衰弱と臨終
 
 
  臨終
 
見ている
多くの顔が
眠ろうとする信徒の
最後の告白を聞くために そして
 
賛美の言葉の一つも出ようものなら
久しく流さなかった涙を
その時には浮かべてもよいと
 
 期待するものと
 期待されるものの間で
 つり上げられた信仰が
 病気の小魚のように
 しずかに はねた
 
彼の不幸はついに
思い出に変わることはなかった
もはやどのような約束をもってしても
過去も未来も変えることはできない そう
人生は一度だ
 
 わが生まれた日は滅び失せよ
 幼子が胎に宿った
 と言われた夜もそのようになれ
 わが愛する人々は遠く去れ
 二度と私を見ないように
 
去る者と
残る者との間の
凍った段差の裂け目から
音もなく
転げ落ちていったものがある
 
こうして
全く別の涙は流され
人々は蒼ざめて去り
 
彼を見つめる基督と
顔を背ける彼が残った
 
 
 
たとえ死にゆく人が目を背けても、キリストはずっといつまでも見ておられるという話なのです。
 
少しヨブ記などを意識して、少しだけ引用もして、もしヨブが不幸のまま死んだとしたら、信仰はどうなるかみたいなことも考えてみるわけです。現実には、不幸のまま終わるように見える人生もあるわけですから、それでもヨブのように最後に救われるんだと信じることが信仰なのか、あるいは、いや、幸福だったのだと思い込むことが信仰なのか、ということについて疑問に思うことも含めて考えたいわけです。詩作品だから、端折ってはいますが。
 
どんなに幸福な人生であっても、死んでゆくときは独りですから、どんなに仲の良い友人に囲まれたとしても、生きてゆくためには、絶望的な絶対孤独から解放され自由であることが信仰者には不可欠だと思います。生きている間も、ずっとそうなのです。
 
 
  衰弱
 
ともすれば若い信仰は
すべての罪を自殺者に帰して
先へ先へと進んでしまいそうだった
そして微笑と嚥下を繰り返し
貧しい信仰を秤にのせては
終末のように硬直して見せる癖があった
 
 人ハ信仰ニヨッテ救ワレ
 神ノ義ヲ得ルコトガデキル
 神ニヨル束縛ハスベテカラノ自由ダ
 信仰ガアレバドンナ苦シミニモ耐エラレル
 加害者デアルコトノ苦シミニモ耐エラレルノカ
 
さて年月が流れ
求めたものが得られぬ代わりに
無意味な駄弁や
股の間の黙考が果てしなく続いた
 
 人ハ生キルコトガ許サレテイル
 人ハ生キルコトガ望マレテイル
 人ハドノヨウニシテ神ノ愛ヲ知ルノダロウ
 私ハ伝エルベキ
 何ヲ受ケタノカ
 
ともすれば
もう若くない
弱い信仰はときに
すべての罪を生けるものに帰して
闇へ闇へと
退いてしまいたくなることがあった
そして羞恥と嘔吐を繰り返し
自分の信仰を秤にのせては
いともたやすく転げ落ちてしまう習いであった
 
 神ノ立場デ物ヲ言ウナ
 ・・・・・・・・・
 
 
 
神の立場で物を言うときがありました。神の立場で物を言いたいときはもっとありました。キリスト信仰が一番だと断言したかったのでしょう。とても罪深いことでした。信仰は、罪を悔いて告白し、それによって少しずつでも人間としての生き方を学習し成長してゆく道です。
 
 
(2017年12月27日、同日一部修正)
 
先にアップしたのと同様に、昔、書いた宗教詩のようなものを、少し改めたりしたものです。
 
 
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