導き手として共におられることに信頼するのです。
>その道を歩くことを難しくしてしまうことがあります。
>自分や人の分別に頼ろうとすることです。
>今まで当たり前と思っていた自分の知識や経験、賢さに頼ろうとすることです。
 
彼は、主を導き手とはしていません。自分の心に飼っている聖霊と名付けた偶像によって、自分の、この世における、体面、体裁、尊敬、などをむさぼって、いい気持ちになりたいだけなのです。この記事も、彼の、いい気持ちが書かせているだけなのです。実際は、反対意見をブロックし削除し、そのことを隠蔽して、体裁を偽装して、悔いることも改めることもしない、偽善者です。
 
>私たちの歩む道はただゴールに着くことだけではなく、
>その途上にもすばらしい主の計画があるのです。
>主を見失い道に迷い、途方にくれて、
>祈るほかないような状況にたたされることも必要なのです。
 
彼は、自分のいいように歩いてきて、自らが立てた、他の意見を完全に無視できる不応不感のバリアの中にいるから、悔いることも改めることもなく、考えることもなく、素晴らしい、素晴らしい、と言うことが出来るのです。
 
この記事には、主の導きについて具体的なことは、何も書かれていません。こういう人こそが、聖霊体験を吹聴して、これが主の道だとばかり、信仰の考えを自分の思い通りに向けてゆくのであり、そうしてきたのでしょう。逆らう者を侮辱して去らせながら。
 
彼は、道に迷い、途方に暮れているのでしょうか。ならば、道に迷っている自分の信仰を書かず、なぜ、こんな白々しい記事を書いて、人に見せようとするのでしょう。
 
祈るほかないような状況で、彼は、本当に神に祈っているのでしょうか。彼、シャローム氏は、善と、悪とを、自分で決め付けて、悪からお救いください、と祈っているだけではないでしょうか。そういう自分の正しさの前提で祈る姿勢は、カルト的自分信仰の特徴です。
 
何よりも、偽善を隠蔽したまま、「祈るほかない」などと書けることのほうが、彼の、神をも、自分の利益のために利用する、という、人並み外れて凶暴な自作信条のなせるわざなのです。毎度、信仰は腐るとここまで来てしまう、という実例を見せてくれます。
 
>急いで得た富は災いをもたらすという聖書の言葉もあります。
>私たちはあまりにも自分の目先の都合や利益だけで道を選ぼうとしますが、
>主は私たちには思いもよらない最善の計画によって導かれるのです。
>私たちの信頼できるナビゲーターは主であり、み言葉なのです。
 
安易に得た思い込みの導きも、彼、シャローム氏において、災いをもたらしています。目先の都合や尊敬や体裁や体面という利益だけで道を選ぼうとして、こともあろうに、そこに、神のお墨付きを当てはめる、という重罪を重ねてきたのです。
 
>弟子たちも良く見失い途方にくれました。
>イエスが十字架のつけられて死なれた時にはまったく絶望してしまったのです。
>しかし、その後、弟子たちはよみがえられたイエスに再会し、
>自分の知識や体験ではなく、み言葉と聖霊に従う人と変えられたのです。
 
彼は、悲しみを感じたことがないのではないでしょうか。だから、悲しみに暮れる、ということが理解できずに、絶望と書いてしまうのでしょう。悲しみは複雑ですが、絶望は有無の言葉です。悲しみについてじっくり味わい考えることのない者は、有無の思想を持ちやすいと思います。だから、それを、どんでん返しの救いにするためには、よみがえり、という奇跡でないと納得しないのでしょう。彼が感じてきたのは、苦しみ、恨みと憎しみ、だけではないか、と思うことがあります。人間の明け暮れに、また立ち直りの朝のために、悲哀という、みずみずしい情感を、彼は、持ち合わせていない・・と思えてなりません。
 
人間の考える正しさは相対的です。だから、人間は、いろんな意見を受けて反応することによって成長するしかありません。だから、私のブログは、コメントを書き込めるように開けて、殆どのコメントを承認しています。100コメント以上の噛み合わないやり取りで疲れたこともあります。そのやり取りは無駄のようですが、そこに晒される自分を鍛えることにはなります。無駄のように思えることも、相手が何を言いたいかを探りながら、自らの忍耐を養うのには役立つかもしれません。総ての人に勧めるわけではないですが・・。
 
シャローム氏のブログは、反対意見をブロックし削除してきたブログで、今は、コメント欄が閉鎖されており、即ち、読者が彼に意見する、という、権利を奪ったうえでないと成り立たないブログです。彼は、その強制力に頼って、ブログを頑迷に維持しているだけです。
 
神は、次はこれをして、その次はこれをして、まもなく人間交差点です・・と、手とり足とり、ナビのように案内してくれるわけではありません。神の導きをナビに喩えること自体に無理があります。その無理に短絡して信仰を語ることが、彼、シャローム氏の、コメント欄を閉じていながら、訂正不能の口を開けて、具体性がないのに、聖なる絵に描こうとして、空疎な讃美を無遠慮に押し出す結果になっています。言い換えると、偽善者の喩えは、キリストの喩えとは大違い、ということを教えています。
 
彼、シャローム氏は、神をナビのように見なして、自分は、神に導かれて間違いのない道を通っている、と言いたいようです。これこそ、神についての美辞麗句です。これこそ、神へのお世辞です。そして、実際は、自分の判断を絶対化する、という方向しかなくなって、これこそ、神に対して犯す最も重い罪であります。それが、彼に、人に対する不感不応をもたらし、そして偽善と隠蔽をもたらしているのです。彼のナビは、彼の壊れた思考と感性を、そのまま行動に移してしまうショートサーキット(短絡)なのです。
 
 
(2016年11月26日)