平安の安売り
神の国はいつ来るのか
2016/11/28(月) 午前 8:35
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27822324.html
セルフ・イメージの癒し
2016/6/15(水) 午前 8:41
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27520621.html
神の国はいつ来るのですか
2015/7/11(土) 午前 6:06
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/26772467.html
神の国はいつ来る?
2013/9/26(木) 午後 2:17
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/24867543.html
神の国はいつ来るのか
2011/12/17(土) 午前 9:30
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/21844953.html
神の国はどこに
2011/3/27(日) 午後 5:49
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/19429679.html
>私たちが自分の歩みを振り返る時、いろんな試練や困難がありますが、
>しかし、自分の努力の虚しさと同時に、
>神の恵みによって生かされていることを知ることができます。
よく毎回、このような、人に言えば歯の浮くようなセリフ、つまり中身のない讃美を書くことが出来ます。今回の記事、過去に5回もコピペしています。新しく書けなくなってきているようです。
>悩みや苦しみから救われることを願って信仰の道へ入ったのに、
>かえって新たな悩みを背負わされたようで、戸惑いますが、
>実はそのような道を歩まされることによって、イエスは私たちを心の囚われから解放し、
>神の国にふさわしい者と整えてくださるのです。
悩み苦しみが、自己中心から来ているときも、神は、神の国に相応しい者と、整えられるのでしょうか。相変わらず、不感不応の、彼、シャローム氏は、もはや、亡者のように、今のままでいいんだ、今のままにいいんだ、と呟きながら、考えることも反省もしないで、マウスに手を伸ばしてカチャカチャと、コピペしてきたのでしょうか。
>なぜなら、私たちの生き方を決めるのは、私たちの心なのですから、
>私たちの生ける神を信じ、信頼しようとしない私たちの心が砕かれ、
>解放されることなしには、生き方は変わらないからです。
私たちの生き方を決めるのは、私たちの心なのですから・・とは、信仰は、神は、支配者ではない?・・。神が、神が、神の奇跡だけが、・・と言っていた人は、ペテン師なので、うっかり我を出してしまうようです。だから、なお、そのあとに、脈絡を無視して、心が砕かれ、開放されることなしには、生き方は変わらない、・・と言っています。本当は、心が砕かれた経験などないから、こういう継ぎ接ぎ説教を平気でするのでしょう。彼の作文は、順序も組み立ても考えないのです、とにかく、大仰に、ほめたたえればよいのでしょう。
>私たちの言葉や行動という生き方は私たちの心の思いや感情から生み出されるのですが、
>心の奥に傷ついた情緒や罪責感が潜んでいることに気づくことは容易ではありません。
自分の非を全く認めない人だから、彼、シャローム氏らしく、彼の心には、被害的念慮と他罰意識しかありません。恐らく、罪責感は・・、無いと思います。あれば、過去記事をコピペするよりも、自分が悪かったのではないかという非を認め、罪を認め、キリスト者なら、悔い改めの機会を持ったでしょう。彼は、自分のために嘘をついていると言われても仕方ありません。
>私たちは自分の言葉や行動という生き方を変えようと努力をします。
>でも、心が変えられて初めて生き方が変わるのです。
彼は、そうでしょう。人間は、まず、心も行いも、変えるように努めるのですが、彼、シャローム氏は、必要なら神が変えるのだと、何の努力もせず、被害者の立場だけを言って、あわれみを乞い、変えられるのを待っているのです。奇跡信仰者は、こういうとき、大口を開けて、空から奇跡が降ってくるのを待っているのです。
>私たちは必要以上に自分を気にしたり、人を恐れてしまいますが、
>それは自分の存在価値が人の評価で支えられているからです。
>人の評価ほど変わりやすいものはありませんので、いつも人の言葉や顔色を伺うのです。
かなり体系化?されました、彼、シャローム氏のいない「私たち」への断定の、ぼろくそ節です。私たちは、誰でも、いつも、人の言葉や顔色をうかがうでしょうか。彼、シャローム氏は、人の顔色をうかがうように、人の評価を気にして、コメントをブロックし削除し、ブログの体裁を、反対者などいない、という体裁にしないと気が済まなかったのです。一方で、反対者のことなど、人間とも思っていないようで、うるさいから去らせようと平気で侮辱してきたのでしょう。
(イザヤ書、口語訳)
43:4
あなたはわが目に尊く、重んぜられるもの、
わたしはあなたを愛するがゆえに、
あなたの代りに人を与え、
あなたの命の代りに民を与える。
・・・
43:22
ところがヤコブよ、あなたはわたしを呼ばなかった。
イスラエルよ、あなたはわたしをうとんじた。
・・・
43:27
あなたの遠い先祖は罪を犯し、
あなたの仲保者らはわたしにそむいた。
43:28
それゆえ、わたしは聖所の君たちを汚し、
ヤコブを全き滅びにわたし、
イスラエルをののしらしめた。
(イザヤ43:4,22,27,28、旧約聖書)
彼、シャローム氏は、ここでは4節、つまり、聖書の都合の良いところしか引用しません。何度も書いてきたことですが、聖書の懲らしめの神を、彼、シャローム氏は、完全に無視しています。聖書には、救いと懲らしめは、両方書いてある箇所が多いのですが、彼のご都合主義?は、徹底しているようです。やはり前に書いてきたように、神に、愛されて、愛されて、・・という、神を愛のストーカーとした信仰?なのでしょうか。
>ですからイエスは「神の国は見られる形で来るものではない。
>また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。」と言われたのです。
ですから、ではなく、当たり前に、神は人の目には見えないのであって、神の居所や姿が見えたなら、大変なことです。私なら、神経を病んで、あっという間に燃え尽きて、死んでしまうでしょう。彼は、言葉しか、頭に置いていないので、とても気安い書き方をしています。
>私たちが人の評価ではなく、イエスをとおしてあらわされた神の愛を知り、
>体験するとき、初めて自分の真の存在価値に気づかされるのです。
またも、彼、シャローム氏は、神の愛を語り、神の懲らしめを無視しています。そして、自分はキリストによって、存在価値がある、と言い張っています。彼の場合は、今までの言説から言えば、神の絶対から、自分は絶対に愛される、としてしまう悪い典型例であります。神の懲らしめを無視することは、自分の非を無視することです。いつまでも悲劇のヒーロー?・・。
>生ける神は神を畏れることも信頼もせず、
>かえってその愛にそむき、敵対し、己が都合のよい神を作り辱め、
>その結果は死であり、滅びであるにもかかわらず・・・
>私たちの罪のあがないのために
>ひとり子エスを十字架の祭壇に犠牲としてささげられたのです。
一見まともなことを書いているように見えますが、彼、シャローム氏は、引用最初の2行を付けることで、罪でも偽善でも何をやってもキリストの十字架によって救われる、という、全く、信仰による救いが、信仰によらない救いになってしまうようなことも、平気で大仰に言い張るのです。
>イエスの誕生、生涯、十字架の死、よみがえり、聖霊の注ぎは
>神の愛があなたや私に注がれている事実を明らかにしているのです。
>それほどまでに神は私たちを愛しておられるのです。
懲らしめを受けながらでも、言葉上の愛だけを強調して、愛を強調されて、気分の悪い奴は、おらんじゃろう、とばかりに、彼、シャローム氏は、ますます、声高に、反対意見を皆殺しにした机上から、ほくそ笑んで書いているかのようです。
私は、聖霊を否定してはいません。むしろ、信じています。しかし、聖霊は三位の一つ、すなわち、神であります。ですから、自説の根拠に、聖霊の啓示だ、議論無用なり・・とばかり言い張ったりはしません。神を恐れるからです。彼、シャローム氏は、人としての身の程を知らないのです。
>神の言葉とその実体であるイエスに対する信仰によって、
>私たちの神と人に対する罪と傷ついた情緒や罪責感情がいやされ、
>整えられていくとき、
>神の愛と恵みが、聖霊によって、
>私たちの言葉や行動という生き方に表されるようになるのです。
彼、シャローム氏にとって、やはり、罪責感情は、すぐにでも癒やされるべき嫌なものであるようです。決して非を認めない彼は、信仰によってか、体質によってか、罪悪感とは無縁のように思われ、感じたことがないように思われてなりません。深い悔いの気持ちが、信仰の成長を支える、ということは、反省による学習機能のない彼には一生分からないのでしょうか。
罪責感情が癒されるのは、罪悪感を感じることによって、悔いて告白し、赦されたあとに与えられる恵みです。悔いない者、神への態度を改めない者には、癒しは与えられないと思います。もし癒しが罪の告白なしに与えられるとしたら、祈りと告白は無意味になってしまいます。
だいたい、何か病んでいる感情があるから、癒される、と言うのでしょう。傷つく前に癒されることはないはずです。彼、シャローム氏が、権威から押し付けるのは経験がありますが、傷ついて弱っている様子を、彼の言論にも行動にも、見たことがないです。だから私は、厚顔という言葉をしばしば使っています。
彼、シャローム氏は、反対意見を抹殺し、反対者を侮辱して、去らせようとしてきました。反対意見を聞かず、賛同意見を誉めまくって、同時に、罪と隠蔽の偽善を隠し通そうという彼の強制力による行動、という、整わない企みを続けるとき、まるで、悪霊によって、彼の怨恨が、表わされているかのようです。彼の怨恨に触れたら、神の助けなくしては、無事には済まないと思うほどです。
>それはただイエスを信じさえすれば万事うまく行くという事ではなく、
>さまざまな試練や困難によって、私たちの心が砕かれ、囚われから解放されることによって、
>神の国は神の恵みとして私たちの生き方にあらわされてくるのです。
よく言います。あまりにも言動の事実からは白々しいので、心無いペテン師の馬脚をあらわしています。彼、シャローム氏は、試練を受けて学ぼうとなど、していません。ひたすら、都合の悪い試練など、無かった、何も無かった、という体裁を偽装し続けてきたのであります。だから、自分を自分で守ろうとしている間、彼の心が砕かれることはなく、また、この世の価値基準に囚われているのだから、解放もありません。心無いペテン師は、どこまでも、騙すために嘘を惜しまないようです。彼の生き方によってあらわされるのは、偽善者の自己充足の矛盾の醜さだけなのです。
神の平安は、非を認めない者には、罪を認めない者には、偽善を認めない者には、心無いペテン師には、嘘で自分を飾る偽善者には、訪れません。キリストの負いやすいくびき、すなわち、へりくだった人間として平安がいただけるような生き方の姿勢、というものを拒んでいるからです。
(2016年11月29日)
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