弱さを誇る
前にも書いたことのあるテーマです。信ずるにあたって、奇跡をおこなう神を至高の御方として信仰し、そこに触れて、そこから出たものを、神聖の賜物として受ける、というこの姿勢は、神の絶対に触れることによって、人が神を知り、神の御心を知る、というあり方のように思われます。
上は、神の超常中心の信仰のあり方ですが、私は、人は神を知りえないし、神は人が理解することも出来ない御方だと思います。人に必要なことは、人間性において、感じるか、分かるか、分別できることだけだと思っています。
どうして神の絶対に人が触れることが出来るだろう、人がその限られた知恵によってどうして神を知り得よう、神が教えるというなら、どうして教えているのが神だと分かるのだろう、神が教えるからだ、というなら、だからどうして神が教えていると分かるのだろう、というような、堂々巡りに至ります。
神が人に触れる、というのは、人には知らせずに触れるから、人は神に触れても神だとはわからないはずだろう、と私は思いますが、この世ならぬ大きな力なら神のほうから触れるのだ、だから、なぜ触れたと分かるのか、というふうに、また同じような堂々巡りです。
不思議によって神の正しさだと分かる、というなら、悪魔でも正しいと見せかけるでしょう。人には、神と悪魔の区別はつかない、何故なら、悪魔は、神に敵わなくても、超常であり、人よりも上だからだ、ということになります。悪が悪だというくらいは人にも分かる、というなら、神の偉大さや正しさと、悪魔が悪を隠す時の悪を、人が見分けることが出来るなら、できる人は、悪魔を見抜くのだから、悪魔より上の者でなければならないが悪だということは人に分かる悪が明確になるまで分からない、いやいや神が守ってくださるのだ、だからなぜ守ったと分かるのか、そのためには、悪魔を知っていなければならないだろう、悪魔の悪は超常で・・、という同じような問題になり、また堂々巡り・・。
あえて言葉の問答のようなことを書いたのは、こういう聖なる言葉面だけで、言えるという主張が、私は大嫌いだからです。実際、人は、悪について、ひどいことが明らかになるまで、殆ど分からないではないか、という現実で十分ですし、神は全能で、人は不全だから、ということで十分だと私は思っています。人は絶対の善も絶対の悪も知りえないと思います。
神の可知を唱える人は、信仰を絶対として権威を帯びたがっているように、私には思えてなりません。神の前に、人は無知に等しいのです。何らかの、感じて推測し、人に対して表れた状況証拠または証拠があって、はじめて、悪だと気づくのが人間です。神を分かるのが信仰と言う人は、証拠を見つけて組み立てることをしなくなります。私が、やすやすと騙され続けている悪の例をずっと見てきて、独りで批判してきたのは、そういう状況があるからでしょう。
私が6年間批判し続けた偽善者は、批判に対して、無視、削除、侮辱、隠蔽、などを繰り返しながら同時に、実に神聖の言葉のうわべだけで神を讃美し、聖霊だ、啓示だと、自己の正しさを聖なるものに帰し、双方向を否定して、不感不応不変の安穏の沼にいて、それをまた、神の平安だと言い張っていたのです。何度も何度も丁寧に・・。
(コリント人への第二の手紙、口語訳)
12:6
もっとも、わたしが誇ろうとすれば、ほんとうの事を言うのだから、愚か者にはならないだろう。しかし、それはさし控えよう。わたしがすぐれた啓示を受けているので、わたしについて見たり聞いたりしている以上に、人に買いかぶられるかも知れないから。
12:7
そこで、高慢にならないように、わたしの肉体に一つのとげが与えられた。それは、高慢にならないように、わたしを打つサタンの使なのである。
12:8
このことについて、わたしは彼を離れ去らせて下さるようにと、三度も主に祈った。
12:9
ところが、主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。
12:10
だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである。
(1コリント12:9-10、新約聖書)
偽善者は、この聖句をもって、パウロと同じように、自分は弱さを誇るのだ、と言い張るでしょう。まさに、実際に、この聖句を挙げて誇っていたのです。こんなにも弱いが、というようなことを書きながら、人の意見を自分勝手な強制力によって消して何事もなかったかのように、同じことを言い続けてきたのです。弱さなど口だけで、一度も弱みを見せたことはなく、いつも他者より高い位置で教えを垂れたがっている文章でした。
9節の「弱さを誇る」聖句の解釈としては、
1.人は弱いが、神の導きによって強い。だから信仰は強い。これは、上の堂々巡りになり、偽善者に利用されやすいでしょう。
2.弱いとは誇るべきものがないということと同値であり、この弱さは、敬虔につながって、気高く見えることがあるということであって、さらに言ったのはパウロであるから、一般の信仰者がそのまま誇ってよいということではない。パウロは、うまくいかないことで戒めを受ける弱さの必然が、その都度に、自らの伝道を支えている、使徒でさえそうだ、ということを言っているのでしょう。
3.弱いとは誇るべきものがない、ということだから、弱さを誇る、というのは、逆説であり、成り立たないのであって、実際の言動を表してはいるのではなく、気概を述べるためにインパクトを強めた表現である。
4.キリスト者の、弱いけれど、信仰による忍耐強さを表したものである。それによって、神の導きを信じることになる。1.との大きな違いは、神の側を決めつけず、人の側に起こることを語っていることである。
他にもあるかもしれませんが、1.以外なら私は同意できる。神の導きは、人知れず起こるのであり、人に分かるものではない。導きもそうだが、神の意志と行為を、人が決めつけてよいものではありません。それが敬虔です。信仰を示そうと決めつけて強く言えば言うほど、大方、自分の信仰を誇ることになるでしょう。
また10節の、「弱い時にこそ、わたしは強い」ということも同様で、明らかに逆説表現を使うことを意識していると思います。ですから、この文言だけでは、直接は成り立たないのは明らかでしょう。私たちが、そのまま、誰かに向かって使ってよい言葉ではないのです。
1.を解釈とするのは、信仰の美辞麗句であり、リップサービスのきれいごとになり、実際に、では、今このとき導きは何だ、と聞かれた時、役に立たないでしょう。私たちは人間ですから、人の現実生活において生きてこないことは、解釈として言っても空しいだけです。
神聖と奇跡は神のもの、どう導くかも神のもの、神の導きによって弱くなろうが強くなろうが、人は成り行きを受けて考えるしかないのです。人は人間を、自らを見るべきであり、人が導きを得るのは弱いからであって、導きを得たから強いなどと思うべきではないのです。
今までの私の経験では、偽善者は、超常の聖書語をたくさん並べて讃美します。実質は何もない、大仰さだけ、・・ということを指摘しました。偽善者が、調子に乗って、うっかり、罪は悔い改めなくても赦される、また、アダムとエバのようにならないように善悪の判断をしないのがよい、などと、キリスト者なら違うと分かることを言ったときに、強く否定しました。
今、よく語られている信仰の話にも、出来ない、生きてこない、言っても仕方ない、自分の信仰を誇っているようだ、と言いたくなるような話が多いのです。キリストを見て自分の有り様を見ていない、神を見て人を見ていない、ということになっていないか、超常の言葉で飾ろうとしていないか、自分の言葉を調べなおしたほうがよいと思います。
再び偽善者が出てくる前に、敷衍したいのです。まだ騙されている人がいます。
超常の絶対の聖なる話を立派に書こうとするより、どんなに未熟でも、どんなに弱くても、自分のこと、出来事や生活のことなら、困ったことも含めて、何か書けるはずです。そういう話を聞きたいです。片意地張らない日常の話題を見つけることに、整えようとする義務感から離れて信仰者の本当の思いが表れてくるところに、信仰理解を深めるヒントが隠れていると思います。
(2017年12月22日、同日一部修正)
敷衍(ふえん)
騙す(だます)
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