信仰者の正しさ
 
 
正しさということを誰もが考えますが、人は誰もが正しさを得るわけではありませんし、間違いのない正しさなど、不完全な人間には無理だと、現実的に実感できるでしょう。
 
人の正しさでさえ難しいのですから、全知全能の神の正しさに、人が到達できるわけがありません。このことが、地上で絶えることのない原罪につながり、赦しの必要性につながります。
 
したがって、神によって信仰者が受け取ったつもりの信仰の義というものが、間違いのない正しさではないことは明らかなのです。つまり、間違いのない不変の信仰のあり方はありません。
 
信仰は一生続く道であること、また、修正可能をもって成長することが前提である、ということを前に述べました。だから神の平安が常時与えられている境地に立ってはいけません。
 
私たちが目指す正しさは、折に触れて、祈りのうちに捧げて、その最終的結果と導きを神に任せる性質の正しさです。ゆえに、悔い改めのために、正直な祈りが不可欠になるのです。
 
私たちが与えられる平安は、私たちが祈り、罪を悔いて告白し、赦しと癒しと救いを希う祈りを通して、そのとき与えられるものです。そのときの平安が、終生続くと安心してよいものではないのです。
 
ゆえに、私たちは、祈りの信仰によって、一生涯、務めることになり、悔い改めることになり、平安を、その都度、与えられる希望に生きることで、立ち直れるのです。
 
神の平安が自分に常時あるからではなく、私たちは、正直に祈り悔い改めることによって、その都度に与えられる平安の時々に感謝するべきなのです。
 
いつも私たちに与えられているのは、祈ることで平安に至る機会であって、不変で固定された平安そのものを与えられているわけではないということです。
 
独りだけ常時平安の中にあって、うっとり超然として微動だにしない信仰なんて、気持ち悪いだけです。そのような都合の良さだけの安穏を、神の平安と呼ぶ者を信用してはいけません。
 
正しさを求めることは必要ですが、それは務めであり、ついに努めの域を出ません。つまり、人にとって、務めを果たすとは人にとって結果が完全であることを意味しません。
 
地上では最終結果は知りえないことを、むしろ知るべきです。まさに、地上において、神の正義を知りえない、神の正義になり得ない、ということの共感と共有こそが信仰であります。
 
昔の怪しい不可知論ではなく、現代は、絶対の神の不可知を認めることにこそ、敬虔があり、成長があり、砕かれた魂があり、信仰があり、赦しと癒しと救いがあります。
 
現代においても、まだ神の可知を振り回す人を信用してはいけません。熱心な人ほど、神の御心に沿うかどうかを判断するときに、幼稚な先入観的道徳を基準にしていることが多いです。
 
間違っても、先入観的な道徳で慇懃の見かけだけ作って、実際は、自分の浅はかな基準で善悪を勝手に判断して、それを神の御心と言い張るような人になってはいけません。
 
自分で刺激を遮断した状態を神の平安と呼び、都合の悪いことから逃げるのを神による避け所と呼び、不感不応で何も答えないことを敬虔と呼ぶようになってはいけません。
 
私たちは、御心を知りえないからこそ、赦しが必要であり、祈りが必要であり、信仰が必要なのです。神と人の間におられ、仲保者なるキリストの執り成しが必要なのです。
 
私たちは、愛し合えない現実の罪を知っているからこそ、赦しと導きを祈り願うことが必要なのです。神と人の間におられ、仲保者なるキリストの愛が必要なのです。
 
 
※ 
 
私はキリスト教の専門家ではありません。そしてキリスト信仰の専門家というのは地上には存在しません。自分の言うことを疑わずに受け入れることを、神に従順だと喜ぶような人を信用してはいけません。私は、今まで生きてきて、人間として受け取れることを大事にしています。何故なら、それ以外のものは生きる力にならないからです。私は、誰かの意見によって納得したら、自分の意見を修正します。このことを言うのは、読む人にもそうしてほしいからです。
 
自分に対して、あらゆる絶対を否定して、いつの日も、努めながら、罪深さによって曲がりそうな自分を、主の御名によって、神に捧げて導きを待つ人を信仰者と言います。
 
 
(2018年01月01日、同日一部修正)
 
希う(こいねがう、乞い願う)
務め(つとめ)
努め(つとめ)
執り成し(とりなし、取り成し)
慇懃(いんぎん)
 
 
 
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