御言葉
困ったときに、聖句を思い出し、または、探してみるのは当然のことですが、
前に書いたことですが、
救いを教理で信じてしまうと
救いにつながる神の行為を
人が神に当てはめて
勝手に決めて信じてしまいたくなります。
既に全知である神は面倒臭さなど持っていないが、
人には、面倒臭さを感じやすく
答えを欲しがって結論へと短絡してきた歴史があるからです。
人は、正しさを自分が見つけたことにしたいのです。
聖なる句というのは、解釈すれば人の勝手になってしまいやすく、
信じる、という言葉の形式が招くものは、常に怪しさを含んでいます。
自分の意志で信じる、ということになっていますし、そのように言うことが多いのですが、そうでもなく、信じるに至っている、なぜかは分からない、という感慨があるのに、そこを、人は、言葉にして固定したがる性質があるのです。
(詩篇、口語訳)
8:4
人は何者なので、これをみ心にとめられるのですか、
人の子は何者なので、これを顧みられるのですか。
8:5
ただ少しく人を神よりも低く造って、
栄えと誉とをこうむらせ、
8:6
これにみ手のわざを治めさせ、
よろずの物をその足の下におかれました。
(詩篇8:4-6、旧約聖書)
ダビデの歌と書いてあります。この聖句に同意するなら、
同意しているのは私という人間ですから、
「と人には思われる」が付いてきます。
ダビデのような王様になると、そう書くのか、
あれだけ、栄えれば、さらに罪を赦されれば、
そりゃあ、讃美もするだろう・・
私は、
甚だしく神よりも低く作られ、
栄えと誉とを自覚的には知らないまま、
御手のわざを治めた記憶はなく、
よろずの物の足の下の置かれている感じがして、
特に現代では、
よろずの物の一つ、
道具として使っているこのPCさえ
なんだか私が支配されている感があり、
であっても書きたいことがあれば
使わないではいられない心を抱えて
毎晩、深夜ゴソゴソと書いていて、
他のサイトにアクセスもしていて、
お気に入りの10+αのサイト、
文学、宗教、写真、その他いろいろ・・と、
さらにキリスト教関連の10余りのサイト×訪問履歴20に
毎晩アクセス、というのは、きつくなったら止めます。
あとは You Tube 過去の歌が聴ける幸い
https://www.youtube.com/watch?v=TGwOKnvbtmM
あちこちコメント入れたし、
あとは、通販、ニュース、興味本位、
等々で遊んでいるのは、他の人も同じでしょう。
御言葉に背く、というのは反信仰なのか。
むしろ背いている自分を自覚することが信仰ではないのか。
御言葉は、
悪を離れて善を為すことを勧めている
という2元の単純な受け取り方があり、
一方で、
善ではない自分を自覚し反省する
という受け取り方があり、
むしろキリストの言行を記す福音書は、
二千年前に、
悪すなわち罪の人を裁くのではなく、
むしろ罪人を救うことで、
悪を善に見せかける偽善を敵として際立たせる
という明確さを持っているのではないか。
したがって御言葉は
そうしなさい、と勧める一方で
そうできない人の本性を
神はご存知です
と語っているように思われる。
私などは、もう年が寄って、
体力も知力も財力もないから、
神の義、というより、神の憐れみを頂くのに、
義務の教えにはほとんど反応できません。
あぁ、私、若いときからそんな感じで・・
だから、
せめて、めいっぱい、
祈る時には
神の前では正直でありなさい
ということを
すべての御言葉は伝えているような気がします。
また、考えてみます。拝。
(2017年12月23日、同日一部修正)
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 思想へ(文字をクリック)]
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
コメント