伝えること
多くの人が、信仰を伝えるのに、ことさら神の偉大さを讃美することで、芯を外している。
信仰を伝えるのは、罪を赦される福音を伝えることだから、なぜ自分の罪や至らなさ、という、人の不全を語らないのか。そのほうが、よっぽど、内容が豊富なはずなのに。
神を肯定し、キリストを肯定し、聖霊を肯定し、信じますというだけなら、それは、私はこんなにも熱心に信じています、と言っているだけではないか。
神・キリスト・聖霊を肯定することも信じることも、それを言うだけなら、受洗の時と何の変わりがあろうか。受洗の前と後の試練と幸いをなぜ語らないのか。
讃美を聞くことは、伝道において、求道者に、予定調和の退屈を与えるだけだろう。それはもう聞いた・・と思われそうだと考えないのだろうか。
求道者が聴きたいのは、いかなる試練を乗り越え、いかなる幸いを経験したのかということではないのか。それを語らないで、いったいどんな福音が伝わるというのか。
別に個人の人生の打ち明け話を全部言えということではないが、信仰に至る、また、信仰を取り戻す、というプロセスこそ、福音の最も重要な部分ではないのか。
めでたい話だけでは、めでたい奴だと思われるだけになる可能性があるだろう。めでたいだけで信仰生活に至ることもないだろうし、信仰を維持することもできないはずだ。
なぜ、不明のままになりそうな超常を讃えて、明らかなることを目指そうという人間を語らないのか。すぐに話せないことなら、共に考えることを提案するべきではないだろうか。
なぜ豊かな感情と人間性によって受け取った福音を語らないのか。なぜ、一部の偽善者のように、福音を、都合のよい超常の、人間の手に負えない奇跡まみれにしてしまうのか。
超常を大事にしてしまうのは、そこに神がいるからと言っても、私たちは、そこに、何の手に負える務めを持ちうるというのか。私たちの務めは生きる間は地上にしかないのである。
心は、生きているのか、死んでいるのか。いったいどの神が、同じことを繰り返せば大丈夫、と命じたと言うのか。なぜ自らの人間性のバネをもって弾けようとしないのか。
超常の奇跡は神のものだ。それを信仰として語れば、信仰は奇跡と引き換えになってしまうだろう。なぜ血の通った人間の結果ではなく、血の通わない魔法の結石を蒔こうとするのか。
神は人間性を捨てよと命じてはいない。キリストは人間性に共感し、罪深くても、人間性を憐れんだ。人間は、人間の手に負えることしか語れない。
聖書において、超常の神を理解したからでも、讃えたからでもなく、分からないまま、人間として救われた人々の心を見るべきだ。彼らは、本音しか語れないほど、行き詰まっていた。
大昔の超常の奇跡物語は、実存として、現代の魂の奇跡物語に結び付くけれど、現実そのものではない。その実存を受けた現実を語るべきだ。
人間の話について、語る者が少ないのが、人は勝手に語るなという意味なら、超常だけを語るのは勝手ではないのか。より大きな罪の勝手になっていないか。
戒めも懲らしめも教えも赦しも癒しも救いも、私たちが受けたのは、実存として、今生きるためである。恵みも試練も、今を語らずに明らかにはならず、生きた実を結ぶこともない。
人間が伝えられる奇跡は、生きている魂の奇跡だけである。
(2017年12月30日、ブログ村の所属カテゴリー及びリンク修正)
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