狂信と慇懃無礼
 
 何をしているのか自分でわからない
 2017/2/27(月) 午後 5:55
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27967605.html
 
 剣をとる者はみな、剣で滅びる
 2012/7/3(火) 午後 5:34
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/23048616.html
 
 
世の中には本当に悪い人がいます。根っから悪い人は、恐らく、人間の大切なものを持っていないか、ある種の信念によって、捨て去った人のようです。
 
悪い人なのに、いい人のふりをする人を、偽善者と言います。そういう人は、一見、悪い人には見えません。悪い人に見えないように、自分を飾るからです。特に悪いのは、悪い人なのに、善人のような顔をして説教をする人です。そういう人は、自分の悪を無視して、次のようなことを引用したりします。
 
>不貞のやからよ。世を友とするのは、神への敵対であることを、知らないか。
>おおよそ世の友となろうと思う者は、自らを神の敵とするのである。」
>(新約・ヤコブの手紙4章1節~4節)。
 
恐ろしいことに、彼、偽善者、シャローム氏は、この世からよく思われようとするために、自分の悪行を隠したうえで、自分が裏切っている善の言葉を使い、上のような聖書の言葉を引用するのです。
 
悪人なのだからやめろと言っても、それを続けるのです。彼は、信仰を語る資格がないほど、卑怯な悪いことをしていますが、信仰を語る資格がある人のように、何を言われても、それを隠して、同じことを言い続けます。そこには、この世の友または獲物を得ようとして、人を騙して賛同を得ようとする、根っからの悪でなければ出来ないようなことを平気でやってしまいます。
 
そういう人は自分信仰者なので、いちばん大事なのは自分で、自分を受け入れさせるために、手段を選ばず、この世の友を装います。
 
どんな罪も偽善も悔い改めないままで赦される、という狂信があり、それに反する者を、侮辱し、どこまでも無視して排除します。もうすぐ削除されてコメント欄は全くなくなり、彼の発信だけになるでしょう。そのように、刺激が全くなくなった環境下で、彼は、言いたい放題を言うでしょう。そして、自分の悪巧みで刺激のなくなった状態を、神の平安と呼んでいるのです。
 
 (ヤコブの手紙、口語訳)
4:1
あなたがたの中の戦いや争いは、いったい、どこから起るのか。それはほかではない。あなたがたの肢体の中で相戦う欲情からではないか。
4:2
あなたがたは、むさぼるが得られない。そこで人殺しをする。熱望するが手に入れることができない。そこで争い戦う。あなたがたは、求めないから得られないのだ。
4:3
求めても与えられないのは、快楽のために使おうとして、悪い求め方をするからだ。
4:4
不貞のやからよ。世を友とするのは、神への敵対であることを、知らないか。おおよそ世の友となろうと思う者は、自らを神の敵とするのである。
4:5
それとも、「神は、わたしたちの内に住まわせた霊を、ねたむほどに愛しておられる」と聖書に書いてあるのは、むなしい言葉だと思うのか。
4:6
しかし神は、いや増しに恵みを賜う。であるから、「神は高ぶる者をしりぞけ、へりくだる者に恵みを賜う」とある。
4:7
そういうわけだから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ちむかいなさい。そうすれば、彼はあなたがたから逃げ去るであろう。
4:8
神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいて下さるであろう。罪人どもよ、手をきよめよ。二心の者どもよ、心を清くせよ。
4:9
苦しめ、悲しめ、泣け。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えよ。
4:10
主のみまえにへりくだれ。そうすれば、主は、あなたがたを高くして下さるであろう。
 (ヤコブ4:1―10、新約聖書)
 
キリストを永遠の友として信じると言っておきながら、世を友とし世のことばかりに熱中するのは、神への敵対だという戒めです。この世で勝とうとするだけの価値基準には、欲望に支配されたり、人のことを考えなかったり、過剰に高ぶったり、「むさぼる」という言葉にあるように、自分の快楽だけを求めることになりやすいことから、戒めている言葉です。
 
「むさぼるが得られない。そこで人殺しをする」というのは、端折った言い方ですが、3節「快楽のために使おうとして、悪い求め方をする」のように、人の求め方は、しばしば貪るに近くなり、それが、争いの原因になることが書いてあります。
 
8~10節は、前に引用しましたが、この世での災いを受けた人の立ち直りのために、神という絶対者の前に、人間として、謙れ(へりくだれ)、と書いてあります。神の前に、低い人として、祈ることです。ここに悔い改めの姿勢があります。
 
聖書において救われたと語られている人々は、教理など分かっていなくて、ただ、自らの罪ある者として、正直に、キリストに赦しと救いを求めました。信仰の芯は、はっきり言って、それで十分なのかもしれません。
 
ところが、苦しみ、悲しみ、泣くことを、この上なく憎み、それらを二度としたくないがために信仰?を求めた彼、シャローム氏のような者がいて、この世において負けることが嫌いで、誰に対しても優位に立つために、キリスト信仰とは名ばかりの、この世の価値基準のみを友として、他者にまさりたいだけの、貪るように自尊を求める狂信が蔓延っています。
 
信仰を語りながら、彼は、まさに、この世の悪しき友として、この世での、聖書の先生、という、名誉欲だけに支配された、世俗的自尊に、しがみついているのです。
 
彼は、いつの日も、罪なき者とならないと気が済まず、神か神の代理人のように偉くなることを求め、悔い改めることを頑強に拒み、罪を認めず、また偽善も罪も、犯しても悔い改めることなくそのまま、まるで自動的に、許され救われる、という、キリストに反する無罪信仰を広めようとしているのです。
 
彼は、彼の狂信によって思い上がり、言葉面を漁り、貪るように求めるので、人が何を言っても、反省することなく、驕り続けています。一見、穏やかな文章の裏には、そのような、反対する者を人間とも思わない、怒りと恨みに裏打ちされた、敵意にも似た心性が働いていると思います。
 
だから彼は、どんなに矛盾を指摘しても、やめることがないのです。そのために、長年にわたって、聖書の言葉面すなわち聖書語と、慇懃無礼の言葉すなわち丁寧語とを身につけてきました。それに騙された人々が、30年の牧師時代とネットにおいても少なからずいるようです。罪は、過去から未来まで全部赦されると言っている人もいます。悔い改めによって、ということが抜けてはいけません。
 
そしてここから現れてくる人格の表面ではなく、本当の裏の姿として、欠点もなく罪もない自覚で、根拠のない常時安穏を貪り、いかなることをしでかしても非を認めない、彼、シャローム氏の、被害念慮と他罰意識に凝り固まった説教者気取りがあります。信仰の勘違いに魔が差すと人格も破壊されるという実例になっています。
 
今日の彼の記事には、いくつか、批判されていることを意識しているようなところと、それを夫婦げんかになぞられて、はぐらかしているところもあります。夫婦げんかについては言いませんが、
 
次の、これらの彼の言い分には、私は、既に何度も反論してきたのです。彼は、それに対して、同じことを言うか、侮辱してくるか・・しかできなかったのです。にもかかわらず、また言ってくるのが彼、シャローム氏なのです。改めて読んで思うことですが、彼は、信仰の世界に巣食う異常者です。
 
>人が争う時には自分の自尊心や利益を守るための言い分があります。
>もちろん争う相手にもあります。泥棒にも三分の理があるという言葉もあります。
>争う双方が自分の言い分が、より、いや絶対正しいと主張する時ほど、
>争いは激しくなります。
 
争う一方が、相手を全く無視して、相手を悪と決めつけている時ほど、争いは激しくなります。彼は、絶対ではない人間としての不全の自覚を共有も共感もする気がありません。それは、彼が、絶対者としての立場に立っているからです。
 
>ですから、私たちの自尊心にとって正しいと思われることが、
>私たちにとって最善であり、平和をもたらすものではないということですね。
>しかし、私たちは自尊心や利益を守るための正しさを手離すことができません。
 
彼は、彼の自尊から来る偽信仰によって、その矛盾をいくら指摘しても、それもまた、無視して勝手なことしか言いません。これらも、言い逃れに過ぎず、自尊を手放さないのは、今もこの記事で人をペテンにかけようとする彼のほうです。
 
ときに見られるのですが、夢のようなことばかり書く人がいます。私は、絵空事、空約束と思って、一時的に批判しましたが、今はやめています。彼、シャローム氏は、そういう人ではないのです。彼は現実に自分の言うことがどこへ出しても通用するという自負のかたまりです。王道を言っているつもりなのでしょう。能力においても傲慢だけは捨てられない人です。
 
分かってもいない他者の意見を勘違いして誤謬を振り回したり、自分で、民主主義ならぬ神主主義、心身症ならぬ霊心症、などという宗教風味の造語を作るのが好きなようです。それら造語は見るからに何の糧にもならないわけで、説明も付きません。言葉面を代えて得意がる自己顕示に過ぎません。彼自身にとってだけ、あたかも宗教指導者の卓見のごとく映っているのでしょう。果てしなく背伸びする自分信仰・・。
 
>人が認めようと、認めないとしても、神との関係と交わりを失うと、
>人は自分の自尊心を自分で守り、他を攻撃するものとなってしまうのです。
 
そして、決めつけの最たるものとして、(相手は)神との関係と交わりを失っている、と言うのです。神との関係を失っている、自分の自尊心を自分で守る、反対意見に対して削除という攻撃手段しか持たない、これこそが、彼の常套手段の持ち物であり、彼の常習の持ち前であります。言葉面の「人」にも「私たち」にも、彼は含まれていません。含まれているということの分かる記事を彼は書いたことがないからです。
 
>誰でも自分の自尊心が脅かされると、自分を恐れ、他の人を恐れるのです。
>そのような恐れを抱きながら、人は人と生きて行かなければならないのです。
 
彼は、隠蔽がバレるのを最も恐れて、生きています。証拠として、彼のブログの殆どすべての記事から、猛烈な勢いで、コメントを削除し、コメント欄を廃止してきました。彼には話し合う気などないのです。記事の慇懃無礼で誘って引き込もうとするのに、話し合う気がなく、自分の口から出たものについて決して非を認めないのが、彼、シャローム氏の本性であります。
 
話し合おうとしない者が、長く話し合わないでいると、信仰?の無謬性のみが膨張して、ついには、思考と情緒という人間性も壊れてゆくようです。彼は、今では、話が通じない人になっています。ですから、彼が何か言っても、それに疑問などを持って突っ込むと、彼は一変して、はぐらかし、それが出来ないと、嫌がらせや当てつけ、そして侮辱を返してくる、というのを、もう6年ほど前から経験しています。
 
そのように説明も出来ず答えられないにもかかわらず、彼は口が減りません。念のため、異言などというものではありません。異常なのです。信仰者は、決して、彼と好意的に交わってはいけないと思います。今日の記事で改めてそう思います。完全に既に聞いた前の話の繰り返しです。彼は答えられませんでした。
 
>人は「自分のための」神を造ることによって「自分を神としている」のです。
>イエスは私たちの生きる道を示し、その道を歩かれたのです。
>イエスは私たちを神による平和と永遠の命への唯一の道なのです。
 
自尊によって、自分を神または神の代理人としての傲慢から、生ける神からの信仰の道に背き続け、にもかかわらず、引用3行目のように信仰の美味しい言葉だけは吹聴するところの、彼、シャローム氏は、争いの種になるほど突拍子もない嘘だらけのブログを書いて、悔い改めることなく、神と人とを欺き続けています。
 
悔いても改められるかどうかは別になりますが、悔い改めることは、神に対する態度であり信仰の芯であります。しかし、神の前に本当に悔い改めた者は、人の前で、それと正反対とことは言えないはずです。彼、シャローム氏は、事実との矛盾など全く気にせず、矛盾だと過去に指摘したのに同じことを平気で言ってくるので、見るたびに身の毛が弥立ちます。
 
少なくとも、いつまでも自分の利益だけを求める者、いつまでも見栄と自尊にしがみつく者、いかなる場合も非を認めない者、思い込みということを考えることが出来ず自己確信の絶対の境地を誇る者、訂正不能である者、いつまでも自分を悔いるという内側への思考を持たない者つまり反省しない者、罪悪感を感じない者、とりわけ神に対して不正直である者、・・これらは、決してキリスト者とは呼べません。何故なら、それらは、人間がキリスト者になるとき、最初に捨てるものだからです。
 
狂信が人をサイコパスにしてしまうのか。
サイコパスだから狂信を生むのか。
それはまだ分かりません。
 
 
(2017年02月28日、同日一部修正)
 
欺く(あざむく)
貪る(むさぼる)
蔓延る(はびこる)
漁る(あさる)
驕る(おごる)
身の毛が弥立つ(みのけがよだつ)