信じると信じ込む
 
 
神の存在を信じるといっても、神はいないと言う人に対して、いや、いるんだ、と断言することは、空言に等しい。分からないとか証明は出来ないとか言うほうがまだマシだ。
 
少なくとも、薄笑いを浮かべながら、いるのですね!・・、と顔を力ませるときの薄笑いの緊張が、何にも知らないで、と相手を下に見る姿勢になっていることに気づくべきだ。
 
このように、信仰者の自尊が現れる機会は意外と多く、勝ち誇り、さげすみ、俺は知ってるんだという保身の態度を表すことになったら、敬虔でないのは自分のほうということになる。
 
そこには、負けてはいけない、という気持ちが強く働いているが、福音伝道は、良き訪れを伝えることであって、負けない、勝つ、という結果は、伝道とは縁のないものである。
 
冷や汗を覚えながら、負けまいとする態度は外に表れて、我を忘れて、目と心で狼狽えて相手を圧するものを探していることが多い。
 
信仰の勝利と言うのは、キリストが、張り付けられて殺される、という負けの見かけの極致を経て、世界の救い主となった対比のためだろう。
 
宣教において、キリストは勝ちなど目指さず、勝ちを誇らなかったことを知るべきである。キリストの「偉くなりたいと思う者は、仕える人となり」の手本はキリストご自身である。
 
仕える人は、虚心だから、是々非々を判断して、伝えることに専念するが、社交の世辞の丁寧語でごまかして気に入られようとはしない。伝道は社交ではない。
 
ひとりひとり違う解釈と信仰観が育ってきているのだから、それを認め合う和解の心は大切だが、信仰の有無の問題について、馴れ合いになってはいけない。命の問題だからだ。
 
人が人に伝えるのは信仰についての意見に過ぎず、信仰は自発的なものだから、強制力を用いてはならない。強制力は神の裁きのみである。神のみを恐れるべきである。
 
分からないことは、分からないというのが正解である。分かる、何故なら聖書に書いてあるから、では答えにならない。聖書に書いてあることが、人間に成り立つ確認が必要だ。
 
聖書に書いてあることから教理の言葉が生まれているが、その言葉をいくら振り回しても、現実との接点がなければ、まじないと一緒である。
 
聖書に書いてあるからと、どんでん返しのように奇跡が起こって救われるのです、と言っていた偽善者は、自分が何をしても赦されるから気にしないという独善にしがみついていた。
 
また、実のある言葉は、人間の心を温めるか潤すだろう。どちらもないものは、まだ命を持たないから、そのまま押すだけだと、逆に命を損なうようになるだろう。
 
信じるということは、そこに言葉ではなく実の対応があり、心を温め潤して、命を生かすから、信じると言えるのであって、それが見られない言葉は、金具に過ぎない。
 
金具を振り回してはいけない。摩擦で傷むばかりだ。丁寧なだけの言葉は錆びた金具になりうる。擦り合わせれば、ひどくなって火傷するだけである。
 
信じるということは、温もりと潤いに満ちた命を受けることである。それを受け取ったならば、もはや、信じるという言葉は繰り返す必要のないものとなってゆくだろう。
 
言葉で信仰そのものを表すことは出来ない。したがって、言葉だけを繰り返して中身を飲ませようとするのは、心も命もない石を呑ませるようなものである。
 
信じるということは、そこで信じると言わなければ天国か地獄に分かれる、というようなことではない。神は驚くべき寛大さをもって、歩んでゆく人のわざと罪に耐え忍んでいる。
 
神はそれほど寛容に人を愛するのだから、人は、挫けても挫けても、悔い改めを忘れない限り、何度でも赦され癒され導かれるために、祈りが与えられている。
 
だから、つまずいても、反省して歩むことが信仰である。間違っても、与えられた時から不変の恵みというものはない。折に触れてその都度に与えられるのが信仰の恵みである。
 
揺るがない信仰とは、誘惑に負けないことであるが、あるとき負けても、悔い改めによって歩みを続けることが可能になるのが信仰という道である。
 
神から与えられたと境地自慢に走るのは、それが、とても安易だからである。与えられた不変の境地は大方自己陶酔であり、ただ怠けてスーパーになりたいカルトの欲望に過ぎない。
 
そのようなカルトは、キリスト教とキリスト信仰からも生まれ得る。安易な陶酔や聖人超人願望は、信仰を求めるときの最も大きな誘惑だからだ。信じ込んではならない。
 
信仰は、不明を明と、信じ込むことではない。信じ込むのは偶像崇拝である。
 
私たちは、多くのことについて不明であることに悩み、何にも知らないと言ってよいくらい乏しいが、泣くときに何をすればよいかを与えられて知っている。
 
 
上に書いたうちの悪い例は、過去において確かに私にあったものだ。私がルサンチマン(≒嫉妬からの怨念と負け犬根性)と偶像崇拝を克服するのは今も大変である。信仰は、いつでも生きているあいだ、導きを受けて祈り、悔い改めることで修正可能で成長可能な道である。そこに川があり、泉があり、折に触れて、心を潤し温めるための休みと憩いが与えられる道である。
 
 
(2017年12月28日、同日一部修正)
 
空言(そらごと、くうげん)
狼狽える(うろたえる)
仕える(つかえる)
馴れ合い(なれあい)
一緒(いっしょ)
実(み、じつ)
錆びる(さびる)
傷む(いたむ)
火傷する(やけどする)
擦り合わせる(すりあわせる)
呑む(のむ)
挫ける(くじける)
 
 
 
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